2024年9月のブログです
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赤ちゃんが泣いている。
この時、赤ちゃんは、自分が不快な世界にいることはわかるが、なんで不快なのか、はわからない。
そこにお母さんがやってきて(お父さんでも、お祖母ちゃんでも、保育士さんでもかまわない)、あらあら、どうしたの?おむつが濡れたのかな?と調べる。
お母さんが、おむつじゃないわね、じゃあ、おなかがすいたのかな?と、赤ちゃんにおっぱい(ミルクでもかまわない)をあげると、赤ちゃんはごくごくと飲んで、満足をして泣きやむ。
この時、お母さんが、赤ちゃんはおなかがすいていたのか、とわかると同時に、赤ちゃんも、ただただ不快な世界から、僕は(あるいは、わたしは)、おなかがすいていたんだ、とだんだん自分の感情が理解できてくる、と精神分析では考える(別に精神分析に限らないかもしれないが…)。
おむつが濡れている時も同じ。
おかあさんが、あら、おむつが濡れているわ、と言いながら、おむつを替えてくれると、赤ちゃんはただの不快な状態から、僕は(あるいは、わたしは)、おむつが濡れて気持ち悪かったんだ、と理解できる。
こうしたお母さんと赤ちゃんのやりとりの中で、赤ちゃんは、快-不快だけの世界から、自分の状態を少しずつ理解できるようになるらしい。
もちろん、お母さんだって、いつも適切に、おむつが濡れているのか、おなかがすいているのかはわからないので、ウィニコットさんは、ほどよいお母さんでよい、という。
そして、赤ちゃんは時々、お母さんのはずれの行動に腹を立てるが、しかしそれでも、お母さんがずっと世話をしてくれるので、そこから罪悪感や感謝の気持ちが生ずるらしい。
つまり、病的に完璧なお母さんより、おおらかな、ほどよいお母さんが大切になる、ということらしい。
赤ちゃんとお母さんの光景から、精神分析が教えてくれる世界はなかなか深いなあ、と思う。 (2024.9 記)