♪みんなおなじ いきているから
ひとりにひとつずつ たいせつないのち♪
我が家のおチビさん達、この混乱の中にも日々成長中です。
一緒に暮らして一カ月と10日が経ちます。
はい、こんな感じで同じ場所に居られるようになりました(*≧∀≦)
まだまだ、仲良くってわけには行きませんが
神経質で怖がりなピーちゃんには快挙です!
それはそれは恐ろしい程の勢いでタックルと噛みつきを繰り返す妹に
かなり恐れ、ビビり気味の姉ピーちゃん(;^ω^)
《写真は妹ピピのタックルをかわす姉ピグちゃん》
信じられないほどの食いしん坊な妹ピピにオヤツも狙われて
ピグ姉ちゃんは必死の形相で守ります(;^ω^)
でもぴーちゃんはお姉ちゃんの自覚がすごくありまして
ピピを小さい妹だと思っています。
なのでそれなりに怒るものの絶対にキレたりは致しません。
タックルの恐怖にかなりビビりつつも攻撃をかわし続け、
それでも朝晩、匂いを嗅いでは確認をして
お腹をなめてあげる優しさを持っておられます。
今ではピピも舐めて~と転がるようになりました。
そんなピーちゃん、10歳と1カ月でございます。
高齢ですから心配な病気もあり、近々手術もしなくてはならないのですが、
いまのところはなんとか症状もでずにおり、お元気です。
《写真は仏のような姉、ピグお嬢様》
もちろん、恐れ知らずの妹ピピちゃんの方と言えば
相手の気持ち構わず遠慮なく突っ込んで行くわけですが…(^^;)
《今こそ姉に飛びかからんとするピピ》
そんなピピちゃん、一昨日の24日で3カ月になりました。
先日の検診では850グラムに成長。おっきくなっております。
明日は3回目のワクチンです。
先天性のいろいろな心配な持病もいくつかありますが、
いずれも今は症状が出ていませんので
大事にして行ってあげようと思います。
ま、まあ、見た目と行動は「どこが持病もちやねん!」
と突っ込みたくなるほど元気過ぎてあたしは傷だらけです。。。。
ピピさんはあたくしが横になると視線が自分の目線に来るのが非常に嬉しいらしく
飛びかかって来て、顔じゅうなめまくった上に噛みつきます。。。(゜∀゜ ;)タラー
普通に顔を見合わせてても、なぜか鼻に噛みついたりします…
しかも穴付近を狙ってくるので、恐ろしいです。
そんな妹ピピちゃんの最近のお気に入りは「骨ガム」
食べつくす勢いです。
寝てる時だけは天使なんですけどね(;^ω^)
二人とも、お手製の薄手セーターを着て節電に協力してくれて
さらに私の心をあたためてくれる良い子達でございます(^^)
今日は60 EARTH HOURでした。
世界中の国と繋がって、同じ時間に1時間電気を消して地球温暖化に取り組むエコ活動です。
この日はエッフェル塔もNYの灯りもいっせいに消えます。
今年は開催前に同じ時間に日本の為に世界中の人が祈りました。
今の日本は毎日が計画停電でアースアワーな感じですが(´-∀-`;)
もちろん今年も個人参加表明をして参加しました。
地球は、自然も人も一つの家族という意識で始まった活動。
人も自然も私たちは命を持つ同一のもの、助け合っていかなくてはならない。
いま、被災地の避難所でワンちゃん達も一緒に避難していると聞きます。
飼い主様もワンちゃんもご苦労だろうなぁと思う反面、
一緒に避難していると言う現実がとても嬉しくもあります。
人に飼われる立場の動物たちも同じいのちの持ち主だからです。
そのいのち達が困難な中、助け合っているのは素敵なことです。
私の実家は昔、捨てられた犬や猫、小動物が一時期は100匹くらいいました。
中には引っ越しで置き去りにされたセントバーナードや
仕事を終えても帰る家と飼い主を失った警察犬だったシェパード
罠にかかってけがをしてしまったタヌキとかもいました。
噂を聞きつけて、面倒見切れない動物を家の前に捨てて行く人もいました。
でも、母や父は「うちに来る運命だったのだ」と言って面倒を見ました。
神様がここなら大丈夫、面倒見てあげなさいと預けてくれたんだろうって。
父や母は同じように生きていて、自分の力だけでは生きていけないのだから
人間が助けてあげないといけない、と言って全部面倒見てました。
ご飯はパン工場から商品にならない、型崩れのパンをセメント袋で買ってきて、
私も含め(笑)みんなで分けて食べました。
外犬たちは縁の下で子どもたちを産み、育て、
歩けるようになると私たちの前に連れて来てくれました。
親の後を一列になって縁の下から這い出して来る
コロコロの赤ちゃんワンコたちの姿を今でも忘れることはありません。
猫たちも子どもを産み、中には育児放棄した猫も居ましたが、
子猫たちは眼が開くと庭のうさぎ小屋で生まれたウサギにまぎれ
うさぎちゃんの間にもぐってウサギとして育ちました(笑)
キャベツをかじり、走らずにぴょんぴょん飛び回り可愛かったです。
嘘のようですが本当の話で、なんと新聞にも載り話題になりました(笑)
本当に貧しい暮らしになった時も、我が家では動物を捨てることはなかったです。
弟は学校の通学途中に箱に入れられ川に流された子猫を
川に飛び込んで助け、ランドセルの中身を河原にほおり出し、
体操服でくるんで即座に家に連れて帰ってきました。
それでも親も家族も良い事をしたと怒らなかったです。
逆にそんな弟が誇りでした。
妹達も自分にぶつかって怪我をした小さなコウモリを
虫を捕まえたりして、自分で面倒見たりしてました。
喧嘩で目がつぶれて売り物にならなくなったマルチーズを
保健所にやらないでと引き取ってきて育てたりしてました。
私たち家族にとって、動物は家族だったのです。
同じかけがえのないいのちを持つ仲間でした。
お互いの間には深い愛情がありました。
そのおかげでしょうか。
うちはどんなに生活が辛くても、なんとか歩んでいけるのです。
そんな時、必ずちいさないのち達が支えてくれるのです。
母が昔、
「動物が家に入ってくると言うのは、そこが安心する場所だからだ。
家に来た動物たちはみんな神様の幸せのお使いなんだよ。
だから動物が集まってくれるのは良い事なんだ。
うちはいろんなことはしてやれないけれど、
ここで出来る限りの事をしてあげないとね」
と、言っていました。
私はその考え方が好きでした。
世の中には犬は犬、動物は動物、と思っている人も多いと思います。
何か困難があったら、人のいのちが先だと言う人もいます。
その言葉通り、人間の基準から考えて
小さな命を見捨ててしまう人もいっぱいいます。
人が動物を食べているからそう考えてしまうのかもしれませんね。
動物なんて、植物なんて、と。
ましてや足の下に在る土なんて、と。
私たちがいのちを思う事は大切だと思います。
だから、生き物からいただく食材すべて、
食べる時、私は自分と共に生きて頂くつもりで食べたい。
祈りと感謝が無くてはならないと思います。
人にも、動物にも、植物にも、地上にある全てのものは
意味があってそこに居るのだそうです。
食べられてしまう事も飼われることも
究極我々が同じいのちであることを理解するように出来ていると。
そして天は見ているそうです。
同じいのち同士として種族を超えて愛を見つける助け合う様子を。
犬であれ猫であれ、植物、鉱物であれ、相手に理不尽なことをすれば、
カルマは生まれ必ず返さねばならないのだそうです。
負は負を産み、愛は愛を産む。
だから種族の別なく、互いのいのちを尊び愛し合わねばならない、と。
確かに困難や苦労の多い時、自分の事だけを考えてしまうのが人間。
でもそういう時だからこそ、どの生命もあきらめてはいけないと思うのです。
愛し合わなくてはいけないと思います。
無理をしろというんではありません。
その人が出来ることを精一杯やってあげることが大事ではないか、と。
うちのチビさん達はどちらも死に直面した持病を持っています。
それはそれは心配だし、お金だって大変です。
でも、どんな事があっても私は決して見捨てない。
それだけはしてはいけないと思います。
どんなものであれ、いのちを見捨てる権利は私にはないから。
誰にだって、そんな権利はない。
だから貧しくとも私の出来る精一杯の事をしてあげたいと思います。
出会ったからには責任はあるのです。
神様からお預かりしたいのちです。
相方さんが私になら大丈夫と導き預けててくれたいのち達ですから。
彼らが幸せであるように努力をしたいと思います。
あるネイティヴアメリカンの酋長は言いました。
「私たちはこの自然という織物の一本の糸にすぎない」
「私たちはいのちの輪でつながっている」
「自然は我々の兄弟姉妹だ」
辛い時、自分が困難な時、人はそれを理由によくないことを考えたり、
そうして当然なのだ、こんな時なんだから仕方ない、
とこじつけてしまう事がよくあります。
でも、本当はそうじゃない。
そう思って、そうするのは、そう思った人の心です。
同じ環境であっても、しない人は決してそんなことはしない。
心の弱さを何かの、誰かのせいにしてはいけない、とおもいます。
それは自分自身の弱さ。
困難な時だからこそ捨ててはいけない心があると思う。
私はそう思うのです。
でも、弱くても、またやり直せるし、チャレンジできる。
人間はどんな環境でも愛を育てることをあきらめなければ愛は育てられるからです。
私たちは「自然とおなじいのち」
それを忘れたくないと思います。
命からがら逃げてきて、食べ物も飲み物も何もないところで
「動物なんかにやるものはない、人間の命がさきだ!」
と、なっても当たり前かもしれない感情の中で、
同様に生き残った小さな命をいつくしみ、守り、
喜びの中で衣食住を分かち合っていらっしゃる方々に感謝します。
きっと必ず、そのご苦労は喜びとなって帰るはずです(^^)
なぜなら私たちは一つの輪の形に置かれたドミノのようなもの。
何かアクションを起こせば、それは必ず自分に帰ってくる。
善きものは善きことで、悪しきことは悪しきことで。
しかも輪につながっている全員に人に影響を及ぼしながら。
だから、自分が行う事に責任があるのでしょう。
つながった輪が全て善き波紋となって巡るように
こんな時こそ善きアクションを起こしたい。そう思います。
ひとりにひとつずつ たいせつないのち♪
我が家のおチビさん達、この混乱の中にも日々成長中です。
一緒に暮らして一カ月と10日が経ちます。
はい、こんな感じで同じ場所に居られるようになりました(*≧∀≦)
まだまだ、仲良くってわけには行きませんが
神経質で怖がりなピーちゃんには快挙です!
それはそれは恐ろしい程の勢いでタックルと噛みつきを繰り返す妹に
かなり恐れ、ビビり気味の姉ピーちゃん(;^ω^)
《写真は妹ピピのタックルをかわす姉ピグちゃん》
信じられないほどの食いしん坊な妹ピピにオヤツも狙われて
ピグ姉ちゃんは必死の形相で守ります(;^ω^)
でもぴーちゃんはお姉ちゃんの自覚がすごくありまして
ピピを小さい妹だと思っています。
なのでそれなりに怒るものの絶対にキレたりは致しません。
タックルの恐怖にかなりビビりつつも攻撃をかわし続け、
それでも朝晩、匂いを嗅いでは確認をして
お腹をなめてあげる優しさを持っておられます。
今ではピピも舐めて~と転がるようになりました。
そんなピーちゃん、10歳と1カ月でございます。
高齢ですから心配な病気もあり、近々手術もしなくてはならないのですが、
いまのところはなんとか症状もでずにおり、お元気です。
《写真は仏のような姉、ピグお嬢様》
もちろん、恐れ知らずの妹ピピちゃんの方と言えば
相手の気持ち構わず遠慮なく突っ込んで行くわけですが…(^^;)
《今こそ姉に飛びかからんとするピピ》
そんなピピちゃん、一昨日の24日で3カ月になりました。
先日の検診では850グラムに成長。おっきくなっております。
明日は3回目のワクチンです。
先天性のいろいろな心配な持病もいくつかありますが、
いずれも今は症状が出ていませんので
大事にして行ってあげようと思います。
ま、まあ、見た目と行動は「どこが持病もちやねん!」
と突っ込みたくなるほど元気過ぎてあたしは傷だらけです。。。。
ピピさんはあたくしが横になると視線が自分の目線に来るのが非常に嬉しいらしく
飛びかかって来て、顔じゅうなめまくった上に噛みつきます。。。(゜∀゜ ;)タラー
普通に顔を見合わせてても、なぜか鼻に噛みついたりします…
しかも穴付近を狙ってくるので、恐ろしいです。
そんな妹ピピちゃんの最近のお気に入りは「骨ガム」
食べつくす勢いです。
寝てる時だけは天使なんですけどね(;^ω^)
二人とも、お手製の薄手セーターを着て節電に協力してくれて
さらに私の心をあたためてくれる良い子達でございます(^^)
今日は60 EARTH HOURでした。
世界中の国と繋がって、同じ時間に1時間電気を消して地球温暖化に取り組むエコ活動です。
この日はエッフェル塔もNYの灯りもいっせいに消えます。
今年は開催前に同じ時間に日本の為に世界中の人が祈りました。
今の日本は毎日が計画停電でアースアワーな感じですが(´-∀-`;)
もちろん今年も個人参加表明をして参加しました。
地球は、自然も人も一つの家族という意識で始まった活動。
人も自然も私たちは命を持つ同一のもの、助け合っていかなくてはならない。
いま、被災地の避難所でワンちゃん達も一緒に避難していると聞きます。
飼い主様もワンちゃんもご苦労だろうなぁと思う反面、
一緒に避難していると言う現実がとても嬉しくもあります。
人に飼われる立場の動物たちも同じいのちの持ち主だからです。
そのいのち達が困難な中、助け合っているのは素敵なことです。
私の実家は昔、捨てられた犬や猫、小動物が一時期は100匹くらいいました。
中には引っ越しで置き去りにされたセントバーナードや
仕事を終えても帰る家と飼い主を失った警察犬だったシェパード
罠にかかってけがをしてしまったタヌキとかもいました。
噂を聞きつけて、面倒見切れない動物を家の前に捨てて行く人もいました。
でも、母や父は「うちに来る運命だったのだ」と言って面倒を見ました。
神様がここなら大丈夫、面倒見てあげなさいと預けてくれたんだろうって。
父や母は同じように生きていて、自分の力だけでは生きていけないのだから
人間が助けてあげないといけない、と言って全部面倒見てました。
ご飯はパン工場から商品にならない、型崩れのパンをセメント袋で買ってきて、
私も含め(笑)みんなで分けて食べました。
外犬たちは縁の下で子どもたちを産み、育て、
歩けるようになると私たちの前に連れて来てくれました。
親の後を一列になって縁の下から這い出して来る
コロコロの赤ちゃんワンコたちの姿を今でも忘れることはありません。
猫たちも子どもを産み、中には育児放棄した猫も居ましたが、
子猫たちは眼が開くと庭のうさぎ小屋で生まれたウサギにまぎれ
うさぎちゃんの間にもぐってウサギとして育ちました(笑)
キャベツをかじり、走らずにぴょんぴょん飛び回り可愛かったです。
嘘のようですが本当の話で、なんと新聞にも載り話題になりました(笑)
本当に貧しい暮らしになった時も、我が家では動物を捨てることはなかったです。
弟は学校の通学途中に箱に入れられ川に流された子猫を
川に飛び込んで助け、ランドセルの中身を河原にほおり出し、
体操服でくるんで即座に家に連れて帰ってきました。
それでも親も家族も良い事をしたと怒らなかったです。
逆にそんな弟が誇りでした。
妹達も自分にぶつかって怪我をした小さなコウモリを
虫を捕まえたりして、自分で面倒見たりしてました。
喧嘩で目がつぶれて売り物にならなくなったマルチーズを
保健所にやらないでと引き取ってきて育てたりしてました。
私たち家族にとって、動物は家族だったのです。
同じかけがえのないいのちを持つ仲間でした。
お互いの間には深い愛情がありました。
そのおかげでしょうか。
うちはどんなに生活が辛くても、なんとか歩んでいけるのです。
そんな時、必ずちいさないのち達が支えてくれるのです。
母が昔、
「動物が家に入ってくると言うのは、そこが安心する場所だからだ。
家に来た動物たちはみんな神様の幸せのお使いなんだよ。
だから動物が集まってくれるのは良い事なんだ。
うちはいろんなことはしてやれないけれど、
ここで出来る限りの事をしてあげないとね」
と、言っていました。
私はその考え方が好きでした。
世の中には犬は犬、動物は動物、と思っている人も多いと思います。
何か困難があったら、人のいのちが先だと言う人もいます。
その言葉通り、人間の基準から考えて
小さな命を見捨ててしまう人もいっぱいいます。
人が動物を食べているからそう考えてしまうのかもしれませんね。
動物なんて、植物なんて、と。
ましてや足の下に在る土なんて、と。
私たちがいのちを思う事は大切だと思います。
だから、生き物からいただく食材すべて、
食べる時、私は自分と共に生きて頂くつもりで食べたい。
祈りと感謝が無くてはならないと思います。
人にも、動物にも、植物にも、地上にある全てのものは
意味があってそこに居るのだそうです。
食べられてしまう事も飼われることも
究極我々が同じいのちであることを理解するように出来ていると。
そして天は見ているそうです。
同じいのち同士として種族を超えて愛を見つける助け合う様子を。
犬であれ猫であれ、植物、鉱物であれ、相手に理不尽なことをすれば、
カルマは生まれ必ず返さねばならないのだそうです。
負は負を産み、愛は愛を産む。
だから種族の別なく、互いのいのちを尊び愛し合わねばならない、と。
確かに困難や苦労の多い時、自分の事だけを考えてしまうのが人間。
でもそういう時だからこそ、どの生命もあきらめてはいけないと思うのです。
愛し合わなくてはいけないと思います。
無理をしろというんではありません。
その人が出来ることを精一杯やってあげることが大事ではないか、と。
うちのチビさん達はどちらも死に直面した持病を持っています。
それはそれは心配だし、お金だって大変です。
でも、どんな事があっても私は決して見捨てない。
それだけはしてはいけないと思います。
どんなものであれ、いのちを見捨てる権利は私にはないから。
誰にだって、そんな権利はない。
だから貧しくとも私の出来る精一杯の事をしてあげたいと思います。
出会ったからには責任はあるのです。
神様からお預かりしたいのちです。
相方さんが私になら大丈夫と導き預けててくれたいのち達ですから。
彼らが幸せであるように努力をしたいと思います。
あるネイティヴアメリカンの酋長は言いました。
「私たちはこの自然という織物の一本の糸にすぎない」
「私たちはいのちの輪でつながっている」
「自然は我々の兄弟姉妹だ」
辛い時、自分が困難な時、人はそれを理由によくないことを考えたり、
そうして当然なのだ、こんな時なんだから仕方ない、
とこじつけてしまう事がよくあります。
でも、本当はそうじゃない。
そう思って、そうするのは、そう思った人の心です。
同じ環境であっても、しない人は決してそんなことはしない。
心の弱さを何かの、誰かのせいにしてはいけない、とおもいます。
それは自分自身の弱さ。
困難な時だからこそ捨ててはいけない心があると思う。
私はそう思うのです。
でも、弱くても、またやり直せるし、チャレンジできる。
人間はどんな環境でも愛を育てることをあきらめなければ愛は育てられるからです。
私たちは「自然とおなじいのち」
それを忘れたくないと思います。
命からがら逃げてきて、食べ物も飲み物も何もないところで
「動物なんかにやるものはない、人間の命がさきだ!」
と、なっても当たり前かもしれない感情の中で、
同様に生き残った小さな命をいつくしみ、守り、
喜びの中で衣食住を分かち合っていらっしゃる方々に感謝します。
きっと必ず、そのご苦労は喜びとなって帰るはずです(^^)
なぜなら私たちは一つの輪の形に置かれたドミノのようなもの。
何かアクションを起こせば、それは必ず自分に帰ってくる。
善きものは善きことで、悪しきことは悪しきことで。
しかも輪につながっている全員に人に影響を及ぼしながら。
だから、自分が行う事に責任があるのでしょう。
つながった輪が全て善き波紋となって巡るように
こんな時こそ善きアクションを起こしたい。そう思います。
今わたしにできること
*厚着
*古着を利用した布ティッシュを作って使う
*布ナプキンの利用
*昼間は窓のそばで過ごし電気を使わない
*停電に合わせてライフスタイルを変えられる所は変える
*箒・雑巾で掃除
*洗濯物は週に一回にまとめて
*買い物は必要なものを必要最小限で購入
*出来るだけ被災地のお野菜や果物を購入して保存食を作る
*買い物の残金は寄付箱へ
*出来るだけ募金機能の付いている物を購入(一部が寄付金になるものなど)
*この先、毎月少しずつ寄付金が出来るタイプの義援金に参加で息の長い支援をする
*物は余らないようにみんなでシェア
*チワワんちび達であったかカイロ(多分ちびさんたちは人間でカイロ・笑)
*お水を自由に使えない地域の為に洗剤を使わなくてもいいエコたわしを作り寄付
などなど、出来ることを思いつくことをどんどんやってます。
今のところ、地震いらいヒーターなどは一切使わずに済んでます。
今回初めて知りましたが、電気は貯めておけないんですね。
だからこその節電です。
これを機会に、いろいろなアイデアが商品化されたりして
電気やガスに完全に頼り切る生活をしなくてもいいように
たくさんの自然と共存した商品が開発されればいいと思います。
この状況がまだまだ続いても、困る人が居ないように。
これじゃ困ると不満を言いあうよりは、そんな方にエネルギーを向けて
今を善くする方法を考えたらいいんじゃないかと思います。
「暗いと不平を言うよりも進んで灯りをつけましょう」
カトリックの番組のキャッチコピー、素敵です。
その通りだと思います。
失敗は発明の母と言いますが、ならば苦労は幸せの母でしょう。
幸せをきっとたくさん生み出せます。
人間は自然の一部であり、自然を軽んじては生きていけない、
自然と共存する道を選びなさい、と言われているような今の時代。
大事にしていけたらと思います。
なあんてこと言っている私ですが、実は今はボロボロです(;^ω^)
こんな時にこそ、試練は重なるもの。
地震などから不安症がひどくなってしまって、外に出られなくなりました。
一人では子どもたちを置いて家を出ることができないのです。
緊急地震情報に熱が出たり、震えが止まらなくなったり、
アトピーやヘルペスが出たり、吐き気が止まらなくなったり…。
いつも不整脈が起きているように、息が詰まった感じです。
不安すぎて地震以来、洋服を脱いで眠ることができません。
残されたちびたちに何かあってはとお買い物にも行けません。
それがどんどんひどくなって、病院の先生も心配して、「不安症があまりひどくなったら
人の居る病院に入院しましょうか?その方が安心でしょうから」
と聞いてくれましたが、チビさんズを置いてはいけません。
今は友人の助けを借りて、時間のある時に家に来てもらって、
その間に病院に行ったり、買い物に出たり、お風呂に入ったり、着替えたりしています。
昨日、寄ってくれた友人が「いまの一番の不安は地震?」と聞いてくれました。
………。
いいえ。
今の一番の不安は、隣に居た支え合う大事な人がいないことです。
それがすべての不安につながっています。
私でさえこんななのだから、震災で家族を失った人のお気持ちを考えるとつらいです。
子どもたち(うちはわんこだけど)は確かに生きがいであるけれども
やはり一人で抱えて途方に暮れる孤独感は大きいものです。
そんな中、やっぱり友人が来てくれたりすると心が休まります。
その間だけはホッとして安心できるのです。
人と人との絆というものは大きいと思います。
もちろんいつかは一人で生きて行かねばなりませんんが
これまでの経験からその力が湧いてくるには
それぞれの月日が必要かと思います。
その間、被災地の私のような方々が出来るだけ一人にならずに
たくさんの方の存在によって平安を得られることができますように
こころからこころからお祈りしています。
さて、私の大事なお友達が、以下の情報をくださいました。
被災地に行かれる方がいらっしゃいましたら
ぜひともご参考になさってください。
****************************
玉井邦夫日本ダウン症協会(JDS)理事長が書いた
(大正大学人間学部臨床心理学科教授)
災害時における障がいのある子どもたちへの対応が
ダウン症協会のHPよりダウンロード出来ます。
ダウン症候群に限らず活用して下さい
<タイトル>
自然災害による避難生活をしている発達障害児、あるいは災害
報道で情緒的な不安定を示すようになっている発達障害児への
対応について【支援に当たる方へのお願い】
3月17日のNHK教育テレビ「福祉ネットワーク」での内容が
より詳しく述べられています。
http://www.jdss.or.jp/
■左窓枠の最新情報をクリック下さい。3/24付けです
卒業式の季節ですね。
私の卒業した小学校は当時生徒数3300人を超えた日本一のマンモス校でした。
一学年45名~50名のクラス編成で15組までありました。
その上、体育と音楽のモデル校で器楽部、創作ダンス、ラジオ体操と日本一。
華やかな学校でございました。
私が卒業するころに100年を迎えた学校の校舎は木造で素晴らしい作りでした。
講堂も素晴らしい造りで、改築する為に壊すと聞いたときは本当に残念でした。
写真はその卒業したころの私の学校です。
その小学校ではマンモス校故のいろいろなイベントがありましたが
私が楽しみにしておりましたのは学校が誇る器楽部のオーケストラによる「卒業式」です。
多分、これはいろんなところでやっていたようなので知っている方もいると思います。
オペレッタ形式の卒業式で、6年間もやると良い思い出ですね(^^)
私はこの卒業式もこの歌も大好きでした。
この春にいろいろな卒業を迎える皆様にお送りします。
《卒業式の歌》
【全員】
うららかに 春の光が降ってくる
よい日よ よい日よ よい日きょうは
さくらよ かおれ 鳥もうたえ
よい日よ よい日よ よい日きょうは
【1.2.3年生】
なかよく あそんでくださった
六年生のおにいさん
やさしく せわしてくださった
六年生のおねえさん
おめでとう おめでとう
ごそつぎょう おめでとう
【卒業生】
ありがとう きみたち ありがとう
【1.2.3年生】
もうすぐ中学 いいですね
六年生のおにいさん
それでも あそんでくださいね
六年生のおねえさん
さようなら さようなら
ごしんがく おめでとう
【卒業生】
さようなら きみたち さようなら
【4.5年生】
よい日 この日 あなたがたは
この学校を ごそつぎょう
雨の日も また風の日も
かよいはげんだ 六年の
がくぎょうおえて 今巣立つ
おめでとう おめでとう おめでとう
【卒業生】
ありがとう きみたち ありがとう
【4.5年生】
朝に 夕に あなたがたと
あそび学んだ 年月(としつき)よ
うんどうじょうに あの窓に
かずかずのこる 思い出が
まぶたにむねに 今うかぶ
さようなら さようなら さようなら
【卒業生】
さようなら きみたち さようなら
【先生及び父兄・来賓】
きみたちよ 光は空にみちている
つばさをつらねて むねはって
羽ばたき巣立つ きみたちよ
たとえ あらしが吹こうとも
羽ばたけ 羽ばたけ 行く手には
明るい希望が ひらけてる
きみたちよ 先生はいつもみつめてる
はぐくみ育てた きみたちの
かけゆくすがたを きみたちよ
たとえあら波 高くとも
羽ばたけ 羽ばたけ 行く手には
明るい未来が ひらけてる
きみたちよ
【卒業生】
ありがとう 先生 ありがとう
春・夏むかえる かず六(む)たび
おもえば長い 年月(としつき)を
先生 ほんとうにありがとう
ひびにあらたな みちびきの
ごおんはけっして わすれません
先生 ほんとうにありがとう
あの窓 あの庭 このこうどう
なかよくあそんだ お友だち
みなさん ほんとうにありがとう
あの日 この日の おもいでが
いつまでのこることでしょう
みなさん ほんとうに ありがとう
育てかしこく じょうぶにと
きょうのこの日を 待っていた
とうさん かあさん ありがとう
こんどはいよいよ 中学生
しっかりやります はげみます
とうさん かあさん ありがとう
あおげばとおとし わが師のおん
おしえの庭にも はやいくとせ
おもえばいととし この年月(としつき)
いまこそわかれめ いざさらば
【全員】
美しく 春の光が降ってくる
よい日よ よい日よ よい日きょうは
【卒業生を除く全員】
いまこそ巣立つ そつぎょうせい
おしあわせに おしあわせに
さようなら さようなら ごきげんよう
おしあわせに おしあわせに
さようなら さようなら さようなら
一番 蛍の光 窓の雪
ふみ読む月日 重ねつつ
いつしか年も 過ぎの戸を
あけてぞ今朝は 別れ行く
二番 ハミングで
私の学校ではこの後、6年生の代表がそのまま音楽に合わせて言葉を述べます。
「母に手をひかれ、初めてくぐった桜の門」とかって。
そして、そのまま音楽の続くなか卒業証書授与でした。
ことしの春は少し遅いけれど、きっと春はやってきます。
みんなにとってこの春が善き卒業と
新しき門出となりますように