KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

音の聞こえない世界に

2015-09-08 | KOFUKU日記


《我が家の長女姫ぴぃちゃん。14歳と7ヶ月になりました》


ぴぃちゃんは14歳半、人間で言えば77歳くらいです。
2年位前から少しずつ白内障が出てきて、1年位前から少しずつ耳が遠くなりはじめ、
あれだけ敏感だったぴーちゃんが雷にも全く気づかなくなりました。
今年の春くらいから、少しずつ今まで飛び越えられた場所が飛び越えられなくなりました。
おなかを壊すと治るのに時間がかかったり、走れなくなったり。
少しずつ、少しずつおばあちゃんになってきました。

それでも、ぴぃちゃんは毎日、しっかりご飯を食べてくれるし、
お散歩にも行きたがるし、年齢の割にはしっかりしています。

でも金曜の夜、突然、眠っていたのに飛び起きて
頭を振り、耳を掻き出しました。
声をかけると、あれ?どうやら聞こえていないようです。

一晩様子を見て、朝も同じようだったので病院に連れて行くと
お耳の方はもともと弱いので、外耳炎がひどくなってしまったとの事でした。
お薬を入れてもらうと、すぐにかゆみは治まった様子で一安心。

ただ、音への反応がやはり殆どありません。
ぴーちゃんはずっと強めのお薬も飲んでいるので、それで難聴になることもあるらしく…。
とにかく先に外耳炎を治してから、お耳を見てもらうことにしました。
外耳炎が長く続くと、耳垢た分泌物で鼓膜がふさがり、音が聞こえなくなることもあるんだそうです。
耳垢を取り除いたりすると聴覚がすこし戻ることもあるそうで…。

でもぴぃちゃんは過敏だし、高齢なので麻酔もできないから、
外耳炎の治療が済んだら耳の洗浄を定期的にしてお耳の中を綺麗にすることになりました。
少しでも音が戻ると良いけどなぁ。

相当、聞こえにくくはなっていたものの、その直前までは反応もあったので
寝ている間に音をつかさどる部分に加齢による何か変化があったのかもしれません。
外耳炎で痒かった痛かったというより、そういう違和感で頭を振ってた感じがしています。

そうか、もうぴぃちゃんにはあたしの声が聞こえないんだ…。
声を聞いて、お返事をしてくれることは無いんだ。
そう思ったら、もう…。

ぴーちゃんは初めて会ったときから聡い子で、言葉を本当に深く理解しました。
お医者さんがこの子はフレーズで理解できる、凄いねーと言うくらいでした。
そんな風に会話ができるし、なんにしても音にも気配にも過敏で、反応していました。
過敏すぎて病気になったくらいだから…。
そんな彼女がもう音がわからない。

たとえば親が老いていくのは、寂しく悲しいけど、普通に考えれば当たり前だから、どこか受け止める心が持てるけれど、ぴぃちゃんたちの様に自分より幼かった子が、自分よりずっと老いて行く姿を見るのは正直辛いです。
とてもとても悲しいし、寂しいです。
できることなら、代わりたい。本気でそう思います。

だから、耳が全く聞こえていない、と気づいたとき、悲しかった。
これまでも、ぴーちゃんの老いを感じるたびに、いつも寂しく悲しく不安になりました。
だから、ぴぃちゃんの音がない世界を想像すると、とても悲しい気持ちになりました。

ところが当の本人は、少しずつ音がなくなっていった経緯があるからか、今も気にしていない様子です。
声をかけても解らないから、そういう声には反応しないけど、だからって特に怯えたりすることも無く、いろんな振動や、私が触れることや、こちらの様子を見ながら、いつものように反応してくれます。
何かあれば、自分から吼えて教えてくれます。
おかげで本当は私の方が支えてあげないといけないのだろうけど、そんなぴーちゃんの様子に私がとっても救われています。
どこまでも私は彼らに支えられているんだなぁ。


つい一月くらい前のこと、いろんなことが一気に起こって、もうこの子達を連れて向こうに行ってしまうしか方法はないのかな、と本気で考えたことがありました。
本当にそうしようとと決意したその日、いま一ヶ月目を迎えたちびにゃんたちが思いがけず産まれたのです。
親もまだ幼いし、妊娠もハッキリわからないくらいやせていたから、赤ちゃんも小さくて、お乳も吸えず、必死に代用ミルクを作ってお世話をしました。
ふと、必死に生かそうとしている自分に気づき、なんだか笑えてしまったのです。
おかげで吹っ切れて、今は自分よりこの命を守らなくては、と思えたのでした。
そんな風に、私は本当に辛くてしんどいとき、いつも無垢な魂たちが助けてくれました。

そのすぐ後に、こちらの古い大好きな友人と話す機会があって、そのことをポロリと伝えると、「犬や猫たち動物は、環境がどんなに辛くても、どんなに身体がしんどくても、自分から死んでいい、という事にはなっていない。だから、最後まで必死に治そうとするし、生きようとする」という様な話をしてくれました。

ああ、そうだなぁ。そう思いました。
耳が聞こえなくなったと言う、ぴぃちゃんに起きている現実に、とてつもなく切ない気持ちになっていましたが、その言葉を思い出したのです。

そうだ、ぴーちゃんはこんなに必死に生きている。
生きている、というだけで、この事実を否定することも無くまっすぐに受け止めている。
ぴーちゃんの魂は、理由なんか探ることも何もせず、与えられた命を生きる責任をきちんと果そうとしている。
そんなぴぃちゃんを私が受け止めずに誰が受け止めるんだ。
そんな気持ちが湧き上がりました。

今は目もずいぶん悪いけど、それでも目が合えばじっと見返してくれるし、声をかけながらなでれば尻尾を振って喜んでくれるし、ぺろぺろ舐めてくれます。
大好き?や大丈夫?の印のハンドサインの指を立てると、今までと同じように、返事の変わりに舐めてくれます。
でも多分、もっと老いが進めば、目も見えなくなり、鼻も利かなくなってしまうのでしょう。

でも、ぴぃちゃんには私がいる。
きっと感触は解るはず。振動もわかるはず。
だったら今よりももっともっと触れて、抱きしめて、手助けすればいいのだ。
そうすれば、ぴぃちゃんは寂しくないし、怖くない。
今度こそ、私が支えになる番が来たのだ、今そう強く感じています。



これからも、ぴーちゃんの体調が元気な限り、おじいちゃんに頼んで、自然の中に連れて行ってあげようと思います。
まだ目が見えているうちに、いろんなものをたくさん見て、匂いをかいで、楽しんで欲しい。

いま、ぴーちゃんは音の聞こえない世界にいるけど、聞こえないだけで、音を感じることは出来る。
今度は一つ進んで、身体とそして魂で直に音を感じる世界へ入っていったんだと思っています。

相方さんがまだ元気だったころ、よくおでことおでこをくっつけてじーっとしていました。
何してんの?というと、「テレパシーで話してる」と(笑)
その姿を思い出します。
これからは私もテレパシーで話そう(笑)


あまりにも私の人生が安定せず波乱万丈だから、一緒に時を過ごす小さな方たちには迷惑をかけてしまいますが、どうかどうか、彼らが守られますように。
彼らの命と生活だけは守られますように。

そして、ぴーちゃんがこれからも毎日楽しく過ごせますように。
心から祈りつつ、彼女と小さい方々と歩いて行きます。

ぴぃちゃん、これまでおねえちゃんのお話をたくさん聞いてくれてありがとう。
今もおねえちゃんの声、ぴーちゃんの心の中にちゃんと響いているかな?

これからもたくさんたくさんお話しようね。
こんどは心の声でね。




ごはん作り

2015-09-01 | KOFUKU日記


《オムライスにズッキーニとナスの手作りミートソースをかけて》



ご飯を作る。

お米をといで、あるいはパスタをゆでて、また時にはパンを焼く日もあるかもしれない。
野菜を刻んで、お肉を焼いて、お味噌汁やスープを作って。

ご飯つくりは、そんな、当たり前で、ささやかな日常のカケラ。



《ズッキーニフライは夏の味》


私は食べるのが好き。
美味しいものは美味しいと感じる。
それが幸せでもあることは確か。

でも、それ以上に大好きな人たちが、美味しく食べているのを見ているのが好き。
それが本当に幸せで、もし、その為だったら、私は本当に何も食べなくていい。
心底からそうおもうし、きっとそうするだろうな。

思えば私がご飯の用意をするようになったのは7歳くらいのころからです。
9歳の時には、もう全員のご飯を作ってました。

そのせいなのか、自分だけがこれを食べたいから、あれを作ろう!と思うことは人生で一度も無かった気がします。
同じように自分が食べたいというよりは、誰かが食べたいものを、できれば一緒に食べたかった。

別にそれを良いとも悪いとも思っていないんです。
私にはそれが当たり前で普通の感覚だっただけで。

私はいつも、誰かを思ってご飯を作るのが当たり前だと思っていたし、誰かが食べたいものを作ったり買ったりできることが、本当に幸せだったんです。

それをハッキリ知ったのは13年も前のこと。
ソウルメイトの鎧ちゃんが亡くなった後のこと。



《夏越の祓えで作った水無月》


もともと私は毎日ご飯を作る人。
ただ、その頃はもう本当に忙しくて、以前のように毎日食事を作れなくなっていました。
個人事務所とエンタメカフェの二束のわらじを履いて、あっちこっちと飛び回っていたから外食も多かったし、大体はお店の残り物を食べていたなぁ。
それでも毎日、仕込みを買出しから手伝ったりしてたから、お料理と無縁な訳じゃなかったけど。

鎧ちゃんが亡くなってから一ヶ月はカフェをやっていたので、よく分からなかったんです。
店を閉めたその後のこと。

一人になってから、ご飯を作る気も、食べる気もしなくなりました。
悲しいから、辛いからだよ、そうなるよ、と人はいったけど。
でもそれは自分の中でなんとなく違っていて…。

自分のものを作る気には全くならなかったけれど、ぴーちゃんの為には毎日ご飯を作ることができたんです。
それは本当に全然苦じゃなかった。

そんな日をしばらく過ごしてふと感じたのです。

ああ、そうか、
そうなんだ。
あたしの美味しいの一番根っこは、自分が口に入れることじゃないんだ。
自分が美味しい、と思うことだけではダメなんだ。

食べる気がしなかったのは、一緒に食べる人が居なくなったから。
作る気がしないのも、自分が食べさせたい人が居なくなったから。

そう解かりました。

たぶん、私の場合、食べるだけじゃなく、作ることも、演じることも、多分、生きることの全ての根っこが同じなんだと思う。

「そこにそれを捧げたい誰かがいるから。」

そして、それが自分の幸せ。
原動力なんだろうなってつくづく思っています。


だから、ソウルメイトが亡くなった時、私は海外に行く予定だったけれど、思いがけず、忘れ形見のぴーちゃんを引き取ることになり、引き取ると決めた瞬間から、海外行きは私の中から無くなっていました。

何より、ぴーちゃんを引き取れば、私のやりたいことの多くはできなくなってしまうものだったから。
人に話すと、え?それでやめたの?とか、もったいない、とか言われたけど、私はぴーちゃんと生きることの方が全然大事だったのです。

私を必要としてくれる人が居て、その為に生きるということは、多分、私の魂がやりたいことの全ての根本にあることだったからに違いないと、今も感じています。

ぴーちゃんが居て、ぴーちゃんの為にご飯を作り、ぴーちゃんのために生きることで生かされていたなと思います。
そして相方さんとご縁があり、共に暮らし、共に仕事をし、共に生きて、お別れをしました。

そして6年前、相方さんが亡くなった時、全く同じ状態になり、ああまたあの感覚を繰り返すのか、と思いました。

やっぱりその時もぴーちゃんと次女のピピちゃんが居てくれたから、生かされていたなと思います。



《良く作ったおやつの一つ サーターアンダギー》


そしてもう一人、そのころから身近な人が居ました。
彼女は今は実家のシェアメイトさんとして暮らしていて、現在も自分にとって一番身近な人です。

彼女が一人暮らしをするようになってスグ、本当にご近所さんだったこともあり、よく食事をシェアしていました。
そんな中で相方さんが病気になり、天国に行き、一人になったときも、やっぱりそれは続いていました。
彼女があまりそういう事に几帳面でなかったことも、私にそういうチャンスをくれた気がします。

ぴーちゃんやピピちゃんは毎日大体同じようなものを食べるので、そんなに考えることはありませんが、なんせ彼女は人間で、しかも食べるのが好きでしたから、誰かにご飯を作ることのなくなった私はとても嬉しくて、多分、わずかな食費の殆どをちびたちと彼女の食べたいものをそろえるのに使っていた気がします(笑)

それほどに食べてくれる人が居るということは私にとって喜びであり、あのころの私には本当に救いだったのです。



《一周忌にお供えしたお膳 母の好んだ中華丼やぜんざいなど》


この夏、母の一周忌と初盆を殆ど同時に迎えました。
家族は忙しいし、遠方に居るので、誰も来ることができず、一人で供養をしました。

母と相方さんとソウルメイト、そしてご先祖様たち。
一人で迎え火を焚いて、お迎えをして、その夜から4日間、毎日毎日、ご飯を作りました。
うろ覚えの郷土のお盆料理をネットで調べなおしたり、故人が好きだったものを作っては、小さな器に入れて祭壇に並べました。



《迎え火 あたたかな光でした》


実はわたしは相方さんやソウルメイトの自宅供養やお墓参りが好きではありませんでした。
もちろん、きちんと祭壇を作ってはいましたが…。
供養となると本当にどうしようもない気持ちになってしまって…。

二人は本当に、本当に突然に逝ってしまったから。
どうしたって、死んでしまったんだ、っていう風には思えないままでした。

正直、今もそんな気持ちです。
前を向いていないとか、何とかじゃなく、それがどうしても腑に落ちないままなのです。

ですが、母は違いました。
死んでしまうんだ、と思って、長い間看病していました。
だから、死んでしまったとき、ああ、死んでしまったんだな、と思えたんです。

その感覚の違いか、それから毎日、祭壇の花を替え、明かりやお香をささげ、飲み物をお供えして、ということが日課です。
写真に語りかけながら、朝の作業をするのが、毎日の当たり前になりました。
しっくりは着ていないものの、そこにパートナーたちの位牌も並べて、おはよう、というようになりました。

そのせいか、母はお盆に帰ってくるという表現がしっくりきました。
それに便乗して、皆もお迎えしよう、と思って準備をしました。

ありがたいことに兄弟たちが貧しい自分を心配して、自分たちも大変なのに、いろいろと小さなお道具やお供えの品をそろえてくれました。
とても嬉しかったです。









《お盆にお供えさせていただいたご飯たち》


毎日、毎日、ご飯を作る日々。
あの日々が帰ってきたように、私はとても嬉しかった。
相手は見えなかったけど、そこに居ることを感じながらご飯を作る。
あの人の好きな食べ物を、この人の好きな飲み物を、と用意する幸せ。

私は普段はあまり泣かないけれど、送り火を焚きながら、自分でびっくりするほど涙が出ました。
庭で一人で火を焚きながら、そうか、もうご飯作らないんだ、と思ったら泣けて泣けて。
あんなにさめざめと泣くとは自分でも思いませんでした。
お盆が一生終わらなきゃ良いのになぁ、とどれだけ思ったか。
みんなが亡くなってから、こんなにも寂しいのは初めてでした。

ご飯を作ることってささやかなことかもしれない。
でも、本当に私みたいな小さなものが誰かにしてあげられることって言ったら、ご飯を作るくらいだから。
それがなくなってしまうって、本当に寂しいことなのです。


そして、昨日、また一つ、その寂しい経験をしました。

私は実家に犬猫ちゃんたちと荷物を預けていますが、極度の犬猫との離れ不安症があるため、殆どの時間を実家に寄せてもらって過ごしています。
それで、そこに居る人のご飯をこの5年の間、作らせて貰っていました。

中でもシェアメイトさんには必ずと言って良いほどご飯を作らせて貰っていたんです。
それは日課というより、すでに体の中のサイクルの一部になっていました。

よく福ちゃんはテレビとか民放とか見るの?とか、食べ物もオーガニックなんでしょ?とか言われるんですが…。
自慢にもなりませんが、ワタクシ、全く持って自分自身は無頓着です(^^;)
ジャンクフードだって、なんだって食べるし。

もともとめちゃくちゃ偏食なんです。
子ども時代は麺類とパンと練り物系だけで生きてました。
って言うか、それ以外を受け付けなかったんです。

お肉もお魚も調理したて出ないと少しでも冷えたら味とにおいがダメで口にできなくなってしまうし、生野菜は本当に好きじゃありません。
ほっといたら半年食べません。

おかげさまで人様と関わる仕事でしたし、いつも誰かと暮らしていて一緒にご飯を食べていましたから、嫌でも美味しく食べることを自分に課して、とりあえずは何でも食べる事はできるようになりました。
自分が役者という仕事や、その裏を支える仕事をしてなくて、人様と触れ合わない仕事だったら、もう絶対好んでは食べてないでしょうね。

だから、人にご飯を作るって事は、自分にとっても祝福だったんだと思うんです。
いろんなもの、美味しく食べられるチャンスを貰いました。

それに私にはパートナーも人間の子どもも居ないので、そんな独り者の私が、足掛け6年、一年生が中学生になるくらいの長い時間を、お弁当をこさえたり、ご飯を作ったり、おやつを作ったりさせてもらえて、本当に恵まれていたなぁ、と思います。

シェアメイトさんにご飯を作るというのはまさに、子どもにご飯を作る、そういう感じでした。
多分一人だったら、カモミールやミントみたいなお茶にできるものしか作らなかったろうけど、彼女はイタリアンやスイーツが好きだから、彼女が居たからバジルやローズマリーを庭で育て、彼女が食べてくれるからジャムを煮て、彼女が食べてくれるからお菓子を焼いてました。
買い物に行っても、彼女にあれを食べさせてあげよう、あれを作ってあげようと思って食材を買ってました。


《いつも喜んで食べてくださったバナナブレッド》


ただ、病があるので、以前のように自由にはアレコレできなくて、本当に限られたレパートリーの中からしか作ることができなかったのが、ずっと残念でなりませんでした。
もう少し、前の自分だったら、もっといろんなものが食べさせてあげられたのになぁ、とおもっていましたが。


《一番食卓にのぼったのは彼女の大好きなパスタ》


人に話すと「は?他人に6年も?嘘でしょ?」とか「よく続くね、家族にも無理だよ」と言われますが、私には一つも苦ではありませんでした。
それどころか、いまや働くことすらできない自分には、おおきな楽しみですらありました。

何より、亡くなった人を思えば、すべてが不安と寂しさの中にあり、何を見ても思い出すので、何を見てもしんどかった。
どうやったら後追いできるだろう、と思うような日々だったから、そんな中で、ご飯を食べてくれる人が居る、しかも人間で!というのは、私にとって大きな救いでした。
ただただ人にご飯作れるって良いな、やっぱり楽しいな、幸せだな、と思っていました。
本当に感謝ばかりが溢れるご飯つくりの時間でした。

そんな幸せな恵まれた日々が続いていたのですが、いろいろな条件が重なって、今月からご飯つくりを休止することになったのです。

まあ、いつか終わるとは思っていましたが、寂しいものですね。
言い知れぬ寂しさが胸のうちにありますが、どうも言い表すことができません。

最後のご飯はこの日のことを考えて数日前から準備していたミートソースのパスタ。
そして、大好物だって言おうと思います!と言ってくれたクリーミーマッシュポテト、ローズマリー風味を作ろうと決めていました。
本当に、本当に、これを食べて喜んでくれたのが嬉しかったから。

写メさせてもらおうかとも思ったけどやめました。
この期に及んでだったけど、きっと最後にしたくなかったんですね、自分(^^;)

本当はやめなくてもいいんですけどね。
ずっと作ってあげたいんですけどね。
正直、できればそうしたかったんですけどね。
未練がましいんですけど。ははは。


だけど、こういうながれにしたのには理由があります。
もちろん彼女のことも考えました。彼女自身、完全なる自立を目指している立派な大人ですから。
そこを邪魔する様な行為はするべきではありませんから。
手助けはほどほどでないと邪魔になりますからね。

それも大きいけど、結局は自分のためなんですなぁ、これは。
誰のためでもなく。

簡単に言えば、これから一人で老いを迎えながら暮らしていく準備をしなくてはいけない、と真剣に思ったからです。

多分、聞く人が聞けば、何言ってるの!といわれるかもしれないんですけど。
枯れていくとかそういうのでもないんですけどね。
ただ真面目にそう思うんですよ。

一人でご飯をつくり、一人でご飯を食べる。
今でもそうであることには変わらないのだけど。
私にはもう作る人は居ないのだ、つまり「独りで生きていくんだ」ということを身に染ませていこう、と思ったからです。

こういう流れになったとき、そうか、この流れは彼女の存在に、ちびたちの存在に甘えていてはいけない、と言うことなんだなって思ったんです。

彼女にしても、チビさんたちにしても、私の前には、絶対的に別れが待っていて、以前と違って、それを一緒に見送ってくれる人、悲しみや辛さを支えてくれる人はもう居ないのですから。
それに独りで耐えうる人間にならなくっちゃいかんのです。どうしたって。

それを、あのお盆の日、本当に実感したっていうのかな…。
依存する心をシフトチェンジしていかなくちゃ、と。

私はもう十分なくらい祝福と喜びを貰ったから、今度はそれを力に孤独を生きる準備をしていかねばいけないんだ、とそう自然と思ったんです。
その上で、その貰った祝福を増幅して他の人にも渡していけるようになりたいなーって。
だから、寂しいけど、ご飯つくりは無理やりに卒業なんです(^^;)

とはいえ、きっと、これからも、何か作ってはおすそ分けしちゃうと思うんですけどね(笑)
まあ、それがアタシの性分だから仕方ないかなとは思うんですけど。
そこは否定せず、ありのままに対処したいと思います。

とりあえず、これからはチビさんたちの為とおなじように自分の為にもご飯作ること、それをした上でおすそ分けできるご飯つくりにシフトチェンジです。

同じ誰かの為に作るのでも、特定の誰かに依存するのではなく、その行為に安らぎを求めるのでなく、誰のためにでも作れる人に。
将来はおすそ分けおばあちゃんになりたいと思っています(^^)



ちびたち、ソウルメイト、相方さん、シェアメイトちゃん、これまでご飯を作らせてもらえて本当に幸せでした。
私を支えてくれて、生かしてくれて、本当にありがとうございました。
心より感謝を申し上げます。


さて、これから、どうしよう…。
ちゃんと作るように独りご飯日記でもつけるかなぁ…。

はぁ、
なんにしても
さみしいわ…(^^;)