《雨がやんだじぇ~!俺のきしぇつがやってきたじぇ~!byまろ》
やっと梅雨が明けましたぁ!
陽射しもキラキラ、南国ムードが全開です!
やっとお洗濯物も外に干せてありがたい限りです。
早いもので7月も後半、もうお子様方は夏休みでゴザイマスね。
先日20日は実家の甥っ子ちびくん12歳のお誕生日でありました。
実家のシェアメイトのカンナちゃんも一緒にお祝い準備しまして
夕方早い時間からのお誕生お祝い会となりました~。
お食事はちびくんのリクエストで握り寿司を用意。
ちわわンズの皆さんはアムママが作ってくれたトンコツ!
カンナちゃんが用意してくれたケーキは
ちびくんのリクエストでヤナギムラというケーキ屋さんの
白いチーズスフレとはちみつロールで御座いました(^^)
ちわわンズと共に、人間ズも美味しくご相伴にあずかりました。
あ~美味しかったぁ!
・・・・っと本来はなるところなんですが、
私が食べてたのは・・実は・・「素うどん」(笑)
つっても、もともとお寿司は苦手でほとんど食べないんですけどね。
実はうどんしか食べられないような体調でしたのよ(・。・;
って言うか、今現在もそんな体調でゴザイマス(-_-;)
数日前から気力と共に抵抗力が落ちてしまってですね~、
一気に風邪気味で体調不良に落ち込んでおります(*_*;
おかげさまでピーク時からは少しは良くなりましたが、
熱が37.6分くらいから下がりません。
鼻炎もちで、今はさらに気管が腫れているので
(もともとアデノイド持ちゆえに)
喉と鼻が腫れてて息が出来ないわ、血はガンガン出るわ…
寝てても起きててもしんどいとはこのことで御座いますー(-_-;)
《じー・・・・ byろまたん》
大人の女性は健康であれば、月に一度、身体に浄化が起るのですが、
その時に体の抵抗力がかなり、ぐーんと低くなる人がいるようです。
まさにワタクシ、今回、並びに毎回それなんでゴザイマス…。
もう、昔々から、毎回そうなんでゴザイマス…。
これ結構しんどいんでゴザイマス…。
常に抵抗力低下&風邪その他のダブルパンチ(^_^;)
しかもこの時期はこのまま、体調不良が長引くこともあるので気をつけねば。
なんたって風邪は万病の元ですもんねぇ。
という事で現在も軽~~~く肉体が病んでおりマスのです。
その上を遠慮なくちわわンズが駆け回るので、おかげでお顔が傷だらけ。
(頬にざっくり爪の後で、どこかのヤーさんの様になってまつ…^_^;)
ちなみにこの女性の神秘でゴザイマスが、
新月に近い時期に起きる人は、内面を動かす必要があり、
その為に、陰陽で言えば「隠」に当たる部分に影響を及ぼす
(とは言ってもマイナスと言う意味ではありません)
「月」のチカラや、母性をつかさどる自然界のチカラが、
語りかけてきてくれるそうです。
反対に、満月に近い時期に起きる人は、陽の力がみなぎる人で、
太陽など、華やかな力達が後押しをしてくれるそうでございますよー。
ぜひご参考になさってみてくださいまし。
とは言っても、この時期の体力消耗は後々来るものですし
夏風邪も流行っているようですから、
どうか皆様も十分にご注意くださいね。
《まったりお昼寝中の、ぴぴかーたんとふう君》
《平和の姿が家の中にあるって言うのは幸せな事デス♪》
《おかげで何が大切かを考えると言うココロの原点に戻ることが出来ます》
てな事で、少々「身体疲れ」をしておりますワタクシなのですが、
生まれながらに弱めの身体なので、私にとっては熱やら胃痛やら
微妙な体調の悪さはあった方がかなり普通なんですが(^_^;)
「病む(寝込む)」とこまで行くと、さすがにちょっとシンドイですねー。
病は気からというごとく、気持ちもさらに落ち込んでしまいがちです。
って言うか、今回の病みは「気疲れ(心疲れ)」も原因だったのかもなぁ…。
精神的にしんどいことが6月、7月でちょこちょこと連なった上に
春から秋にかけては、特に相方さんたちの事を思い出してシンドイので
そこも微妙にダブルパンチをくらってしまった様でゴザイマス(^_^;)
まさに病は気から、だったぜ…(-_-;)
深い会話がするのはまだまだ難しいな~って自分で解っている時に、
心を開かないとできないような会話の機会を
あえて持ってしまった自分にちょっと反省中デス。
会話するって、相手の方とお互いの言葉を言い合って、
説明しあって、そして理解していく、
ってのがメインになるわけですが、そこがおっつかないのに、
気持ちだけで会話すると、結局、言葉足らずになってしまって、
相手にご迷惑かけてしまうし、この様に精神的に疲労を抱えてしまうんですよね…。
しかも、今は精神的に集中できなかったり、関わりが難しいから、
つくづく気をつけないといけないなぁと思った事で御座いました。
私は元来アメリカン気質なので、すぐフレンドリーにはなれるけど、
友達になるには時間をしっかりとかけないとダメな人の様です。
つまり、友達になるのであれ、家族になるのであれ、
ココロの山坂を、それぞれが本当に頑張って、
そして一緒に登れる人じゃないと本物にはなれない気がしています。
(これは皆さんの在り方に対して、そう思ってるのではなくて、
自分はそうなんですよね~、って、いう事なのですが。ちょっと補足~)
でも山坂をえっちらおっちら、坂道のぼりは誰だって大変なのですな。
大体の人は最初はこの人が一緒なら平気~なんて思っていても、
疲れてきて、自分の意見を肯定されなくなって来たり、
相手の話を聞いてばっかりだと、途中から楽しくも、面白くもなくなって、
さらにしんどさMaxなわけだから、やめてしまう人が殆どだと思います。
だけど、私の中で友達作りは、この「山のぼり」みたいなものに感じているのです。
山道を一人でのぼるのにさえ、ふうふう言ってるところに、
隣に歩く相手の存在を常に考えなくてはいけないから、結構ハードです。
まあ、人生でお友達が必要なきゃ、そのままズンズン歩いていけばいいし、
面倒くさくなったら、捨て置いて、自分だけ先にいけばいいわけなんですけど。
事実、人生そんなもんだよと、言う人も多いだろうし、そうする方も多いと思うし、
それが悪いとも思いませんが、私的にはそれは決して適用されませんのデス。
私は「人は一人で生きてるんじゃない、周りが在って、
そしてそこに私が立って、関わって、初めて世界が在ると言えるのだ」と思ってるし、
「袖すりあうも多生の縁」で、「一期一会こそが人生だ」と感じているからです。
また、その言葉通りに出会いには責任も意味もあると思うからなんです。
それを己の感情のみで捨て去るようなことをすれば、
きっと同じ道ノリで誰かにそうされると、
世界はそんなものだと、どこかで解っているからだと思います。
全ての自分の感情は巡り巡って、自分に戻り、
自分の手で蒔いた種は、自分の手で刈り取るものだと思います。
なんというか、波みたいなものと言うか、ドミノみたいなものと言うか、
自分の立てた風のチカラの分は、自分に吹いてくると思うのですねー。
ここで大切なのは、まずはそれを感じる事、じゃないかな、って。
つまりは自分と同じように、人を感じる事。世界を感じる事。
その為に自分を良く感じる事。
それらがとっても大切なんじゃないかと、感じています。
そして次に、恐れるか、恐れないか、じゃないかなと感じています。
その事そのものに恐れをいだけば、ただのルールへの過信みたいなものになってしまう。
悪いことをしたら地獄に行きますよーってのが怖いのと一緒。
そういう感覚は、決して責任感ではない、と私は思っています。
そういう恐れがあるから、する、しない、ではなく、
私のココロがそう思う、願う、から、そうなるって事だと。
それが友達を作るときに、つまりは人生を生きるときに大切だなぁと思うのです。
だから、本当に生きるって、友達作りって、相手に対する祈りが必要なんだなって思う。
小さい事への日々の積み重ねがすごく大事なんだなって思う。
311以降、特に思う事だけど、大きな災害があれば、人はその時は助けようとします。
けれど厳しい状況が長く続くと、人はココロが望まずとも荒れてきたりもします。
でも、きっと、そこなんだ、ココなんだ、と思うのですよ。
世の中はそりゃあ不公平にできている。
罪もない、一生懸命の沢山の尊い命が失われて、
世間のお役にも立てなくなった私がこうして生きている。
何かしたくても、力のある人、お金のある人は動かず、
何とかならないかと祈る私には力も富もない。
めちゃめちゃ不公平だ。
でも、何故なんだろう。どうしてなんだろと考える。
寝ていると、見ている世界が変わる。高さも大きさも広さも。
違う世界が見えてくる。見えてきたものが、私のいるところを教えてくれる。
私は、人が置かれた立場で生き、その立場で物を考え、
行動する必要があるからだ、と感じています。
だから不公平じゃなくちゃ始まらないんだろうなぁ、って。
そして、私たちの生命をつかさどる様な大いなる存在があるとすれば、
きっと、その時の心の動きを見ている気がするのですよね~。
だから、自分って生き物が、どれだけ何かを続けて行けるのか、
諦めずに居られるのか、そこなんだなって感じています。
大変な時は自分の事だけで精一杯になりがちですよね。
人は、そんな自分を守るために、正当性のある理由をくっつけては
平気で人を傷つけたり、裏切ったり、あきらめたりしてしまいがち。
人とのご縁もそうで、大体の人は、自分が飽きれば捨ててしまう。
今は簡単に思いを捨ててしまう事すら、精神的に正しい、と言う風潮。
でも本当にそうなんだろうか?自然ってそういう事なんだろうか?
たしかに、究極、それらを学びに来た人も居るんだろうけどね。
ただ、私にはなんとなく、人は、人に生まれてきたと言うだけで、
もっと大事にしないといけないものがあると深く感じます。
ルールのない自由なんか、自由じゃないと言うけれど、
陰と陽が在るのには、きっと大きな理由があるだろうしね。
長く、いろんな事をやってきたけれど、その経験からも、本当にそう思うのですよ。
ある時、心友の一人が、自分勝手なトラブルばかりを起こす友に対して、
とてつもなく心配しながら、涙を浮かべながら、こう言いました。
「一度でも友の顔が目に浮かぶことはないのだろうか?」と。
それを聞いて、ああ、この人とはずっと友達でいたいなと改めて思ったのを覚えています。
その心友は、たぶん、どん底にある時にも、友の顔を思い浮かべて、
自分よりもその人たちの気持ちを思いやれる人なのです。
例え、トラブルに巻き込まれても、相手を見捨てない、
自分もあきらめない、そんな強さを持っているのだと思います。
多分、その方は、魂が何を大切かをちゃんと知っていて、
それで、世の誘惑に負けず、それを選べる強い魂の持ち主なのです。
これ、言うのは簡単だけど、なかなか選べない。
実際難しい。だって、人の気持ちを抱えるって楽ではないから。
でも、最近、本当にそういう意識が大事だなぁ、って感じてます。
そして、やっぱり、そういうココロの持ち主は、どこに居ても、
世の中がどうあっても、ちゃんと自分のいるべきところで、
ちゃんと自分のできることを、精いっぱいやっているのだよね。
しかも、そういう人からは、一言も人への苦言を聞きません。
そんなこと、考えないからだろね。だから人からも悪く思われない。
そういう友人たちが、その生き方を見せてくれるので、
大切な事を忘れないように、と思わせてもらえているのかもしれません。
《まっすぐ生きるのでちゅ! byみやたん》
確かに、人と歩調を合わせたり、思いやったりしながらの山登りは大変。
だけど、息の切れる坂道で、自分に理解しづらい事でも聞く努力や
相手の苦しみを悟って笑顔を見せようと努力をする人は、
いつしか、相手の顔をまっすぐ観る回数が多くなり、
下らぬことであれ、真摯に言葉を交わした分だけ、相手の事を知り、
頂上では一緒に座って、絶景の景色を見て、笑顔を交わし、
そこまで来られると、下山する時には、坂道を転がらぬ様、
困った時にはさっと手を出して、お互いを支えあい、
山を下りた、その暁には「ああ、いい山登りだったね」
と手を取って笑っている善き友人になっている気がします。
まあ、私の感覚なので、気にしない人は気にしないのかもなんですけどね(^_^;)
大概、私の友人には、第一印象から良かったって人はあまりいません(笑)
これはモチロン、嫌な奴だった、って事ではないですよ(汗)
なかには、ソウルメイトの様に惹かれあう人も居ますけど、
人間は善い時だけじゃないから。
人はコロっころのココロを持っていますから、
自分に合わないと思えば、ポイと捨てられる薄情さがありますが
でも、心って、本来そういう行為に耐えられない気がする。
事実、その行為、本人は平気でも、相手は傷つくこともありますよね。
究極、それらの感覚をどれだけ、感じられる人か否かの様な気がする、人間力ってのは。
とはいえ、人はすべて均一には作られていないから、
感じ方も様々、考え方も様々で、答えはないのだけど。
でも、なんとなく、魂は本当は解ってる気がする。
だから、人は泣いたり笑ったり、共通のアイテムを持って生まれて来るんじゃなかろうか。
なーんて思っていたりします。
まあ、生きるとか、友達作りって、善いときだけじゃないマイナスの時に、
相手をどれだけ愛そうか、って努力が、自分が出来るかじゃないかなーって感じてます。
それが、人生作りともいえるかもしれないなぁー。
なーんて、またまた思ってみたりしている私。
そう考えると、つくづく、善き友を持っていると実感がわきます。
少なからずとも、私が真実、友だと感じている人には疑いがない。
それは、そこまで、悩んだり、考えたり、いっぱいしてきたから。
考えを戦わせたり、話し合ったり、十分してきたから。
そうでなくても、本当に、ココロから信頼が持てるからデス。
沢山の感情を経て、相手の生き方を認めて尊敬しあっているから、
争いも、心配も、なにも生まれないし、どんなに離れていても
必ずそこに居ると解ります。有難いものだなと思っています(^^)
Thanks my freinds!
今日もその存在に支えられているよ~。
感謝、感謝。アリガトウゴザイマス。
こんなことをツラツラ書いてみたり、思ったりするのは。
心疲れに加えて、この身体疲れも結構深刻な証拠なんです(^_^;)
6月から、本当に気持ちの調子が悪くって、それが身体に出るから…。
体調不良とはまた別の話なんですが、精神的に病を患うと、
その影響は、まずは「鬱」っぽい症状の形で出て来るんじゃないか、と感じています。
私にとって、それらの顕著な出来事と言いますと、
出来ていたことが、どんどんできなくなってくる、という事なんですけど。
まあ、今も、そんな日々の中にいるわけなんですけども…(-_-;)
なんにしても、気力の中身が以前よりもトーンダウンしてしまってるので、
それを行って達成するのが、すごく難しかったりします。
しかも、それをやりたいと言う、気持ちが無くなるわけではないから、
最初、びっくりして、ガックリして、なんで出来ないのかと自己を責めたりもして…。
んで、落ち込むという堂々巡りの悪循環デス。
私なんて、その魔のループに落ちてから、もう10年ぐらい彷徨ってますが(汗)
やっとのことで、こんなのも仕方ないなぁと想える様になってきました。
だって、過去は変わんないしね。大事な人の死も悲しみも消えるわけじゃないしね。
そんなハードな事が、簡単に解決するはずがないだろう、って
自分で思ってあげられるようになってきた感じでしょうか?
でも僅かです。もともと行動力がかなりあるタイプの人だったので、
自分のやりたいなってことが、パッと出来ないのはしんどいんですよ。
そんな自分がもどかしいし、本当に辛かったりします。
そんな私に対する周りの人の反応は二種類に分かれます。
以前からの私を知っている人は、休みもせず、ガンガン動いているのが
当たり前な私を知っているので、今の私を見ると最初は本当に驚くけれど、
意外とすんなりと現状を受け入れてくれます。
中には「あなたらしくない」と言う人も居ますけれど(^_^;)
大体は「あれだけ動いていたんだから、今はゆっくりしてもいいよ」とか、
「もう一生分やったから、これからは何もしなくてもいいくらい」
と言ってくれるので、他の人といるよりはホッとできるし、助けられています。
今の私にとって、それらを行う事がとっても大変な事を良く理解してくれているので、
ささやかな事でも、私がやる気になったことがあれば、それを喜んでくれます。
病んでからの私しか知らない人は、相手が自分にとって
私が面倒ではない状態を当たり前として判断される、
つまり、明るく普通にお元気な時の私が当たり前~と思われているので、
そのご期待に添えないとなると、こちらの状況はお構いなしで、
本当は出来るはずなのにやる気がないのね、とか、
意欲がないのねとか、きっと怠け癖があるのだわ、とか(笑)
まあ、良く思ってない方がほとんどでゴザイマスね(^_^;)
一生懸命に説明しても、今それだけできるんだから、
出来ない方がおかしいよね~とおっしゃいますし。
下手に会話したりすると、この人ぜんぜん普通じゃんとか思われて、
何いっても大丈夫やろ?くらいにガンガンせめられたりもして。
頑張ってる100パーセントに頑張れって言われる上に、
受け止められない攻撃まで受けることがあるので、どーにも凹みがちです。
その他人さまから見て「ダメじゃん」ってとこまで行けてるって事が
私にとって、どれだけ凄いか、なんて事は、
相手には関係ないんで、まず理解してはもらえません。
重要なのは、それで相手に何かと迷惑が掛かっている部分なんです(笑)
そんなはずないのに、なんでそんなことしてるわけ?と理解してもらえない(^_^;)
でもねぇ、ほーんと大変なんですなー、これが。簡単じゃないんですわ。
ほんと努力も重ねたんですけど、難しいんですよねー。
ココロを病むって、自分でもなんとも出来なかったりするもんなんですねー。
もう、病んで初めて解りましたけど、「想った事を行える」ってすごいことなんですよね。
病んじゃったら、「こんなじゃダメだ!」って思っても、どうしてもできなくなるのですから。
自分の意志とは添ってくれない身体を抱えるって、相当しんどいもんなのです。
そういうココロと身体を思いやろうとしてくれる人が多く居たら
きっと、この世のなかも、また違ってくるんだろうなぁ、って思うけど、
自分も含め、人は自分が基準になっちゃうから、難しいんだろうなぁ。
でも、そう気が付けるんだから、変わって行けるとも思うのだよな。
って言うか、まずはお前が変わって行かねばならないんじゃないか?と思って。
自分がそう思える人でありたいと、そう思う様になりました。
そう思った自分が、善く読む詩があります。
病を得て多くを知る、とでも言うんでしょうか。
カトリック、プロテスタント、宗派を問わず、
クリスチャンの方は良くご存知かもしれません。
「ある兵士の祈り」
と呼ばれる詩があるんです。
これは、創作ではなく、ニューヨーク市、三十四番街にある、
物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁に、
ある南部連合の無名兵士が残したものです。
*******************************
「ある兵士の祈り」
大きなことを成し遂げるために、
力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった。
より偉大なことが出来るようにと、健康を求めたのに、
より良きことができるようにと、病弱を与えられた。
幸せになろうとして、富を求めたのに、
賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の称賛を得ようとして、成功を求めたのに、
得意にならないようにと、失敗を授かった。
人生を楽しもうと、たくさんのものを求めたのに、
むしろ人生を味わうようにと、シンプルな生活を与えられた。
求めたものは何一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられていた。
私はあらゆる人の中で、
もっとも豊かに祝福されていたのだ。
********************************
こういう感じで生きるようになって10年が経ちました。
病んだきっかけはやはり隣にいた人の「死別」と自分のハードな過去でしたけど、
それから山あり谷ありで、その傷もだいぶ回復して来て
やっと次のステージに行けると思った矢先に相方さんを失いました。
さすがに、共に苦悩の山坂を歩いてくれて、
これからも、その山坂を一緒に歩いていく予定の人が、
いくら病気だったとはいえ、治ると言われてて、
しかも急変してからも、大丈夫ですよと言われてたのに
突然に、夢の様に、僅か、そのセリフから一時間くらいで
目の前から当たり前のように居なくなるって言うのは、
並大抵の痛さじゃないもんだなぁと実感しています。
もうすぐそこからも2年が経ち、生活も変わり、生きる場所も形も変わりましたが、
なにか自分のなかにある大きなものは、なかなか動いてくれませんのです。
予定としては、この一年で復活して、今頃はバリバリやってるはずだったんですけどね。
気が付けば、東京を出たときと、あまり状態は変わっていません。
越してきて、もうすぐ1年。家族以外の誰とも会っていません。
ずーっと引きこもりのままです。だって、誰にも会いたくないのです。
家から出たくないのです。
相方さんの写真も、思い出の品も、まだまっすぐ見ることも出来ません。
アルバムはまだ一度も開いていません。
見た目だけは随分変わりました。
本当に彼が亡くなって、15歳くらい一気に老けたんじゃないかなと思いますね。
お化粧も何もしなくなったし、シミもしわも増え、髪の毛も一気に白髪だらけになりました。
食事だけは一食から機会ががっつり増えたから太ったけどね(笑)
おばちゃん、街道まっしぐらデス(^_^;)
それでもね、こうして生かされている事を本当にありがたいと思えます。
何故なら、今日は過去が創ってくれたものだからです。
すごく悲しいのも、立ち直れないのも、それだけの思いが
過去に、そして今にあるからだと感じます。
そんな気持ちが、自分のなかの思いに気が付かせてくれることもあります。
おかげで、今まで起きたすべてに、心から感謝が出来るのです。
それだけは、ありがたいことだなって思えるんです。
ただねー、そこまで思えるんなら、元気な気持ちに切り替えられるんじゃないのー?
って言われるんだけど、悲しいな―とか、怖いな―とかってのは違うみたいデス。
寂しさとか、不安とかは、また違うとこに在るもんなんだなーって実感。
もう、とにかく、本当にやりたいことが進まないんですよ(^_^;)
ビックリするくらい、出来ないの。ほんとびっくりだよ\(◎o◎)/!。
そんな中で今は自分が書きたいとかやりたいなって事で、
一番スムーズにできているのがこのブログとお手紙書きです。
それでも、ひとつの記事を書くのに10日以上かかるときもあるんですよ。
事実、先月からはスランプに居ます。
手紙を書こうと思って用意しても、もうひと月出せない。
書けないのだもの。
何かを作ろうとしても、手が動かない。
でもね、あきらめることはしたくないんです。
自分に負けるのだけは嫌だからなぁ。永遠のライバルだし(笑)
だから、毎日、出来るだけ頑張ってみる事にしてるんです。
それが自分らしいと思うし。
だから気持ちが持ち上がらなくても、絶対に寝たきりで居たりとかにはしない。
決まった時間に起きて、布団を揚げて、家仕事をする努力をする。
やりたいと思っているものを用意して、いつでもできるようにしてみる。
ブログや手紙も、思いついた事を、どんどん書けるところまで書いて、下書きするんです。
日が経つと思いが変化していく事もあるし、書く意欲が消えることもありますが、
その気持ちの流れに素直に従って、ただ書いていくんです。
手仕事も同じで、思いついた事をどんどんやってみる。
やりたいことをどんどんメモに書き連ねてみる。
最初、出来ることがどんどん失われていって驚愕してたんですが、
唯一、時間をかけてもいいな、さっと出来なくてもいいや、
と思えたのがこのブログを書く事だったんですよね。
もうずっと集中力がないし、考える力も落ちているから、
文章がぐちゃぐちゃだったり、飛んじゃったり、繰り返したりするんだけど。
それでも、書けてることで、少し落ち着くんですよ。
「書く」事は「心の動き」と直結しているので、
それを書けていることが、一つの元気のバロメーターで、
私にはとても大切なことなのですね。
とっても救われているんです。
だから、このブログと、手紙やメールを書くことが出来なくなったら
本当に心や身体がやばい時だと思っているんです。
今日はちょっと頑張って書きました。5日もかかったけど(^_^;)
本当に体調悪い時だからこそ、そんな頑張りも大事かなと思ったりしています。
とか言っても、出来ないからボーっと休んでばっかりなんですけどね(^_^;)
最近はそんな自分も好きになってきたんですが。
誰に発信するのでもなく、ある意味、自分に向かって書いているブログです。
私の出す郵便は一方的な手紙だったりしますが、
でも、私を知ってる人は、その文章を、手紙を観ると、
ああ、生きてるんだな、と思ってくれるでしょう。
どこかで、変わんないなと思ってくれるかもしれませんし。
だから、唯一、毎日チャレンジできることだから、
本当に止まるまでは、書き続けるのです。
私の愛する人たちへ、
今は自分からは皆に会いに行けないけど、ずっと愛はあるからね。
変わらぬ私はここに居るからね。
もし、最後の日まで会えなくても、変わらぬ心だけは心配しないでね。
今日もなかなか進まない時計で動いています。
やりたくて出来てない事の積もった山の中をぐるぐる迷って登ってます。
それでも最後まで「自分」で生きたいのです。
生きてるって事は、そういう事なんだな、って思ったりしてます(^^)