KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

続いていく喜び

2009-05-27 | KOFUKU日記
先日、お友達からシルクのブラウスのお直しの手仕事を頂戴しました。
その時、お友達になった方がぬいぐるみのパンヤ(綿)を詰めなおして欲しいとおっしゃられ、やらせていただくことにしたのです。

その方はとても優しげな女性で、18歳の息子さんがいらっしゃるお母さん。
手仕事をお受けした時のお話では、ご結婚前のOLさんの時代からお持ちのぬいぐるみで、とても思いいれのあるお品なのだそうです。
中の詰め物がくたくたになって可哀想だけれど、手仕事が苦手なので自分で直せず、そういうお仕事をしてくれるところを探したけれど見つからなかったのだとか。

私は特に「手仕事って苦手だな」とか「忙しくてそういう時間が取れない、でも必要なんだけど、どうしよう」「手仕事の作品は欲しいけれどとても高くて」って方の為に、出来るだけお手軽な価格でお届けできるように手仕事の作品を作ったり、なにかその気持ちのお手伝いをしたいと思って、ショップやお教室を始めたので、そのお話を聞いて、コレはお役に立てるかもと思い、素人仕事でも良いならぜひともやらせてください、と引き受けさせていただいたのでした。

そのぬいぐるみちゃんが今朝届きました。
大きなぬいぐるみちゃんは時代を経て、表面の布地も中身もへたっているけれど、大事にされてきたのが良く解るのです。

わたしの母や下の妹は、私と同じくお人形が大好きです。
実家が古美術商を営んでいるので、時に古い時代のお人形がやってくることがあります。
その足がもげたり、手がもげたりしているお人形見つけると、可哀想にねえ、痛かったねえと大事に修復して、足を付けてあげたり、手をつけたり、かけた顔を直したり、古い着物地を出してきては、ちくちくと新しい着物を縫って着せるのでした。

妹にいたっては、PCを自由に操り、果てはゲームのプログラムカスタムまでこなす超現代的な人でありながら、なんと言うか、コレはもう家系なんでしょうね、自然の世界と、超自然の世界を軽く越えている人なんです。
うん、なんていうか、受け入れる範囲広すぎの人(笑)
なので実世界の常識ボーダーを越えた力を時々放つわけです(^^;)
で、この妹はお人形とお話が出来ます。表情もくるくる変るんだそうです。
普通ね、チャッキーとかね、怖いのを想像しちゃいますでしょ?
でも、これ、うちでは日常です(^^;)

「あー、お人形の何ちゃんが笑ってる~、嬉しそう~♪」
みたいな~(笑)

類にもれず、私も遺言に「お人形は生きています。燃やさないで・棄てないで」と書いているくらいお人形をこよなく愛しているので、その辺の感覚がわかります。
(あ、みなさん、ひかないで~)
確かに今朝到着したぬいぐるみちゃんは「笑って」るんです。
とても愛されてきて、そしてまた愛される為にお直しされるのが嬉しいんじゃないかなーって感じました。
私は縫い物のプロでもないし、好きなだけで全然お上手じゃないかもしれません。
だけど、丁寧に心を込めてお直しさせていただこうと思います。

今朝も先に頂いたシルクのブラウスをちくちくしながら、相方さんに「こういう仕事ってなんて幸せなんだろうね」と話しましたら、縫うのを見ながら相方さんも「うん、そうだね」と言ってくれました。
普段あまり会話をしない二人なんですが、お互いに手仕事や古いものを大事にしているので、その一言でいいたいことの中身が伝わって、同じ思いを持ってくれたんだと思います。

「こういう仕事が幸せ」と感じる理由には、モノにも人にも時代にも何にでも必ず「ドラマ」がその中に存在すると思うからです。
特にこうして「お直し」をしてでも使いたいと思われるものは、大事に大事にされてきた道のりがあります。
そのものが「愛」の存在です。
そうやって愛されてきたものを、また次ぎの時間に送り出す為に、わたしの手を通してお仕事させてもらえるのは本当に嬉しいし、ありがたさがこみ上げてくるのです。

私と夢の街のスタッフ3人で活動中の「夢の街手しごと工房」
この夢の街の手仕事工房は夢の街のテーマである「スロウ(ゆったりと)でメロウ(まろやかな)な生き方」をテーマに、ドラマある作品作りにいそしんでいる手仕事の創作ユニットです。
ここには二つのブランドがあります。

一つは「teatro du trodel」てあとろ・どぅ・とろーでると言う天然素材とアンティークのリメイクを中心としたウッドクラフトと手仕事雑貨のブランド。
このブランド名には「懐かしいもの達の劇場」って意味があるんです。
私たちの本職は俳優です。劇場にはたくさんのドラマがあります。
それを劇場と言う空間から、新たな心のドラマとして皆様に送り出すのが仕事です。
同じように素材にも商品にも、もともとそれぞれのドラマがある。
新しいものも、古いものも、そのドラマと共に受け取って、私たちの心と手を通して大事に作品に仕上げ、また新たなドラマとしてお届けしたいな、と思って出来たのがこのブランドなんです。

もう一つはナチュラル育児&シュタイナー的クラフトの「Ma_allow」まーろぅというブランドです。
こちらはシュタイナー教育などで愛されている、手作りのおもちゃや雑貨や教育グッズをご紹介しています。
まーろぅは夢の街のテーマの一つ「Mellow」まろやかな、ってコトバの意味と読みを合体した造語です。
共働きやいろいろな事情があって、やりたくても自分ではなかなか手仕事出来ないお母さん。
どうしても手仕事は苦手で手が出ない、けれど子どもにはそういうものを与えたいお母さん。
子どもに買ってあげたいけどシュタイナー雑貨は高くて買えないってお母さん。
心と身体に優しいものが大好きな誰かの為に作ったブランドです。

どちらのブランドも「愛」から生まれました。
生まれた一つ一つの作品が、お預かりしたお直しもののように、形を変えたり、思い出の品となって愛されて、次ぎの時代にも愛され続けてもらえると嬉しいものです(^^)

もうすぐ優しい雨の季節になります。
しばらくお休みしていた夢の街は、そんな手仕事や物思いにふけるのにぴったりな季節に少しずつ活動をはじめます。
まずはみんなで作品作りにいそしんでいるところ。
いろんな企画も準備中。
新しい活動場所やいろんなお知らせはもう少ししたらお伝えできると思います(^^)

この夢の街のアート&クラフトの活動は原宿・夢の街が存在して、そして集ってくださった皆様が在って、今があるのです。
オフィス夢の街の演劇芸術活動も教育活動も音楽活動も慈善活動もみんなみんな、皆様が続く喜びを作ってくださったのです。

大きなお金を投資してあのステキな場所を作ってくださった元オーナー様、
あの場所を快く提供してくださった優しい大家さま、
そして本当に夜も昼もなく、命を削りながら、あの場所をたった一人で創ってくださった米澤さん、
そしてその米さんを大きな心で助け、支えてくれたスーパー助っ人まんおさん、
そして大きな才能と溢れる愛で支えてくださったカンナちゃん、
そしてスタッフとして支えてくださったまいまいやひのさん、こっしーにちょっぴーに光の神様・大場さん、
クラスにご協力くださった全ての素晴らしい先生方。
何よりもあの場所に集ってくださった大きな人にちいさな人たち、

わたしは今日も皆様費下り一人に深い感謝を持ち続けています。
本当に本当にありがとう御座います。心から感謝しています。

そして皆様に支えられて、夢の街は私たちがこの夢の街を出ない限り、これからもずっと続いていくのです。
そしてもうすぐ、またどこかで皆様の笑顔にまたお会いできる日が近いことが、今はとても嬉しいです。
今年も楽しい夏がやって来そうです。

それまでは目の前にある「心ある暮らし」と言うステキなお仕事に一生懸命携わって行きたいと思います。


世界の中にいる私

2009-05-27 | KOFUKU日記
さて皆さんはネットサーフィン(?)なるものをします??

私はPCの前に座っている事は長いのですが、基本的にニュースをみたり、調べ物意外では個人のサイトを覗く事は殆どありません。
お友達のサイトも遊びにいくのは用事があるときだけです。
正直言うと興味本位だけで、人のサイトを覗いていく行為が好きではないのです。
ただ昨年からミクシーとやらに参加して、お友達が出来たので、その方たちの日記が更新されるとお知らせが来るようになったので、親しい方の日記やブログは読ませて頂くようになりました。

私はあまり社交的ではないので僅かな数のお友達サイトさんしかないんですけど、書いてある事を読んでいるとその僅かな親しい方々だけでも、たくさんの考え方や感じ方に出会います。
一つ一つ読ませて頂きながら、自分にはなかったりする感覚を楽しませてもらったり、学ばせてもらったりしています。

大体は「日記」なので皆さんは日々の経験や思ったことなどを「なになにがこうだった」と言う風にご自身の経験中心にかかれております。
そんな日記群のなかで唯一「これこれをするとこうなります」と教え的文章が書いてあるのが昨日も書いた仲良しの祐美haha様のブログ。
祐美hahaさまはカウンセラーでいらっしゃって、魂の導きのお仕事をしていらっしゃるので、私はメールマガジンと共に楽しみに読ませて頂いています。
祐美haha様のブログをはじめ、皆様の書かれる文章は全て、わたしの人生における大切な「気付きの書」なのであります。(まぢです)

と、言う訳で、皆さんは人様の文章を読んだり、他の方を見てて「アレ?アタシってば他の人とズレてる??」と思うことってありません?
私、毎日なんですよね(^^;)
確かに「不思議人」(すでに不思議ちゃんではないらしい・^^;)とか「変人」とか「変ってる」とかFBIにおけるモルダーばりの言われ方をするアタシですが本人、いやいやそこまでじゃないだろ!見たいな意識あるわけですね(笑)
確かにちょいと自覚もあるけれどー。
ところがかなりの確立で感覚のずれに遭遇するのです。
で、アタシって・・・・となるんですよ。

実は今日も縫い物してたらPCがピコピコーんと鳴ったんで、覗いたら祐美haha様のブログ更新のお知らせが。
早速遊びに行きましてじっくりと拝読。そして考えるサルに変身(笑)

今日の内容は要約すると(上手く説明出来るかわかんないので、興味ある人はブックマークから祐美母さまのブログへGO!)

「何か学ぶ時は好きだからやって、好きじゃなくなったらやめる。
その時大切な事は好きじゃなくなった過去の思いを否定しないこと。
あれはダメだったと否定してグチばかり言ってると自分を否定してることになりますよ。
好きだった自分にフォーカスしましょう。
好きだったという事実の喜びはあなたを豊かにします」

と言ったような深いステキな内容だったのですが、それを読んでいてあることに気がつく私。

「アレ?そう言えばアタシ、そういう経験がないんでわ?ーー;」

そう、そうなんですよ。
私ってば好きではじめたけど、嫌いになってやめちゃった、とかって経験がない・・・。
自分で決めて選んだことには後悔したくないせいか、嫌いなことをした事がないの。
基本、怖がりの根性無しの面倒くさがりなので、嫌になっちゃう様なら最初っからやりたくない。
仕事も何もかも好きなこと&やる!と覚悟を決めたことしかやって来ていないので、「あれは嫌だったなー」となったことがないんです。
だから、過去が愚痴になる事がないのです。

以前、友人に言われました。「それはある意味、ハンディを持ってるよね」
う、うん、そうね、、、否定できない。。。

どーも私はかなり人様と感覚が違うことが多いらしい。。。。
特に私は特別な意識はないんですけど、細かい分析が好きなのか、いろんなモノに対して、自分のその時の感情や言葉を真っ直ぐ向けるので、単なる分析への意見が批判と取られたり、全体を拒否していると良く誤解されます。

例えば、私はシュタイナー系のクラスをやっていましたが、私と関わったことのある関係者の人は大体びっくりしていました。
なぜなら皆、わたしのことをものすごい強固な「アンチシュタイナー」だと認識していたからです(^^;)
ずっとそーじゃない!っつってたんですが、なかなか理解はしてもらえませんでした。
誤解ないようにこの場をお借りして説明しますと、私はアンチシュタイナーではなく、一部のシュタイナーを学ぶ人や人智学者と言われる人の考えや言動に共感ができないし、そこに賛同できないだけなんです。
なのでシュタイナーさんも、人智学も、シュタイナー教育も今まで一度も否定した事はございませんでーす。

もちろん、親しい人や深い洞察力でいろんな角度からモノを感じる方は言った時点でご理解くださる方もあるようですが、誤解されること多しです。
たぶん私はしゃべりや文章が下手なので、上手く伝えられてないんでしょう。精進せねばなりませんね。

このブログでも自分の考えや感覚を真っ直ぐ書くと、いろいろなモノや人や感覚や経験に対して「否定している」と誤解されるんですよね。
でも全然そうではない。否定と言うのは祐美母さんのコトバの様に「アレはダメだった」と表現することです。
わたしのブログ、読んでもらうと解るんですが、そういう言葉は完全に拒否している時以外は出てきません。
私が拒否る時って言うのは、自分が選んだものではなく、与えられたものとの間に起こります。
その時に、自分にはダメだなって感じるし、それを表現します。
それそのものを「あれはダメだ」という事は殆どありません。
人の考えにしろ、行動にしろ、何にしてもです。
ある程度のはっきりした考えがあるので、嫌なものやコレは違うと思うものは、正面からそう思わないとはっきり言っちゃうし~。
とにかくモノにはそれなりの存在理由があるので、それとわたしの感覚とは別だから。

感覚もそうですよね。十人十色です。だから一つの枠では答えられない。
「こういう行動をこういう風に思う」、と言うのと、「その行動をしている人がダメだ」というのとは私にとって全然違う次元なんです。
「えー、気に入らないんだから結局おんなじでしょ。」とか言われますが、そんなに単純に判断なんかできないよう(:。:)
と、いう風になかなかこの違いはわかってもらえないので、単純にアレコレ批判しているだけと思われがちな私です。
誰かにちゃんと解ってもらうって大変ですね(^^;)

以前、相方さんが演技のレッスンをしてくださる場に同席しまして、見ているだけでしたがその時のレッスンでものすごく何かを感じたことがありました。
それは決まっている台詞をそれぞれが決めた意志をもって会話すると言うもので、これは決してその意志を伝える為のしゃべり方をするのが目的ではありません。
ただ、自分の中にその意志をもって、しゃべってみる。
最後は自分の感情がどうあるのかは一切話さないんです。
会話をしてから、聴くわけですね。相手の人の言葉にどんな意志を感じたか?と。
持っていた感情が相手に伝わっていることもありますが、全く相手が感じなかった意志を相手が持ってる時もあります。
つまり、コトバや音色や見た目だけでは決定的な事は解らなかったりもする。
それが真実だったりもするわけですね。

そのレッスンを見ながら、本当に相手が言いたい事はなんなのか?
相手を理解すると言う事の難しさや、難しいがゆえに広い視野と受け入れる度量を持たないといけないこと、コトバや態度の内側にあるものを感じる繊細さの必要性、聞こえるコトバや見えるものに惑わされない大切さ、などを強く感じてました。
未だその辺は至りませんが、この逆で本心を伝えることの難しさも感じてました。
今回は書きませんでしたが、文章から相手の感覚をある程度知ることも出来ます。

人は決して一通りの道だけでは表せない。導きも一つの教え方では、全ての人当てはまらない。
けれども全ての人の中には必ず同じ何かがある。
だから理解をしたいと切に願うのではないだろうか。
大事なのは「同じ何かを感じる努力をすること」なのかも知れないな。
本当にそう考えると人間とは興味深い生き物です。

このように誰かの言葉や考え方からたくさんの事を教えてもらい、本当に毎日、毎日いろんなモノを頂いています。
人様と関わるという事は、本当にステキなことなんだなと思います。
祐美母さまをはじめ、たくさんの愛を分けてくださる皆様に感謝です


私はこのいろいろなものの考え方の中に居る感覚がとっても好き。
それは私が「世界」の中にいると感じさせてくれる。
たくさんの国、たくさんの人、たくさんの思い、それが一つの星の上にある。
私を振り向く事は、世界の全てを見つめること。
世界を見つめる事は私を見つけること。
私はそう感じています。

否定の中から肯定を見つけ、肯定の中から違いを見つける。
そういう作業は時に傷みも伴うが、癒しもする。
善も悪も傷みも癒しも、私は余すことなく受け取りたい。

わたしはあなた。
あなたはわたし。
わたしとあなたはわたしたち。
わたしたちはひとつ。

世界の中の私は、世界の全ての人を抱きしめている。

ココロの音

2009-05-26 | KOFUKU日記
とにかく私は手を動かす作業が好きだ。
編み物とか、縫い物とか、とにかく好きなんである。
それさえしていればご飯も食べなくてもいいくらい。
まさに三度の飯よりすきなのだ。
でも出来がよいかっていうと謎ですが。。。(--;)

とにかーく、手によって何かカタチを作っていくことが好きなのだ。
何かが出来上がっていく様はある種のドラマさえ感じてしまう。
でも凡人なので、一般的に言うところのきれいなものが好きかも知んない。
人の家に言ってお部屋の中がシンメトリーとかなんらかの規則性を感じる並べ方などされていると胸がキュンとなるくらいだ(笑)
素朴でシンプルな美しさやレトロな豪華さには特に惹かれるものがある。
あ、でもオフバランスな作品とか、色の氾濫みたいな作品も嫌いではない。
でも創造性の乏しい私はピカソにはなりえない(^^;)
(私はピカソの青の時代が一番好きである・笑)

そんな私は先日、シルクのブラウスの裾のほつれ直しを頼まれまして。
昨日から、ぼーっと音楽聴いたり、DVD見たりしながら縫い物仕事。
私は特に手縫いが好きで、運針がすっごく好き。
中でも今回やっている「千鳥がけ」は右から左に縫い進む縫い物のなかで、貴重な左から右に縫い進み、その縫い目も三角のひらひらみたいで可愛いのである(^^)
三角がきれいに並ぶと嬉しい。
こんなことで嬉しくなれる自分が、のーてんきな感じでまたヨロシイ(笑)

嬉しく仕事をしていると、気持ちの良い思いがココロを巡る。
歌の一つも出てくるってもんだ♪
そして、「あの人はどーしてるかしら?」、「兄ちゃんは旅先で元気かな?」とか人への思いも暖かい気持ちでわいてくる。

嬉しい時、縫い目は可愛らしい。そして麗しく仕上がる。
不思議だが、手仕事にはココロがそのまま現れるのだ。
料理も縫い物も編み物も、なんでもそうだ。
ただそれらには技術的にごまかしが効く部分もあるので仕上がりが何とかなることも多い。
そういったごまかしが効かず、目に見えて心があらわれるのは、いろんな作業の中でも特に「糸紡ぎ」ではないかと思う。

糸つむぎは紡ぎ車を廻して、まーっすぐに糸を引き出し巻き取るだけの作業だが、それが簡単ではない。
簡単に糸は紡げるようになるのだけれど、均一で真っ直ぐな糸をひくのは難しい。
心によどみがあれば糸は切れたり、だまになったりする。
真っ直ぐ、真っ直ぐとコントロールしようと思えば思うほどゆがむ。
頭や身体や手が機械や糸を牛耳ろうとしているうちは真っ直ぐな糸は紡げない。

たぶんだが、ココロの奥底の方から生まれてくる「静けさ」や「愛情」が本当に大切なのだと思う。
作品やそれを渡す相手への愛情をもって仕事をしていると、不思議とその気持ちが糸車に伝わるのか、自然と呼吸が糸車と一つになってくる。
踏み板を踏む足は、もはや踏むという行為をしていない。
手は手でなく、糸車の一部になって仕事をしている気がする。
すると、ボビンには比較的真っ直ぐな糸が巻かれている、と言うわけだ。
真っ直ぐな糸は編んでいても手触りがすべらかで、作品の仕上がりだってきれい。
本当に“善いもの”美しいものだ。
そしてそれは単純に上手ってのとはちょっと違う。

偉そうな意見話だが、上手なものが必ずしも言い訳じゃない、と私は思っている。
上手だけど作り手のココロを感じない作品ってのも一杯ある。
キレイで可愛いって所だけ見る人には解らないかもしれないから、問題ないかもしれないんだけど。。。
でも私にはそこが一番重要だったりする。

私は本職は腐っても役者だと思っているが、ミュージカルを生業にしている時もそう思っていた。
例えば歌だって、歌えるからいいわけじゃあ全然ない、と私は感じてる。
業界に上手に歌える人はゴマンと居るが、本当に善い歌を歌える人は少ない。
お芝居だって同じだ。芝居の上手な役者は一杯居るが、善い芝居をする役者は少ないのだ。
ただ上手いだけの人の作るものは感心しても、感動はしない。
だから、私がプロデュースしてた作品に「ただ上手い」だけの人なんか一人も居ない。
何が自慢って、それが自慢さ(笑)
作れるだけ、歌えるだけ、踊れるだけ、演じれるだけ、エトセトラ。
そんな人はわたしの作品にはいらないのだ。
誰かの心に語りかけるには表面がキレイなだけではダメなのだ。

あ、でもキレイなものだけで満たされる人は、キレイなだけで十分に良いのだと思うけれど、私の伝えたい美はそこにはたぶん無い。
動かしたいものは、そこじゃない。
まあ、そう言う訳だから、100パーセントの方に喜んでいただけるよういつも努力はするのだが、こちらの美観にあわないこともあることも事実。
この我侭な美観に琴線をふるわせてご覧下さるお客様に一人でも遭遇できればと思う。
日々ブログにて呟いておりますが、あくまでも私の中の呟きコトバで御座います。
私には「こうです」「こうなんです」と言い切って書くにはまだまだ1000年は早いので。
私はこう思ってる、そう書くのが精一杯。決定権はないのでさらっと読んでね、です(^^;)

とにかく私は、その人の中に響き渡る美しい音を聴いて、そしてそれを伝えようとする努力と力のある人が好きなのだ。
自分の中にある美しさを真っ直ぐに受け取れる人が好き。
私はそういう人を「芸術家」と呼ぶにふさわしいと思っている。

では「お上手なだけ」と「上手なだけではない」って言うのは何が違うんだろうか。
私が思うに、人の一番奥そこに聞こえてくる「ココロネ(心音)」の響きの捕らえ方が違うんじゃないだろうか、と感じている。
目や耳や身体や肉体的な五感を使って自分の中に生み出すものだけではなく、もっと人間の肉体の機能を越えたところに答えがある気がしている。

人間は生きている限り肉体を通して生活をしなくては成らない。
だから、この肉体を大事にすることは素晴らしいことだ。
だが、本当に美しいものをみたり聞いたり、ましてや生み出す行為は、この肉体にある機能だけではきっと解らない。
星の王子様も言ってるが「本当に大切なものは目に見えない」から。
この身体だけでは見えないものを見、聞こえないものを聴く力がきっと大切なのだろう。
それは愛を感じる力、と言って良いのかもしれない。

手仕事はそんな力の大切さを身近に私に教えてくれる。
もっとも聖なる場所である「ホーム」のなかで、愛を生み出す仕事が出来るって事は幸せだし、本当は全ての人がそうでないといけないのかもしれない。
だからこそ、私たちにはこの手がある。そして身体があって心がある。
それは私が立っている場所をまずあたたかな愛の溢れる場所にする為だと思うのだが、どうだろうか?
だから、わたしの身体にくっついているんだと思うのは飛躍しすぎ?(笑)
でも、わたしの心にはそう響いている。

今日もココロの音に耳をすませながら、静かに一生懸命、手を動かそう。

ココロの中の羅針盤

2009-05-25 | KOFUKU日記
頼まれた子犬の奈々ちゃんのペットシッターに行ってきました。
帰って来たら、うちのぴーちゃんとその相棒のお兄ちゃんはお昼寝中(^^;)
その隙にPC作業。
今日はブログを書いたら頼まれもののシルクのまつり縫いをしたり、ご飯の準備をしたりする予定。
明日はオーダー貰ったフェルトボールを作る予定です(^^)
頼まれ物があるってほんと嬉しいものです。

さて来月で失業保険も切れることもあり、少しづつ新しい道の準備をしています。
まだ、何をどうするって言うのはないんですが、仕事ではないけど、フリーマーケットとか参加して見たいと思ってまして。
ぴーちゃんとお兄ちゃんは二人してベランダで、フリマに持ち込む道具を整理する、いろんなデザインの木箱など制作してくれてます。
そういうのが出来上がっていくのを見るのは、嬉し、楽しいもんですねー。
私のことなんで試行錯誤しすぎて、ノロノロ亀さんペースで準備してますが、何とかカタチにしていけるように地道に頑張っていきたいもんです(^^)

さて、Mシュナウザーの赤ちゃん「奈々ちゃん」のお世話をして一週間弱、赤子の成長はマヂで早い。
なんかあっという間に2倍くらいに膨らんだ気が・・・・(^^;)
それを考えるとあんまり大きくならないチワワって、ずっと変んない感じがするのはあたしだけでしょうか。

さてうちのお嬢様チワワのぴーちゃま。犬が嫌いらしいです(笑)
気にはなるのだが、寄って来られると死ぬほど怖いらしい。
奈々ちゃんの所にも何度も行って見たけれど、人懐っこく飛びまわる奈々ちゃんに顔を引きつらせつつ逃げ惑うお嬢様(そ、そんなに~^^;)
そして、気分ワルワルのお嬢様に聞いてみる。
(ぴーちゃんはかなりコトバを理解して、指を舐めることでイエスとノーの返事が出来ます)

「あのさあ、お姉ちゃんは好き?」「ぺろ(うん)」
「じゃ、お兄ちゃんは?」「ぺろ(好き)」
「じゃ、ななちゃんはー?」「・・・・・(しーん・・・・)」
「奈々ちゃん、嫌?」「(じーっと見つめる)・・・ぺろ(嫌)」

そっ、そおかああああああ~~~^^; やっぱりなあ。

ぴーちゃんは奈々ちゃんの面倒見て帰ってくると途端に不機嫌です(^^;)
最初は仲良くさせようと、奈々ちゃんの話をしていた相棒・お兄ちゃんでしたが…。
「奈々ちゃん」の話をすればするほど、どんどん元気がなくなっていくぴーちゃんを見て焦りだすほど。
そうなんです。ぴーちゃんは奈々ちゃんの存在に不安が高まってしまって。
自分だけ構ってもらおうと、隠れては探してもらおうとしたり、ご飯を食べなかったり、果てにはグッタリとなってしまい・・・。
まるで、下の子が出来て赤ちゃん返りしてしまったお姉ちゃんのようです。
もともとぴーちゃんは人間っぽい子ですが、ますます人間のお子ちゃまに見えてきました。

そんなぴーちゃんにしても、ななちゃんにしても、感情表現がとてもシンプル。
ココロに素直なんですね。喜びにしても不安にしても。
ココロの羅針盤とも言うべきものへの反応がストレートです。
そんな姿を見ていると羨ましくなります。

最近時間があったせいか、これからの自分がどういう風に居たいのか、こうしてブログに書いたりしてきました。
「こうありたい」と言う中で「嘘をつきたくない」って言うコトバが本当に一杯出てきて、自分でも驚くぐらいです。
こういうものを見たのだが(経験したのだが)、自分はそういう風にはしたくない、ってのも多いですよね。
なんでそこまで固執してそうなのかな~と思って、過去を振り返ってみると、なんだか行き着いた先、行きついた先で衝撃的な人や出来事に当たってるんですね。
出会ってる人はそれらの道ではみーんな有名な人ばかりで、本なんかもいっっぱい書いてたりするし、人に人格者として尊敬されている人が多いんですよ。
ところが、私、そういう人でほんっとに「いい人」には出会った経験がないのです。
アタクシ、コレでも愛をテーマに生きてますから、愛に溢れていると言う場所に出来るだけ赴いてゆくわけなのですが、その「愛の溢れてる」とこで統括している人や代表やってる人ほど愛からかけ離れていると言う状況ばっかりだったんです。
一言では言い表せないほど激しい状態だったりして(^^;)
なんて言うか、夢を語っているだけに、見えた現実は凄惨なものだったわけですね。
皆さん、見た目ややっている仕事だけで相手を捕らえてはいけませんよ~。
ほんんっとに尊敬出来うる方は少ないってのが現実だと思います。
特にお金に囚われた人は、怖いです。
あまりにもそういうのを見すぎて、きっと自分はそうなりたくないなーって思うようになったのかもしれません。
正直、これは大きなトラウマになってるんではないかと思います。
はっきり言って完全に人間不信になるくらいのギャップの在り様でした。

そういう経験の中で何が特に自分にとってダメだったかを考えてみると、「良心」と言うココロの羅針盤にちゃんと「だめなんだよー」と答えが現れていても、人のため、世のためと言いつつ、お金や地位など、その人自身の私欲を満たす方を選んでしまっているところだったと思います。
私欲を選ぶうちはまだいいけれど、私欲を満たす為にその善とも呼べる世界に居て、善なるコトバを笑顔で語ることにさらに拒否反応が。。。。
そして明らかに、そらーないだろー、とか思うことでも、
「前世からのカルマでこうなったからし方がないのだ」とかー、「こころの自由のままにあること」が大切であるとか自分が正しいと主張して譲らず、まわりがドンだけ迷惑したかも顧みず、、人を傷つけちゃったりが平気だったりとか~。
(アタシには明らかにそう思えたんです、ハイ)
その人が正しいって思ってる訳ですから、しょうがないとも言えるんですが・・・。
ただ、やっぱり子どもや周りに居る人が悲しんでる事実に直面すると。。。おいおい、あんたっ!って気持ちになるし、見てて悲しくなりますでしょ?
そーゆーのがほんとにダメだったんですね、きっと。

でもね、そういう人もね、最初からそうだったわけじゃないと思うんですよね。
大体において共同体や会社や仕事って言うのは、殆ど最初は夢を描きながら本当に小さなところから出発したりするものです。
一つのコロッケを何人もで分けて食べながらでも、相手の事を思いやりながら笑顔で頑張れちゃうから、やっていけるんだと思う。
けれど、問題はそこに「富」が関わってきたときなんだと思う。
今まで出会った人たちは、みんなそうやって善で富をなして、その富が出来たことで善性を手放してしまっている方ばかりでした。
ほおんと、お金って人を変えちゃうんだなあ、って思う位。
そのうち、お金が欲しいから、手段として、コトバや商品に善性をくっつけて売るようになってしまう。
使い道がわかったら、人を傷つけると解っていながら、自分の欲の為にお金を使い続けてしまったり。
でも、そうなった頃には、何が大切かはすっかりわかんなくなっているんだと思います。
だから、私は本当にお金を愛として生み出して、そして愛として使える人になりたいなあ、って思うんです。

とにかく見るもの聞くもの、言ってることとやってることのギャップがあんまりにも大きすぎちゃって受け入れられなかったのかも知れません。
それで、自分もかなりいい加減な奴なので、出来るだけ気をつけて暮らして行かねば!、って思うようになったんだと思います。


人間であるという事は、ぴーちゃん達の様に全てにまっさらに生きる事は難しい。
だけれども「良心」と言うココロの羅針盤の存在だけは大事にしたいと思います。
仲良しのステキなスピリチュアリスト祐美haha様(この方は本物・ご安心あれ^^)がよくブログやHPでおっしゃってるのですが、羅針盤が指す場所に困難があっても、結果的に「愛の一番ある方向に」向かって歩んでいく勇気を選べる様に祈りたいと思うのです。

振り子時計と紫陽花

2009-05-25 | KOFUKU日記
最近、時間を見つけてはPCの前に座るのが日課となってまいりました。
うちには振り子時計がかかっていて、ぼーんぼーん、ちくたくちくたくといつも音が響いています。
静かに座っていると、ゆっくりと時間の流れを教えてくれて居る音楽を聴いているようで、そして音が流れているとだれかの傍に居るようで、心地いいモノです。

さて、ココのところ、いろいろな方が記事に寄せてメッセージをお届けくださいます。
本当に最初は数名だったご来訪も日記を更新するたびに、びっくりするほどの方がいらしてくださるようになりました。
皆様方に重ねて御礼申し上げます。ありがとう御座います。
ブログを書くたびに、ボンボン時計さんのように、皆様の存在を感じてます。

メッセージを頂いて一番嬉しいのは記事を読んで一緒に考えてます、と言うもの。
それぞれの生活の中での出来事と重ねてくださって、こう思ったよ、とか、私はこうだなーとか、考えてくださっている。それがとっても嬉しい。
考えるって言うのは、ものすごくステキな事だと思うんですよ。
天に向かって、ただひたすら時の流れに任せ、手を差し伸べて待つことも良いかも知れないけど、人として生まれたからには、その機能を余すところなく楽しみたい。
そして私もまた、皆様からのメッセージを読ませてもらって我が身を考える事が出来る。
なんかこういう関係を持つのはとってもいい感じで気持ちいいです。
こんな経験をさせてもらえることに本当に感謝がわいてきます。
感謝、感謝です。

昨日、ある方が記事を読んでメッセージを下さいました。
愛を私欲の為に偽るとか、家庭の中で自分を演じるといったような事を昨日書いたのですが、読まれた方がご自分のご主人さんとの会話の事を書いてくださっていました。
ご主人様から「上から目線」でモノを見るといわれたとの事。至らぬ自分を考えます、と。
もちろん、その方にはそんなつもりはなく、この謙虚な答えから解るように普段もとても道理の通ったステキな方なんですよ。
注意してもらえる、反対意見を言ってもらえるって、愛がある証拠ですね、とお返事したんですが、本当にそうだと思うんですよね。
このご夫婦の間には深い愛があるから、こんな会話も交わせると思うんです。
例えば昨日書いたお友達のお母さんとお父さんの関係は、病気で言ったら「末期」みたいな感じで、聞いてる方が悲しくなるものでした。
もちろん何も言わないで見守る愛もありますが、大体の人はどうでも善ければ何も言いませんからね。
だって本人に不満を言わず、他人に言うって、もう本当に終わってる感じがしますもんね。
喧嘩しても、嫌な思いしても、間違ってると言ってくれる間は、その人に対して思いがあるって事だと思います。
きっと、その言われた後って言うのが重要なんでしょうね。その流れによってはもう「何も言わなくなる」事もあるんでしょう。

そのメッセージを読んで、この前書いた「誤解」について再び考える機会を頂きました。
類にもれず、私も善くあるんですよね。上からものを見るとか、ものを言うとか言われること(^^;)
もちろん、そんなつもりは毛頭ないんです。
これはメッセージのお話とはちょっと違うとは思うんですが、以前も書いたんですけど、私が発信した内容を「アタシのことだわ」と誤解されるって事がよくあるんです。
もちろん、これも毛頭そんなつもりはないんですよ。
第一、今現在培っている親しい関係を壊すような事は書かないし、書くとしたらはっきりと本人にも伝えている、書けることを書くようにしています。
影でこそこそ書いたり、遠まわしにぐちぐち書いたりはいたしません。
もちろん、いやみを書いてるつもりもない。
そんなことをする位なら,直接言います。
だからこういうところに書く事は過去のお付き合いの中でのことや経験、最近の体験だけれど、親しい方との中でのことではないから書けるとも言えますね。
でも文章力欠如のせいか、今まで誰かに誤解されることも多し、、、。

そんなこと考えてたら私も「アタシのことだ」と思った忘れられない経験を思い出しました。
もう随分と若い頃の話なんですがー、当時お付き合いしていた彼がおりまして、その方はかなり自分の意見をはっきり言う人でした。
ただコトバは厳しくても嘘がないせいか、たくさんの友人がいらっしゃる人で。
ある時、その方の仲間と一緒にトークを楽しんでいたところ、彼がある話をしだしまして、内容を聞いていたら、これは暗にわたしのことを指しているんでわ、と思うことがあったのです。
それで、後で聞いてみようかな~と思っていたら、ある友人の女性がですね、「ちょっとそれアタシのことだよね?」と彼に向かって言いました。
そしたら彼が笑顔で
「は?何いってんの?私のことって、どれだけ自分にうぬぼれてるのよ?
お前は相当自分勝手な奴だなー。
どんだけ世界が自分中心に動いてるって思ってるわけ?」
とさらっと言ったんですね。
いや~、正直ドキッとしましたね~。私もそう思ってたから(汗)
言われた彼女も凄いさばけた女性だったので、「や~ん、言われて見ればそうだわねー。でもアタシの行動に思い当たることあったのよー」と答えてました。
そしたら、それを聞いていた年上の方がこう言いました。

「自分の事を言われてるって思うときあるよね。
でも自分にそう思い当たるって事はさ、実際そうなんだよな、自分も。
大事なのはその後。
言われたって思うって事は、相手から見た自分の視線を知るって事で自分の感覚からは離れてる。
ましてや、自分に取っちゃ嫌な意見なわけだ。
人間ってのは否定されることに弱い生き物だから、その後は凹むか、もしくは自分の正当性を打ち出すかどっちかだ。
自分の意見を言うとしたら、それが自分の信念であるものか、言われたから意固地になって反対意見を言うのかではものすごく違いがある。
自分のあり方が善いか悪いか決めるのは結局自分だから、そこでの向き合い方によっては、将来のあり方が随分違う結果になるんだろうなー」

若かった私は、自分の事だと思った出来事を、私はどう感じたのか考えつつも、とても恥ずかしくなり、「私ってなんてうぬぼれている奴だったんだろう、人様の意見を聞くときはもっと広い視野をもたねば」、と思ったものでした。
以来、元カレ曰く「うぬぼれた」耳でモノを捕らえないように気をつけています(笑)

って言うか、あの時、カレとそのご友人の方がいろいろと教えてくれなかったら、ずっと自惚れ根性で「この人はこう思ってたんだ」とか「アタシの事を否定した」と自分の観点だけから思い続けていたかもしれない。
私に向けたコトバでなくとも厳しいものではあったけど、そうやって「自分の事だ」と思わせてもらえ、またソコから自分はどう思うのか?それは単純に自惚れで、何も思わないものなのか(笑)なあんて事を考えられるようにしてもらえた事は本当にありがたいことだと思って居ます。
皆様も「アタシのことだわ」と思ったときは自惚れてないかどうか、自分の心に確かめて見て下さいませ(笑)

さて、他の方のメッセージからは「あんじゅさんの言うところの“愛や嘘や真実”って具体的にどんなものですか?“嘘がない”ってどういうことなんですか?」というご質問を頂きました。
ご質問、ありがとう御座います。
え~、真実、愛、嘘とまるで往年のXファイル並みの要素ばっかり書いている私ですが~(^。^;)

はい、あのですね、わたしの言うところの“嘘がない”とか「真実」って言うのは、“少しもやましいところがない”とか“愛だけで作られている感情”とかいう聖人ばりの感情って事ではないんですね。
上手く伝わるか解りませんが一番近いのは「そのまま」とか「ありのまま」っていう感じでしょうか。
答えもまたXファイル並みに確定的なものが出せずすみません~。

例えばですね、「だめだあ~」とか、「よし!うまくいったぞお!」とかその瞬間瞬間に突然生まれる感情ってありますね。
また日々の積み重ねの熟慮した感覚の上に生まれる感情もありますね。
そんな気持ちに正直にあるって事ですかね。
たとえば「この人って危ない人かも」って思いながら、仕事上は建前笑顔で対応するって事もありますでしょ?、それもまた嘘のない行動でもあるといえるんじゃないかと。

じゃあ、“嘘”って“偽り”って何ですか?っていいますと、自分の中に明らかに偽っている感情があることを認識しながら「私欲を満たす為に」相手や自分を騙している感情や行動のことって感じなんですね。
例えば解りやすいところで言うと、私が何かのセールスマンだったとして、仕事時間以外に仕事に使う道具を持ち出し、お給料とは関係なく、自分のお小遣いを稼ぐ為に「仕事なんです」と道具を使って売って、自分の利益を得る、といったような感じでしょうか?

お仕事や家庭の中ではいろんな事情の上“嘘”も必要な時がありますよね。
その嘘こそが愛であるときもあります。
それらは嘘であっても偽りの行為であるとは決して思ってないんです。

ただ仕事や生活の中の必要な嘘という中では一つ例外があると思ってます。
これは尊敬する霊能者であるソウルメイトやたくさんのスピリチュアリストや芸術家や教育者や聖職者さんやいろいろな人から学んだことでもあるのですが。
セラピストやカウンセラー、芸術家や教育家などなど「愛」そのものを生業としてお金を得る職業では、愛の純粋性は大きな意味があると思っています。
こういった職業では単純にお金を得る目的の為だけに、実際の答えとは違う相手の気持ちよい言葉を選んで伝えたり、自分のあり方を正直にせず、本当とは違うのに、相手にお金を出させる為の愛を見せる演出をするなどという事は「これは仕事だから、生活する為だから嘘をついても仕方ない」と言うのとは違うんじゃないかなと私は感じています。
ある意味、それは罪だと言うくらいの意識を持っいて、それだけはやっちゃ行けないな、と思う。
自分もクラフトを作ったり、芸術に携わったり、「愛」や「真実」をテーマに人とココロでお付き合いするお仕事を選んでいるので、ソコでだけは嘘をつきたくない、ということを大事にしています。
だからこそ、自分の中の真実や愛に覚悟をもって生きたいと言う気持ちとこだわりがこのブログの様なコトバを書かせるのだと思います。
Xファイルのモルダーやスカリーじゃないですが、自分の目の前にある真実に正直に居たいなあ、と思うのです。

ただ正直とか素直とかって基準は私には付けられないので、どこまでだったら嘘とか嘘じゃないとかも、実際はわからないんですが、ソコはココロで判断してます(かなりいい加減。。。^^;)
所詮、私だけの判断基準なので、皆様もご自分のなかで自分の真実や愛のあり方を探してみてくだされば、と思います。

例えば昨日のJDSの皆さんの事はですね、この人たちって本当に素直に生きてるなーと思ったので、嘘のない笑顔にあったなーって感じたって事なんです。
はい、本当にそよ風みたいに気持ちよかったです(^^)

このように、人はいろいろな感覚があるわけですがー。
今日は雨でしたね。いろいろ思い巡らしつつ買い物に出たら、小雨の中色づき始めたアジサイの花がきれいでした。
私、アジサイの花、大好きなんですよ~。
アジサイの色の移り変わりって、土壌や雨の成分で変るんだそうです。
皆さん知ってました?私は最近知りました(^^;)
なんか、それを知ったら、ますますアジサイの花が好きになりました。
だってまるで人間みたいじゃありませんか?
人も住む場所や取り巻く環境で感情も生き方も変って行きますもんね。
でも、雨に打たれても花びら傷むこともなく、その時々の色をしっかり出して咲いてる紫陽花を見ていたら人間の可能性と言うか希望的なものを感じました。
雨の中の紫陽花みたいに強く、そして雨上がりの紫陽花のようにおひさまに照らされて輝くように、正直に、美しく咲いていたいものです。