ゆうわファミリーカウンセリング新潟 (じーじ臨床心理士・赤坂正人)     

こころと暮らしの困りごと・悩みごと相談で、じーじ臨床心理士が公園カウンセリングや訪問カウンセリングなどをやっています。

赤ちゃんとお母さんの光景から-じーじが精神分析に学んだこと、一つ、二つ

2024年09月18日 | 臨床心理士が考える

 2024年9月のブログです

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 赤ちゃんが泣いている。

 この時、赤ちゃんは、自分が不快な世界にいることはわかるが、なんで不快なのか、はわからない。

 そこにお母さんがやってきて(お父さんでも、お祖母ちゃんでも、保育士さんでもかまわない)、あらあら、どうしたの?おむつが濡れたのかな?と調べる。

 お母さんが、おむつじゃないわね、じゃあ、おなかがすいたのかな?と、赤ちゃんにおっぱい(ミルクでもかまわない)をあげると、赤ちゃんはごくごくと飲んで、満足をして泣きやむ。

 この時、お母さんが、赤ちゃんはおなかがすいていたのか、とわかると同時に、赤ちゃんも、ただただ不快な世界から、僕は(あるいは、わたしは)、おなかがすいていたんだ、とだんだん自分の感情が理解できてくる、と精神分析では考える(別に精神分析に限らないかもしれないが…)。

 おむつが濡れている時も同じ。

 おかあさんが、あら、おむつが濡れているわ、と言いながら、おむつを替えてくれると、赤ちゃんはただの不快な状態から、僕は(あるいは、わたしは)、おむつが濡れて気持ち悪かったんだ、と理解できる。

 こうしたお母さんと赤ちゃんのやりとりの中で、赤ちゃんは、快-不快だけの世界から、自分の状態を少しずつ理解できるようになるらしい。

 もちろん、お母さんだって、いつも適切に、おむつが濡れているのか、おなかがすいているのかはわからないので、ウィニコットさんは、ほどよいお母さんでよい、という。

 そして、赤ちゃんは時々、お母さんのはずれの行動に腹を立てるが、しかしそれでも、お母さんがずっと世話をしてくれるので、そこから罪悪感や感謝の気持ちが生ずるらしい。

 つまり、病的に完璧なお母さんより、おおらかな、ほどよいお母さんが大切になる、ということらしい。

 赤ちゃんとお母さんの光景から、精神分析が教えてくれる世界はなかなか深いなあ、と思う。      (2024.9 記)

 

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平野啓一郎『マチネの終わりに』2019・文春文庫-素敵な男女の切ない恋愛物語です

2024年09月18日 | 小説を読む

 2022年7月のブログです

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 平野啓一郎『マチネの終わりに』(2019・文春文庫)を読む。

 平野さんの小説を読むのは初めて。

 旭川の古本屋さんで、本の帯に映画で主演をした石田ゆり子さんがうつっている本書を見つけて、美人恐怖症のじーじだが、つい購入してしまった。

 210円。安い。

 しかしながら、これがなかなかすごい小説。

 あらすじだけをたどれば、下手をすると何ともない小説になりかねないかもしれないが、平野さんのていねいな文章のちからもあってか、切ないけれども、なかなか重厚な物語になっている。

 主人公の男女が少しかっこう良すぎるが、しかし彼らも悩み多き普通の人々であり、内省的であるがゆえに、その悩みや不安に深みを与えている。

 読者が一緒に体験をする物語のテーマは重層的で数多くあり、重みのあるどきどき感が最後まで続く。

 驚いたのは、過去は変わる、あるいは、変えられる、というテーマ。

 精神分析でも重要で、じーじも時々考えさせられるテーマ。

 このテーマをめぐっても、物語が進行して、なかなか興味深かった。

 もともとは毎日新聞に連載された小説とのことだが、こんなすごい小説を連載する毎日新聞を見直した。

 久しぶりに小説の世界にどっぷり浸った一冊だった。

 210円でこんな幸せな時間を過ごせたことをうれしく思う。        (2022.7 記 )

 

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