KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

夫婦

2013-11-27 | KOFUKU日記





 
しずかな夫婦
天野 忠


結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。
とくにしずかな夫婦が好きだった。
結婚をひとまたぎして直ぐ
しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。
おせっかいで心のあたたかな人がいて
私に結婚しろといった。
キモノの裾をパッパッと勇敢に蹴って歩く娘を連れて
ある日突然やってきた。
昼めし代わりにした東京ポテトの残りを新聞紙の上に置き
昨日入れたままの番茶にあわてて湯を注いだ。
下宿の鼻垂れ息子が窓から顔を出し
お見合いだ お見合いだ とはやして逃げた。
それから遠い電車道まで
初めての娘と私は ふわふわと歩いた。
-ニシンそばでもたべませんか と私は云った。
-ニシンはきらいです と娘は答えた。
そして私たちは結婚した。
おお そしていちばん感動したのは
いつもあの暗い部屋に私の帰ってくるころ
ポッと電灯の点いていることだった-
戦争がはじまってた。
祇園まつりの囃子がかすかに流れてくる晩
子供がうまれた。
次の子供がよだれを垂らしながらはい出したころ
徴用にとられた。便所で泣いた。
子供たちが手をかえ品をかえ病気をした。
ひもじさで口喧嘩も出来ず
女房はいびきをたててねた。
戦争は終った。
転々と職業をかえた。
ひもじさはつづいた。貯金はつかい果たした。
いつでも私たちはしずかな夫婦ではなかった。
貧乏と病気は律儀な奴で
年中私たちにへばりついてきた。
にもかかわらず
貧乏と病気が仲良く手助けして
私たちをにぎやかなそして相性でない夫婦にした。
子供たちは大きくなり(何をたべて育ったやら)
思い思いに デモクラチックに
遠くへ行ってしまった。
どこからか赤いチャンチャンコを呉れる年になって
夫婦はやっともとの二人になった。
三十年前夢見たしずかな夫婦ができ上がった。
-久しぶりに街へ出て と私は云った。
 ニシンそばでも喰ってこようか。
-ニシンそばは嫌いです。と
私の古い女房は答えた。

   




Pちゃん、Mちゃん
愛する二人の心友へ


11月22日
11月27日

お二人の絆が永遠となった日を心よりお祝い申し上げます。
あたたかく美しい夫婦へと歩んでいかれますように

愛をこめて
福より

ほかほかのメッセージ~一期一会の心構え

2013-11-20 | 相方さん(米澤観児氏について)


《大好きだよ~♪(*´・з・`*)チュッ♪仲良しさん♪》


昨日は相方さんの3回目のメモリアルディでした。
朝からご供養で、相方さんの好きだったものを並べて
チビ達と食しつつ、静かに穏やかに一日を過ごしました。

そんな中、多くの方が相方さんに心寄せてくださり、
また私たちにまで心温まるメッセージをお届けくださり、とても嬉しかったです。
本当にありがとうございましたヽ(*´∀`)ノ
この場をお借りしまして、深く御礼申し上げます(_ _)



ところで、私にとって、この3年って長いんだか短いんだか、
今ひとつわからない不思議な時間だったんですよね。

やっぱりそれは、あの日から時が止まっている部分もあれば
無理矢理に時が流れていってるところもあるからなんだろうなぁと思っています。

でも「あら?時間って本当に経ってたんだなー」って毎回思うのは
毎年、アドレスや住所がわからなくなってしまう方が結構いることですね。

私は相方さんが亡くなってから、自分のケータイを処分して
相方さんのを名義変更して、そのまま引き継いで使っています。

理由は、相方さんは合わなくても、一度ご縁を繋いだお友達のことを大切にしていて
手書きで住所録を作ったり、ケータイのアドレス帳に残したりして
連絡先をとっても大事にしていたんですよね。

なので、その気持ちとつながりをそのまま残してあげたいなぁと思い、
それに、何かしら連絡もとることもあるかもと思って、そのままにしてあるのです。

その記録を頼りに、メモリアルディとかに、全員とは言わずとも、
一度なりとも、お知らせ頂いた方などにご連絡するのですが、
スマホに変えた方も多いし、お引越しされた方も多いのでしょうね。
毎回、いくらかの方が宛先が分からずで戻ってきてしまいます。

もちろん亡くなっている人間に住所変更のお知らせなんてくる訳もなく…。
(いえ、もちろん、くださる方もいるんですけどね^^)
私が知る人でもないんですが、それでもやっぱり淋しいものがあります。

ものすごく親しい方でも、ナシのつぶての方は多いので、
そういう方にとっては、そんなものなのかもなぁ、とは思うんですけど、
なんとなく、相方さんが寂しいだろうなぁ、なんて思えてしまったりして…。

いえ、向こう様も相手があたしなのがわかってるので、
余計にご連絡もらえないのでしょうけどね。本人じゃないし(^_^;)
わかっちゃいるけど、毎回「あー、そうなんだァ、この方も~」って
アドレス帳に線引いたりするのは、やっぱり寂しいものですね。

そういう時でしょうかね、世の中はかわっていってるんだなぁ~
時間は過ぎていってるんだなぁ~、とかって思うのは。
私の中ではそれが時の流れを感じる瞬間です。

その反面、相方さんの生前以上にお知らせくださる方もいて、
変わらぬ友情にありがたいものだなぁとも思います。(感謝)

そういう経験もあってか、私は相手から返事がなくても
こちらからご縁を切る様なことはしたくないなぁ、
って、強く思うようになりました。





《君たちとの出会いも奇跡》




私の尊敬する方の中に聖心女子学長であられたシスター渡辺和子さんがいらっしゃいますが
シスター渡辺がおっしゃっているコトバにこういうのがあります。


《「出逢い」とは美しいことばであり、

多くの場合、相手との最初の邂逅を指す。

しかし最初の出逢い以上にたいせつなものは、

同じその人と、絶えず新たに出逢うということではないだろうか。

馴れてしまわないということ。

それは一期一会の心構え、緊張感といってもよい。》


私はこの言葉が好きです。
一期一会の心構え。慣れないという事。
これは相手に対する思いやりの現れです。
つまりは愛の現れです。

相方さんはまさにそういう感覚の持ち主だったなぁと思うのですよね。
親しさという甘えや軽んじる気持ちから、相手にどんなに理不尽なことをされて
笑顔の影でどんなに心痛めたり、怒ったりしていても、
結局、相手が反省していると見れば、何度でも許して受け入れてしまう人でした。
それで、また繰り返されて傷ついてしまうとしても。

私は、そんなお人好しな相方さんが大好きでした。
まあ、そのしわ寄せは、人から見えないこっちに流れてくるわけですが(笑)
でも、良かったんですよ。それで彼が外で笑ってられるなら。
その相手の方は、きっとだあれも彼がそんなこと思ってたとか
それでとても悩んでたとか、痛み抱えてたとは思っていないだろうけど。
彼はニコニコ、なんでも受け入れていたからなぁ。

でも、それが良かったの。うん。
あれは、彼の愛が深かったから出来たこと。
周りが何も知らないでいられるのは、その愛が包んでいたから。
だから、それで良かったんです。

だから、私もそんな風になりたいと思うんですよ。
誰が自分を忘れても。
私は相手とその感謝を忘れないように
相方さんのように生きていたいと思うのです。


さあ、また、今日から新しい一年の始まり。
やることいっぱい。
今年の冬は忙しい。
でもずーっと忙しくていい気がする。
そういう忙しさを幸せというのだろうから。


皆様
メッセージ、本当にありがとうございました!
m(__)m






すてきなおバカさん~memorial11/19/2013

2013-11-18 | 相方さん(米澤観児氏について)




すてきなおバカさん


すきに なるのなら
すてきなおバカさん

いきるのが ちょっぴりぶきようなひと
ひとのかなしみは じぶんのいたみ
こっそりだれかのために ながしてるあせ

すきになっても きっと(こいしても)
きづかない おバカさん


いっしょに あるくなら
すてきなおバカさん

だれよりもとおくを みあげてるひと
ひとにしあわせを ゆずってあげて
からのポケットにゆめを またつめこむの

あたしも あなたのゆめに(いいゆめに)
なりたいな おバカさん








米澤観児という人は嘘の付けない人

米澤観児という人は人の痛みを自分の痛みにできる人

米澤観児という人は友情を何より大事にします

米澤観児という人は見た目クールなくせに、心温かくどこまでも素朴です

米澤観児という人はなんでも自分の手で作り出す人

米澤観児という人はお寿司と焼肉が死ぬほど好きです
(刺身とカニも好き)

米澤観児という人はどこかに行くといつも何かを忘れます( ̄▽ ̄;)

米澤観児という人は磁石一つで山道を突っ切ります
だけど、必ず道に迷う…

米澤観児という人はぴーちゃんが死ぬほど好き
きっと彼女の最期を見たくなくて、先に行ったに違いない(確信)

米澤観児という人は絵を描かせると天才です

米澤観児という人は芝居をさせたらもっと天才です

米澤観児は生きてる時間のすべてを芝居に捧げてます

そして自分の命まで、本当に全て芝居に捧げた

心底から愛すべき“すてきなおバカさん”です


そして、そんな“すてきなおバカさん”を

誰よりも私は尊敬し愛しています

米澤観児という人は語り尽くせぬ程の素敵を抱えているおバカさん




《米澤観児を愛してくださる皆様へ》

もしかしたらここを読んでくださるかもしれない私を知る皆様
メール等でご挨拶をお送りしましたら、3年の年月は長いものなのですね
届かなかった方がたくさんいらっしゃいました。
住所の分かっております方には、またお便りにて順次ご挨拶させていただきます。
(届くかわからないけれど)

全くわからなくなってしまった方々、(見てくださるといいなぁ)
この場をお借りしまして、これまでのご友情に深く御礼申し上げます。
そしてこれからも米澤観児並びに夢の街をよろしくお願いいたします。


皆様へ夢の街から二つのお知らせです。
念願叶い、米澤観児の絵本「夢の街ノア」が出版されることになりました(*´∀`*)
そして、その絵本をもとにした、一人舞台も制作・上演することとなりました。
来年には皆様に詳しい情報をお届けできるかと思います。
どうか楽しみにしていてください。

これもひとえに、彼の帰天後、お力添えくださった皆様のおかげです
この場を借りて深く御礼申し上げます。

これからもまったりスロウな歩みではありますが
天の夢の街にいる米澤氏と心合わせ、天と地をつないで
地上夢の街で嘘のない真実のドラマ(魂・芸術)を追求して参ります。
今後とも、米澤観児と夢の街をよろしくお願いいたします。






《孤独、悲しみ、底の見えない不安につつまれた時、
ふと自分の周りを温かな、優しい空気が流れていたことに気付きます。
それらは小さな頃からいつも僕のそばにいて、僕をはげましてくれていました。by観児》




 


米澤観児Profile

本 名  米澤観児
生年月日  1970年12月24日
出 身  大阪府
学 歴  金沢美術工芸大学絵画専攻油絵卒業
経 歴  スペイン留学を経て、文学座付属演劇研究所 劇団四季
身 長  181cm


 


幼少の頃は工作などに熱中し、気がつけば何時も一人で部屋にこもって
何かを作っているような子どもだった。
中学・高校時代は陸上競技に熱中し、奈良県のタイムランキングで2位になったこともある。
美術大学在学中はスペインへも留学し、絵画の制作をする。
自然主義をベースとした心のリアリズムを模索。
帰国後、写真と絵の個展を開く。
絵に出会うことにより演劇に出会い、地方劇団に所属し役者のほか、演出も手がける。



1995年、文学座付属演劇研究所へ入所。発表会公演「わが町」では、
松田優作の研究生時代と同じサイモン・スティムスン役を演じた。



1996年、劇団四季に入団。
「ハムレット」「ヴェニスの商人」「李香蘭」
「ジーザス・クライスト・スーパースター」「冒険者たち」「王子と乞食」他、
ストレートプレイをはじめミュージカルにも多数出演。
「ライオンキング」エド役では600ステージに連続出演。
ジュリー・テイモア来日時の東京公演ではベストキャストとして出演した。



2001年、劇団四季を退団し演劇活動を離れ、一時は和紙発祥の地、
兵庫県多可郡加美町で絵画の制作活動にはいり、定住の意を固めるが、
秘めていた演劇への熱い思いを胸に2003年に再び上京、演劇活動を再開する。
「ACTOR21」永妻晃氏の下でメソード演技なども学ぶ。
企画ユニットや客演を含めた舞台へ意欲的に参加。
画家としても絵本「夢の島ノア」の制作や、CDジャケットを手がけるなど絵画制作も続けている。




2006年夏、自分の信じる演技を愛し理解してくれる人々の力を得て、
商業演劇と芸術活動の狭間で揺れる心に自ら終止符を打ち、
自分の信念とする「心を大切にしたうそのない演技」を表現するべく
「オフィス夢の街」を立ち上げる。
真の俳優としてのあらたなスタートラインに立つこととなった。



2008年1月、原宿・明治神宮前に専用劇場「シアター夢の街」をオープン、
嘘のない真実のドラマへの扉を開いた。



2010年7月 急性白血病にて緊急入院。



2010年11月19日 
この世で自らが作り上げた夢の街から、天上へと移住。

現在も嘘の無い真実の芸術を目指し、芸術の道を歩んでいる。






カウントダウン

2013-11-12 | KOFUKU日記



《ぴーちゃんは日向ぼっこ中》


今日は12日。

相方さんが最後に最愛のぴーちゃんと会った日。
3度目の抗癌剤治療を終えたら退院まであと一週間という日だった。

どうしても会いたいから連れて来て、というリクエストにぴーちゃんを連れて病院まで行くと
相方さんもぴーちゃんも、それはそれは嬉しそうに戯れていた。

いつもは抱っこしたりして、それでサヨナラなのに、
彼は「お散歩しよう」と言い出して、そのまま病院内の敷地を散歩した。
写メもいっぱい撮ったけど、珍しいから記念にと思って短い動画を撮った。
彼とぴーちゃんが動いている最後の姿はそこに残ってる。

そして、彼がなんだかんだ言っても気にしていたご家族のこと、
なくなる前の日にお母さんがお見舞いに来てくれて、3人で病室で時を過ごした。
そんな時間をつくるのが、相方さんは何より私が喜ぶと思ってくれたんじゃないかと思う。

「福ちゃんが何かを作っている姿を見ているのが好きだよ。
小さいものが好きで、手仕事が好きで、そんな福ちゃんを見ているとホッとする」

そう言ってくれた彼の目の前で、最後に私がしていたのは編み物だった。
彼は時々、眠りから目を覚まして、私を見て、そして安心してまた眠った。

あれはぜんぶ、サヨウナラの時間だったのだ、と思う。
きっと定命だったのだろうなぁ。

実は11年前に亡くなったソウルメイトの時もそうだった。
やっぱり、ひとりひとりとサヨウナラをするような時間を過ごして逝ってしまった。

そして私は一ヶ月、そして一週間くらい前に必ず予感させる出来事が起きる。
ソウルメイトの時は一ヶ月前にスピリチュアルな友人から危ないかもと言われた。
そして一週間前、街の通りすがりの占い師にどうしても話をさせてくれと捕まえられ
「あなた、数日中にご家族がなくなるかもしれません」と告げられた。

相方さんの時は、一ヶ月前に急に彼がいつもしない整理をしだした。
そして10日ほど前に、同じ白血病で亡くなった仲良くしていただいた本田美奈子さんの
追悼番組を偶然拝見したり、とても大好きな先輩の美奈子さんの追悼ライブに導かれた。

あれは多分、自分の決めたことなら、どんなハードなことにもメンタル持つのに、
自分以外に起こること、家族やパートナーや友人のことでは心配性で不安症でめっぽう心が弱い自分に、
すこしでも覚悟ができるようにと何かが働きかけてくれたのだろうなと思う。
うまく言えないが、実際、その度にココロの奥でとても嫌な予感がした。
でも、当然そんな思いは打ち消しながらいたのだけど。
二人共、そんな時間を作って逝ってしまった。


相方さんが入院した7月1日になると、体内で勝手にカウントダウンが始まる。
私は入院した日から日記をつけていた。
家でひとりで過ごしていたし、彼の体調管理にも、いつか二人の思い出にもなるだろうからと。
だから、あの日々を鮮明に覚えている。


今日はどこへ行ったな。
今日は何を食べて、こんな話をしたな。
全部、全部、覚えている。


12日になるとセツナイ。
あと一週間だ、と思ってしまう。
もういないのに。

私の中では生きている時と同じような、失うような感覚が起きる。
世に言うフラッシュバックと言うものに近い。


今年は年明け前から母の容態が思わしくなくて、ずっと不安定なまま。
母が少し安定するとチビたちが怪我や病気をするの繰り返しで、
看病したり、心配で精神的に不安定な時が多くて、
いつも書いている手紙などが全然書けない年だった。
毎日、そばにお便りセットを準備していたけど書けない日々だった。
それでも、心の痛みには負けるもんかと目標を持ってなんとか維持してきた。

おかげで、少し道も開けた。
これはきっと、先を歩いてくれた人たちのおかげ。
相方さんのおかげ。
そう思ってる。





《あなたが作ってくれた平台はチビ達の大事な遊び場です(*^_^*)》




あと一週間。
そんなこと考えたくなくても、心は勝手にカウントダウンするだろう。
せっかくだからね、味わうよ。
ほんといつまでもあなたたちは生きてる。
だから一緒に生きるよ。思い出にはしない。
あなたたちがそっちで元気で生きられるよう祈ります。


あなたの継いでくれたイノチを受け取ったちびさんたちは
怪我や病気やいろいろあるけど元気だよ。
これもあなたたちのおかげだね。
だからアタシは今生きられてます。
ありがとう





思い出になんかならない

2013-11-07 | KOFUKU日記



《ブランケットが心地よい季節になりました》





早いもので11月になりました。
みなさまは如何お過ごしですか?

先月はちびっこたちがうっかり怪我をしたり
夏くらいから、いろいろとしなければならないことが増えたり、
それなのに、心身は未だのんびりゆっくりさん( ̄◇ ̄;)で
葛藤しつつも、ありがたく日々を過ごしております。


今月は相方さんの3回目のメモリアルディがやってきます。
早いなぁと思ったり、まだ3年かと思ったり。

一つはっきり言えるのは、本当に愛した人っていうものは
いつまでたっても思い出になんかならないなぁ、って事。
思い返すほどに、相手は私の中で生き生きと動き出すって事。


近くの森の山道で彼とぴーちゃんが踏みしめる落ち葉の音。
彼と最後に登った小雨吹き付ける富士山の色づいた木の葉たち
イノチを終えた彼を西に運ぶ車の中から見た
11月20日の富士山の燃えるような紅葉の鮮やかさ
今も私の中では現実

今月は祈り持って過ごそうと思います。
皆様もどうか良い秋をお過ごしください。






あのひとは 生きてゐました
あのひとは そこにゐました
ついきのうふ ついきのふまで
そこにゐて 笑ってゐました
 
あのひとは 生きてゐました
さばのみそ煮 かぼちゃの煮つけ
おいしいね おいしいねと言って
そこにゐて 食べてゐました
 
あたしのゑくぼを 見るたび
かはいいね かはいいねと言って
あったかいてのひら さしだし
ぎゅっとにぎって ゐました
 
あのひとの 見た夕焼け
あのひとの きいた海鳴り
あのひとの 恋の思い出
あのひとは 生きてゐました
      あのひとは 生きてゐました      


(吉原幸子 「あのひと」より)