前回の投稿「2013年 メトロポリタンオペラ METのオテロ ヴェルディ」の最後に記した、2013年3月のニューヨーク大学での対談“A Conversation with Jose Cura”から、改めて、オテロの分析と解釈の部分を紹介したいと思います。
フレッド・プラットキンさんを聞き役に、オテロをはじめとして、カヴァレリア・ルスティカーナ、アイーダ、アンドレア・シェニエなどのオペラにまつわる様々な話、著作権の話、バッハやモーツアルトなど、話題も多岐にわたり、非常に興味深く楽しい対談です。
残念なことに、英語での対談で字幕がありません。しかしオテロの解釈の部分はとりわけ興味深く、ここまで踏み込んだ話は他のインタビューにもありません。全体を正しく日本語で紹介することは残念ながら私の語学力では難しいので、Madokakipさんのブログのコメント欄でブログ主のMadokakipさんが、オテロに関連する部分の概略を日本語に訳してくださっていますので、ほぼそれをもとにして抜粋して紹介させていただきました。興味のある方は、ぜひMadokakipさんのブログをコメント欄含め、直接ご覧になってください。
なお、若干加筆をしたこと、話の順番は、前後している場合があることをお断りしておきます。
VIMEOのページはこちら → A Conversation with Jose Cura
ぜひぜひ、直接対談をご覧になっていただきたいと思います。いくつかDVDや録音も紹介しています。私は全部は聞き取れませんが、とても楽しかったです。率直で自由闊達な話しぶり、ジョークも多く、クーラのフランクな人柄が伝わってくると思います。最後の質疑応答ふくめ1時間45分ほどです。
from Casa Italiana Zerilli-Marimo
Fred Plotkin in conversation with Argentinian tenor Jose Cura, starring in the title role of Verdi's "Otello" at the Met
Casa Italiana Zerilli-Marimo
New York University
March 12, 2013
●オテロは転向者・裏切り者・傭兵
自分のオテロは高貴じゃないと批判される。しかしオテロはイスラムからキリスト教に転向し、イスラム教徒殺戮のためクリスチャンに雇われた男。9・11を経験して、これがいかに特殊な状況なのか、実感を伴って感じられるようになった。例えば、アメリカ人に生まれながら、サダム・フセインに雇われてアメリカ人を殺戮し、“喜べ!アメリカ人を殺してやったぞ!”と高らかに宣言するような人間がいたとして、こんな人間のどこがノーブルといえるのか。理由はビジネス以外ありえない。
ジョージ・クルーニーの映画「The American」を見た。主人公は、自分はいつ殺されるのかと常に怯え、常に後ろを振り返っている。オテロの裏切りにも同種の恐怖が伴っていて、それがカッシオたちへの極端な疑心暗鬼につながっている。
●オテロを陥れたもの
オテロを陥れたのは、”ハンカチーフ”ではない。
こうした状況下で、オテロにとって、自らが黒人であることの受け入れがたさ。オペラにはないが、シェークスピアの原作で描かれている、オテロがデズデーモナの父親に受け入れられないことによるコンプレックス。デズデモーナの父が娘について言い捨てた言葉、「父親を謀りおおせた女だ、やがては亭主もな」の言葉がきいている。
近年の世界情勢を考慮してか、オペラハウスの字幕で「傲慢な回教徒どもは海中に葬り去った (第1幕冒頭のEsultate )」の部分を訳さない傾向があるが、これはナンセンス。ここの関係にこそ、オテロの性格を理解する鍵がある。
●デズデモーナの愛と死
第1幕のオテロとデズデーモナの二重唱で、「金星が輝いている」と歌われている「金星」は、デズデーモナのことを指している。2人は星の話をしているのではなく、星に彼女の性(処女性)を重ね合わせたダブル・センス。つまり、今すぐにでもSexしたいという鼻息の荒い歌なのだ。戦争から帰ってきたばかりでもあり。
オテロはまさにエロスとタナトスの王道を行くオペラ。第4幕で、デズデーモナが死を予感して、婚礼のドレスを出してと頼み、逃げもせず、夫の手による死を待つ。これは究極の“愛ゆえの死”によるオーガズム、究極のマゾキズムといえる。
●オテロ崩壊のきっかけ
デズデーモナ殺害に至るオテロの崩壊の直接のきっかけは3幕にある。
彼の中では、イスラム教徒を殺すという任務はまだ全て完了していないという理解なのに、ベネチアから召還命令が入り、キプロスの統治をカッシオに譲ることになる。メトの公演を見た人は、私がこの場面で、召還命令の紙をロドヴィーコから受け取ったかと思うと、床にポトンと落として、落ちた紙を蹴り飛ばしたりするのを見ただろう。この時、オテロは、ロドヴィーコというベネチア=クリスチャンを代表する人間に挑戦を突きつけ、無礼を働く。
これが変えようのない決定だと気付いた時、彼の心の中に、“自分は役立たずのニグロに戻ってしまった”という思い込みが生じる。
彼に残ったのは、妻デズデーモナだけだが、その彼女も殺さねばならない。
●オテロの死
オテロは百戦錬磨を経てきた軍人。だからこそ、どのように刺すとどれくらい生きられるか、十分にわかっている。
自分に剣を刺してから完全に死ぬまで5分くらいある。心臓をすぐに刺さずに、腹部を刺して段々窒息し、剣を抜いてからは15秒くらいであっという間に死んでしまう。これらのタイミングがすべてヴェルディの音楽に書き込まれている。
例えば剣を抜くタイミングは、最後の“ah! un altra bacio”のah!にある。
●オテロ、最後まで臆病者
第4章、最後の死の場面でも、オテロは英雄ではなく、臆病者であることが示される。
同じヴェルディのアイーダのラダメスは、アムネリスに捕らえられた時、潔く罪を認め、自らの命を他人に託すのに対して、オテロはきちんと事情を説明することもなく、さっさと自害する。
●テアトロ・コロンのオテロ
自分のオテロ解釈をすべて詰め込んだのが、2013年7月のテアトロ・コロンで演出・主演するオテロだ。
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*クーラが述べていたテアトロ・コロンのオテロは、カルロス・アルヴァレスのイアーゴ、カルメン・ジャンナッタージョのデズデモーナで上演されました。クーラ自身が編集作業をしていたDVDも、作業は終了したらしいですが、まだ発売されてはいません。何らかの形で公開してほしいものです。この演出の構想については、またいずれ紹介したいと思っています。
*クーラのオテロの解釈については、以前の投稿「2012年 オテロとヴェルディ Interview / Otello at the Slovak National Theatre」でもインタビューでの発言を紹介しています。少し違う角度からのもので、こちらもあわせて見ていただけるとうれしいです。
3年前のことになりましたが、すばらしい観賞記と対談の日本語訳をブログに掲載してくださったMadokakipさんには、改めて感謝申しあげます。ありがとうございました。