先日、恵まれて「報恩」という舞台を拝見させて頂きました。
お話の中に描かれている「いのち」「家族」「国」
「本当の善意」というものや「感謝」、
「真実の思い」や「見返りの無い愛」や
まだまだたくさんの言い表せないものを
深く深く考える機会を与えられました。
米澤さんの演じるオヤマさんの言葉には真実と祈りがありました。
それは深く胸を打ちました。
私は自分の人生を振り返って思うに、
感情豊かで親切な人に数多く会った方だと思います。
環境的にもたくさんの方に手を差し伸べて頂けたからこそ
こうして今わたしは生きているのだとことある事に感じます。
今も変わらず心の中で手を合わすような日々です。
人は人間と言う生き物であるがゆえに
時にいろんな闇の淵に落ちていくものではないか?と思います。
貧困や差別などから、日常の小さなものまでたくさんの淵が闇の中にひしめいている。
その淵に落ちてしまうと暗闇ゆえに周囲は見えません。
そして居るのは淵に落ちたものばかり。。。。
そのうち、それが当たり前となり、そこから這い出るのは難しいものです。
表の明るいところから見ればなんてことの無い淵もあるでしょう。
また暗闇の淵ゆえに、明るきところからは見えないこともあるでしょう。
明るい大地と暗闇の淵、そこに居るものがお互いに理解することもまた難しい。
けれど、
そこに手を伸ばす。そのことの大切さ。
「報いる」ということはいったい何なんなのか?
真実の愛を示すと言うことはいったいなんなのか?
結構ハードな環境の中でこれだけ生きてくると
人の差し出してくださったものが本当の善意からのものであったのか、
そのときだけの想いやその人の欲求を満たすためのものだったのか、
それを直視するような場面にいくつも出会います。
相手は善意でも、自分にとっては苦しみ出会ったりもする。
そういう事に出会うたびに「善意って・・・」と考えます。
最近もそんな心持で少し元気をなくしていた矢先の公演でした。
自分の中に確かな答えが出たわけではありません。
でも本当に観て良かったな、そう思いました。
公演会場で本当に久しぶりに原宿・夢の街の大家さんにお会いしました。
大家さんは相変わらずお元気で、いつものように優しく暖かい方でした。
米澤さんが出演するとのことで駆けつけてくださったのです。
私たちを最後まで助けてくれて、そしてこうして今も気にかけてくださる。
とてもありがたく、嬉しく、そして涙の出る思いでした。
私たちが店を閉店するとオーナーから言われた時、
一番ご迷惑をおかけしたのは大家さんだったはず。
金銭的な面では私たちは何の力にもなれず、
ただただご迷惑がかかるのを申し訳なく見ているしかなかったのです。
オーナーとのやり取りとはいえ、私達に何か恨み言や文句の一つも
言いたくなって当然だったのでは?と見ていて思います。
それほど理不尽なことを言われたり、されていらした。
けれど大家さんはその渦中にあるときも今も
決して私たちを責めること無く愛してくださいました。
大家さんの愛情は偽善やとりあえずの社交辞令や義理などではなく
心から寄せてくださる「気持ち」が本物だからだと思います。
そうでなくてはこうして来てくださらないでしょう。
本当に人様の心とはありがたいものです。
同じように公演時にはたくさんのお心使いを持って
たくさんの方が集ってくださいましたが、
私の親しい友もたくさん来てくださいました。
私には自分から「親友」だと思える方がたくさん居ます。
それが何よりの幸福であって、宝だなとも思い、
またそんな方々を誇らしくも思います。
そんな中に祐美子さんと言う仲良しさんが居て、
その方もお母さんやお子さんと来てくださいました。
祐美子さんは愛を伝えるセラピストさんです。
マクロビのお料理の先生などもなさってます。
女神さまの波動を持ってらっしゃる素敵な人です。
ちょうど私がお芝居の内容から善意について考えている時
時を同じくして彼女がこんな文章をブログに書いていらっしゃいました。
ご紹介させて頂きます。
エンジェルの樹 森山祐美子ブログより
「憐れみではなく、愛と親切を・・」
マザーテレサの本は 好きで よく読みます。
でも 読むたびに ぼろぼろと 涙がでてしまう。
「あまったもの、のこりものは要りません。
わたしたちが 仕えている貧しい人たちは、
あなた方からの憐れみも
見下すような態度も必要としていないのです。
彼らが必要としているのは、あなたの愛と親切なのです。」
ちょうど、友達の誕生日プレゼントを創っていて、
とても素敵にできあがり、あげるのが惜しくなり、
同じものを創ろうかな・・と思った 矢先のメッセージでした。
なんとも 自分の欲が 恥ずかしかったです。
同じものを創った瞬間に、
わたしの純粋な心までもが、消えてしまう気持ちがしました。
大切なものを なんの疑いもなく、
ただ、ただ あげられるって とても素敵なことだと実感しました。
「持ち物が 少なければ少ないほど
多く与えることができます。
矛盾としか おもえないでしょう。
でも、これが愛の論理なのです。」
彼女のメッセージが わたしの心に優しくふれるので、
いまはただ 何回も何回も 本を読み返しています。
この涙が出なくなるときに、
きっと何か 行動ができると信じています。
マザー・テレサ 愛と祈りのことば (PHP文庫)/著者不明
愛をこめて
心にしみいるように文章が入ってきました。
私は故あって自分ではどうしようもない貧しさや
心や身体に問題を抱えて育ってしまったので、
人様からの善意を受けなければ生きてこれませんでした。
憐れみや蔑みを与えられることも多くあったなと思います。
本当に善意からの思いは与えられた時、
喜びや安心感があり心に暗い影を落としません。
けれどそうでないものには不安や猜疑心が生まれます。
ある種の恐怖を感じてしまいます。
不思議なものです。
それはなぜだろうか?
そう考えていた答えの一部を感じられた公演でした。
少なくとも私はそんな不安や疑念や恐怖を与えない人間になりたい。
闇の中、差し出した手を払われても、手を伸ばし続けられる人間でありたい。
人として生きると言う「愛」の美しさを、
どんな環境であっても捨てない人間でありたい。
誰に信じられなくても、わが身の中にある愛と美しさを信じられる人間でありたい。
誰にも認められない様な事しか出来なくても、
私自身が努力していると信じられれば。
自分の中にそんな努力を持ち続ける、そんな人間であり続けたいです。
まっすぐに見つめるぴーちゃんの瞳の輝きを
心の中に持てるようにと切に願います。
お話の中に描かれている「いのち」「家族」「国」
「本当の善意」というものや「感謝」、
「真実の思い」や「見返りの無い愛」や
まだまだたくさんの言い表せないものを
深く深く考える機会を与えられました。
米澤さんの演じるオヤマさんの言葉には真実と祈りがありました。
それは深く胸を打ちました。
私は自分の人生を振り返って思うに、
感情豊かで親切な人に数多く会った方だと思います。
環境的にもたくさんの方に手を差し伸べて頂けたからこそ
こうして今わたしは生きているのだとことある事に感じます。
今も変わらず心の中で手を合わすような日々です。
人は人間と言う生き物であるがゆえに
時にいろんな闇の淵に落ちていくものではないか?と思います。
貧困や差別などから、日常の小さなものまでたくさんの淵が闇の中にひしめいている。
その淵に落ちてしまうと暗闇ゆえに周囲は見えません。
そして居るのは淵に落ちたものばかり。。。。
そのうち、それが当たり前となり、そこから這い出るのは難しいものです。
表の明るいところから見ればなんてことの無い淵もあるでしょう。
また暗闇の淵ゆえに、明るきところからは見えないこともあるでしょう。
明るい大地と暗闇の淵、そこに居るものがお互いに理解することもまた難しい。
けれど、
そこに手を伸ばす。そのことの大切さ。
「報いる」ということはいったい何なんなのか?
真実の愛を示すと言うことはいったいなんなのか?
結構ハードな環境の中でこれだけ生きてくると
人の差し出してくださったものが本当の善意からのものであったのか、
そのときだけの想いやその人の欲求を満たすためのものだったのか、
それを直視するような場面にいくつも出会います。
相手は善意でも、自分にとっては苦しみ出会ったりもする。
そういう事に出会うたびに「善意って・・・」と考えます。
最近もそんな心持で少し元気をなくしていた矢先の公演でした。
自分の中に確かな答えが出たわけではありません。
でも本当に観て良かったな、そう思いました。
公演会場で本当に久しぶりに原宿・夢の街の大家さんにお会いしました。
大家さんは相変わらずお元気で、いつものように優しく暖かい方でした。
米澤さんが出演するとのことで駆けつけてくださったのです。
私たちを最後まで助けてくれて、そしてこうして今も気にかけてくださる。
とてもありがたく、嬉しく、そして涙の出る思いでした。
私たちが店を閉店するとオーナーから言われた時、
一番ご迷惑をおかけしたのは大家さんだったはず。
金銭的な面では私たちは何の力にもなれず、
ただただご迷惑がかかるのを申し訳なく見ているしかなかったのです。
オーナーとのやり取りとはいえ、私達に何か恨み言や文句の一つも
言いたくなって当然だったのでは?と見ていて思います。
それほど理不尽なことを言われたり、されていらした。
けれど大家さんはその渦中にあるときも今も
決して私たちを責めること無く愛してくださいました。
大家さんの愛情は偽善やとりあえずの社交辞令や義理などではなく
心から寄せてくださる「気持ち」が本物だからだと思います。
そうでなくてはこうして来てくださらないでしょう。
本当に人様の心とはありがたいものです。
同じように公演時にはたくさんのお心使いを持って
たくさんの方が集ってくださいましたが、
私の親しい友もたくさん来てくださいました。
私には自分から「親友」だと思える方がたくさん居ます。
それが何よりの幸福であって、宝だなとも思い、
またそんな方々を誇らしくも思います。
そんな中に祐美子さんと言う仲良しさんが居て、
その方もお母さんやお子さんと来てくださいました。
祐美子さんは愛を伝えるセラピストさんです。
マクロビのお料理の先生などもなさってます。
女神さまの波動を持ってらっしゃる素敵な人です。
ちょうど私がお芝居の内容から善意について考えている時
時を同じくして彼女がこんな文章をブログに書いていらっしゃいました。
ご紹介させて頂きます。
エンジェルの樹 森山祐美子ブログより
「憐れみではなく、愛と親切を・・」
マザーテレサの本は 好きで よく読みます。
でも 読むたびに ぼろぼろと 涙がでてしまう。
「あまったもの、のこりものは要りません。
わたしたちが 仕えている貧しい人たちは、
あなた方からの憐れみも
見下すような態度も必要としていないのです。
彼らが必要としているのは、あなたの愛と親切なのです。」
ちょうど、友達の誕生日プレゼントを創っていて、
とても素敵にできあがり、あげるのが惜しくなり、
同じものを創ろうかな・・と思った 矢先のメッセージでした。
なんとも 自分の欲が 恥ずかしかったです。
同じものを創った瞬間に、
わたしの純粋な心までもが、消えてしまう気持ちがしました。
大切なものを なんの疑いもなく、
ただ、ただ あげられるって とても素敵なことだと実感しました。
「持ち物が 少なければ少ないほど
多く与えることができます。
矛盾としか おもえないでしょう。
でも、これが愛の論理なのです。」
彼女のメッセージが わたしの心に優しくふれるので、
いまはただ 何回も何回も 本を読み返しています。
この涙が出なくなるときに、
きっと何か 行動ができると信じています。
マザー・テレサ 愛と祈りのことば (PHP文庫)/著者不明
愛をこめて
心にしみいるように文章が入ってきました。
私は故あって自分ではどうしようもない貧しさや
心や身体に問題を抱えて育ってしまったので、
人様からの善意を受けなければ生きてこれませんでした。
憐れみや蔑みを与えられることも多くあったなと思います。
本当に善意からの思いは与えられた時、
喜びや安心感があり心に暗い影を落としません。
けれどそうでないものには不安や猜疑心が生まれます。
ある種の恐怖を感じてしまいます。
不思議なものです。
それはなぜだろうか?
そう考えていた答えの一部を感じられた公演でした。
少なくとも私はそんな不安や疑念や恐怖を与えない人間になりたい。
闇の中、差し出した手を払われても、手を伸ばし続けられる人間でありたい。
人として生きると言う「愛」の美しさを、
どんな環境であっても捨てない人間でありたい。
誰に信じられなくても、わが身の中にある愛と美しさを信じられる人間でありたい。
誰にも認められない様な事しか出来なくても、
私自身が努力していると信じられれば。
自分の中にそんな努力を持ち続ける、そんな人間であり続けたいです。
まっすぐに見つめるぴーちゃんの瞳の輝きを
心の中に持てるようにと切に願います。
クレド(弱い者の信仰宣言)
原詩:ある兵士の祈り
成功を収める為に神に力を願ったのに
弱くなってしまった 謙遜を学ぶように
偉大な事をする為に神に健康を願ったのに
病気になってしまった 神の心に叶う様に
私の願いは何一つ叶えられなかったけれど
希望した全てのことを私は受けた
幸せになる為に神に富を願ったのに
貧しくなってしまった 生きる厳しさ知る様に
弱い人を助ける為に権威を願ったのに
無力になってしまった 神に頼ることを学ぶ様に
神は私に必要な事何もかも知っておられる
希望した全てのことを私は受けた
人に尊敬される為に 神に手柄を願ったのに
ただ失敗に終わった 思い上がらない様に
聖なる人になる為に神に徳を願ったのに
罪の醜さに泣いた 神の愛の深さ悟る為に
私の姿は変わらない
弱く何も出来ないけれど
喜びに満ち溢れて私は歌う
(ニューヨーク市三十四番街にある物理療法リハビリテーション研究所の
受付の壁にある南部連合の無名兵士の詩)
苦しみを超えて
大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶように弱い者とされた。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、
よりよいことができるようにと病気を戴いた。
幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧しさを授かった。
世の中の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、
神を求め続けるようにと弱さを授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。
神の意に添わぬものであるにも拘わらず、
心の中の言い表わせない祈りはすべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。
原詩:ある兵士の祈り
成功を収める為に神に力を願ったのに
弱くなってしまった 謙遜を学ぶように
偉大な事をする為に神に健康を願ったのに
病気になってしまった 神の心に叶う様に
私の願いは何一つ叶えられなかったけれど
希望した全てのことを私は受けた
幸せになる為に神に富を願ったのに
貧しくなってしまった 生きる厳しさ知る様に
弱い人を助ける為に権威を願ったのに
無力になってしまった 神に頼ることを学ぶ様に
神は私に必要な事何もかも知っておられる
希望した全てのことを私は受けた
人に尊敬される為に 神に手柄を願ったのに
ただ失敗に終わった 思い上がらない様に
聖なる人になる為に神に徳を願ったのに
罪の醜さに泣いた 神の愛の深さ悟る為に
私の姿は変わらない
弱く何も出来ないけれど
喜びに満ち溢れて私は歌う
(ニューヨーク市三十四番街にある物理療法リハビリテーション研究所の
受付の壁にある南部連合の無名兵士の詩)
苦しみを超えて
大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶように弱い者とされた。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、
よりよいことができるようにと病気を戴いた。
幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧しさを授かった。
世の中の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、
神を求め続けるようにと弱さを授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。
神の意に添わぬものであるにも拘わらず、
心の中の言い表わせない祈りはすべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。
チャリティ演劇リーディング「報恩」~心にかける橋~
ご来場賜りました皆様、ありがとうございました。
懐かしい某劇団の稽古場前にあるレインボーコート参宮橋というちいさな劇場での3回公演。
2日目はミャンマー舞踊もあり、とても素敵でした。
ミャンマーと日本のつながりを作ろうと奔走する青年オヤマとミャンマー人のススの日々葛藤のお話。
たった二人だけでセットも殆ど無い場所で演じられます。
ひょんな事からミャンマーと縁を持った青年オヤマと
それを案内したミャンマーの女性スス。
青年オヤマが初めて訪れたミャンマーの地で目にしたのは
自分の得を考えず、人のために奉仕をし「徳」を積むミャンマー人の姿でした。
ただ日本人には違和感の残るものではありましたが。。。(笑)
仏教が深く浸透し、自分の財産を使い果たしても
困った人を助ける国、ミャンマー。
貧しくても飢えたホームレスやストリートチルドレンはいない。
助け合いの心から彼らはまわりに助けられるからだという。
そんな文化を持つ国、ミャンマー。
オヤマが初めて訪れたミャンマーでススに案内された場所は
日本国土に向けてちいさな墓標が立つ
「日本人兵士達19万人の眠るお墓」だったのです。
第二次世界大戦中「インパール作戦」によって亡くなられた
19万人の戦没者達の慰霊地でした。
そこでオヤマが見たのは誰に頼まれるでもなくお墓を掃除する
ミャンマーの女性達の姿でした。
「誰にも頼まれてもいないのにやってるの?あのお母さん達?」
「そう、功徳つんでる。」
青年オヤマはその二つの現実に衝撃を受けます。
そして彼の中に想いが生まれるのです。
「私は衝撃を受けた。
何かわからないものに背中を押されるように、
この国の小さな善意の人たちに、何か、たくさんのものを返さなくては、
と強く感じた。なにか、たくさんのもの…
この血で十九万人もの日本人が命を落とした。
そのたくさんの命たちが受けた恩。
そして十九万もの日本人が、ここで命を落とした意味…これでいいのか。
ただここでこんな小さな墓石を建てただけでいいのか。
それで、ここで散っていった十九万人もの…
誰かの父・誰かの兄・誰かの弟・誰かの息子。
…そういう彼らを失った日本中の母親の涙が報われるのか。
…そんなわけ無い。そんなわけないじゃないか!」
そして日本とミャンマーの架け橋になろうと
ミャンマー交流協会を設立、彼は奔走を始めます。
もちろん採算は二の次。
「今つながりがなくなれば、あそこで死んだ人はどうなる?
50年も60年も誰も来ないまま、日本から忘れ去られたら
誰も浮かばれない」
その想いが彼をひたすらに動かします。
けれど次第にわかってくるミャンマーの現実。
ススの言葉にいろいろと企画を立てますが、
日本とミャンマーの政治や経済や文化のギャップから
なかなか上手く事は運びません。
けれどもある日、大きな助っ人達と出会います。
日本大学の石井進教授と日本きっての眼科医・藤田善史医師。
そして紫外線の多いミャンマーで多くの人が白内障で失明する事実。
貧困で病院にいけない国の現実。
助っ人となった彼らの協力を得て全くのボランティア、
善意での眼科医療支援が始まったのです。
無料の治療・手術。そして人材育成。
少しずつ形になってゆく活動。
そんな日々の中でオヤマは思います。
「後継を生み出すという事は、未来に日本とミャンマーのつながりをつむぐことだ。
19万人の戦没者達に、この為に自分達はここに来たのだと思ってもらいたい。
みんなのキラキラ輝く笑顔。
これこそが間違っていない証拠だ。
どこにも負けない、金では買えないもので、ミャンマーと日本が繋がっている。
私とススの行動は表に出ることは無い。
橋で言えば梁の部分だ。それでいい。
この橋の上をこれからたくさんの日本人とミャンマー人が行き交えばいい。
19万人の戦没者も…きっとそう思ってくれるはずだ。」
ミャンマーと日本を繋ぐ架け橋になろうとする二人。
日本ではあまり知られていないミャンマー(ビルマ)と日本の物語。
米澤さんが心豊かなオヤマさんを演じておられました。
くすっと笑って、ほろっと来る、
お金ではない熱い心意気を持つ純粋な人でした。
報恩パンフレットより米澤観児さんのコメントをご紹介させて頂きます。
「千鳥が淵の戦没者墓苑に行き、花を添えて両手をあわせて見たのですが、
どうにも心の中に言葉が出てこないのです。
ただ静かに手を合わせる以外、もうどうしようもありませんでした。
戦後に生まれた人間として、これが正直なところだと思います。
でも素通りできることではないとわかっているのも正直なところです。
たとえ戦没者たちの心にまっすぐ向き合う勇気は無くても、
「なにか」はできるように思います。
今まで私自身は、ボランティア、支援などという事に関して
どこか社交辞令的なもの、あるいは心の中の見返り的なものが
どこかにあるような気もしていたのですが、
断じてそういうものではなかったのですね。
どこか、芸術にまっすぐ向き合う心に似たものを感じます。
小山さんをはじめとして、奔走され、今も活動を続けられている方々の
ご紹介の一かけらを担えればと、強く感じます。」
「これは与えられたもので、通らねばならないものだった」
と米澤さんがおっしゃっていました。
多分、思うにすべての人にとってそうなのだと思います。
「見返りを求めないということ」
「こころからの善」
深く考える機会を頂きました。
ただただ感謝です。
この「報恩」はセットも殆ど無く、どのような場所での公演も可能です。
個人様、団体様からの召喚公演を広く募集しております。
ぜひ、多くの方に観ていただきたい作品です。
ご興味のあります方はぜひお問い合わせくださいませ。
alifeアート企画のチャリティイベント公演「報恩」
ミャンマーへ医療支援をしている実在の人々の熱意とあたたかな心がどのようにして始まったのか?
ミャンマーとはいったいどんな国なのか?私たちは何ができるのか?
そんな始まりの日々を描いたたった二人で演じる朗読劇です。
《出演》 米澤観児 鈴木澄子
※売り上げの一部は
日本ミャンマー交流協会に寄付いたします。
ご来場賜りました皆様、ありがとうございました。
懐かしい某劇団の稽古場前にあるレインボーコート参宮橋というちいさな劇場での3回公演。
2日目はミャンマー舞踊もあり、とても素敵でした。
ミャンマーと日本のつながりを作ろうと奔走する青年オヤマとミャンマー人のススの日々葛藤のお話。
たった二人だけでセットも殆ど無い場所で演じられます。
ひょんな事からミャンマーと縁を持った青年オヤマと
それを案内したミャンマーの女性スス。
青年オヤマが初めて訪れたミャンマーの地で目にしたのは
自分の得を考えず、人のために奉仕をし「徳」を積むミャンマー人の姿でした。
ただ日本人には違和感の残るものではありましたが。。。(笑)
仏教が深く浸透し、自分の財産を使い果たしても
困った人を助ける国、ミャンマー。
貧しくても飢えたホームレスやストリートチルドレンはいない。
助け合いの心から彼らはまわりに助けられるからだという。
そんな文化を持つ国、ミャンマー。
オヤマが初めて訪れたミャンマーでススに案内された場所は
日本国土に向けてちいさな墓標が立つ
「日本人兵士達19万人の眠るお墓」だったのです。
第二次世界大戦中「インパール作戦」によって亡くなられた
19万人の戦没者達の慰霊地でした。
そこでオヤマが見たのは誰に頼まれるでもなくお墓を掃除する
ミャンマーの女性達の姿でした。
「誰にも頼まれてもいないのにやってるの?あのお母さん達?」
「そう、功徳つんでる。」
青年オヤマはその二つの現実に衝撃を受けます。
そして彼の中に想いが生まれるのです。
「私は衝撃を受けた。
何かわからないものに背中を押されるように、
この国の小さな善意の人たちに、何か、たくさんのものを返さなくては、
と強く感じた。なにか、たくさんのもの…
この血で十九万人もの日本人が命を落とした。
そのたくさんの命たちが受けた恩。
そして十九万もの日本人が、ここで命を落とした意味…これでいいのか。
ただここでこんな小さな墓石を建てただけでいいのか。
それで、ここで散っていった十九万人もの…
誰かの父・誰かの兄・誰かの弟・誰かの息子。
…そういう彼らを失った日本中の母親の涙が報われるのか。
…そんなわけ無い。そんなわけないじゃないか!」
そして日本とミャンマーの架け橋になろうと
ミャンマー交流協会を設立、彼は奔走を始めます。
もちろん採算は二の次。
「今つながりがなくなれば、あそこで死んだ人はどうなる?
50年も60年も誰も来ないまま、日本から忘れ去られたら
誰も浮かばれない」
その想いが彼をひたすらに動かします。
けれど次第にわかってくるミャンマーの現実。
ススの言葉にいろいろと企画を立てますが、
日本とミャンマーの政治や経済や文化のギャップから
なかなか上手く事は運びません。
けれどもある日、大きな助っ人達と出会います。
日本大学の石井進教授と日本きっての眼科医・藤田善史医師。
そして紫外線の多いミャンマーで多くの人が白内障で失明する事実。
貧困で病院にいけない国の現実。
助っ人となった彼らの協力を得て全くのボランティア、
善意での眼科医療支援が始まったのです。
無料の治療・手術。そして人材育成。
少しずつ形になってゆく活動。
そんな日々の中でオヤマは思います。
「後継を生み出すという事は、未来に日本とミャンマーのつながりをつむぐことだ。
19万人の戦没者達に、この為に自分達はここに来たのだと思ってもらいたい。
みんなのキラキラ輝く笑顔。
これこそが間違っていない証拠だ。
どこにも負けない、金では買えないもので、ミャンマーと日本が繋がっている。
私とススの行動は表に出ることは無い。
橋で言えば梁の部分だ。それでいい。
この橋の上をこれからたくさんの日本人とミャンマー人が行き交えばいい。
19万人の戦没者も…きっとそう思ってくれるはずだ。」
ミャンマーと日本を繋ぐ架け橋になろうとする二人。
日本ではあまり知られていないミャンマー(ビルマ)と日本の物語。
米澤さんが心豊かなオヤマさんを演じておられました。
くすっと笑って、ほろっと来る、
お金ではない熱い心意気を持つ純粋な人でした。
報恩パンフレットより米澤観児さんのコメントをご紹介させて頂きます。
「千鳥が淵の戦没者墓苑に行き、花を添えて両手をあわせて見たのですが、
どうにも心の中に言葉が出てこないのです。
ただ静かに手を合わせる以外、もうどうしようもありませんでした。
戦後に生まれた人間として、これが正直なところだと思います。
でも素通りできることではないとわかっているのも正直なところです。
たとえ戦没者たちの心にまっすぐ向き合う勇気は無くても、
「なにか」はできるように思います。
今まで私自身は、ボランティア、支援などという事に関して
どこか社交辞令的なもの、あるいは心の中の見返り的なものが
どこかにあるような気もしていたのですが、
断じてそういうものではなかったのですね。
どこか、芸術にまっすぐ向き合う心に似たものを感じます。
小山さんをはじめとして、奔走され、今も活動を続けられている方々の
ご紹介の一かけらを担えればと、強く感じます。」
「これは与えられたもので、通らねばならないものだった」
と米澤さんがおっしゃっていました。
多分、思うにすべての人にとってそうなのだと思います。
「見返りを求めないということ」
「こころからの善」
深く考える機会を頂きました。
ただただ感謝です。
この「報恩」はセットも殆ど無く、どのような場所での公演も可能です。
個人様、団体様からの召喚公演を広く募集しております。
ぜひ、多くの方に観ていただきたい作品です。
ご興味のあります方はぜひお問い合わせくださいませ。
alifeアート企画のチャリティイベント公演「報恩」
ミャンマーへ医療支援をしている実在の人々の熱意とあたたかな心がどのようにして始まったのか?
ミャンマーとはいったいどんな国なのか?私たちは何ができるのか?
そんな始まりの日々を描いたたった二人で演じる朗読劇です。
《出演》 米澤観児 鈴木澄子
※売り上げの一部は
日本ミャンマー交流協会に寄付いたします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/d2/973f2f2e1a4bf9ed8cd6b20fba64dba8.jpg)
昨日は一日雨が降って寒かったですねー。
本日は朝から良いお天気となりました。
お洗濯が出来ると助かりますね(^^)
気がつけば12月も一週目が終わろうとしています。
時間が過ぎてゆくのは早いわー。
先週から今週も本当にいろいろなことがありました。
ちいさな幸せから、踏んだり蹴ったりな事まで
悲喜こもごも、さまざまでございます。
まさに波乱万丈、息つく暇なしの人生でござんす(笑)
アタクシに数々の座右の銘あれど
「波乱万丈」は代名詞ともいえる言葉でございますからね(^^;)
ええ、アタクシのことですわよ、人生の波乗りジョニーってのは(笑)
そんでもって今回乗りました波は少々大きく難関ざましたわー。
とにかく、まあ、いろいろ起きるモンですね(笑)
あまりにも予測不可能なことが多すぎて、笑っちゃうしかなくなります。
えー、先日、階下の方がおいでになり、水漏れがしてるから調べて欲しいと。
調べましたが我が家は何も変化が起こっておらず~。
しかし、水漏れが続くとかで、工事をすることとなり、
管理会社の方と工事の担当の方々が下見に参られました。
ところがそれ以来さっぱり工事の始まる様子はなく、
ただ給水に関しては限定されてしまって困ってたので
「いつ、工事するのかな~」なんて言ってたら
いきなりおとといの夜になって、
「明日、工事に入ります。必ず立会いお願いします」と。
工エエェェ(´д`)ェェエエ工工工エエェェ(´д`)ェェエエ工工
明日バイトやのにあり得へんやんかぁ!
どうせいちゅうねんな!
つか、前日にいきなりお知らせってどういうことやねん!
そんなん、あかんやろ!
と、怒ってたら、どうも階下のお部屋の水漏れが激しくなり、
もう雨の中に暮らしているような状態でにっちもさっちもいかなくなり、
工事の人も年末で忙しく、工事はずっと先の予定だったらしいが、
急遽キャンセルが出て、こっちに入る事になったらしい。
下の方が困っているとなれば、自分達に記憶はなくとも
うちの配水管から漏れてるんだろうし、仕方あるまい、
そこはご近所、困った時はお互いさまだし、協力せねばね(^^)
そこから、バイト先に連絡をし、夜通し、そして
早朝までかけて、工事のある場所を掃除。。。。
身体に不備のある身の上故にぐったり(--;)
そして工事に来たのはいいけど、狭い場所に5人・・・いらんやろ。
そしてどうやらあたしとぴーちゃんの居る場所なし。。。
しかし、マンションの傍を離れるわけにもいかず、
結局は駐車場の車の中に緊急避難。
ぴーちゃんと車の中に軟禁。そして雨。気温低下。
さぶいし、狭いし、目の前のレストランの客は
あからさまに覗いてくし、最悪の環境(--#)
そしてやっと工事が終った頃、バイト先からの連絡が。。。
なーんときちんと連絡したにも関わらず、
なぜか当日のドタキャンと言う事にされており、
お仕事がキャンセルにされてしまいましたとさ。
キャ━━━━(゜∀゜)━━━━!!
えーい!! (ノ ゜Д゜)ノ ==== ┻━━┻
明日からどないすんねん。。。。。
やっと友人からまわしてもらった仕事でしたのに。。。。
そして、今日も水の開通テストとかで。。。。一日つぶれましたとさ。
先週のネ~、病院行きから続き、何かと事が起き続けております。
けれども、
「あたしってば、なんでこんな事にばっかりなるのかしら?」
とかは昔から思わないんですよね。
昔、母親が何気に言っておりました。
「人間(じんかん・世間の意)万事、塞翁が馬だからねぇ」って。
天の差配によれば、宿命というものは替えることは出来ない。
だが、それにまつわる未来(運命)というものは、
その人の選びで刻々と変わっていくもの。
とすれば、災いと思っていたものが福となり、
福と思っていたものが災いとなることもある。
「確かさ」というものを図ることこそ「儚い」事なのだ、と。
大事なのはその時、感じている福や災いの数を数えることじゃなく
その都度生まれた事柄から、自分の魂にとってどんな意味があるのか、
どんな意味があったのかを学ぶこと、なのですよ、と。
起こる事柄に意味のないものはないのだから、ってね。
だから、幸せか不幸かなんて憂うほうがあほらしい、と(笑)
うん、基本的にうちは親父さん以外は能天気なのさ(爆)
親父さんはあれこれとブーたれる方なのでね(^^;)
何でオレばっかりとか、周りがきっとこう思ってるに違いない、とか?
うん、アタシ、そういうの、だーーーーーーーーーーいっきらいーーーー。
そういう、反面教師がいたので、自分のマイナス要因を
相手のマイナス面と同化させて考えることは致しません。
それを考えますと、まさに「塞翁が馬」です。
親父さんのそのマイナーコードだけで奏でて居る様な
シャンソンかジプシーの流れ歌かって様な暗い人生のメロディを
幼き日から延々と聞き続けたおかげで、いまや不幸のどん底
と人様がの判断する中でも、自分は陽気にカンツォーネや
どこまでも陽気なアメリカミュージカルソング歌って暮らせるわけですから、
何が幸いするものか解りませんでございますよね。
ということでね、今回の出来事も、どんな事になりますことやら。
ある意味、楽しみでございます(笑)
先日、天国に帰ったソウルメイト鎧ちゃんの実家に行って来ました。
自分の実家的存在な場所でもあります。
ここは智山派の密教真言のお寺で安養寺といいます。
仏さまのほかに色んな神様の居る場所です。
ちいさなお寺ですが、ここの雰囲気がとても好きです。
本堂も小さいけれど、本当に美しい。
庭には見事な樹たちが育っています。
今はすばらしく大きなイチョウの樹が見ごろです。
今年は年末はお寺で過ごそうかな、なんて思ってます。
写真は入り口傍の六地蔵尊。
人間の落ちる6つの苦難の世界から人間を救う仏さまです。
密教では凡字や真言という特別な文字や音を使いますが
お地蔵さまの真言は「オンカカカビサンマエイソワカ」
これを3回繰り返して言うといいらしい。
私はこのお地蔵さんを見るたびにマイフェイバリットストーリー
「かさじぞう」のお話を思い出します。
それこそ「人間万事塞翁が馬」なおはなし。
さて年末もみなさんにいい事ありますように
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