KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

そは名を 夢の街 といふ…

2013-08-28 | KOFUKU日記



《在りし日の夢の街建設中の相方さん》

NHKの番組に「明日はどっちだ!」というのがある。
その番組で関岡さんと言う女性の大工さんが取り上げられて
3ヶ月かかって家を建てる様子がドキュメントされた。
こつこつとその手を遣い、頭を使い、丁寧に仕事を進めていく。
時に涙し、時に悩み、それでも施主さんの夢を作ろうと必死で自分を奮い立たせる。
それを見ながら、いろいろ思い出す私がいた。



ここにひとつのウタがある。


「あい」 谷川俊太郎

あい 口で言うのはかんたんだ

愛 文字で書くのもむずかしくない

あい 気持ちはだれでも知っている

愛 悲しいくらい好きになること

あい いつでもそばにいたいこと

愛 いつまでも生きていてほしいと願うこと

あい それは愛ということばじゃない

愛 それは気持ちだけでもない

あい はるかな過去をわすれないこと

愛 見えない未来を信じること

あい くりかえしくりかえし考えること

愛 いのちをかけて生きること




「あぁ、なんだ」
そんなの誰だって知ってんじゃん、と思った人も多かろう。
こんな定義、誰でも感じてて、知ってるコトでしょ?と。
だけど、それがどんなことか、本当に知ってる人は、本当に少ない。
そう、私は思ってる。

たくさんの人が、いろんな愛を気軽に語れる時代になったから
みんなは愛を知ってると思ってるケド、嘘だ。
その分、人は愛を知ろうとしなくなった。

このウタはこの地上にあるもの、イヤ、宇宙の全てに、
物質でない感情のすべてに宿っている。
すべての愛のウタだ。





《夢の街の硝子の中にはイノチが潜んでいる》




「あい はるかな過去をわすれないこと

愛 見えない未来を信じること

あい くりかえしくりかえし考えること

愛 いのちをかけて生きること」


過去、未来、繰り返し、いのちをかけて生きる
そう最後で謳われている、このウタ。

そうだ。
人間って肉体としては百年足らずの人生しか生きられないのに
そのカラダの中に永遠と思うほどの時間を抱いてるから不思議だ。

なにもない闇の中、引き寄せられるように集まったモノが
ある日はじけて一つになって、星が生まれた。
星の体内で海が生まれ、その中でイノチが生まれて、
大地にイノチを繋ぎ、そして時代を紡いで今日がある。

人はその膨大な時の流れを、生まれ来るときにもう一度辿って生まれる。
この星に住む人64億人、一人一秒として全員出会おうとすれば150年かかる。
そんな出会いの奇跡の中、まるで宇宙にこの星が生まれた瞬間みたいに
なにもないところに引き寄せられた二人が出会い、見つめ合い、
そして、大きくはじけて、そのカラダの中に生命を宿す。
出会いは数え切れない時間の繰り返し。

そしてカラダの中でも、同じように何もないところに出会いが生まれ
そしてぶつかってはじけて小さなイノチの種がうまれる。
小さな種は母親の胎内に生まれた海の中で小さな魚になる。
手が生え、足が生え、しっぽが切れて、どんどん人になっていく。
母親の海の中から、這い出て陸に上がり、大地に足を踏ん張って立ち上がる。
何億万もの年月を10ヶ月で繰り返して来るのだ。

人として大地に立った私たちは、そんな永遠のような時を抱いた一人一人と
やっぱり同じように出会いの奇跡を繰り返しながら今を生きてる。

そんな人間である私の今日の足元には、
私の超えた時間の他に私のカラダにイノチを繋いだ人たちと、
その人たちが関わってきた全ての人の時間のすべてが包括されている。
喜びも悲しみも苦しみも、全て全て、そこに在る。
それが『今』という時間。

そんな尊い事実に深く気がついた、ある日。
私の中にはもう感謝しか残っていなかった。
その時間の前に、私はもう祈るが如く佇むしかなかった。


そして、さらに奇跡が起きて、何もなかったところに惹かれあうように
同じようにそんな時間に気づいた人と奇跡の出会いをし、
気持ちをぶつけ合って、お互いのココロの中にまたヒトツのイノチなるものが生まれた。
そんな永遠にも近い時間を感謝しながら今を生きられる場所を、
と私たちはある場所を作り、それを《夢の街》と呼んだ。





《ほら、夢の街の扉を通っておいでよ》



夢は見ているだけでは、儚く消える、ただの夢になってしまう。
夢のような話は、およそ夢とは似ても似つかない現実で守ってやらねば本当の夢にはなり得ない。
《夢の街》をこの世に誕生させるには、その現実に立ち向かわなくてはならなかった。

私たちには資金的に応援してくれる家族などは持っていなかった。
少なからず、私の家族はしたくてもできない立場にあったし、
相方さんは自分事だから、家族には迷惑をかけたくないし、言えない
と相談すらしなかったのではないかと思うが、私は敢えて聞かなかった。
だから、たった二人と一匹でこの街の建設を始めた。


私たちは恵まれて、ひと握りしか入れない世界にいたけれど
既にフリーで仕事をしていたから、俳優だけでは食べていけなかった。
食べるより何より、芸術を優先する二人の生活はカツカツだった。
仕事を優先するから、毎日バイトしている人のようには稼げない。
稽古も色んな出費もある。相方の給料は全部それらに消えた。
私が稼ぐわずかのお金だけで生活を切り盛りした。
100均のクズみたいな野菜くらいしか買えなくて、
立派なものなんか何も食べられない時もあった。
行けるだけ朝早くから、夜遅くまでバイトに出かけて、
ひと品でもいいものを食べさせたいと何時間も残業した。
そんな気持ちを分かってか、彼は出されるものに文句をつけたことなど一度もなかった。
もちろん、今日の今日まで、そんなことは誰にも言わなかった。
(私たちを知ってる方、そうだったのかと思っても会った時はスルーしてね)

それでも舞台が入れば、私たちは相方だ。
表と裏、分担は違うけど同時にそこに時間を費やす。
ということは働けない。私は支える側だから、
わずかな持ち物を売ったり、頭下げてお金借りたりして生きていた。

それでも、夢を現実にしたいから、諦めたことはない。
私はどうしたって、彼の夢の街を現実にしたかった。
そして、それは一個の夢を一緒に見てる自分の夢だった。
お互い二人分の夢を背負ってるから、それぞれがそれぞれの立場でできること、必死にやった。
本当に、10年前に亡くなったソウルメイトとの人生もそうだったけど、
100%のチカラで、その時に自分のできる事を全部やった。
もう、人に何を言われようが、どんな仕事だろうが、
夢を現実にするために何でもやった。本当に何でもやった。

そう言う時間をこなしながら、同時に夢を現実にするための時間を作り出し作業をしていった。
スポンサーを探し、プランをねって、自分たちの舞台を、劇場を作る努力を重ねた。
休みの日なんか、一日も無かったし、自分の為に遊ぶとかも無かった。
いや、そんなものはいらなかった。夢を叶える方が何千倍も楽しかったから。
もう、生き方としては限界ギリギリで全速力だったけど、苦しいのすら面白かった。

スポンサーがついてからは、もうさらに必死だった。
両方が空いている日は相方とピーちゃんと一緒に車に乗り込んで、
遠くの街まで材料やセットやいろんなものを探しに行った。
舞台のセットも、工場を借りて、バイトしながら徹夜して、二人で作った。
寒い冬の工場の庭で、雪が舞う中をペンキを塗った。
朝、二人共寝ないままバイトに出かけた。

そして劇場を作らせてもらえることになり、店を探すようになった。
バイトしていても上がればすぐに東京中を歩き物件を探した。
何ヶ月も何ヶ月もそれを繰り返して、原宿でやっと見つけた店。
そこが私たちの《夢の街》になった。


店が決まり、オーナーに希望を上げて試算を出した。
業者からは最低2000万、希望通りなら3000万かかると言われた。
劇場だから建設費だけではない、照明や音響や特別な資金がいる。
カルチャースクールとしても機能させねばならないから、そのための資金も出て行く。

相方さんと私はどうするかを話し合った。
そして彼が出した答えは「業者を入れず自分で作る」というものだった。
そうすれば資材費だけでいいからだ。
最低限の生活費だけ出してもらい、彼と私はバイト先に長期の休みをお願いした。

建設には3ヶ月かかった。
その間、彼は一度も自宅に帰らなかった。
私も同じで、荷物を取りに戻るだけ。ぴーちゃんも一緒だった。
秋から冬にかけて、3人でまだ床も貼られていないリノリウムの床の上に
ダンボールをしいて、その上に寝袋をおいて生活していた。
まだ暖房も、水も、なにも無かった。そんな状態で3ヶ月を過ごした。




《最初はこの床の上で寝てましたね(^◇^;)》


私は同じようなこと(エンタメカフェ)を10数年前にも経験しているので、
その時もそんな生活だったから、そのせいか今もふかふかの布団だとうまく眠れない。
今も畳の上に薄い掛け布団を二つ折にしいて転がって寝ている( ̄▽ ̄;)
なんと言うか、ベッドでゆっくり寝るようにでもなったら、
私の中の芸術人としての大事な何かが死んじゃうかも、
とか感じて怖さもあるのだ(笑)多分、私特有の職業病なんだろうな。




《材木の山を前にしばし思案する相方さん》


ぶっちゃけ、オーナーはお金は出してくれる人だったけれど、
相方と私は手放しでそれは受け入れられなかった。

―自分たちの命になるような場所を作るのだから。
他人にお金だけ出させるわけにいかないじゃないか。
出してあげようという人の汗水流して得たお金を大事にすることが、せめてもの誠意―

彼はそう言った。
資金を少しでも、減らすために材木やビスや工具も全部自分たちで探しに行き、買いに行った。
ホームセンターで処理してあるのを買えばそりゃあ楽だが高い。
一軒を丸まるっと改装するわけだから、必要な量が半端ない。
それでは経費が高くなるからと、材木問屋でザラザラの表面のままのを購入した。
大きなトラックで運ばれて来たそれは、店の前の駐車場に降ろされて
バイトに行ってる相方の代わりに、私が一人で、何時間もかかって中に運び入れた。
運んできてくれたお兄ちゃんに、「筋いいね、大工になれるよ」と言わしめたくらいだ。
確かに150センチの身長で材木を束のまま担げる女なんて、
なかなかいないんじゃないか?、とは思う(笑)



《私が一人で運び込んだ材木たち》



買った材木は表面がザラザラのままだ。表面を削らねばならない。
相方さんと時々手伝いに来てくれたチョッピーくん、そして万ちゃんと
(この二人が居てくれなかったら完成していない。本当にありがとう。)
来る日も来る日も板をカンナかけたり、サンダーで削って磨きをかけた。
部屋の中は木屑でいっぱいだった。

相方さんはその木屑や粉になったものも、ほとんど捨てなかった。
これは人から与えていただいた愛情で、その人の大切なお金だから、と言って。
そして、それらはすべて、いろんな形で工夫されて建築材料に使われていった。

相方さんは時折、バイト先に呼び出されて、断れなくて、そこから彼はバイトに出かけて行った。
そんな日、私は日がな一日、一人で材木を削って磨き続けた。
一枚、一枚、何百枚という板をひたすら削って磨いた。
ただただ作業した。毎日、木の粉だらけで、森の精みたいな香りがした。





《材木を削ってます。全く正体がわからないけど、あたしです(笑)》




結局、業者にやってもらったのはエアコンの取り付けだけだった。
あとの設置類は全部、相方さんがやった。
そして床を張り、壁をはった。
防音はプライベートビーチを持つ友人の砂浜から何度も砂をもらってきて
壁を箱状にして、中に砂を詰めて、防音シートをはって仕上げた。

この場所は相方さんの劇場だけでなく、私の個人的な奉仕活動の場でもあった。
私の中のコンセプトに合わせて、相方さんがすべてデザインした。
私の頭と心の中を一生懸命覗いて作ってくれたのだと思う。
それはそれは素敵な場所だった。

私を思ってくれたのだろう、そのイメージを最大限に表現したいと
お金がかかっても、建具や内装だけはこだわってくれて、
私の希望に合わせて、すべてアンティークを探して使ってくれた。
昔の建具だから、窓枠なんかも売ってない。だからそれも全部相方さんが作った。
ドアも、家具も、キッチンも夢の街のものは彼が作ってくれた。


 

《ドアを製作中の相方さん》


お互い眠らないで作業した日も何日もあった。
でもただひたすら楽しく充実していた記憶。
ぴーちゃんも一緒にそこで過ごして、3人で頑張った。

《夢の街》はシアターとして幕を開ける予定だったから、
建設途中の雑多な中で、こけら落とし公演の稽古も重ねた。

 

《私たちの魂の家族でもある青木結矢くん。
空気の悪いところで本当に頑張ってくれました。》



相方さんはセットや美術も作りながら作業を進めていきました。



《稽古以外の時間はひたすら作る。深夜でも作る(^◇^;)》




《疲れたらぴーちゃんと床に何か敷いて転がって仮眠》





《そんな相方さんをずっとヘルプしてくれたチョッピー君 もう一生感謝です》



途中、日本中に散らばる心友たちが、それぞれ声を掛け合って
そして、自腹でみんなでやって来ては手伝ってくれました。




《全員で板を削ったり磨いたり床を貼ったりしてくれました》



全員、木屑だらけになって、壁板をはったり、専用塗料を塗り重ねて黒板を作ったり。
みんな、本当にボロボロに疲れるまで、頑張って手伝ってくれました。




《一生懸命、掃除機をかけてくれている“お父さん”こと、大家さん》


私と地元が同じだった大家さんは、もともと日本テレビのディレクターで
同じビルの4階に住居があって深夜でも作業していいとご許可くださり、
毎日覗きに来ては、ニコニコと手伝いをしてくださって、

「ここはね、俺の夢の場所でもあるんだ。
俺が出来なかった夢が今ここで叶ってるんだよ、ありがとう」

と言って本当に家族のように良くしてくださいました。


私たちの夢に耳を傾け、ご自身が培ってきたものを分けてくれた
スポンサーさんやオーナーさんをはじめとして(一生感謝しています)
仕事の仲間や友人、いろんな立場から、たくさんのモノを分けてもらいました。
直接、ここにかかわらなくても、そこまでの日々、出会った人々が
この場所を支えてくれているというのは、紛れもない事実です。
その人たちがいなければ、誰一人欠けていたって、ココはありませんでした。
みんな、みんな、二度と返すことのできない時間や思いを惜しみなく分けてくれました。
そう言うもの全てに守られ、愛され、支えられて《夢の街》は生まれたのです。




《劇場としてのスタートが始まった夢の街の入口で…》




《稽古中の俳優たち》


《夢の街》にはいつもお芝居があって、いつも俳優たちがいました。




《お芝居がない日も、照明であちこちが彩られています》

セットも照明もすべてあって、誰でもその空間に入ることができました。


 

《羊毛で作られた天使さんと家具を作る相方さん》




《お客様と共に分け合う手作りのお菓子》

やわらかな手仕事が作られる空間があって




 

《仲間たちが訪れては音楽を奏でてくれます》

そこここに音楽やダンスがあって、共に楽しみます




《心友が描いてくれたお正月の黒板絵(チョーク画)》

芸術が当たり前のように顔を覗かせていて





《いつも自然が部屋の中に存在していました》

みんながあちこちから季節を連れてきてくれて




《たくさんの本がある小さな図書館》


手作りの図書館があって




《自然素材のおもちゃだけが置いてある“こどもの家”》

子どもが自由に遊んでいい、ちいさなおうちがあって




《ライアー(竪琴)を奏でる音に耳を澄まします》


子どもたちが楽しく笑う声が聞こえて




《朝、お客さまが来るのを待つぴーちゃん》

ぴーちゃんが当たり前のようにちょこちょこしていて

東京のど真ん中、大都会の中の原宿、原宿通りの端っこにあった《夢の街》
《夢の街》はそんなあたたかい場所でした。


世は折しも空前の不景気に突入し、この場所は姿を消すことになりました。
業者に頼んでしまえば、一瞬だったかもしれませんが、
この場所を去らねばならなくなった時も相方さんは文句ひとつ言いませんでした。
ただ静かに経費を少しでも安くしたいし、自分の作品だから自分で元の姿に戻したい、と言いました。
作った時と同じように、床に直に寝泊まりしながら、少しずつ元の姿に戻していきました。
あたかもそれが元あったところに戻すように、丁寧に丁寧に、彼は作業を進めました。
2ヶ月半かけて、さようならの作業をしました。




《どんな時もぴーちゃんは一緒》


その間、彼は買い取れるものは、全て自分が買取りました。
はがした材木も本当に使えないものだけを処分して、
友人に頼み、全て運んで大切に大切に保管しました。
本当に小さな端切れですら、ボックスに入れて大切にしていました。
そうして終わりの日を迎えたのです。

けれど《夢の街》の灯火が消えるのを惜しんでくださった人々のチカラで
小さいけれど素晴らしい場所にそのイノチを移すことになりました。
その場所は劇場としては使えないけれど、それらを全て総括した手仕事工房として再スタートしたのです。


その時、相方さんは私ともう一人の仲間の為に一生懸命手伝ってくれました。
作品に使うための額を作ってくれたり、箱を作ってくれたり。
配線や照明を変えてくれたり、本当にいろいろしてもらったんです。

ある日、仲間が彼に依頼をして工房の床を張ってもらうことになりました。
彼は忙しい中を時間を割いて床をはってくれました。
預けたり保管していた材木を持って来て、少しの無駄も出さないように
出来るだけ綺麗な仕上がりになるように、細心の注意を払って作業をしていきました。

ときには一度はったものをはがして、デザインを変えてやり直したり、
それはそれは、丁寧にやってくれました。
「仲間がやってほしいというのだから、自分のできる精一杯のことをしてあげたい」
そう言って、仕事帰りで疲れている時も、
少しでも時間があれば、やって来て作業してくれました。


少し余談になりますが、この作業をしているとき
長野に住む心友のお父さんが訪ねてくださいました。
心友のお父さんとも20年来のお付き合いです。
ちょうど作業中で相方さんもいて、心友とは相方さんも仲良しだったから
相方さんと心友父はお互いに挨拶を交わしていました。

作業に戻ります、と相方さんが部屋を出ようとした時でした、
心友のお父さんが相方さんを呼び止めました。
そして、
「K君、福ちゃんを末永く、一生幸せにしてやってください。
どうかそれだけはよろしくお願いします。」
そう言って、深々と、本当に深々と頭を下げてくださいました。

すると、人見知りで、人前では恋愛関係を一切見せないと決めている彼が
神妙な顔をして、真っ直ぐにお父さんの方に向き直り
「分かりました」
と言うと、お父さんと同じように深々と頭を下げてくれました。

いやぁ、よかった、それを聞けて、よかった、安心したよ、
とお父さんは私に言って、ニコニコとそれは嬉しそうに笑ってくれました。
彼が亡くなる半年前の出来事です。

その後、彼がなくなってからも心友のお父さんとはたまにお便りをやり取りしますが
ある時いただいたお葉書に短くこう書いてありました。

「私は自分が彼に福ちゃんの事を一生お願いしますと言ったこと、
そして彼が私の目を見てしっかりと分かりましたと返事をしてくれたこと、忘れません。」

一人になり、すべての世界から離れて郷里で暮らす私には本当に嬉しかったです。
今でも、そのはがきはタカラモノで、大切に大切にしています。
自宅とかどこかほかの場所でなく《夢の街》でそういうことがあった、
ということは、私にとっても、一生忘れえぬ特別なことです。
そんな日常を繰り返す中で、彼は一人、黙々と床を仕上げていきました。

ここから掲載するのは、全て彼のケータイに収められていた写真です。
今まであまり掲載したことがありません。
相方さんは写真が好きで、とにかく毎日写真を撮る人でしたが、
製作した全てのものもこまめに記録していたのです。
実に膨大な数の写真が残されています。
それこそ、何千、何万の単位で写真データが残っているのです。
この床などは、本当に少し張っては確認し、写真にとっていたようで、
それだけココロをこめて作業をやっていたということだと思います。


 

《作業のそばにはいつも愛娘のぴーちゃんが一緒》




《張られ始めた洗足夢の街の床》



《少し進んでは撮影していました》


 

《どこも細部までこだわり抜いた仕上がりにしてくれました》



こうして出来上がった床でしたが、いろいろなことがあり、
作られた意図の為に大切にしてあげることができませんでした。
私のために作られた床ではありませんでしたが、それが本当に悲しくてなりませんでした。

先日、「自分のものじゃないから多少手荒に使ってもいいと思った」
と言う様な考え方もあることを知りました。
もちろん、そうおっしゃった人がどうとか、攻めてるとかじゃありませんよ。
その時の私はなんといいますか、生かされない、それを見ていて、
まさに「自分のものじゃないから別にいい」と言われたような気持ちだったのです。

なぜなら、彼がこうして一枚一枚、写真を残すほどに仕事をしたのは
その板切れの、切れ端の、本当にカケラのヒトツヒトツの中に
自分が寝る間を惜しんで、その板を探しに歩き、時間をかけて吟味して購入し、
丁寧に丁寧に、一枚一枚を削り、磨きあげた、あの日々があるから。

遠くから高いお金をかけて、手伝ってくれた友のあたたかな愛と
一生懸命作業してくれた、そのぬくもりがその中にあるから。

この板切れが劇場として生きていた時、役者の持つ苦しみや悲しみを一番知っていてくれるから。
お客さんの喜びを誰よりも知っていてくれるから。

私がここまで書いてきた、太古の昔から連なるイノチがあると知っていたから。
その繋がってきたイノチは、人のイノチそのものであり、
喜びや、悲しみや、苦しみや、努力や、生きてきた思いの全てだから。

《夢の街》の魂の一部だから。
それは、彼と私の魂のカケラだから。
私そのもので、彼そのものだから。

何よりも、彼が精魂込めて、その仕事をしてくれた理由は、
依頼してくれた人がそれを、きっと理解してくれる、
この尊いモノを受け取るにふさわしいと信じていたから。



相方さんがこの世を去り、天の夢の街に身を移し
地上の私にはいろいろなことが起こりました。
彼とともに私も長く暮らした都会から、自分の故郷に身を移しました。
それまでに、私は自分の心と裏腹に、彼と私の魂の一部であるものを
それはそれは、たくさん失なわなければならなかった。
悲しかった。
納得できなかった。
でも、どうしようもなかった。

だから、少なからずとも、大切にしてくれるであろう人に分けました。
高価なものも多かったから、売ってお金にすれば?
と言われたけれど、私はそれだけはできなかった。
相方さんと歩んだ日々を、そこの込められたたくさんの人の年月を
薄っぺらいお金に変えるようなことはしたくなかった。

でも、時折、心配になります。
夢の街のカケラたちは、たくさんの人の、彼の、私のイノチはちゃんと愛されているかな?と。

もし、ここに、私からギブ・アウェイされたモノを持っている方がいたら
どうか、ホンの少しでいいのです。ここに書かれた事を思い出してください。
あなたの持っているものには、太古の昔からの大きな流れがあるのだと。
それは、誰かのイノチのカケラでもあるのだと、どうか知ってください。

それらは、私たちがいらなくなったものでは決してありません。
ゴミでも、クズでも、板切れでもありません。
私たちにとって、この世で一番尊い愛を抱いた宝物なのです。
そして、私たちの命の一部です。
そして出来ることなら、それらを愛して頂けたら、と心から願っています。


私は今まで、こういうことを語ることをタブーとしてきました。
一緒に歩いている人が誰とか、私がどんな立場で、何をしてきたかとか。
10年以上前に亡くなったソウルメイトの鎧ちゃんとの人生の時も
また相方さんとは違う形でしたが、同じように生きていましたが同じでした。
となりにいる人が夢を叶える努力をして、私がそれを支える。
でも、親しい人にもほとんど話したことがありません。
だから時には、何も知らない仲間たちに
「ちょっとぐらい、支えてやって金出してやんなよ」
と言われたりたことも多かったです。
こういうことを公にいう事が、彼らのココロの負担や
マイナスイメージになってもいけないとも思っていました。
だから言わなかった。


でもソウルメイトが亡くなって10年以上が経ち
相方さんが亡くなって3年が経つ今、
私は私たちの生き方に誇りを持って語ろうと思います。
私たちは同志で、戦友で、愛する者同士だった、から。
そうやって、二人で一つだったのだから。
それを、誇りをもって語りたいと思う。
私と歩んでいたことを語ってもいいだろうって、そう思う。


そして、そこにあったものが、彼との日々が、《夢の街》が、
どれだけ大切なものだったかを、見ないふり、気づかないふりをしてきた
私自身のココロに真っ直ぐに語ってあげたいと思う。

そして何より、私たちのそばにいてくれた人にも、それを語る事で
私たちがどれだけ周りに感謝して生きていたのかをお伝えしたいのです。
本当に、本当に、ココロからの感謝をお伝えしたい。
本当なら、一人一人の手を握り、お礼を言いたい。
そんな気持ちをお伝えしたい、と日々、思っています。


この時代の長い繰り返しが、出会うヒト、コト、モノの全てであって
彼であり、私であり、《夢の街》です。

この想いは相方さんが教えてくれたものです。
だから、私は忘れません。
どれだけ、周りの人が私を忘れてしまったとしても、私は忘れない。
皆さんとの出会いは、私のイノチの中に生きているから。
私の、彼の、一部だから。わすれない。




ご家族や親しい人は、彼らの話を、この話を読まれて複雑かもしれない。
そんな無理をしなかったら、死ななかったんじゃないか?と思われるかもしれない。
なぜ止めなかった?無理をさせた?と思うかもしれない。
それは仕方ない思いだと、私は感じる。
だから、その非難は私が背負って生きていく。そう思ってる。

だって、私は、なぜ彼がそれを選んだか知ってるから。
それを、誰が知らなくても、私が知ってるから。
私は止める気なんか、これっぽっちもなかったから。
だから、そんな非難は私が背負う。背負って生きていきます。


彼らと歩んだ日々が作る今と《夢の街》は
私の中でしっかりと生きていて、ささやかな灯火ながら
この南の地でゆっくりと確かなイノチを刻んでいます。

もしかしたら、近いうちにそんな場所から生まれる何かを
彼らのイノチを継ぐ何かをお届けできるかもしれません。
そこには、太古の昔から巡る全てがあります。
今日まで、出会った人のイノチの全てがあります。
何より大切なものがあります。
いつか、それをお届けできたらと思っています。


これをお読みくださる、あなたの持っている
ちいさな何かにだって、同じものがあるのです。
あなたの今の中に、誰かのすべてがあるのです。
家族の、友の、自然の、宇宙の、すべてが、時間の全てがある。
だから、この世に尊くないもの、価値のないものなんて一つもないと、私は知っています。





《彼が愛したこの子にも、全ての時が流れてる》




あい それは愛ということばじゃない

愛 それは気持ちだけでもない

あい はるかな過去をわすれないこと

愛 見えない未来を信じること

あい くりかえしくりかえし考えること

愛 いのちをかけて生きること





真実、愛を生きると言うこと。

そは名を《夢の街》と言ふ…



1000通目

2013-08-16 | KOFUKU日記



【今年のお盆も終わりです】



いのちの記憶


あなたに触れた よろこびが
深く 深く
このからだの 端々に
しみ込んでゆく

ずっと 遠く
なにも わからなくなっても
たとえ このいのちが
終わる時が来ても

いまのすべては
過去のすべて
必ず また会える
懐かしい場所で

あなたがくれた ぬくもりが
深く 深く
今 遙かな時を越え
充ち渡ってく

じっと 心に
灯す情熱の炎も
そっと 傷をさする
悲しみの淵にも

いまのすべては
未来の希望
必ず 憶えてる
懐かしい記憶で

いまのすべては
過去のすべて
必ず また会える
懐かしい場所で

いまのすべては
未来の希望
必ず 憶えてる
いのちの記憶で







【お盆中、小さな人たちは相方さんたちと会えたかな?】




相方さんとの天地通信が1000通目を迎えました。
そっちの高みに引越てから1000日目です。

時が経つのは遅くて早く、早くて遅い。
全て変わったようで、何も変わらなくて、
不思議な時間が流れてる。

でもこの日々が向こうへ続いていることだけは確か。
そんな確かさにこの魂で触れるために
この続きを書き続けるのだろうな。

「さよならは、また逢う日までの約束の言葉です」

チャリティで日本中を巡っている時に
ご覧くださったお客様が言ってくださった言葉。

この道をたどって、約束を果たそう。
「またね」の約束。

さよなら、また来年。



特攻花

2013-08-15 | KOFUKU日記




【青空の下、咲く特攻花】


一つの敗北が 次の敗北を呼んで、いつか
日本は負け戦の渦に飲み込まれる

たくさんの若者たちが天国の門をくぐって行く
南の海で 青い空で 深い森の中で

泥沼の戦争の終わり 最後を飾ったものは
深い傷跡残す花火 生命奪う 花火

(ミュージカル李香蘭より)




南の大地には、初夏から秋にかけて、
この黄色いコスモスのような特攻花があちこちに咲いている。
私の本籍は特攻隊の基地があった場所。
その周りもこの花でいっぱい。

特攻機が飛行場から旅立つとき、送り出す少女たちが兵士に花を贈った。
この黄色い特攻花を花束にして贈ったという。
この花を抱えて、若き兵士たちは特攻機に乗り込んで旅立っていった。

飛行場を飛び立つと、飛行場の上をぐるりと旋回し
3度羽を振って下にいる人たちに別れを告げる。
それから開聞岳を目指して飛ぶ。
開聞岳を抜けたら東シナ海、日本の大地との別れの時が来る。
その開聞岳を抜けるとき、兵士たちはもらった花束を
大地に向かって捧げ、この先の日本と愛する人の平和な未来を祈り、
日本の大地に永久の別れを告げて南の海に飛んでいった。
その花から種が落ちて、花が大地に根付き、一面の花畑になった。
そこは特攻岬、と呼ばれている。


私のカラダの中には、どういうわけか戦争というものを過敏に捉えるアンテナがあるらしい。
母も本当に魂の根っこから博愛の人だったけれども、
たぶん私も母のように善人ではないけど平和が好きだ。

父方、母方共に旧家で、それなりの地位にあった
我が家のルーツの中からは「戦」の姿は消せない。
シベリア帰還兵の祖父を持ち、原爆の語り部の大叔母を持ち、
特攻兵たちを涙ながらに死に送り出した祖母や母を持った私は
役者と言う仕事について以来、ライフワークのヒトツとして
イノチや愛についての小さな舞台作品を書いて上演してきた。

なんで、そんな風に思うようになったり、書くようになったのか考えると
たぶん、幼い日に南九州一の神社でもある開門神社の奥、御神体の前で、
祖母の親友だった九州一の霊能力を持つというおばあちゃん巫女さんにお会いし、
そこに、お祖母ちゃんが降りてきて、たくさんを話しをした経験が大きいかもしれないなぁ。

「今まで、イノチが続くなかで、たくさんの争いがあって
人様のいのちをとったり取られたりしてきた昔がある。
身罷ったイノチの中にはまだ迷ってる方も恨みを持つ方もいるから
そういう人たちが、はやくこちらの世界に来られるように、
もう二度とそんなことがないようにと平和を祈る生活をしているのだよ」

おばあちゃんはそんな事を教えてくれた。
そんな言葉が心の奥深くに根付いて花咲かせたのかもしれない。

私の書くものは、いずれも実話をベースにリ・イマジネーションした創作ばかり。
(もちろんオリジナルも書くけど、少ない)
舞台は世界のあちこちで起きた戦争をテーマにしていることが多い。
戦争時を描いても書きたいのは反戦じゃない。
もちろん反戦活動するつもりも、してるつもりもない。
戦争時と言う究極の時ですら、人間のイノチの生まれいづる場所から、
人のタマシイの奥深く、何かが生まれ来る場所から、
途切れず生まれてくる愛やイノチを書きたいと願う。
反戦を掲げたいのではなく、普遍的な愛や平和を語りたいって想う。
そんなココロが争いをなくし、愛を選ぶことになる
そんなちいさなカケラになったらいいと心から願いながら書く。


最初に書いたwar storyはこの地元の特攻隊が舞台の二人芝居(半朗読劇)だった。
「ホタル」という映画にもなった特攻兵のエピソードを私なりにアレンジして書いた。
それを書こうと思ったきっかけは、昔のことだけれど、まだ劇団研究生の時、
友人と一緒に帰省して、同じ劇団にいたお兄ちゃんの家に泊まりに行った時のこと。
兄ちゃんの実家も特攻隊の町にある。夏だったから慰霊のお祭りがあった。
今もゼロ戦や宿舎の残る、特攻基地のあった場所で行われる慰霊祭。

お祭りもたけなわになったときだった。
人々の群れより、ずっと後ろの方から見ていた私たちだったけど
兄ちゃんが私をイキナリ掴んだ。
びっくりして振り向くと兄ちゃんが静かに指をさした。

「福ちゃん。ほたるだよ。魂が帰ってきた。」

指さした方に小さな光がふわりふわりと飛んでいる。
本当にふわりと舞って、すう、と兄ちゃんの肩にやってきてとまると、
また舞い上がり、ふわふわと夜に吸い込まれて消えていった。

そして、驚いたことに、それは私と兄ちゃんにしか見えていなかった。
お兄ちゃんはもともと亡くなった人が生きている人のように見える人だ。
人のイノチの波動が光になって見える人で、体の悪いところとかもわかる。
優しい、本当に魂の綺麗な人だ。
ついでに自分の祖母もおじも同じような力があった。
だから、目の前で起きたことは何ら不思議じゃなかった。

光を見てるとき、不思議な感覚がした。
あぁ、この感覚…そこに人がいたんだ、と思った。
自分が初めて参加したミュージカル作品は「李香蘭」と言う戦争ものだった。
お兄ちゃんズの一人が特攻兵の役で舞台に上がっていた。
その劇場リハーサル見学の時、ちょうど特攻兵たちが言葉を残していくシーンでのこと。
後ろに誰か立つ気配がした。いや、立てるわけないのだ。
本番稽古の真っ最中で、しかも後ろには同期が座ってる。
すると、隣にいた仲良しの子が、こっちを向いて手をギュッと握ってきた。
明らかに気づいている。
すると、肩に両手が置かれた感触がして耳元で声がした。

「ホントのことだよ」

細くて優しい声だった。怖くなくて、あたたかかった。
この出来事を忘れないでね、と言われた気がした、あの時と、同じ感覚。
その時、いつか「ホタル」のことを書こう、書かなくちゃイケナイ、って思った。


山の中の町があるところから特攻基地に行くまでに川がある。
川岸には丈の高い草の葉が揺れているところも多い。
夏のはじめ、川岸に降りて、草葉を揺すると無数の蛍が天に舞う。

この町は日本でも有数の星降る町で有名な場所。
蛍たちに囲まれて、大地と天が繋がって、
まるで自分が星空に浮いているような錯覚が起こる。

私の作品には年の離れた隊長さんと若き兵士が出てくる。
その若い兵士は町の食堂に勤める女性に恋をしているが
死にゆく自分の身を知っていて、告白はしていない。
その3人で蛍を見にゆく。
そこで、こんなシーンが展開する。


飛び立つ蛍に顔をあげれば、夜空に満天の星。
まるで身体が星の中に浮かんでいるようです。

「これが知覧の蛍です。」
そう言って八重は笑顔をむけました。

「美しいです。まるで星の中にいるようです。」

「まるで別世界だな。ここで戦争しているとは思えんな」

「ほんとに…。この光の一つ一つがまるで魂のようですね。
…隊長、八重さん、お二人は魂は永遠のものだと思いますか?」

「なんだ、やぶからぼうに」

「自分は死んでも魂は生きるのだと信じてるんです。
魂は死んでも生きて、愛する者達を永遠に守ることができるのだと。
今日、このホタルを見て、ますます、その思いが強くなりました。」

「…そう、だな。そうだ!俺たちは永遠だ!
奇しくも貴様と俺は生死を共にする事になったわけだが
俺たちは死んでもこの日本を守るぞ!なぁ、椿!」

「はい!」

「そうだ、では死んでも魂は永遠だってことを俺たちで証明しようじゃないか。
おい、椿、どうする?」

「…では、我々が見事、本懐を遂げたら、このホタルの姿を借りましょう。
この美しいホタルになって帰ってこようではありませんか」

「ホタルか、…いいな、うん、それはいい」

「…八重さん。もし、自分が出撃したら、必ずホタルになって帰ります。
一番にあなたに会いに行きます。
必ず行きますから、決して追い出したりしないでくださいよ。」

椿は真剣に、それでいて満面の笑みをたたえて言いました。
それを聞く八重の目にも、隊長の目にも涙が光っていました。

(war storys「友」より 作・夢街福)



このあと、二人は出撃しますが、機体トラブルで隊長だけが帰還します。
そして、その夜、一匹の蛍が戻ってくるのでした。
私の話は想像にしか過ぎませんが、蛍になって帰ってくると言い、
本当に蛍が戻ってきて皆で迎えたというエピソードは実話です。

お話の中で、死んでしまう少尉は、隊長に悔いを残すな告白しろと言われますが
愛する人に悲しみを残して死にたくないと最後まで告白しません。
上のシーンは、そんな少尉の精一杯の愛の告白、
「あなたを愛していました。これからも永遠に愛します」
と言う、人生で最初で最後の愛言葉なのでした。

これはお話だけど、本当にそんな時代があって
そんな風に愛を終えていった人達がいる。
魂になっても、戻ってきたい人達がいる。
生きたい明日を諦めなければならなかった人達がいる。
昔も、そしてどこかで争いが続く今の時代も。


「勝てば官軍負ければ賊軍」

そんな言葉がある。
争って勝った方が「正義(正しい)」、負けたら「不義(間違い)」
「聖戦」とかって言葉もある。

バカめ。ほんと、あたしら人間ってバカだな。
勝っていい戦争も、負けていい戦争も、あっていいもんか。
聖なる戦なんか、あっていいもんか。
私は心底からそう思ってる。

こんな日に、こんな事を書けば、右翼だのなんだの騒ぐ輩もいるだろう。
言っとくけど、アタシは右翼でも左翼でも「ナイ」ぞ。
そんなもんに私を振り分けられたくない。

アタシは、種類をわけねば人と関われない世の中なら無くていい、と思ってる。
もう、そんな風になっても生きにゃならんなら人間やめてもいいと思ってるよ。
もう、そうやって、種類を分けている時点で「戦争」じゃないか。
究極、そんな風に思ってる。

この区切りのない宇宙の、どこにも線引きのない地上ですら
見えない線が引かれて、色が違うとか、言葉が違うとか、習慣が違うとか
そんなことでしか一つにしかなれず、群れて戦うなんて、私にはアホらしい。

違うのはイケナイの?
違うって、その違うものを知るためじゃないの?
知るって、愛する第一歩じゃないの?
それを「違い」と否定するなら、人は永遠に一歩を踏み出せない。

生まれた場所を愛するのが、悪いこととは思わないよ。
それはもう、当たり前の感情だし。
でも、だからって生まれた場所以外を否定するのは?
ねぇ?どうなの?本当にそれでいいの?そんな否定を繰り返しながら
「ヒトツ」「平和」とか言ってるその口は一体どんなヒトツと平和を何を語るの?
聞かせてよ。私はいつもそう思ってる。

もちろん、人にはいろんな考え方も信念もある。
それは悪くない。それもわかってる。
その考え方の下には、正しいことも、そうでないこともあると思う。
ただし、この世には真理ですら、
人がいるだけ数があるという事、私は忘れたくない。

だから私は、自分をはっきり持ちたい。でも、それは私がわかってればいい。
自分が考えて出来ることを精一杯やることが何より大事、そう思ってる。
だから、私はどんな考えも否定しない。
だけど肯定もしない。是も非も持ちたくないと思ってるから。
それは、戦争というものに対してだけでなく、何事にも。
人間関係であれ、政治であれ、なんであれ。

だからデモもやらない。
善い悪い、正しい正しくない、を宣言することには参加しない。
たとえ正しいことであっても、そこに誰かを裁く言葉や
行いがあってこその正しさなら同調はしたくない。
あたしにとっては、それはいろんな立場での
正義をかざした小さい戦争にしか思えないから。


それよりは、みんなで同じモノを見つめられるようになっていく努力をしたい。
それが今かなわないとしても、未来を見たとき、自分にはそれが大事だから。
私自身はどんな道をたどっても相手を愛したい。

「あなたはわたし わたしはあなた」

これは私のモットーだから。
この世界に存在する、すべての私とヒトツになるために。
正しさを競うより、手をつなぐため努力を続けたい、と願う。

68年前のあの暑い夏に、多くの若者たちが
愛と平和の祈りこめ空から捧げた特攻花の黄色い花。
あの小さな野の花が、今は岬をすべて埋め尽くすように
私の人生は未来に平和を咲かせるための祈りのちいさき種でありたい。



今日はひいおばあちゃんの命日です。
終戦の日に亡くなったひいおばあちゃん。
イノチのつながりをありがとう。安らかに。





ブックマーク*新しいお仲間のご案内

2013-08-14 | お知らせ




こちらのブログでは、ブックマークにおきまして
夢街福の素敵なお仲間さんたちの活動をご紹介しております(*^_^*)
本日はブックマークに2件の新しいお仲間さんが加わりました。


*望月龍平シアターカンパニー様* 
↑クリックするとブログに飛びます

【望月龍平】劇団四季で11年半俳優として活動後、渡英。
帰国後NPO法人OFF OFF BROADWAY JAPANを旗揚げ。
職業「演劇人」演出家・脚本家・俳優。
そんな彼が作り上げる世界をぜひ覗いてください!
熱いモノに出会えること間違いなしです!




*放課後等デイサービスAnge*
↑クリックするとHPに飛びます

兵庫県豊中市にある、放課後等デイサービスAnge(あんじゅ)のご紹介です。
偶然にも私のニックネームと同じ名前の(ちょっと嬉しい♪)この施設では、
魂の家族であるオードリーこと清成由美さんが活躍されています。
ここでは小学生~高校生までの障がいのある子どもたちを対象に、
リズム運動をしたり、おやつを作ったり、一人ひとりに合わせた
日々様々な活動を通して治療的教育(療育)を行っています。
ご自身もダウン症のお子様を持ち、長きに渡りシュタイナー教育を始め、
たくさんのことを深く広く学んでこられた清成由美さんが
柔らかく優しいリズムの中で、子どもたちを導いています。
どうぞ関西方面の方、お気軽にお尋ねください。

鶴の花

2013-08-12 | KOFUKU日記



【今年もお盆がやってきました】
【大切な人の御霊と全ての身罷られた方々の御霊に祈り寄せて「鶴の花」を折りました】
【永遠の平安を祈りつつ、お捧げしたいと思います。みなさま、安らかでありますように。】




イエローパンジーストリート


「幸せってなんだろう?」って聞かれた
なんて答えれば良い!?
「優しさってなんだろう?」って聞かれて
君を想う Sunny days!!

出会って別れていたずらに過ぎる
季節を歩いても
夢のように温もりだけは
この手のなか忘れやしないんだ

ねぇ君が泣いていないか泣いていないか心配だ
きのう通り沿いのパンジーが咲いたよ
君が泣いていないか僕が心配しているって
もし知ったならクスッと笑うだろう

「結局幸せってなんなの?」って考えた
そんな難しくない!!
いつかこの場所でもう一度逢えたら
きっとそれも Happiness!!

正しさだけじゃ割り切れやしない
現実に戸惑うけど
ふたり誓った言葉があれば
暗い明日も迷いはしないんだ

ねぇ僕は泣いていないよ泣いていないよ本当さ
でもどんな顔で笑えば良いんだよ?
君と交わした会話なんて思い出して
あの頃のようにププッと笑ってんだ

不安や悲しみの前で うつむいてるなら
いつでも駆けつけよう

ねぇうろこ雲の隙間から差す光が
妙に嬉しくて立ち止まったよ
君と僕をつないだ線がどんな色だって
ずっと大切な運命に違いない

君が泣いていないか泣いていないか心配だ
きのう通り沿いのパンジーが咲いたよ
君が泣いていないか僕が心配しているって
もし知ったならクスッと笑うだろう






【あなたの愛した小さな魂たちは、あなたの願ったようにここで自由に生きてますよ】
【愛と平和と真実の姿そのものです】




いろんなことがあったね。
目の前にいなくなってから随分経つけれど
一向に忘れたりなんかいたしません。
逆にどんどん鮮明になっていきます。
なんだか、いつも心配ですよ。
きっと、あなたがたもそうなんでしょう。

元気ですか?
笑ってますか?
好きなことはできてますか?
お腹はすいていませんか?

同じ運命の上を歩んだ仲だもの
きっと同じことを思ってるんだろうね。

生きている人も、反対の世界に生きる人たちも
全ての魂が安らかでありますように。
そうして天と地を繋いでお互いが想い合っていられますように。


鶴の花、キレイでしょ?
きっと作りたがるだろうね。