秋風に 母の声がある
秋のひざしの中に 母の目がある
秋に雨に 母のつぶやきがある
秋の窓に 母の影がある
わたしは
秋の中に 母の姿を描く
(サトウ・ハチロー)
〈この子らのおかげで安らぎがあります〉
九月になりましたね。秋のはじまりです。
今日は母が亡くなってはじめての月命日。
朝おきてロウソクを灯し、お香をあげて、お茶を入れました。
庭に咲く紫色の一日草を自然から分けてもらって生けました。
母が亡くなった時、うまく言えませんが、家族もいたせいなのか、
やる事がいっぱいあったせいなのか、別れの時間があったからなのか、
それは全くわからないけれど、私に涙はありませんでした。
母の体がもう苦しくないだろうということがホッとしたのと
ああ、やっぱり母も逝ってしまったんだなぁ、ただただ思ったのでした。
母と私は、母と私にしかわからない絆というものがあったと思うのです。
私の中で母は私が心繋がった人としか持てなかった大事なものを
最初から全部兼ね備えていて、それを与えてくれた人でした。
そして、その「大事なモノ」を持っている、この世に生きている最後の人でした。
一日、二日と経って行き、私はほとんど気がついていなかったけれど、
母の穏やかな死はそれと同じように緩やかに私の中にたしかに存在して
いつしか私を少しずつ削っているような、なんというかそんな感じです。+
生きる希望がなくなったとか、何もしたくなくなったとかではなくて、
気持ちは本当にあるのですが、ただ気持ちと裏腹に動かせないのです。
気づいたらなんだか体調が悪くなっていて、フラフラと倒れ込んでしまったり、
寝込んでしまったり、視力もびっくりするほど落ちてしまって、
気力も上げることがなかなか難しく、何もできない日々でした。
とても早い時期にお世話になった人々への贈り物も用意したりしたのに、
まだひとつも送れていない、そんな風な調子です。
未だにそんな調子なので、まだ全然なのですが、
この月命日を一つの区切りにして、少しずつお送りできたらなぁと思っています。
お届けものをさせていただきたいとお知らせした皆様にはお待たせして申し訳ございません。
どうかどうか、失礼をお許し頂き、気長にお待ち頂けたら嬉しく存じます<(_ _)>
今はまだ母という存在の大きさに胸奪われ、しみじみと感謝を想う日々です。
ただ不思議なことに、母が身罷ってからというもの、
まるで母が宿ってくれたかのように、以前にもまして
小さい家族たち(動物たち)や自然を愛おしく思ったり
母の好きなものを食べたくなったり、着物を着たくなったり、
無性に手仕事したくなったりしてしまうのですよ。
私の魂はいま、母へのオマージュのようにそれをすることを求めているのかな、と。
そういう思いが湧いた時にはそれが供養になると思って、その感情に身を任せています。
私は死に対して時間がかかるのです。
ひとりひとりに対して、そんなに簡単に向き合っていないから。
自分の身を削られたからには、肉が盛り上がるまでにとても時間がかかるのです。
今度はどのくらいかかるのだろうな。この新しい出来事が肉になるまでに。
いや、いまだ前のものがかさぶたになりかけているところだから、これはこれからだしまだまだかな。
でも出来ることはただ一つ。それを生きるしかないから、それだけかな。
特に今は出来ることを、したいことを、できるだけして。
そしてその気力を持ってやることを一つずつやっていくしかない。
そうおもっています。
何にしても、はやく皆さんと連絡取れるように元気になりたいです。
そして、この生命の巡りを大切に生きてゆきたい。
〈家族がいるって、家があるって、いいよね〉
子供たちよ。
これは譲り葉の木です。
この譲り葉は
新しい葉が出来ると
入り代わつてふるい葉が落ちてしまふのです。
こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちを譲つてー 。
子供たちよ
お前たちは何を欲しがらないでも
凡てのものがお前達に譲られるのです。
太陽の廻るかぎり
譲られるものは絶えません。
輝ける大都会も
そつくりお前たちが譲り受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれどー 。
世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持つてゆかない。
みんなお前たちに譲つてゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造つてゐます。
今、お前たちは気が附かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑ってゐる間に
気が附いてきます。
そしたら子供たちよ。
もう一度譲り葉の木の下に立って
譲り葉を見るときが来るでせう。