KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

身体疲れ*心疲れ

2012-07-24 | KOFUKU日記


《雨がやんだじぇ~!俺のきしぇつがやってきたじぇ~!byまろ》



やっと梅雨が明けましたぁ!
陽射しもキラキラ、南国ムードが全開です!
やっとお洗濯物も外に干せてありがたい限りです。

早いもので7月も後半、もうお子様方は夏休みでゴザイマスね。
先日20日は実家の甥っ子ちびくん12歳のお誕生日でありました。
実家のシェアメイトのカンナちゃんも一緒にお祝い準備しまして
夕方早い時間からのお誕生お祝い会となりました~。

お食事はちびくんのリクエストで握り寿司を用意。
ちわわンズの皆さんはアムママが作ってくれたトンコツ!
カンナちゃんが用意してくれたケーキは
ちびくんのリクエストでヤナギムラというケーキ屋さんの
白いチーズスフレとはちみつロールで御座いました(^^)
ちわわンズと共に、人間ズも美味しくご相伴にあずかりました。



あ~美味しかったぁ!
・・・・っと本来はなるところなんですが、
私が食べてたのは・・実は・・「素うどん」(笑)

つっても、もともとお寿司は苦手でほとんど食べないんですけどね。
実はうどんしか食べられないような体調でしたのよ(・。・;
って言うか、今現在もそんな体調でゴザイマス(-_-;)

数日前から気力と共に抵抗力が落ちてしまってですね~、
一気に風邪気味で体調不良に落ち込んでおります(*_*;

おかげさまでピーク時からは少しは良くなりましたが、
熱が37.6分くらいから下がりません。
鼻炎もちで、今はさらに気管が腫れているので
(もともとアデノイド持ちゆえに)
喉と鼻が腫れてて息が出来ないわ、血はガンガン出るわ…
寝てても起きててもしんどいとはこのことで御座いますー(-_-;)




《じー・・・・ byろまたん》


大人の女性は健康であれば、月に一度、身体に浄化が起るのですが、
その時に体の抵抗力がかなり、ぐーんと低くなる人がいるようです。
まさにワタクシ、今回、並びに毎回それなんでゴザイマス…。
もう、昔々から、毎回そうなんでゴザイマス…。
これ結構しんどいんでゴザイマス…。
常に抵抗力低下&風邪その他のダブルパンチ(^_^;)
しかもこの時期はこのまま、体調不良が長引くこともあるので気をつけねば。
なんたって風邪は万病の元ですもんねぇ。

という事で現在も軽~~~く肉体が病んでおりマスのです。
その上を遠慮なくちわわンズが駆け回るので、おかげでお顔が傷だらけ。
(頬にざっくり爪の後で、どこかのヤーさんの様になってまつ…^_^;)

ちなみにこの女性の神秘でゴザイマスが、
新月に近い時期に起きる人は、内面を動かす必要があり、
その為に、陰陽で言えば「隠」に当たる部分に影響を及ぼす
(とは言ってもマイナスと言う意味ではありません)
「月」のチカラや、母性をつかさどる自然界のチカラが、
語りかけてきてくれるそうです。
反対に、満月に近い時期に起きる人は、陽の力がみなぎる人で、
太陽など、華やかな力達が後押しをしてくれるそうでございますよー。
ぜひご参考になさってみてくださいまし。

とは言っても、この時期の体力消耗は後々来るものですし
夏風邪も流行っているようですから、
どうか皆様も十分にご注意くださいね。





《まったりお昼寝中の、ぴぴかーたんとふう君》
《平和の姿が家の中にあるって言うのは幸せな事デス♪》
《おかげで何が大切かを考えると言うココロの原点に戻ることが出来ます》


てな事で、少々「身体疲れ」をしておりますワタクシなのですが、
生まれながらに弱めの身体なので、私にとっては熱やら胃痛やら
微妙な体調の悪さはあった方がかなり普通なんですが(^_^;)
「病む(寝込む)」とこまで行くと、さすがにちょっとシンドイですねー。
病は気からというごとく、気持ちもさらに落ち込んでしまいがちです。

って言うか、今回の病みは「気疲れ(心疲れ)」も原因だったのかもなぁ…。
精神的にしんどいことが6月、7月でちょこちょこと連なった上に
春から秋にかけては、特に相方さんたちの事を思い出してシンドイので
そこも微妙にダブルパンチをくらってしまった様でゴザイマス(^_^;)
まさに病は気から、だったぜ…(-_-;)

深い会話がするのはまだまだ難しいな~って自分で解っている時に、
心を開かないとできないような会話の機会を
あえて持ってしまった自分にちょっと反省中デス。

会話するって、相手の方とお互いの言葉を言い合って、
説明しあって、そして理解していく、
ってのがメインになるわけですが、そこがおっつかないのに、
気持ちだけで会話すると、結局、言葉足らずになってしまって、
相手にご迷惑かけてしまうし、この様に精神的に疲労を抱えてしまうんですよね…。
しかも、今は精神的に集中できなかったり、関わりが難しいから、
つくづく気をつけないといけないなぁと思った事で御座いました。


私は元来アメリカン気質なので、すぐフレンドリーにはなれるけど、
友達になるには時間をしっかりとかけないとダメな人の様です。
つまり、友達になるのであれ、家族になるのであれ、
ココロの山坂を、それぞれが本当に頑張って、
そして一緒に登れる人じゃないと本物にはなれない気がしています。
(これは皆さんの在り方に対して、そう思ってるのではなくて、
自分はそうなんですよね~、って、いう事なのですが。ちょっと補足~)


でも山坂をえっちらおっちら、坂道のぼりは誰だって大変なのですな。
大体の人は最初はこの人が一緒なら平気~なんて思っていても、
疲れてきて、自分の意見を肯定されなくなって来たり、
相手の話を聞いてばっかりだと、途中から楽しくも、面白くもなくなって、
さらにしんどさMaxなわけだから、やめてしまう人が殆どだと思います。

だけど、私の中で友達作りは、この「山のぼり」みたいなものに感じているのです。
山道を一人でのぼるのにさえ、ふうふう言ってるところに、
隣に歩く相手の存在を常に考えなくてはいけないから、結構ハードです。

まあ、人生でお友達が必要なきゃ、そのままズンズン歩いていけばいいし、
面倒くさくなったら、捨て置いて、自分だけ先にいけばいいわけなんですけど。
事実、人生そんなもんだよと、言う人も多いだろうし、そうする方も多いと思うし、
それが悪いとも思いませんが、私的にはそれは決して適用されませんのデス。

私は「人は一人で生きてるんじゃない、周りが在って、
そしてそこに私が立って、関わって、初めて世界が在ると言えるのだ」と思ってるし、
「袖すりあうも多生の縁」で、「一期一会こそが人生だ」と感じているからです。
また、その言葉通りに出会いには責任も意味もあると思うからなんです。

それを己の感情のみで捨て去るようなことをすれば、
きっと同じ道ノリで誰かにそうされると、
世界はそんなものだと、どこかで解っているからだと思います。
全ての自分の感情は巡り巡って、自分に戻り、
自分の手で蒔いた種は、自分の手で刈り取るものだと思います。
なんというか、波みたいなものと言うか、ドミノみたいなものと言うか、
自分の立てた風のチカラの分は、自分に吹いてくると思うのですねー。

ここで大切なのは、まずはそれを感じる事、じゃないかな、って。
つまりは自分と同じように、人を感じる事。世界を感じる事。
その為に自分を良く感じる事。
それらがとっても大切なんじゃないかと、感じています。

そして次に、恐れるか、恐れないか、じゃないかなと感じています。
その事そのものに恐れをいだけば、ただのルールへの過信みたいなものになってしまう。
悪いことをしたら地獄に行きますよーってのが怖いのと一緒。
そういう感覚は、決して責任感ではない、と私は思っています。
そういう恐れがあるから、する、しない、ではなく、
私のココロがそう思う、願う、から、そうなるって事だと。

それが友達を作るときに、つまりは人生を生きるときに大切だなぁと思うのです。
だから、本当に生きるって、友達作りって、相手に対する祈りが必要なんだなって思う。
小さい事への日々の積み重ねがすごく大事なんだなって思う。


311以降、特に思う事だけど、大きな災害があれば、人はその時は助けようとします。
けれど厳しい状況が長く続くと、人はココロが望まずとも荒れてきたりもします。
でも、きっと、そこなんだ、ココなんだ、と思うのですよ。

世の中はそりゃあ不公平にできている。
罪もない、一生懸命の沢山の尊い命が失われて、
世間のお役にも立てなくなった私がこうして生きている。
何かしたくても、力のある人、お金のある人は動かず、
何とかならないかと祈る私には力も富もない。

めちゃめちゃ不公平だ。
でも、何故なんだろう。どうしてなんだろと考える。

寝ていると、見ている世界が変わる。高さも大きさも広さも。
違う世界が見えてくる。見えてきたものが、私のいるところを教えてくれる。

私は、人が置かれた立場で生き、その立場で物を考え、
行動する必要があるからだ、と感じています。
だから不公平じゃなくちゃ始まらないんだろうなぁ、って。
そして、私たちの生命をつかさどる様な大いなる存在があるとすれば、
きっと、その時の心の動きを見ている気がするのですよね~。
だから、自分って生き物が、どれだけ何かを続けて行けるのか、
諦めずに居られるのか、そこなんだなって感じています。

大変な時は自分の事だけで精一杯になりがちですよね。
人は、そんな自分を守るために、正当性のある理由をくっつけては
平気で人を傷つけたり、裏切ったり、あきらめたりしてしまいがち。
人とのご縁もそうで、大体の人は、自分が飽きれば捨ててしまう。
今は簡単に思いを捨ててしまう事すら、精神的に正しい、と言う風潮。
でも本当にそうなんだろうか?自然ってそういう事なんだろうか?

たしかに、究極、それらを学びに来た人も居るんだろうけどね。
ただ、私にはなんとなく、人は、人に生まれてきたと言うだけで、
もっと大事にしないといけないものがあると深く感じます。
ルールのない自由なんか、自由じゃないと言うけれど、
陰と陽が在るのには、きっと大きな理由があるだろうしね。
長く、いろんな事をやってきたけれど、その経験からも、本当にそう思うのですよ。

ある時、心友の一人が、自分勝手なトラブルばかりを起こす友に対して、
とてつもなく心配しながら、涙を浮かべながら、こう言いました。

「一度でも友の顔が目に浮かぶことはないのだろうか?」と。

それを聞いて、ああ、この人とはずっと友達でいたいなと改めて思ったのを覚えています。
その心友は、たぶん、どん底にある時にも、友の顔を思い浮かべて、
自分よりもその人たちの気持ちを思いやれる人なのです。
例え、トラブルに巻き込まれても、相手を見捨てない、
自分もあきらめない、そんな強さを持っているのだと思います。
多分、その方は、魂が何を大切かをちゃんと知っていて、
それで、世の誘惑に負けず、それを選べる強い魂の持ち主なのです。
これ、言うのは簡単だけど、なかなか選べない。
実際難しい。だって、人の気持ちを抱えるって楽ではないから。
でも、最近、本当にそういう意識が大事だなぁ、って感じてます。

そして、やっぱり、そういうココロの持ち主は、どこに居ても、
世の中がどうあっても、ちゃんと自分のいるべきところで、
ちゃんと自分のできることを、精いっぱいやっているのだよね。
しかも、そういう人からは、一言も人への苦言を聞きません。
そんなこと、考えないからだろね。だから人からも悪く思われない。
そういう友人たちが、その生き方を見せてくれるので、
大切な事を忘れないように、と思わせてもらえているのかもしれません。




《まっすぐ生きるのでちゅ! byみやたん》


確かに、人と歩調を合わせたり、思いやったりしながらの山登りは大変。
だけど、息の切れる坂道で、自分に理解しづらい事でも聞く努力や
相手の苦しみを悟って笑顔を見せようと努力をする人は、
いつしか、相手の顔をまっすぐ観る回数が多くなり、
下らぬことであれ、真摯に言葉を交わした分だけ、相手の事を知り、
頂上では一緒に座って、絶景の景色を見て、笑顔を交わし、
そこまで来られると、下山する時には、坂道を転がらぬ様、
困った時にはさっと手を出して、お互いを支えあい、
山を下りた、その暁には「ああ、いい山登りだったね」
と手を取って笑っている善き友人になっている気がします。

まあ、私の感覚なので、気にしない人は気にしないのかもなんですけどね(^_^;)
大概、私の友人には、第一印象から良かったって人はあまりいません(笑)
これはモチロン、嫌な奴だった、って事ではないですよ(汗)
なかには、ソウルメイトの様に惹かれあう人も居ますけど、
人間は善い時だけじゃないから。

人はコロっころのココロを持っていますから、
自分に合わないと思えば、ポイと捨てられる薄情さがありますが
でも、心って、本来そういう行為に耐えられない気がする。
事実、その行為、本人は平気でも、相手は傷つくこともありますよね。
究極、それらの感覚をどれだけ、感じられる人か否かの様な気がする、人間力ってのは。
とはいえ、人はすべて均一には作られていないから、
感じ方も様々、考え方も様々で、答えはないのだけど。
でも、なんとなく、魂は本当は解ってる気がする。
だから、人は泣いたり笑ったり、共通のアイテムを持って生まれて来るんじゃなかろうか。
なーんて思っていたりします。

まあ、生きるとか、友達作りって、善いときだけじゃないマイナスの時に、
相手をどれだけ愛そうか、って努力が、自分が出来るかじゃないかなーって感じてます。
それが、人生作りともいえるかもしれないなぁー。
なーんて、またまた思ってみたりしている私。

そう考えると、つくづく、善き友を持っていると実感がわきます。
少なからずとも、私が真実、友だと感じている人には疑いがない。
それは、そこまで、悩んだり、考えたり、いっぱいしてきたから。
考えを戦わせたり、話し合ったり、十分してきたから。
そうでなくても、本当に、ココロから信頼が持てるからデス。
沢山の感情を経て、相手の生き方を認めて尊敬しあっているから、
争いも、心配も、なにも生まれないし、どんなに離れていても
必ずそこに居ると解ります。有難いものだなと思っています(^^)

Thanks my freinds!
今日もその存在に支えられているよ~。
感謝、感謝。アリガトウゴザイマス。


こんなことをツラツラ書いてみたり、思ったりするのは。
心疲れに加えて、この身体疲れも結構深刻な証拠なんです(^_^;)
6月から、本当に気持ちの調子が悪くって、それが身体に出るから…。

体調不良とはまた別の話なんですが、精神的に病を患うと、
その影響は、まずは「鬱」っぽい症状の形で出て来るんじゃないか、と感じています。
私にとって、それらの顕著な出来事と言いますと、
出来ていたことが、どんどんできなくなってくる、という事なんですけど。
まあ、今も、そんな日々の中にいるわけなんですけども…(-_-;)

なんにしても、気力の中身が以前よりもトーンダウンしてしまってるので、
それを行って達成するのが、すごく難しかったりします。
しかも、それをやりたいと言う、気持ちが無くなるわけではないから、
最初、びっくりして、ガックリして、なんで出来ないのかと自己を責めたりもして…。
んで、落ち込むという堂々巡りの悪循環デス。

私なんて、その魔のループに落ちてから、もう10年ぐらい彷徨ってますが(汗)
やっとのことで、こんなのも仕方ないなぁと想える様になってきました。
だって、過去は変わんないしね。大事な人の死も悲しみも消えるわけじゃないしね。
そんなハードな事が、簡単に解決するはずがないだろう、って
自分で思ってあげられるようになってきた感じでしょうか?

でも僅かです。もともと行動力がかなりあるタイプの人だったので、
自分のやりたいなってことが、パッと出来ないのはしんどいんですよ。
そんな自分がもどかしいし、本当に辛かったりします。

そんな私に対する周りの人の反応は二種類に分かれます。
以前からの私を知っている人は、休みもせず、ガンガン動いているのが
当たり前な私を知っているので、今の私を見ると最初は本当に驚くけれど、
意外とすんなりと現状を受け入れてくれます。
中には「あなたらしくない」と言う人も居ますけれど(^_^;)
大体は「あれだけ動いていたんだから、今はゆっくりしてもいいよ」とか、
「もう一生分やったから、これからは何もしなくてもいいくらい」
と言ってくれるので、他の人といるよりはホッとできるし、助けられています。
今の私にとって、それらを行う事がとっても大変な事を良く理解してくれているので、
ささやかな事でも、私がやる気になったことがあれば、それを喜んでくれます。

病んでからの私しか知らない人は、相手が自分にとって
私が面倒ではない状態を当たり前として判断される、
つまり、明るく普通にお元気な時の私が当たり前~と思われているので、
そのご期待に添えないとなると、こちらの状況はお構いなしで、
本当は出来るはずなのにやる気がないのね、とか、
意欲がないのねとか、きっと怠け癖があるのだわ、とか(笑)
まあ、良く思ってない方がほとんどでゴザイマスね(^_^;)
一生懸命に説明しても、今それだけできるんだから、
出来ない方がおかしいよね~とおっしゃいますし。
下手に会話したりすると、この人ぜんぜん普通じゃんとか思われて、
何いっても大丈夫やろ?くらいにガンガンせめられたりもして。
頑張ってる100パーセントに頑張れって言われる上に、
受け止められない攻撃まで受けることがあるので、どーにも凹みがちです。

その他人さまから見て「ダメじゃん」ってとこまで行けてるって事が
私にとって、どれだけ凄いか、なんて事は、
相手には関係ないんで、まず理解してはもらえません。
重要なのは、それで相手に何かと迷惑が掛かっている部分なんです(笑)
そんなはずないのに、なんでそんなことしてるわけ?と理解してもらえない(^_^;)


でもねぇ、ほーんと大変なんですなー、これが。簡単じゃないんですわ。
ほんと努力も重ねたんですけど、難しいんですよねー。
ココロを病むって、自分でもなんとも出来なかったりするもんなんですねー。
もう、病んで初めて解りましたけど、「想った事を行える」ってすごいことなんですよね。
病んじゃったら、「こんなじゃダメだ!」って思っても、どうしてもできなくなるのですから。
自分の意志とは添ってくれない身体を抱えるって、相当しんどいもんなのです。

そういうココロと身体を思いやろうとしてくれる人が多く居たら
きっと、この世のなかも、また違ってくるんだろうなぁ、って思うけど、
自分も含め、人は自分が基準になっちゃうから、難しいんだろうなぁ。

でも、そう気が付けるんだから、変わって行けるとも思うのだよな。
って言うか、まずはお前が変わって行かねばならないんじゃないか?と思って。
自分がそう思える人でありたいと、そう思う様になりました。





そう思った自分が、善く読む詩があります。
病を得て多くを知る、とでも言うんでしょうか。

カトリック、プロテスタント、宗派を問わず、
クリスチャンの方は良くご存知かもしれません。

「ある兵士の祈り」
と呼ばれる詩があるんです。

これは、創作ではなく、ニューヨーク市、三十四番街にある、
物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁に、
ある南部連合の無名兵士が残したものです。



*******************************


「ある兵士の祈り」


大きなことを成し遂げるために、
力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった。

より偉大なことが出来るようにと、健康を求めたのに、
より良きことができるようにと、病弱を与えられた。

幸せになろうとして、富を求めたのに、
賢明であるようにと、貧困を授かった。

世の人々の称賛を得ようとして、成功を求めたのに、
得意にならないようにと、失敗を授かった。

人生を楽しもうと、たくさんのものを求めたのに、
むしろ人生を味わうようにと、シンプルな生活を与えられた。

求めたものは何一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられていた。

私はあらゆる人の中で、
もっとも豊かに祝福されていたのだ。
 

********************************


こういう感じで生きるようになって10年が経ちました。
病んだきっかけはやはり隣にいた人の「死別」と自分のハードな過去でしたけど、
それから山あり谷ありで、その傷もだいぶ回復して来て
やっと次のステージに行けると思った矢先に相方さんを失いました。

さすがに、共に苦悩の山坂を歩いてくれて、
これからも、その山坂を一緒に歩いていく予定の人が、
いくら病気だったとはいえ、治ると言われてて、
しかも急変してからも、大丈夫ですよと言われてたのに
突然に、夢の様に、僅か、そのセリフから一時間くらいで
目の前から当たり前のように居なくなるって言うのは、
並大抵の痛さじゃないもんだなぁと実感しています。

もうすぐそこからも2年が経ち、生活も変わり、生きる場所も形も変わりましたが、
なにか自分のなかにある大きなものは、なかなか動いてくれませんのです。
予定としては、この一年で復活して、今頃はバリバリやってるはずだったんですけどね。
気が付けば、東京を出たときと、あまり状態は変わっていません。

越してきて、もうすぐ1年。家族以外の誰とも会っていません。
ずーっと引きこもりのままです。だって、誰にも会いたくないのです。
家から出たくないのです。
相方さんの写真も、思い出の品も、まだまっすぐ見ることも出来ません。
アルバムはまだ一度も開いていません。

見た目だけは随分変わりました。
本当に彼が亡くなって、15歳くらい一気に老けたんじゃないかなと思いますね。
お化粧も何もしなくなったし、シミもしわも増え、髪の毛も一気に白髪だらけになりました。
食事だけは一食から機会ががっつり増えたから太ったけどね(笑)
おばちゃん、街道まっしぐらデス(^_^;)

それでもね、こうして生かされている事を本当にありがたいと思えます。
何故なら、今日は過去が創ってくれたものだからです。
すごく悲しいのも、立ち直れないのも、それだけの思いが
過去に、そして今にあるからだと感じます。
そんな気持ちが、自分のなかの思いに気が付かせてくれることもあります。
おかげで、今まで起きたすべてに、心から感謝が出来るのです。
それだけは、ありがたいことだなって思えるんです。

ただねー、そこまで思えるんなら、元気な気持ちに切り替えられるんじゃないのー?
って言われるんだけど、悲しいな―とか、怖いな―とかってのは違うみたいデス。
寂しさとか、不安とかは、また違うとこに在るもんなんだなーって実感。

もう、とにかく、本当にやりたいことが進まないんですよ(^_^;)
ビックリするくらい、出来ないの。ほんとびっくりだよ\(◎o◎)/!。

そんな中で今は自分が書きたいとかやりたいなって事で、
一番スムーズにできているのがこのブログとお手紙書きです。
それでも、ひとつの記事を書くのに10日以上かかるときもあるんですよ。

事実、先月からはスランプに居ます。
手紙を書こうと思って用意しても、もうひと月出せない。
書けないのだもの。
何かを作ろうとしても、手が動かない。


でもね、あきらめることはしたくないんです。
自分に負けるのだけは嫌だからなぁ。永遠のライバルだし(笑)
だから、毎日、出来るだけ頑張ってみる事にしてるんです。
それが自分らしいと思うし。

だから気持ちが持ち上がらなくても、絶対に寝たきりで居たりとかにはしない。
決まった時間に起きて、布団を揚げて、家仕事をする努力をする。
やりたいと思っているものを用意して、いつでもできるようにしてみる。
ブログや手紙も、思いついた事を、どんどん書けるところまで書いて、下書きするんです。
日が経つと思いが変化していく事もあるし、書く意欲が消えることもありますが、
その気持ちの流れに素直に従って、ただ書いていくんです。
手仕事も同じで、思いついた事をどんどんやってみる。
やりたいことをどんどんメモに書き連ねてみる。

最初、出来ることがどんどん失われていって驚愕してたんですが、
唯一、時間をかけてもいいな、さっと出来なくてもいいや、
と思えたのがこのブログを書く事だったんですよね。

もうずっと集中力がないし、考える力も落ちているから、
文章がぐちゃぐちゃだったり、飛んじゃったり、繰り返したりするんだけど。
それでも、書けてることで、少し落ち着くんですよ。

「書く」事は「心の動き」と直結しているので、
それを書けていることが、一つの元気のバロメーターで、
私にはとても大切なことなのですね。
とっても救われているんです。

だから、このブログと、手紙やメールを書くことが出来なくなったら
本当に心や身体がやばい時だと思っているんです。
今日はちょっと頑張って書きました。5日もかかったけど(^_^;)
本当に体調悪い時だからこそ、そんな頑張りも大事かなと思ったりしています。

とか言っても、出来ないからボーっと休んでばっかりなんですけどね(^_^;)
最近はそんな自分も好きになってきたんですが。

誰に発信するのでもなく、ある意味、自分に向かって書いているブログです。
私の出す郵便は一方的な手紙だったりしますが、
でも、私を知ってる人は、その文章を、手紙を観ると、
ああ、生きてるんだな、と思ってくれるでしょう。
どこかで、変わんないなと思ってくれるかもしれませんし。
だから、唯一、毎日チャレンジできることだから、
本当に止まるまでは、書き続けるのです。


私の愛する人たちへ、
今は自分からは皆に会いに行けないけど、ずっと愛はあるからね。
変わらぬ私はここに居るからね。
もし、最後の日まで会えなくても、変わらぬ心だけは心配しないでね。


今日もなかなか進まない時計で動いています。
やりたくて出来てない事の積もった山の中をぐるぐる迷って登ってます。

それでも最後まで「自分」で生きたいのです。

生きてるって事は、そういう事なんだな、って思ったりしてます(^^)



遠い記憶の中に

2012-07-19 | KOFUKU日記


《お外ってあちゅくて、まぶちぃのでちゅね。byろま》
《今週、ちびたちは初めて土の上におりました》
《週末にお散歩デビューを控えております》


日本全国、真夏日が続いていますね。
一昨年の夏もそうで、冬が深かったのを覚えています。
暑さが厳しくなっている地域の方は十分に水分を取られて予防なさってくださいね。
また温度差でくれぐれも風邪をひかれませんように。




《暑いときは無理をせずひと休みして涼を取りましょう》
《お外から帰ってきたふう君もお部屋でひと休み(^^)》



《今日の原発関連ニュース》
福島第一4号機の燃料棒(新燃料)が試験的に一本取り出されたそうです。
本日も行われるそうです。

gooニュースより 新燃料1体を試験的に取り出し…福島第一4号機

事故なんかにつながらないように慎重にやってほしいデスね。
また、新燃料棒とは言え、放射線などの増加があるやもしれません。
関東の皆さんは風向きなどにご注意くださいね。




《外はかなり暑いので、ちびたちも部屋から出たがりません》



さて、こちら南国も類にもれず30度超えていますが、
何故かまだ梅雨のまんまの九州は湿気がすごいです~(・.・;)
台風はあまり影響なくて済みましたが、九州北部の方が心配です。
なんせ、このところの雨で地盤も緩んでいるので、
実家の隣の崖を見る度に崩れない様に祈っております。。。


ちびさんたちは100日目を迎え、ますます大きく成長中デス。
なんせ、まだ100日しかこの世におられませんのに
もう皆さんそろって、2キロ越えです。ええ、通常の2倍です(・。・;



《おっきいちわわでちゅけど、にゃにか??by南国ちわわンズ》
《ちなみに左、3か月の息子ろま君、隣・一歳の母ぴぴちゃん》
《もう、どっちかわからんわっ!←家族の声》


つい最近までは3匹まとめて持っても大人一匹分でしたが
現在、3匹まとめて持ったら米袋持ってるみたいです…ずっしり…
ええ、ちょっとした修行風味デス…(-_-;)
両手で水桶持って走るジャッキー・チェンの気分です…

とはいえ、これまでの急成長からは、少し止まった感ありデスよ。
緩やかな成長になってきた感じがします。
しかし、週末のお散歩デビューに向けて庭に出始めたので、
まだまだこれから光合成して大きくなるんでしょうなー(^_^;)
いやー、修行だ、修行!腕が細くなるかしらん?(笑)
でも、おかげさまで今のところはみんなみんな健康で元気で御座います。

 

《お顔もスタイルもはっきりしてきた、みやちゃん》
《ふう君は大きなケージの上のまろ君のお気に入りの場所まで登れるようになりました》




《おやつもごはんもお腹いっぱいたべちゃうぞ!食欲満点だじょ!》
《この三つ子は半端ない食欲とイタズラ具合です(^_^;)》
《もー、メリダとおそろしの森のCMでクマちゃんズ見る度にうちのちびに見えてならない(笑)》


 

《はむすたーのはむちゃんとも上手に遊べるようになりました(^^)》
《ときどきお互い噛んでるけど…(^_^;)善き友達見たいです》
《昨日はハムちゃんケージを持ち上げて、脱走を手引きしていました(^_^;)》
《気づいてよかったよ、、、ホント油断ならない(笑)》


このところ、可愛かった上野のパンダちゃんや
水族館のシロイルカちゃんが天国に行ってしまって
とても切ない思いをしたのですが、あのちびさんたちの分まで
いま生の幸せを享受している動物たちが、亡くなった子の命を一緒にして、
これからも元気で幸せに過ごしてくれたらいいなと思っています。
ちびさんたちのはじめての夏が幸せな夏となりますように。
多くの小さい命たちにも過ごしやすい夏となりますように。


**************************************




《蝶の妖精さんとお話する少女》


さて、この暑さの最中ですが、植物や虫たちはとても活発です。
庭の植物たちもぐんぐん成長しています。

しばらく前から、トンボがすごい数で飛んでいて、
最初その数に驚いたのですが、その後に長雨になりました。
その後、大きな水たまりの上をつがいで飛び回っておりましたが、
あれはきっと雨が沢山降ることを知っていたんだなぁと感じています。
彼らは一体どうやって知るのだろうか?すごいものです。

ちなみに、うちの実家の隣はもう目の前が山です。
山と言うか、山に入る手前の森です。竹林もあります。
大きな樹もあり、そのせいか、庭に居れば
沢山の鳥や虫たちの姿や歌声や羽音に出会います。

10メートルはある、大きな椿の木からはたくさんの蝶々が飛んできます。
オレンジの、青いの、緑色の、いろんな色の蝶。
中でも立派なアゲハ蝶がとてもたくさん飛んでいて、
大きいのは私の両手のひらをくっつけたくらいあります。
ちびたちに手が届くくらいの所をひらひらと飛んできてくれるので
ちびさんたちも庭で蝶と一緒に走り回ります(^^)

ネイティヴアメリカンの世界では蝶は生命力のシンボルとされていて、
美とか喜びとか、変容とか、神様に願いを届けてくれるお使いでもあるそうです。
そういえば、相方さんに一番最初に贈った手作りの贈り物は
拾った石に羊毛をまいてフェルト化させて
羊毛の蝶を乗せたペーパーウェイトだったなぁ…。
光りのある青い羊毛を使った玉虫色の蝶だったことを覚えています。
蝶はふとした時に自分から生まれてくるモチーフかもしれないデス。





ところで、私はネイティヴアメリカンの考え方に共感する部分が多くあります。
彼らが日本人と同じモンゴロイドで同じDNAを持つせいなのかは解らないけど、
ネイティヴアメリカン、そしてアイヌ民族やケルト民族などなどの
先住民と呼ばれる人たちの世界観は、日本人の根底と繋がっている気がします。


どこの先住民たちの世界観のなかにも、
この世は大いなる神秘の力が創造したものであって、
自然と共に生活し、太陽や月、海や山、木や大地、
すべてのものには精霊が宿っていると信じ、
それらと会話し、助け合って生きていました。

神や仏、自然やこの世のすべての物に
八百万の神がいて、私たちがいると感じて生きている、
昔の日本人の生き方の中には同じスピリットがあるなぁ、と感じるのです。
残念ながら今の日本にはそういうスピリットを
持っている人というのを感じる事は少ないけれど…。
私はいろんな世界の生き方に共感を持ちながら生きてますが、
特に先住民の方々の世界観がとてもしっくりくるのですー。





例えば、ネイティヴアメリカンの方々と言うのは
「大いなる神秘(グレート・ミステリー)」
「大精霊(グレート・スピリット)」などと呼ばれる、
つまり創造主なる宇宙の真理が存在すると考えています。

「宇宙の真理」である「大いなる神秘」には始まりも終わりもなく、
この「大いなる神秘」のもとでは「二つ足も四つ足」も、
「石も草も木も」すべてが平等。

人間以外のものを呼ぶ際も、「熊のひとたち」
「石のひとたち」「鳥のひとたち」といったふうに呼ばれて、
人間も人間以外のものもはっきりと区別されません。

どの部族でも、様々な精霊が信仰されていますが、
これらもすべて「大いなる神秘」のもとにある存在です。

またネイティヴの社会には「上司」や「部下」「上意下達」といった、
主従・上下関係というものはありません。
すべての事は「大いなる神秘」のもとに平等であって
一つ一つが尊重されるべき存在だからです。

キリスト教も、仏教もイスラム教も
「宇宙の真理」のひとつと考えるため、
ネイティヴアメリカンにはなんの矛盾もなく、
古来からの考えや信仰と両立するのです。

彼らはこの「大いなる神秘」の意のままに生かされている、
と考えていて
「大いなる神秘のもとにすべてが繋がっていて、すべては共有される」
と考える彼らにとって、その意に逆らう
「我欲」や「欲望」は軽蔑されるものです。

ネイティヴの人たちは誰かが亡くなって、
喪が明けると「ギブ・アウェイ」を行います。
故人の持ち物すべてを、感謝と共に仲間に贈り物として捧げるのです。
故人の持ち物だけでなく、亡き人の伴侶であった
自分の持ち物すべても捧げる人がほとんどだそうです。
「富を貯め込むこと」は、ネイティヴの世界では美しいことではないそうです。

今もこのギブ・アウェイは行われていますが、
すべてのものを捧げ、例え無一文になり、何もかも失っても
贈り物を受けた仲間たちが、その人の生活に必要なものを
それぞれ持って、すぐに訪ねてくるので心配ないのだそうです(^^)
その様にして富はめぐらせるものだと言っていました。
リーハイというネイティヴアメリカンの友人から聞いたお話です。


その宇宙や地球につながった生き方もそうですが、
私は自然を含む他者を自分としてとらえ、感謝を決して忘れない、
彼らの生き方の謙虚さにとても惹かれるのです。

ネイティヴアメリカンたちは織物でも籠でも何でも
およそ人間の手によって作られるものは、
どんなに技術にたけた人であろうと
必ず一つ間違って作り上げるのだそうです。

何故なら完全というのはグレートスピリットのみに在り、
自分たちは自然の中の織り糸の一本として生きていて、
一人のチカラや意志のみで生きているのではなく、
多くのものに命を支えられてこそ生きている事を、
感謝を心が忘れぬように、その様に作るのだそうです。
そして、それは戒めやルールとして在るのではなく、
自然に生きている世界に存在しています。
そこが、とても大切だなぁと感じています。





以前、関東でミュージカルショーカフェをやっていた頃、
一部を除いた全てのショーは全て私が企画構成台本を書いていましたが、
ある時、「アース・ビート」と言うショーを作りました。
ディズニー映画「ポカホンタス」でも有名な
ジョンスミスの物語をベースに構成したショーでした。

俳優たちの朗読と即興によるネイティヴアメリカンの詩で始まり、
かれらインディアンの美しい文化の様に現代の文化を残したい、
という思いから、ドイツにある、ゴミ箱が一つしか存在しないと言う
小学校の物語、ミミズのカーロのお話をしながら、
自然に分解し、土に還る「ゴミ」に出来るものではない、
「本当のゴミ」であるガラスや鉄くずなどで出来ている
ガラクタを集め、それで歌いながら即興演奏をするのです。
ゴミではなく、文化として残る楽器として生まれ変わらせるために。

それからキーボディストによって、現代の文明が生んだ楽器
エレクトーンによるネイティヴの世界をイメージした即興演奏。
これらは本当に即興で、2度と同じ音楽は聞けなかった。

最後にジョン・スミスとインディアンの友人「イーグル」との物語が始まる。
イーグルはジョンの青い瞳を空になぞらえて「スカイ」と呼ぶ。

この小さなミュージカルの中で、ネイティヴアメリカンのハンドトークが出てきます。
イーグルのこのセリフに合わせたボディランゲージ。

「私たちは兄弟。大きな命の輪の中で生きている。」

自分で書いたものだけど、とっても好きな言葉。
そのボディランゲージ、ハンドトークはこの形を表しているのです。



我が国・薩摩の島津家家紋…そう、じつは偶然おんなじ模様なんですが
これは、「メディスン・ホイール」と言います。

輪は始まりも終わりもないという世界観を表し、
4つの方角や色、人種、季節、人生など、
さまざまな意味を内包し象徴しています。

十字は神聖な数、バランス、調和などの「4」を表し、
輪はすべてのものと自分はつながっているという意味の「円」です。

もっと詳しく見てみるとこのようなものです。





4つの意味合いが 多数あるそうです。

例えば・・・・

メディスン・ホィールの4つの兄弟
•黄の人•赤の人•黒の人•白の人

4つの人間の本質
•肉体•感情•知力•精神

人間が越える4つの丘(人生のサイクル)
•思春期•青年期•壮年期•老年期

4つの聖なる植物
・タバコ 祈り・いのちの蘇り
・シダー 勇気・清浄・成長
・セージ 浄化・洞察・死後世界が変わった時におもむく方角
・スウィート・グラス 福を招く

この4つのポイントは、輪の上を時計回りに巡ります。
輪を見る者の右側に「東」がくるように。
「南」は下であり、「西」が左、「北」が上に。

ネイティブアメリカンでは、人は誰でもメディスン・ホイールの右側、
すなわち東に生まれ落ち、その輪を南、西、北と巡る旅に出るとされています。


このミュージカルショーは、このメディスンホイールの意味を
それぞれの魂でそれぞれに感じてほしくて作ったものでした。
ミュージカル作品を私流にアレンジしたり、解釈して、
作り上げた華やかな作品が多い中で、全く地味な存在のショーでしたが、
自分も、キャスト達も大好きな作品だったと思います。

それは何故なら、人間として生きている深い意味を
魂でそれぞれに感じさせてくれる、ネイティヴアメリカンたちの
尊いスピリットが根底にあったからだと思うのです。
演じる度に魂の根っこが、宇宙や地球と静かにつながっていくのが分かる、
そんな作品でアリマシタ。

同じようにアイヌ神謡集を訳した、アイヌの知里幸恵さんや、
金子みすずさんなどの人生をドラマにしてきましたが、
どの人が残されたものにも、同じ感性があったように思います。
この宇宙や地球や自然と共に生きているの生き物の一つが
人間というものなのだな、と心に強く感じました。


昨年、震災が起こり、原発事故が起こった時、
私の中に浮かんだのは、彼らの生き方でした。

「7代先の子孫の幸せを考えて今日を決める」

そんな彼らの生き方を、同じものをきっと持っていたのに、
日本人はいつしか忘れてしまっていたのでしょう。

同じようなスピリットを感じるせいか、私はジブリ作品の中で
「千と千尋の神隠し」がとても好きなのですが、
ちょうどその公開時、夏木マリさんの個人的なお手伝いをしてて
お声を演じていた銭婆(ぜにーば)のセリフを聞かせてもらいました。

「一度あったことは忘れないものさ
思い出せないだけで」


私はこの作品の中で、このセリフが一等好きです(^^)
人間の本来、魂の中に持っている真理を
そのまま言葉にした感じだなぁと思いました。

きっとねー、思い出せるんですよね。忘れてないから。
例え、この世で経験してなくても、ネイティヴの考え方で言えば
イノチは巡って今に居るのだから、きっとその時代の
「大切なココロ」を覚えているはずに違いない。
私はそう思うのです。

「天に向かってつばを吐けば自分に降りかかる」

もし、日本人がそんな生き方をしてきたのであれば
起きたこと、これから起きることを真摯に受け止めながら
心の奥深くに眠る思いを、思い出す努力をして、
大切に生きていけたらいいなぁと思うのです。
本当の自分を忘れないようにしながら。
今だからこそ、そんな気持ちが大切じゃないかなぁ、と。


原宿で劇場とカルチャースクールをやっていた時に、
地球を感じる為のダンスレッスンをやっていたんですが、
そこに参加したダウン症を持つ御嬢さんが

「一人ずつ、地球に感謝してみましょう」

と言う先生の問いに対して、きちんと正座をして

「ありがとう、ごめんなさい」

と、手をついて頭を下げたのです。
とても感動していると、先生が言いました。

「ああ、まさに感謝だね。
愛を感じて感じて、有難うございます、
自分の行いを感じ謝る、ごめんなさい。」

本当にその通りだと思いました。
感謝って言葉を改めて感じた日でした。
今日のこの日も、感謝を持って生きられたらと思います。





心の引き出しに大切にしまってある言葉をご紹介します。
いずれもネイティヴアメリカンに伝わるものです。


人間性を養いなさい

自分自身が誰なのかを知り、
生まれ持った使命を見つけ出しなさい。

自分自身への憐れみの心を育てなさい。

そうすれば自分自身の問題が見え、
自分の持つ能力がわかるだろう。

正当で情深い自己評価こそ、自分自身を助け、
さらには他の人を助ける基盤になるのだ。



七ヵ条の教え


変化は必要です。
もしあなたが不幸なら、
何があなたを幸せにするかゆっくり考え、
必要な変化を受け入れなさい。


あなたの喜びは私の喜びです。
だから、あなたのためにすることが
私の負担になるはずがありません。


誰かに判断を下す前に、
その人のモカシン(インディアンの革靴)を
二週間は、はいて歩いてみましょう。


あなたが生まれたとき、
あなたは泣いていて
周りは笑っていたでしょう。
だから、あなたが死ぬときは
周りが泣いていて、あなたが笑っているような
人生を歩みなさい。


生きることと死ぬことは
ひとつのサイクルです。
だから、死ぬことは
季節の移り変わりのように
素晴らしいのです。


魚は水のことを考えません。
インディアンは死のことを考えません。


自然は、正しい者の上にも、
悪い者の上にも同じように
甘い雨を降らせます。




「ネイティヴアメリカンの平和の祈り」


わたしたちに 平和を 教えてください

月がのぼってくるかぎり いつまでも

川の水がながれるかぎり いつまでも

空に陽がかがやくかぎり いつまでも

草原に草が生えるかぎり いつまでも

わたしたちに 平和を 教えてください

Let Us Know Peace
Let us know peace.
For as long as the moon shall rise,
For as long as the rivers shall flow,
For as long as the sun will shine,
For as long as the grass shall grow,
Let us know peace.


感じる心

2012-07-15 | KOFUKU日記


九州中部、北部の大雨で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りいたします。
また被災された皆様に深くお見舞い申し上げます。

どうかこれ以上の被害が広がりませんように。
尊い命や生きとし生けるもの全てが守られますように。
今、困難にある方の心が折れない様、支えられますように。
どうか、被害に合われた方に穏やかな日が1日も早く戻りますように。
心よりお祈り申し上げます。





《関ジャニ∞ファンの家族から贈られたエイトレンジャーカップ(*^。^*)》
《全ての人がエイトレンジャーのようなあたたかい勇者であってほしいデス》



やっと原発反対の声がTVのニュースから聞こえるようになってきました。

願わくば、汚染の広がりがない日本へと変容していく事を願いたいと思います。
デモなど行動での活動をなされる方がくれぐれもお怪我の無いようにと願います。

また、このデモが個人の抑圧された気持ちのはけ口や、
個人のお祭り騒ぎ的高揚感を得るエゴな場所とならず、
平和という安全の為の心からの美しい行動となりますように。

平和の為に行動してくださる方に深く感謝しつつ、
望むような未来が訪れる日をお祈りしたいと思います。


*******************************


今朝の南国は久しぶりに朝から陽が射しています。
北部の大雨の被害を考えると申し訳ないくらいのお天気です。
同じ九州なのに、、、複雑です。

そんな気持ちをよそに、うちのちびさんたちは朝も早くから大暴れ。
多分、想像を絶するほどの元気さで走り回ります(^_^;)
そんな我が家の今朝の犠牲者は




《毛糸さん》




《一眼レフカメラバッグの内袋さん》




《DVD-Rケースの芯さん》




《犠牲者全てを一堂に集めてドヤ顔のみーやん》
《「みーやんがぜんぶ、やっちゅけたんでちゅよ!!がんばったんでちゅ!」》


まあ、家の中でミニ新幹線が全速力で走っているとご想像ください。
そのぐらいの勢いで走り回り、気に入ったものを破壊しまくります。
もうね、兄妹ってのはすごいですね(^_^;)
みんなでやれば怖くない!って感じです。

ぴーちゃんお姉さんだけが「おバカしゃんたちね…」と言う、
あきれた冷たい目線を送っています(笑)



《あんたたちったら。やってられないでちゅわ。byぴーちゃん》


興奮モードに入ると風の谷のナウシカに出てくるオームくらい勢いが止まりません(^_^;)
ナウシカの虫笛よろしく、高い声で「HOOOOOOO~~~!」と声を出すと
わああああああ~っと走ってきますが、そのまま
「森へお帰りっ!」と言うわけにはまいりませんのです。
もう、これに毎朝付き合うのに体力入りますよ(笑)
私は賑やかで良いんですが、お家がボロボロです(-_-;)


とーたん*まろ君もいいかげん面倒見きれなくなり脱落。



《オレ、もう無理…嫁に任せて寝るじぇ…byまろ》


5時半に起きる怪獣たちは、9時半になるとおねむになって撃沈します。



《ろま君のお気に入りの場所、アンティークデスク横の隙間(笑)》


 

《いつもの寝場所を息子ふう君に奪われ、仕方なく隙間で眠るまろ君》
《大好きなコタツテーブルの足元で丸まる、みやちゃん》


こうしてやっと、ワタクシに平和な時間が訪れるのです(^-^)


そういえば、昨日今日は鹿児島市でいちばん大きい
照国神社の六月灯(ろくがつどう・縁日)です。

 

《照国神社の六月灯の様子》



鹿児島では7月に入ると、町中の神社やお寺で、
この六月灯と呼ばれる夏祭り、縁日が行われます。

ほぼ毎日、鹿児島のあっちこっちで縁日が開かれていて、
みんなスケジュール表を見ながら、自分のおうちの近くの縁日を巡るのです。

ほんと、特別にお祭りに出かけるっていうよりかは、
家族で歩いてふらっと遊びに行くって言うか、
本当に生活に密着した感じの物なのです。




《小さい神社の六月灯の様子》



先日なんですが、相方さんの心友さんのお一人とメールのやり取りをしまして。
そこで話題になったのは、特定の歌とか聞くと
こみ上げるものがあって泣きそうになっちゃうって話。

あー、あるあるって方も多いと思います。
私もそういう人の一人です。

音とか、匂いとか、色とか、形とかに、ぎゅうっとしてしまう人です。
季節の訪れなんかも、香りや風で感じるって方も多い気がします。

この六月灯もそういう物で、子どもの頃からその灯りや
お祭り特有の香りを嗅ぐと切ない気持ちになるのです。
お祭りなのにね。しかも子ども真っ盛りなのに変でしょう?
皆もいうんです、子どもだったら「わくわく」じゃないの?って。
でもね~、ものすごーい寂しい気持ちになっちゃって。

でもね、この童謡を聞いたとき、同じ感覚だなぁ、と思いました。
音源が古すぎてネット上に無かったので、
皆様にお聞かせできないのが残念ですけど。メロディもとても胸に来ます。
機会があったらぜひ聞いてみてくださいね。
こんな歌です。


「夜店のうた」伴久美子
昭和31年 西沢爽作詞 中田喜直作曲


幼いあの頃 とうさんと
ふたりで夜店に 行ったっけ
三角帽子の おじさんが
舌切雀の あめ細工 あめ細工

綿菓子 ビー玉 きんか糖
おんぶの背中で 寝たときに
うっかり逃がした 風船は
いまでも夜空に いるような いるような

はぐれて子どもが 泣いていた
ブリキのラッパを かかえてた
夜店のあかりは アセチレン
なんだかさみしい あの匂い あの匂い



私も始まる前から終わっちゃうのがさみしくなっちゃうんですよね。
賑やかなのが消えていく感じがね。物悲しくなっちゃってね~。

想えば、私は幼いころから何にしてもそうだったのです。
色や、形や、匂いや、コトバや音楽などに過敏だった気がします。

うちの父母はもともと芸術畑の人なので、当時にしたら
音楽や映画や舞台などには、他の人のお家よりも、
より触れていたのではないか?と思いますが、
そういう親なので、家の中に常に音楽や絵、映画や本などの芸術や
何かを創作するって行為やなんかがあふれてましたのデス。

親からこういう感覚が素晴らしいから、これを学べ!
とかってのは一切、言われた事がありませんが、
私が興味のあるものに関しては、それを観る為なら
学校を休んででも率先して見せてくれる、そんな親でした。

当時はDVDなんてなかったし、覚えてしまうか、
録音するくらいしか記録の方法がなかったから、
触れさせることの方が大事と思っていたのでしょうね。

なんせ、小学校の修学旅行の時、夜中の1時前に先生に起こされて、
一人テレビのある部屋に連れていかれたんですよ。
「なに?」と思っていると、眠そうな先生が、

「君のお父さんから、1時からテレビで初めて、
サウンドオブミュージックと言う映画の放送があると連絡があった。
それを必ず見せてほしいそうだ。」

と(^_^;)

良く聞くと、それは素晴らしい作品で、
これを見逃せば娘の人生の中で大きな損をする、
だから起こして必ず見せてやってほしい、
これは修学旅行と同じくらい大切です、
と父が力説したんだそうです。
で、見たんですけどね(^_^;)
面白い親なんですよ(笑)

スケッチ遠足で港で絵を描苦ことになったんですが、
お弁当を作ってくれなくて、昼に持っていくと言うんですよ。
え~と思っていたら、お昼休憩に私のところに大きな袋を抱えてやってきて、
ニコニコしながら無言でシートを敷くと、そこに袋を下して、
まだハンバーガーが珍しい頃だったんですけどね、
ハンバーガー用のパンと、レタスと玉ねぎとハンバーガーのパティ(お肉)と
ケチャップやらマヨネーズやらガンガン並べましてね(笑)
おもむろにハンバーガー作り出したんですよね(^_^;)
私に渡して、それから周りにいる子どもたちにも作って。
そんで、材料無くなったら、風の様に去って行きました(笑)

父は戦後、子どもから大人までで3人だけ選ばれて
日本とアメリカの援助で絵を学んだという人です。
苦難のある人生だったので、画家にはなりませんでしたが
非常に絵心のある人です。

彼は風景画を描くとき、紙をね、
全部薄い薄い青で塗ってしまうのですよ。
「なんで全部塗るの?」と聞くとね、
「だって俺たちも風景も全て空の中(宇宙)に立っているじゃないか」
って言うんですよねぇ。

彼曰く、
「芸術とは批評や評価をするものではない、
両腕を天に向かって広げ、自分の胸に受け止めるもの、
そしてただ抱きしめて、感じればいい」
そうですわ。

まあ、母は母で、父の日のお膳のサンマに
折り紙の蝶ネクタイつけるような人で(笑)
そういうオモロイ親に育てられたので、
余計にそういう感覚が発達したのかもしれません。


そんで、何歳くらいでしたかね。
まだ4、5歳くらいのめっちゃ小さいときですが、
映画通の父と一緒にアラン・ドロンの
「太陽がいっぱい」という映画をテレビで観ました。

アラン・ドロンなんて若い人はもう全然知らないんでしょうけど(^_^;)
お話は貧しい青年が裕福な青年を殺して、
その人になりすまそうとするってストーリーです。

で、その中でアラン・ドロンさん演じる主人公が
彼になりきるために、彼のサインを練習するシーンがあるんですよー。

いや~、もうね、ダメでしたね。それが切なくて、切なくて。
彼の気持ちが痛いほどわかって、苦しかった。
しかも、あの、音楽ですもの。そりゃあ泣いたさ(T_T)

だからアタシが生まれてから、初めて覚えた外国の作曲家は
ベートーベンでも、モーツァルトでも、バッハでもない、
映画音楽の巨匠「ニーノ・ロータ」です(笑)

おかげでいまだにこの曲を聴くとパブロフの犬みたいに泣けます(^_^;)


Plein Soleil 太陽がいっぱい



あと、シーンと共に泣いてしまうのは、コレだなぁ。
「ブラザーサン・シスタームーン」というアッシジの聖フランシスコの人生を描いた
ゼッフェレリ監督の名作ですが、この中に平和の祈りを歌うシーンがあるのです。

平和の祈りはアッシジの聖フランシスコが作ったもので、
マザーテレサの修道会の祈りにもなっています。
私自身の生き方に添うものでもあります。この様な言葉です。


わたしをあなたの平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光を
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください

慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することをわたしが求めますように 
わたしたちは与えるから受け 
ゆるすからゆるされ 
自分を捨てて死に 
永遠のいのちをいただくのですから


これをね、歌うんですけどね。
これは歌自体に泣ける、と言うよりも、そのシーンに泣けるのです。
具体的に泣くとこなんか、どこにも無いのに泣ける。
労働を手伝ったフランシスコたちが、農夫からパンを分けてもらい、
それを歌いながら、皆で一切れずつ分けるって言う、それだけのシーン。

でもねぇ、泣けるんだよ。本当に泣けるの。
アタシだけかもしれないけど(^_^;)
ああ、食べ物に対する感謝って、こういうことなんだな。
食べるって、こういう大切な事なんだな、
祈るって言うのはこういうことか、と感じるんですなぁ。
美しい祈りの姿でね、感動するのです。


St. Francis Prayer - Brother Sun, Sister Moon



この作品はドノバンの音楽と共に、映像が本当に美しいので
目の保養に(笑)ぜひ一度ご覧いただきたいなぁと思う作品です。

Donovan: Brother Sun, Sister moon




同じように母や父が映画やミュージカルや唄や本が好きだったおかげで
それらを通して美しい言葉の世界に触れました。
それらのプロであったことも大きいですね。
(若き日、父は画家や映画俳優でも船乗りでもあり・笑、
母は歌劇の女優で、幼いころから天才と呼ばれた日舞の舞い手)


特に父が日頃歌う童謡や懐メロ(うちは父が常に歌っている、つか家族全員歌うの・笑)
母の好きだった古典や少女小説なんかは、抒情的で本当に美しいと思います。
昔のものは本当にきれいだよ。言葉自体に音楽が宿っているもの。



特に母の影響は大きく、母が好きだった
美しく優しい世界は母に宿ったと同じように、
自分にも善きものを与えてくれたと思っています。


おかげさまで、ここに来るまでにほんとうにたくさんの事をして、
恵まれて自分の企画もたくさんやってきましたが、
そこで自分の中から生み出してきたものの中には、
こうした世界から感じたものが詰まっているのです。

だから、感じることは本当に大事なんだと思います。
大人になるとだんだん鈍感になって、余計なことも考える様になる。
だから余計に、かな。

今も素直に感じて、それを愛する生き方を忘れたくないなぁと思います。
そうやって感じて生きていきたいな。
こんな時代だからこそ、私はそれが大切だと思っています。

もう、好きなもの、感じるものを話すと尽きません(^_^;)
今日はこの辺にしておきます(笑)


さて、今日は最後に大好きな童謡を一つ。
春のうたですが(^_^;)
大好きな伴久美子さんのお歌で。

「花かげ」


花かげ 安田章子


作詞:大村主計
作曲:豊田義一
     


(一)
十五夜お月様 一人ぼち
桜吹雪の 花かげに
花嫁姿の お姉さま
俥にゆられて 行きました


(二)
十五夜お月様 見てたでしょう
桜吹雪の 花かげに
花嫁姿の 姉さまと
お別れ惜しんで 泣きました


(三)
十五夜お月様 一人ぼち
桜吹雪の 花かげに
遠いお里の お姉さま
私は一人に なりました



西薩摩とすもも

2012-07-10 | KOFUKU日記
またまた天気の怪しくなってきた南国です(-_-;)




《きゅうりだよ》 




《まろくんはお家で涼んでいます。外が蒸し暑いからねぇ。》


今日は長野で震度5の地震があり、心友の住む場所が
かなり揺れてたのでメールで無事確認をしたところ、
シュタイナー幼稚園で赤ちゃんを抱っこしてた時に揺れて
小さい子たちと手を繋いで、揺れが収まるのを待ったそうです。
とにかく無事でよかった。

まだまだ余震も続いているようなので、
長野北部の皆様、お気をつけてお過ごしくださいね。


さて、昨日は父が西薩摩地方に用事があるというので、くっついて行ってきました。
西薩街道は日本の三大砂丘の一つ、吹上浜から串木野方面まで続く海の道です。


 

《青い空 青い海》


こっちの海は鹿児島市内が面している錦江湾と違って、
本当に青くて、空気が綺麗で、とってもきれいな海です。
この海は南薩方面から、吹上浜、串木野、そしてこしき島や長崎などに続いていますが
私は太平洋より、こちら側の東シナ海の海が好きです。

ここには江口蓬莱館と言う、漁業組合さんがやっている物産館があります。
漁業組合だけあって、お魚が豊富ですが、
市内の物産館より、ずっと田舎に在りますので、
お野菜のお値段などが、格別に安いのです。
しかも、朝のもぎたてが並びます。

お菓子やお餅、郷土菓子なども全部作り立てです。



《焼きたての鹿児島の名物まるぼーろと焼き菓子》

お餅はつきたて、蒸し菓子も作りたてでホッカホカです。
一口カステラを買いましたが、とっても美味しかったです。

せめて車で30分なら通うなぁ。
でも、一時間ちょっとくらいかかってしまいますので、
こうしてたまに行くだけなんですが、今度はお魚のすり身を買いたいな。
やっぱりさつま揚げは、家で揚げたてが一番おいしいから。


10種ほど取れたての野菜をたくさん買ったのですが(それでも1000円行かず!)
もぎたてのすももが美味しそうだったので買いました。

朝採れのすもも1キロ120円。



今日はこのスモモで、すももジュースとすももジャムを作りました。
夏は暑いので、台所仕事は何かと大変ですが、
旬の物を使って作るのは気持ちよく楽しいものです。




《スモモを砂糖液で弱火で煮てシロップを作ります》

シロップを取った後の柔らかく茹で上がったスモモに
砂糖を足して、弱火で煮込んでジャムを作ります。




《すももジュース、できました》




《すももジャムも完成》



なんてきれいな色なんだろうか。

明日、ヨーグルトにかけてたべようかな~。
楽しみ(^^)