春だは~る~だ~よ~。どうもこんばんは、そうだいです。みなさま、今日も一日お疲れさまでございました!
いや~、本日は平日だというのに、わたくしは休みをいただいて花見こみの東京散歩としゃれこんでしまいました。
中目黒。ちょっとふつうの木曜日とは信じられないような大にぎわいでしたよ!? 暑いぐらいの陽気だったし最高でしたね~。
そして、新宿に行って観てきたぜ。あの映画『篤姫ナンバー1』を。
なんだか、しご~くまっとうな娯楽映画でしたよ。そんなにひどくもないし、職業的にわかりやすく作られた作品とお見受けしましたので、メッセージみたいなものもすっきりと伝わってくるクライマックスでよかったと思います。
ただ、しいて言うのならば……映画にするまでのこともなかったような。ウヒョー根本的!!
物語全体のサイズが非常にTV 的だというかなんというか。きれいにまとまっていても、まとまった全体像がものすごくこぢんまりしてるんですよ。
でもさぁ、いまや堂々たるオッサンとなった私ででさえものごころのついていなかった、やたら元気のあった昭和戦後の日本の映画界って、こういう「あぁ~、おもしろかった。」っていうだけのプログラムがドバドバ作られてたわけだったんでしょ? エノケンだのクレイジーだのドリフだのっていう、偉大なる喜劇映画の系譜ですよ。
それにくらべたら、21世紀のいまどきはずいぶんとせちがらい世の中になっちゃいましたよねぇ……
こういったベタベタの喜劇映画をやってくれる会社も芸人さんも役者さんも少なくなっちゃったし、やったらやったで観てもいないような輩から「どうせつまんねぇだろ~」とか「大コケ必至~」とか「終わってる~」とか言われちゃうんですから。
哀しいことよ……それを知っててあえてやる勇気を見ろってんだよ。こんな、単純に楽しんでもらうためだけに作られた作品をよってたかっていじめるなんて、大人げないとか言う以前に人としての格の問題よ。
1800円かけて映画を観ることの「たのしみ」って、必ずしも「世間的に『あたり』の映画をチェックする」ってことだけじゃないですよね。
要するに、「日本円1800円」というものの価値は時代によっても人によっても、それを払うタイミングによっても大きく変動するものなんです。いちがいに「高い!」とも「安い!」とも言えないわけでして。
大事なのは! 「自分が1800円はらった分以上に楽しんだぞ!!」という手ごたえを回収することなんです。これはもう、どんなに無理やりにでも一命を賭してふんづかんでから鼻唄まじりで家に帰らなければなりません。作品の絶対的な価値じゃなくて、自分自身との戦いの問題ですよ。大げさな言いかた!!
そういうことで言いますと、この『篤姫ナンバー1』は非常に親切設計な作品であるわけなんです。良くも悪くもわかりやすい。
夜の蝶の世界を舞台にしてはいるのですが、それこそ、お子さんといっしょに観てもまったく問題ないくらいに、味が「カレーの王子さま」級にまっきっきのマイルドさに仕上がっております。ホメて……る、うん。
こういったものって、「かわいくてちょっとばかな小動物のくせ」を見たときと一緒で、「その時の自分のコンディションがわかる格好のリトマス試験紙」になるんですよねぇ。調子のいいときは「おぉ~、意味がなくていいねぇ。」となるし、余裕のないときは「てめぇ、すぐに消えねぇとショットガンでどたまぶち抜くぞ!!」となるわけです。カルシウムとらないとねぇ。
だから、この映画にダンディ坂野さんが出ていることの慧眼っていったらないんですね。いい役柄なんだ、坂野さん。
と、まぁいろいろ言ってはいるんですけど、どうやらこのまんまでいくと本題に入れないまま終わりになっちゃいそうですねぇ……
よっしゃ、ここで一発、ドカンと『スケバン刑事』のほうのケリをつけちゃいましょう!! 『篤姫ナンバー1』については、またあらためて次回ということで。
単刀直入に言いますと、『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』の悲劇は、あらゆる面で『篤姫ナンバー1』とはまったく対極にある問題が発生していたことに起因していました。
も~とにかく、今回はいろいろとくっちゃべっていきますよぉ~。いつもですけど。
以下、前にもあげた項目ごとにぶつぶつつぶやいてまいりたいと思います。
あっのっころっはぁ~、ハッ!!
1、「アイドル映画」にしたくなかった単独上映形式
通常の全国上映プログラムの3分の1の公開規模だった
なんてったって2006年当時の松浦さんが主演なのですから、製作した東映の系列映画館、全国300館規模で大々的に展開してもよかったはずの『スケバン刑事』だったのですが、実状は東映系のシネコンだけに限定したせいぜい100館前後での上映になっていました。
これはおそらく、それまでのハロプロ陣営が得意としていた1時間前後のアイドル映画の2本立てで全国上映する形式の踏襲を「あえて」避けて、深作健太監督と「女優」松浦亜弥がタッグを組んだ純然たるアクション映画をつくりたいという強い意気込みが作り手側にあったからなのではないでしょうか。その結果、作品は99分の長編映画として独り立ちしなければならなくなったのです。
また、そもそも松浦さんの映画初出演作『青の炎』(2003年)からして、ハロプロとジャニーズとの豪華競演でありながらもアイドル色を極力排除した『太陽がいっぱい』っぽい犯罪劇に仕上がっていたのですから、松浦さんがアイドル色のない演技に挑戦するというスタイルはさほど冒険的なものでもなかったのだと思います。まぁ、今になって考えれば、そういう「アイドルあやや」主演のハチャメチャ映画も観たかったような気はするのですが、松浦さんは「アイドル歌手」と「映画女優」との仕事を混同させることはいっさいなかったのです。
ただし、「アイドル映画ですよ~☆」の方向を捨てたために上映規模が小さくなってしまったことは回避しようのない必然だったと思います。それをさして「興行的に失敗!」ってけなすのはおかしいですよねぇ? もともと公開当初から他の大作映画とはベースが違うんですから。
むしろ問題は、映画を観に来たお客さんの多くが「う~ん、なんか観たかったあややの映画とちがう。怖い!」といった印象を持ってしまったことなのではないでしょうか?
2、「あやや主演映画!」のイメージと内容とのギャップ
異常に硬派な「スケバン刑事」シリーズの正式続編
この映画は、前回の物語タイムスケジュールをざっとごらんいただいてもわかるように、かつて日本全国で熱狂的なブームを巻き起こした「スケバン刑事」シリーズ、特に1985年4~10月に放送された TVドラマ『スケバン刑事』第1シリーズ(主演・斉藤由貴)のものすんごくストレートな続編となっています。
ご存知の通り、もともとは昨年2011年の急逝が惜しまれる和田慎二先生の手によって1976~82年に白泉社『花とゆめ』で連載されていたバイオレンスアクション少女マンガだった『スケバン刑事』は、1985~87年に3つの TVシリーズが放映されて大人気を博し、映画も2本製作されるという活況を呈していました。
この一連のシリーズの主人公は鋼鉄製のヨーヨーを自由自在に操って学園にはびこる犯罪をうちやぶる警視庁「裏公認」のスケバン刑事・麻宮サキなのですが、この「麻宮サキ」という名前はスケバン刑事の「継ぎ名」になっており、TV第2シリーズでは南野陽子、第3シリーズでは浅香唯が「麻宮サキ」を名乗る少女を演じていました。
ちなみに、わたくしそうだいが記憶しているスケバン刑事は3代目浅香唯さんの最終回付近がかろうじて……っていうていたらくです。だって、アクションばっかで怖かったんだもん!
さて、そんなスケバン刑事の歴史の中で、我らが松浦さんが演じた「少女K」は4代目麻宮サキということになっており、その母親を初代だった斉藤さんが演じていて、しかも彼女も「かつてスケバン刑事だった」という経歴が劇中で語られており、この映画『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』が、1985年の最終回で行方不明になっていた「初代麻宮サキ」のその後を語るものになっていることは明らかです。
つまり、本人そのものはチラッとしか出てきていないのですが、この物語はトータルでながめれば、突然の事情で4代目にならざるをえなくなった松浦さんよりも、その母親のほうが大きな存在感を持っている作品になっていて、母親の代わりにエッチラオッチラがんばっている松浦さんの姿を「特別の感情」をもって見つめている、吉良警部こと竹内力アニィのほうがよっぽど主人公らしい顔をしているわけなのです。
要するに、これは出演者も観客もひっくるめて、大人の方々が「1980年代は遠くになりにけり……」としみじみ実感するために作られたような『その後のスケバン刑事』であり、この作品の中で松浦さんが演じている主人公自体は、言ってみれば「まぁ~がんばってテキトーに事件を解決してくれたらいいよ~。」的な、カヤの外に置かれたきわめてど~でもいいお飾り的ポジションにあるといっても過言ではないのです。
これじゃあ松浦さんの努力もむくわれねぇよ。自分のことを子ども扱いする大人ほど、子どもの逆鱗に触れる存在はありません。
出演者も観客もひっくるめて、この映画ではじめて「スケバン刑事」シリーズに触れる若い人たちがなんとな~く「すっきりしない気分」になる理由のひとつが、まずこの置いてきぼりな作品構造にあるわけなのです。「いや、知らねぇし!」みたいな。
3、松浦さんが出ずっぱりになれなかった内容
当時の過密スケジュールがわざわいした?
こりゃあもう読んで字のごとくなんですが、2006年の松浦さんはまさしくそのキャリアの中でも最も忙しい時期の渦中にあり、「ソロ歌手・松浦亜弥」としての活動はもちのろんのこと、映画公開の3ヶ月前にあたる6月には、当時のモーニング娘。第5代リーダー・藤本美貴さんとのデュオユニット「GAM (ギャム)」も結成していて、しかも前年の2005年にできた安倍なつみ・後藤真希・石川梨華との4人組スペシャルユニット「DEF.DIVA (デフ・ディヴァ)」の活動も続いていたため、「3足のわらじ」の上にさらに「映画の主人公!」という1足をつけたしてケンタウロスのごとき非人間的なスケジュールに身を投じていたのです。これを20歳の娘さんがやるんだぜ!?
これで、99分のアクション映画で出ずっぱりの主人公をやりきるのはなかなか至難の業なんじゃないでしょうか。
実際、結果としてこの『スケバン刑事』の中では、物語中盤、開始44分から58分にかけてのくだりが、「松浦さんでない人物が主人公となっている」決定的な空白ゾーンとなってしまっているのです。この部分での松浦さんは、完全に物語の聞き手にまわっていて存在感がびっくりするほど希薄。実にわかりやすい「挿入歌が流れて登場人物たちが無言で街をさまようシーン」なんかが入っちゃうし、典型的な「休憩タイム」ですね。
んでもって、そこが松浦さんだけの休憩タイムだったらいいんですけど、と同時にどうしようもないレベルで「観客の集中力も休憩タイム」になってしまっているので、そこまで松浦さんが引っぱってきていた緊張感のあれこれが「ブッツン!!」と、それこそ早朝の剣道稽古で武道館内にその音がひびきわたったというコーチの塚口さん(48歳、酒屋経営)のアキレス腱断裂のようにぶっちぎれてしまうわけなのです。塚口さん?
人間はけっこうな労力をもちいて集中力を上げなければならないので、こういった局面におちいってしまうと、そこからまたエンジンをあたためなおして復活させるのはそうとう厳しいものがあります。
「あれ~、で、この映画なにやってんだっけ?」みたいなことになっちゃうんですよ。これは実にキツい。
え? たった14分じゃないか、そんなのたいしたことないだろって?
それはそうです。10~20分のあいだ主人公が消えるなんていうことは、世界に名だたる傑作映画の中ででも、調べてみれば意外とけっこうあることなのかも知れません。それ自体は決して、映画がダメになってしまう要因そのものではないはずなのです。
ただ、それは、「主人公に代わって観客の興味を引っぱってくれるストーリーや登場人物」が他にちゃんといたら、のお話!
4、主人公が入れ替わって物語の軸がぶれてしまった中盤
「スケバン刑事」シリーズでありながらまったく関係のない話が展開
前回のタイムスケジュールを見てのとおり、問題の14分間の主人公になってしまった人物は、松浦さんが潜入した学園でいじめられていた生徒・今野多英を演じていた岡田唯さんでした。
岡田さんは言わずもがな、アイドルユニット「美勇伝」のメンバーだった方なのですが、天下のハロー!プロジェクトの一員である以上、その基礎にどうしようもない「かわいさ」はあったものの、同時にいじめの対象にならないこともない「もっさり感」があったために、このいじめられっ子の役に大抜擢されたものと思われます。このキャスティングは非常に的を得ていてすばらしかったですね。
なので岡田さんの演技自体は問題ないのですが、松浦さんが追いかけている「連続爆弾事件」のかげに「陰湿ないじめ」があり、それをひた隠しにしようとする「学園の体質」があったり、いじめられる側の復讐心につけこんだ「謎のカリスマ」の存在があったり……といううんぬんが始まったあたりから、明らかにストーリーが「スペックオーバー」の感をあらわすようになってきます。
わかりやすく整理しますと、それまでは、
「突然『スケバン刑事』になっちゃった少女が奮闘する物語」
だったものが、中盤に入って一気に、
「現代のいじめの構図やインターネットにはびこる無数の悪意の存在に警鐘を鳴らす物語」
に拡大しちゃったんですね。
そんなもん、きのうきょうスケバン刑事になった松浦さんにつきつけられても、ねぇ!? アメリカから来たばっかなんだぜ。
5、「物語上の時間が『3日間』」と非常にタイト
たった3日間でヨーヨー達人になれ!?
問題の中盤に入るまでの約45分のあいだ、映画は「ヨーヨーのあつかいがからっきしダメな主人公」といったあたりを比較的ていねいに描写しています。基本に「半人前にもなれていない松浦刑事の成長物語」という骨格があるんですね。
ところが、映画の物語は「3日間以内に事件を解決しなければならない」設定なので、とてもじゃないですがその時間内に松浦さんが歴代のスケバン刑事に匹敵する技量を会得することなんてムリです。
その結果、前半の成長物語路線はどうなったのかっつうと……うやむやになっちゃった!
結局、時間を追っていけば2日目まで鋼鉄ヨーヨーもうまく操作できず、男に後ろから殴られてなにもできずに気絶していたような娘ッコが、3日目になったとたんに自分よりずっと昔からヨーヨーを得意武器としていたはずの公安のチャーミー石川刑事に伍するテクニックを駆使するスケバン刑事にしあがっているという、それまでのあれやこれやを製作陣みずからが紙切れのように破り捨ててしまうあきれた展開になってしまったわけなのです。
「3日間」というスリル要素を強引に入れてしまったために、せっかくおもしろくなるはずだった松浦さんの成長物語がまるごと「ないもの」に。「主人公だからなんでもアリ!」という、ど~しようもない脚本の甘さが露呈してしまっていますね。これじゃあわざわボンデージ姿にまでなって奮闘したチャーミー刑事の努力も浮かばれねぇよ。ぜってー勝てねーんだもん!
主人公の圧倒的なパワー差っていうのは、『ジョジョの奇妙な冒険・第3部』のように、主人公キャラクターに確立された魅力と説得力があって初めて観る側も納得するんであってね……「なんとなく気分で最強になった。」じゃあ応援する気にもなりゃしません。
6、タイムリミットサスペンスでありながら終盤がグダグダ
「具体的に時間期限がきてなにが怖いのか」という緊迫感がぜんぜんわかない
これは最低ですよ……
だって、序盤からひっぱりにひっぱっていたタイムリミットの正体が、序盤とまったく同じ「爆発」だったうえに未遂に終わっちゃうんだもの。しかも、真犯人はへらへら顔で「そんなものはおとりだったんだよ~ん。」という展開に走り、物語はタイムリミットの話なんか最初っからなかったかのように残り20分ほどのクライマックスに突入していくのです。
ここで真犯人が提示した「真の犯行計画」が、観客の誰もが想像だにしなかったものすごいものだったら納得もいくんですけど……アレでしょ? も~アホらしくて怒る気にもなりゃしません。
後半のグッダグダぶりについていろいろ言いたいことはあるのですが、はっきり言ってすべての責任は役者でも監督でもなく「脚本」に起因しているとしか思えません。
みんな~、「いじめっこ」と「いじめられっこ」と「いじめを無視している教師たち」が仲良く一緒に集まってガヤガヤやっている集会って、いっくらフィクションの世界だとしても、あっていいと思う~?
親友が爆弾の事故で廃人同然の身体になったというのに、他人を説得する手段に「爆弾」を選択するひとって、いると思う~?
そうなんです……脚本をやった人物は、クライマックスに起こるすべてのありえないほど都合のいい展開を「頭のおかしな真犯人」と「若者をすべからく思考停止にしてしまうインターネットの魔力」のせいにしてしまい、松浦さんの敵になる存在を全部ごった煮にしてしまっているのです。学園内のいじめが世間にもれることさえビビリまくっていた先生一同が、警察が封鎖してまで止めようとしている非合法の集会にふんぞり返って出席するわけねぇだろ、ボケンダラ!!
これはライムスターの宇多丸さんの必殺技なのであんまり言いたくはないのですが、この映画の脚本を書いた人は「インターネット=若者の思考能力を完全停止させて犯罪の道へとひた走らせてしまう悪魔の機械」というコッテコテのテンプレートを信じきってしまっている典型的な「話の通じないオジン」です。信じていないものをあえて自分の作品に投入しているのなら、ウソをつくのが絶望的にヘタな「世間をナメきったひと」。
脚本の人が昔に松田優作の作品を手がけていたっていうのも、なんとなくわかる気がするような。つまりはこの人、優作さんのようにきれいに舞台を去ることができなかった「自由を愛する昭和の一匹狼」が、その後21世紀に入っていったいどんな感じに老いさらばえていくのか、というところを身をもって体現しているんですね。「無差別犯罪」も「いじめ」も、自分の理解できない問題はまるっと「ぜ~んぶ敵!」にしてしまって勝手に安心するかわいそうなご老人なのです。いたわってさしあげましょう。
7、「アイドル映画」は「男優」が命!!
竹内力さんを除いた男たちがのきなみパッとしない
そんなお人が脚本を担当しているのですから、物語の中でも比較的「人間らしく描かれている」キャラクターは、自然と世代の近い、かつてやんちゃをして今は不自由な片脚をひきずって苦い顔をしまくっている吉良警部こと竹内力アニィとなります。
ところが! アニィと特別出演の「暗闇警視」こと長門裕之さんをのぞいた男俳優の皆さんが演じている役が、そろいもそろって軒並み全員アホ。いや、そんな言い方をしたらアホの方々に失礼にあたるくらいに脳細胞がない「デクのバー」ばっかなのです。
私、この映画に出演している俳優の仁科貴さんなんかけっこう好きなのですが、よくぞまぁ~その仁科さんをこんなにくだらない役にあててくれました。これほど俳優さんを湯水のように無駄遣いする映画も珍しいですよ。
私は無論のことプロの俳優ではないの大きな口をたたくことはできないのですが、もし事前に台本を読んでいたとしら、たとえ松浦亜弥さんやチャーミー石川さんが出演していると言っても、この『スケバン刑事』への「吉良警部役以外での出演」だけは丁重にお断りするのが「正しいプロ意識」なんじゃないかと思うんですけど。
悪役だとしても悪役なりの魅力を持たせてあげるのがいっぱしの脚本家だと思うんですけど、そんな手間さえかけなかったこの作品での男優陣は、「魅力ゼロ、出た甲斐ゼロ」の最悪ヤローばっかになっているところがあまりにも哀しいですね。
とどのつまり、この脚本に登場した「わるいやつら」は、悪役としてのちゃんとした人格さえ作者からさずかっていないのです。なんでかって? 書いた人がハナっからそういう人たちを理解しようとしてないから。
こうなっちゃうと、物語の中でいじめを隠蔽しようとする教師陣でさえなんとなくかわいらしく見えてきます。もっと救いようのない「大人の皮をかぶった無責任ボーヤ」がこの映画の舞台裏にいるんですもん。教師陣はくさっても学園を経営してますからね。
特にひどいのが他ならぬ「真犯人」役の窪塚俊介くんなのですが、こいつはも~、「世間なんかつまんない、社会なんかバカばっか。」と景気のいいタンカをきってカリスマきどっている犯罪者であるのにもかかわらず、いざ実際に自分で計画を実行してみると、そんな社会で毎日のように起こってニュースで流れた翌日にはきれいさっぱり世間の記憶から忘れ去られてしまうような、実にファッキンどうでもいいベタプランしか思いつかない典型的な「くちばっかしクン」です。
この人ねぇ、考え方といい「爆弾」といい「真の犯行計画の正体」といい、実はさまざまなポイントで、『スケバン刑事』の2年後に公開されて世界的な支持を得たあのハリウッド映画『ダークナイト』で、ヒース=レジャーが命がけで演じきった 00年代最高の悪役とも言われる「ジョーカー」に通じるものを持っているキャラクターで、
「人間なんてもろいよね。みんなすぐにバランスを崩してくずれ落ちる。ぼくは後ろからちょっとみんなの背中を押してみるだけ。」
という劇中での発言なんて、まんまおんなじことをジョーカーが自身の最後の決めゼリフとして言い放っているんですよ。
ところが!! だからと言って、この『スケバン刑事』の騎村時郎(きむらじろう)というキャラクターが『ダークナイト』のジョーカーのさきがけになっている! な~んてことはお尻の穴が裂けても言えないダメっぷりをいかんなく発揮しているのです。そういう意味では、その小人物ぶりが実に日本的ですばらしいです。1ミクロンも印象の残らないカスですけど。
これはねぇ~、当時、俳優業を始めて2年しかたっていなかった俊介くんの演技力がつたないとかが原因なんじゃありません。全面的にこんなカッスカスの人間、穀類にたとえると「イヌビエ」くらいの栄養価しかないやつしか思いつかなかった物書きの責任です。えっ、ジョーカーは? ジョーカーはバリバリの「ひとめぼれ」ですよ!!
なんかじょじょ~にヒートアップしちゃったんですけどね。
この映画は私そうだいに、「老害とはなにか。」という、日本が現在直面している大問題を如実につきつける、すばらしい経験をさずけてくれました。これには感謝しなければなりません。
そして、そんなとばっちりを受けてしまったがために、さまざまな成功要因があったはずの映画『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』はみごとにドンガラガッシャ~ンと「残念な結果」に終わってしまったのです。
要するに、「アイドル映画」というパッケージかなぐり捨てた以上は、ちゃんとした映画としての「中身」が伴っていなければならないということなんですな。たいした勉強もしていないくせに「昔はよかった。今は悪くなった!」ばっかりしか言うことがない99分なんか丁重にあんたの脳内にお返しします、今をがんばって生きている人たちにカラむのはやめていただきたいというお話なんです。
映画『スケバン刑事』のあれこれは、以上でございます!!
また今回も長くなっちゃったし、なんだか異様に鼻息が荒くなってしまいました。
松浦亜弥さんの今後の活躍を心から応援させていただきつつ、牛乳とにぼしでカルシウムを補給しながら眠りにつきたいと思います。
じゃあ次回は、そんな『スケバン刑事』の中でも、体当たりのボンデージ姿で実に狡猾に「ひとり勝ち」に近い収穫をもぎ取っていったチャーミー石川梨華さんがその6年後に再び銀幕に返り咲くことになった、現在公開中の映画『篤姫ナンバー1』についてのあれこれを、少しだけやりましょうか。
ちょっと、感心したところもあったのよねェ。『スケバン刑事』よりはよっぽど俳優さんが幸せそうな映画でしたよ~!
いや~、本日は平日だというのに、わたくしは休みをいただいて花見こみの東京散歩としゃれこんでしまいました。
中目黒。ちょっとふつうの木曜日とは信じられないような大にぎわいでしたよ!? 暑いぐらいの陽気だったし最高でしたね~。
そして、新宿に行って観てきたぜ。あの映画『篤姫ナンバー1』を。
なんだか、しご~くまっとうな娯楽映画でしたよ。そんなにひどくもないし、職業的にわかりやすく作られた作品とお見受けしましたので、メッセージみたいなものもすっきりと伝わってくるクライマックスでよかったと思います。
ただ、しいて言うのならば……映画にするまでのこともなかったような。ウヒョー根本的!!
物語全体のサイズが非常にTV 的だというかなんというか。きれいにまとまっていても、まとまった全体像がものすごくこぢんまりしてるんですよ。
でもさぁ、いまや堂々たるオッサンとなった私ででさえものごころのついていなかった、やたら元気のあった昭和戦後の日本の映画界って、こういう「あぁ~、おもしろかった。」っていうだけのプログラムがドバドバ作られてたわけだったんでしょ? エノケンだのクレイジーだのドリフだのっていう、偉大なる喜劇映画の系譜ですよ。
それにくらべたら、21世紀のいまどきはずいぶんとせちがらい世の中になっちゃいましたよねぇ……
こういったベタベタの喜劇映画をやってくれる会社も芸人さんも役者さんも少なくなっちゃったし、やったらやったで観てもいないような輩から「どうせつまんねぇだろ~」とか「大コケ必至~」とか「終わってる~」とか言われちゃうんですから。
哀しいことよ……それを知っててあえてやる勇気を見ろってんだよ。こんな、単純に楽しんでもらうためだけに作られた作品をよってたかっていじめるなんて、大人げないとか言う以前に人としての格の問題よ。
1800円かけて映画を観ることの「たのしみ」って、必ずしも「世間的に『あたり』の映画をチェックする」ってことだけじゃないですよね。
要するに、「日本円1800円」というものの価値は時代によっても人によっても、それを払うタイミングによっても大きく変動するものなんです。いちがいに「高い!」とも「安い!」とも言えないわけでして。
大事なのは! 「自分が1800円はらった分以上に楽しんだぞ!!」という手ごたえを回収することなんです。これはもう、どんなに無理やりにでも一命を賭してふんづかんでから鼻唄まじりで家に帰らなければなりません。作品の絶対的な価値じゃなくて、自分自身との戦いの問題ですよ。大げさな言いかた!!
そういうことで言いますと、この『篤姫ナンバー1』は非常に親切設計な作品であるわけなんです。良くも悪くもわかりやすい。
夜の蝶の世界を舞台にしてはいるのですが、それこそ、お子さんといっしょに観てもまったく問題ないくらいに、味が「カレーの王子さま」級にまっきっきのマイルドさに仕上がっております。ホメて……る、うん。
こういったものって、「かわいくてちょっとばかな小動物のくせ」を見たときと一緒で、「その時の自分のコンディションがわかる格好のリトマス試験紙」になるんですよねぇ。調子のいいときは「おぉ~、意味がなくていいねぇ。」となるし、余裕のないときは「てめぇ、すぐに消えねぇとショットガンでどたまぶち抜くぞ!!」となるわけです。カルシウムとらないとねぇ。
だから、この映画にダンディ坂野さんが出ていることの慧眼っていったらないんですね。いい役柄なんだ、坂野さん。
と、まぁいろいろ言ってはいるんですけど、どうやらこのまんまでいくと本題に入れないまま終わりになっちゃいそうですねぇ……
よっしゃ、ここで一発、ドカンと『スケバン刑事』のほうのケリをつけちゃいましょう!! 『篤姫ナンバー1』については、またあらためて次回ということで。
単刀直入に言いますと、『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』の悲劇は、あらゆる面で『篤姫ナンバー1』とはまったく対極にある問題が発生していたことに起因していました。
も~とにかく、今回はいろいろとくっちゃべっていきますよぉ~。いつもですけど。
以下、前にもあげた項目ごとにぶつぶつつぶやいてまいりたいと思います。
あっのっころっはぁ~、ハッ!!
1、「アイドル映画」にしたくなかった単独上映形式
通常の全国上映プログラムの3分の1の公開規模だった
なんてったって2006年当時の松浦さんが主演なのですから、製作した東映の系列映画館、全国300館規模で大々的に展開してもよかったはずの『スケバン刑事』だったのですが、実状は東映系のシネコンだけに限定したせいぜい100館前後での上映になっていました。
これはおそらく、それまでのハロプロ陣営が得意としていた1時間前後のアイドル映画の2本立てで全国上映する形式の踏襲を「あえて」避けて、深作健太監督と「女優」松浦亜弥がタッグを組んだ純然たるアクション映画をつくりたいという強い意気込みが作り手側にあったからなのではないでしょうか。その結果、作品は99分の長編映画として独り立ちしなければならなくなったのです。
また、そもそも松浦さんの映画初出演作『青の炎』(2003年)からして、ハロプロとジャニーズとの豪華競演でありながらもアイドル色を極力排除した『太陽がいっぱい』っぽい犯罪劇に仕上がっていたのですから、松浦さんがアイドル色のない演技に挑戦するというスタイルはさほど冒険的なものでもなかったのだと思います。まぁ、今になって考えれば、そういう「アイドルあやや」主演のハチャメチャ映画も観たかったような気はするのですが、松浦さんは「アイドル歌手」と「映画女優」との仕事を混同させることはいっさいなかったのです。
ただし、「アイドル映画ですよ~☆」の方向を捨てたために上映規模が小さくなってしまったことは回避しようのない必然だったと思います。それをさして「興行的に失敗!」ってけなすのはおかしいですよねぇ? もともと公開当初から他の大作映画とはベースが違うんですから。
むしろ問題は、映画を観に来たお客さんの多くが「う~ん、なんか観たかったあややの映画とちがう。怖い!」といった印象を持ってしまったことなのではないでしょうか?
2、「あやや主演映画!」のイメージと内容とのギャップ
異常に硬派な「スケバン刑事」シリーズの正式続編
この映画は、前回の物語タイムスケジュールをざっとごらんいただいてもわかるように、かつて日本全国で熱狂的なブームを巻き起こした「スケバン刑事」シリーズ、特に1985年4~10月に放送された TVドラマ『スケバン刑事』第1シリーズ(主演・斉藤由貴)のものすんごくストレートな続編となっています。
ご存知の通り、もともとは昨年2011年の急逝が惜しまれる和田慎二先生の手によって1976~82年に白泉社『花とゆめ』で連載されていたバイオレンスアクション少女マンガだった『スケバン刑事』は、1985~87年に3つの TVシリーズが放映されて大人気を博し、映画も2本製作されるという活況を呈していました。
この一連のシリーズの主人公は鋼鉄製のヨーヨーを自由自在に操って学園にはびこる犯罪をうちやぶる警視庁「裏公認」のスケバン刑事・麻宮サキなのですが、この「麻宮サキ」という名前はスケバン刑事の「継ぎ名」になっており、TV第2シリーズでは南野陽子、第3シリーズでは浅香唯が「麻宮サキ」を名乗る少女を演じていました。
ちなみに、わたくしそうだいが記憶しているスケバン刑事は3代目浅香唯さんの最終回付近がかろうじて……っていうていたらくです。だって、アクションばっかで怖かったんだもん!
さて、そんなスケバン刑事の歴史の中で、我らが松浦さんが演じた「少女K」は4代目麻宮サキということになっており、その母親を初代だった斉藤さんが演じていて、しかも彼女も「かつてスケバン刑事だった」という経歴が劇中で語られており、この映画『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』が、1985年の最終回で行方不明になっていた「初代麻宮サキ」のその後を語るものになっていることは明らかです。
つまり、本人そのものはチラッとしか出てきていないのですが、この物語はトータルでながめれば、突然の事情で4代目にならざるをえなくなった松浦さんよりも、その母親のほうが大きな存在感を持っている作品になっていて、母親の代わりにエッチラオッチラがんばっている松浦さんの姿を「特別の感情」をもって見つめている、吉良警部こと竹内力アニィのほうがよっぽど主人公らしい顔をしているわけなのです。
要するに、これは出演者も観客もひっくるめて、大人の方々が「1980年代は遠くになりにけり……」としみじみ実感するために作られたような『その後のスケバン刑事』であり、この作品の中で松浦さんが演じている主人公自体は、言ってみれば「まぁ~がんばってテキトーに事件を解決してくれたらいいよ~。」的な、カヤの外に置かれたきわめてど~でもいいお飾り的ポジションにあるといっても過言ではないのです。
これじゃあ松浦さんの努力もむくわれねぇよ。自分のことを子ども扱いする大人ほど、子どもの逆鱗に触れる存在はありません。
出演者も観客もひっくるめて、この映画ではじめて「スケバン刑事」シリーズに触れる若い人たちがなんとな~く「すっきりしない気分」になる理由のひとつが、まずこの置いてきぼりな作品構造にあるわけなのです。「いや、知らねぇし!」みたいな。
3、松浦さんが出ずっぱりになれなかった内容
当時の過密スケジュールがわざわいした?
こりゃあもう読んで字のごとくなんですが、2006年の松浦さんはまさしくそのキャリアの中でも最も忙しい時期の渦中にあり、「ソロ歌手・松浦亜弥」としての活動はもちのろんのこと、映画公開の3ヶ月前にあたる6月には、当時のモーニング娘。第5代リーダー・藤本美貴さんとのデュオユニット「GAM (ギャム)」も結成していて、しかも前年の2005年にできた安倍なつみ・後藤真希・石川梨華との4人組スペシャルユニット「DEF.DIVA (デフ・ディヴァ)」の活動も続いていたため、「3足のわらじ」の上にさらに「映画の主人公!」という1足をつけたしてケンタウロスのごとき非人間的なスケジュールに身を投じていたのです。これを20歳の娘さんがやるんだぜ!?
これで、99分のアクション映画で出ずっぱりの主人公をやりきるのはなかなか至難の業なんじゃないでしょうか。
実際、結果としてこの『スケバン刑事』の中では、物語中盤、開始44分から58分にかけてのくだりが、「松浦さんでない人物が主人公となっている」決定的な空白ゾーンとなってしまっているのです。この部分での松浦さんは、完全に物語の聞き手にまわっていて存在感がびっくりするほど希薄。実にわかりやすい「挿入歌が流れて登場人物たちが無言で街をさまようシーン」なんかが入っちゃうし、典型的な「休憩タイム」ですね。
んでもって、そこが松浦さんだけの休憩タイムだったらいいんですけど、と同時にどうしようもないレベルで「観客の集中力も休憩タイム」になってしまっているので、そこまで松浦さんが引っぱってきていた緊張感のあれこれが「ブッツン!!」と、それこそ早朝の剣道稽古で武道館内にその音がひびきわたったというコーチの塚口さん(48歳、酒屋経営)のアキレス腱断裂のようにぶっちぎれてしまうわけなのです。塚口さん?
人間はけっこうな労力をもちいて集中力を上げなければならないので、こういった局面におちいってしまうと、そこからまたエンジンをあたためなおして復活させるのはそうとう厳しいものがあります。
「あれ~、で、この映画なにやってんだっけ?」みたいなことになっちゃうんですよ。これは実にキツい。
え? たった14分じゃないか、そんなのたいしたことないだろって?
それはそうです。10~20分のあいだ主人公が消えるなんていうことは、世界に名だたる傑作映画の中ででも、調べてみれば意外とけっこうあることなのかも知れません。それ自体は決して、映画がダメになってしまう要因そのものではないはずなのです。
ただ、それは、「主人公に代わって観客の興味を引っぱってくれるストーリーや登場人物」が他にちゃんといたら、のお話!
4、主人公が入れ替わって物語の軸がぶれてしまった中盤
「スケバン刑事」シリーズでありながらまったく関係のない話が展開
前回のタイムスケジュールを見てのとおり、問題の14分間の主人公になってしまった人物は、松浦さんが潜入した学園でいじめられていた生徒・今野多英を演じていた岡田唯さんでした。
岡田さんは言わずもがな、アイドルユニット「美勇伝」のメンバーだった方なのですが、天下のハロー!プロジェクトの一員である以上、その基礎にどうしようもない「かわいさ」はあったものの、同時にいじめの対象にならないこともない「もっさり感」があったために、このいじめられっ子の役に大抜擢されたものと思われます。このキャスティングは非常に的を得ていてすばらしかったですね。
なので岡田さんの演技自体は問題ないのですが、松浦さんが追いかけている「連続爆弾事件」のかげに「陰湿ないじめ」があり、それをひた隠しにしようとする「学園の体質」があったり、いじめられる側の復讐心につけこんだ「謎のカリスマ」の存在があったり……といううんぬんが始まったあたりから、明らかにストーリーが「スペックオーバー」の感をあらわすようになってきます。
わかりやすく整理しますと、それまでは、
「突然『スケバン刑事』になっちゃった少女が奮闘する物語」
だったものが、中盤に入って一気に、
「現代のいじめの構図やインターネットにはびこる無数の悪意の存在に警鐘を鳴らす物語」
に拡大しちゃったんですね。
そんなもん、きのうきょうスケバン刑事になった松浦さんにつきつけられても、ねぇ!? アメリカから来たばっかなんだぜ。
5、「物語上の時間が『3日間』」と非常にタイト
たった3日間でヨーヨー達人になれ!?
問題の中盤に入るまでの約45分のあいだ、映画は「ヨーヨーのあつかいがからっきしダメな主人公」といったあたりを比較的ていねいに描写しています。基本に「半人前にもなれていない松浦刑事の成長物語」という骨格があるんですね。
ところが、映画の物語は「3日間以内に事件を解決しなければならない」設定なので、とてもじゃないですがその時間内に松浦さんが歴代のスケバン刑事に匹敵する技量を会得することなんてムリです。
その結果、前半の成長物語路線はどうなったのかっつうと……うやむやになっちゃった!
結局、時間を追っていけば2日目まで鋼鉄ヨーヨーもうまく操作できず、男に後ろから殴られてなにもできずに気絶していたような娘ッコが、3日目になったとたんに自分よりずっと昔からヨーヨーを得意武器としていたはずの公安のチャーミー石川刑事に伍するテクニックを駆使するスケバン刑事にしあがっているという、それまでのあれやこれやを製作陣みずからが紙切れのように破り捨ててしまうあきれた展開になってしまったわけなのです。
「3日間」というスリル要素を強引に入れてしまったために、せっかくおもしろくなるはずだった松浦さんの成長物語がまるごと「ないもの」に。「主人公だからなんでもアリ!」という、ど~しようもない脚本の甘さが露呈してしまっていますね。これじゃあわざわボンデージ姿にまでなって奮闘したチャーミー刑事の努力も浮かばれねぇよ。ぜってー勝てねーんだもん!
主人公の圧倒的なパワー差っていうのは、『ジョジョの奇妙な冒険・第3部』のように、主人公キャラクターに確立された魅力と説得力があって初めて観る側も納得するんであってね……「なんとなく気分で最強になった。」じゃあ応援する気にもなりゃしません。
6、タイムリミットサスペンスでありながら終盤がグダグダ
「具体的に時間期限がきてなにが怖いのか」という緊迫感がぜんぜんわかない
これは最低ですよ……
だって、序盤からひっぱりにひっぱっていたタイムリミットの正体が、序盤とまったく同じ「爆発」だったうえに未遂に終わっちゃうんだもの。しかも、真犯人はへらへら顔で「そんなものはおとりだったんだよ~ん。」という展開に走り、物語はタイムリミットの話なんか最初っからなかったかのように残り20分ほどのクライマックスに突入していくのです。
ここで真犯人が提示した「真の犯行計画」が、観客の誰もが想像だにしなかったものすごいものだったら納得もいくんですけど……アレでしょ? も~アホらしくて怒る気にもなりゃしません。
後半のグッダグダぶりについていろいろ言いたいことはあるのですが、はっきり言ってすべての責任は役者でも監督でもなく「脚本」に起因しているとしか思えません。
みんな~、「いじめっこ」と「いじめられっこ」と「いじめを無視している教師たち」が仲良く一緒に集まってガヤガヤやっている集会って、いっくらフィクションの世界だとしても、あっていいと思う~?
親友が爆弾の事故で廃人同然の身体になったというのに、他人を説得する手段に「爆弾」を選択するひとって、いると思う~?
そうなんです……脚本をやった人物は、クライマックスに起こるすべてのありえないほど都合のいい展開を「頭のおかしな真犯人」と「若者をすべからく思考停止にしてしまうインターネットの魔力」のせいにしてしまい、松浦さんの敵になる存在を全部ごった煮にしてしまっているのです。学園内のいじめが世間にもれることさえビビリまくっていた先生一同が、警察が封鎖してまで止めようとしている非合法の集会にふんぞり返って出席するわけねぇだろ、ボケンダラ!!
これはライムスターの宇多丸さんの必殺技なのであんまり言いたくはないのですが、この映画の脚本を書いた人は「インターネット=若者の思考能力を完全停止させて犯罪の道へとひた走らせてしまう悪魔の機械」というコッテコテのテンプレートを信じきってしまっている典型的な「話の通じないオジン」です。信じていないものをあえて自分の作品に投入しているのなら、ウソをつくのが絶望的にヘタな「世間をナメきったひと」。
脚本の人が昔に松田優作の作品を手がけていたっていうのも、なんとなくわかる気がするような。つまりはこの人、優作さんのようにきれいに舞台を去ることができなかった「自由を愛する昭和の一匹狼」が、その後21世紀に入っていったいどんな感じに老いさらばえていくのか、というところを身をもって体現しているんですね。「無差別犯罪」も「いじめ」も、自分の理解できない問題はまるっと「ぜ~んぶ敵!」にしてしまって勝手に安心するかわいそうなご老人なのです。いたわってさしあげましょう。
7、「アイドル映画」は「男優」が命!!
竹内力さんを除いた男たちがのきなみパッとしない
そんなお人が脚本を担当しているのですから、物語の中でも比較的「人間らしく描かれている」キャラクターは、自然と世代の近い、かつてやんちゃをして今は不自由な片脚をひきずって苦い顔をしまくっている吉良警部こと竹内力アニィとなります。
ところが! アニィと特別出演の「暗闇警視」こと長門裕之さんをのぞいた男俳優の皆さんが演じている役が、そろいもそろって軒並み全員アホ。いや、そんな言い方をしたらアホの方々に失礼にあたるくらいに脳細胞がない「デクのバー」ばっかなのです。
私、この映画に出演している俳優の仁科貴さんなんかけっこう好きなのですが、よくぞまぁ~その仁科さんをこんなにくだらない役にあててくれました。これほど俳優さんを湯水のように無駄遣いする映画も珍しいですよ。
私は無論のことプロの俳優ではないの大きな口をたたくことはできないのですが、もし事前に台本を読んでいたとしら、たとえ松浦亜弥さんやチャーミー石川さんが出演していると言っても、この『スケバン刑事』への「吉良警部役以外での出演」だけは丁重にお断りするのが「正しいプロ意識」なんじゃないかと思うんですけど。
悪役だとしても悪役なりの魅力を持たせてあげるのがいっぱしの脚本家だと思うんですけど、そんな手間さえかけなかったこの作品での男優陣は、「魅力ゼロ、出た甲斐ゼロ」の最悪ヤローばっかになっているところがあまりにも哀しいですね。
とどのつまり、この脚本に登場した「わるいやつら」は、悪役としてのちゃんとした人格さえ作者からさずかっていないのです。なんでかって? 書いた人がハナっからそういう人たちを理解しようとしてないから。
こうなっちゃうと、物語の中でいじめを隠蔽しようとする教師陣でさえなんとなくかわいらしく見えてきます。もっと救いようのない「大人の皮をかぶった無責任ボーヤ」がこの映画の舞台裏にいるんですもん。教師陣はくさっても学園を経営してますからね。
特にひどいのが他ならぬ「真犯人」役の窪塚俊介くんなのですが、こいつはも~、「世間なんかつまんない、社会なんかバカばっか。」と景気のいいタンカをきってカリスマきどっている犯罪者であるのにもかかわらず、いざ実際に自分で計画を実行してみると、そんな社会で毎日のように起こってニュースで流れた翌日にはきれいさっぱり世間の記憶から忘れ去られてしまうような、実にファッキンどうでもいいベタプランしか思いつかない典型的な「くちばっかしクン」です。
この人ねぇ、考え方といい「爆弾」といい「真の犯行計画の正体」といい、実はさまざまなポイントで、『スケバン刑事』の2年後に公開されて世界的な支持を得たあのハリウッド映画『ダークナイト』で、ヒース=レジャーが命がけで演じきった 00年代最高の悪役とも言われる「ジョーカー」に通じるものを持っているキャラクターで、
「人間なんてもろいよね。みんなすぐにバランスを崩してくずれ落ちる。ぼくは後ろからちょっとみんなの背中を押してみるだけ。」
という劇中での発言なんて、まんまおんなじことをジョーカーが自身の最後の決めゼリフとして言い放っているんですよ。
ところが!! だからと言って、この『スケバン刑事』の騎村時郎(きむらじろう)というキャラクターが『ダークナイト』のジョーカーのさきがけになっている! な~んてことはお尻の穴が裂けても言えないダメっぷりをいかんなく発揮しているのです。そういう意味では、その小人物ぶりが実に日本的ですばらしいです。1ミクロンも印象の残らないカスですけど。
これはねぇ~、当時、俳優業を始めて2年しかたっていなかった俊介くんの演技力がつたないとかが原因なんじゃありません。全面的にこんなカッスカスの人間、穀類にたとえると「イヌビエ」くらいの栄養価しかないやつしか思いつかなかった物書きの責任です。えっ、ジョーカーは? ジョーカーはバリバリの「ひとめぼれ」ですよ!!
なんかじょじょ~にヒートアップしちゃったんですけどね。
この映画は私そうだいに、「老害とはなにか。」という、日本が現在直面している大問題を如実につきつける、すばらしい経験をさずけてくれました。これには感謝しなければなりません。
そして、そんなとばっちりを受けてしまったがために、さまざまな成功要因があったはずの映画『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』はみごとにドンガラガッシャ~ンと「残念な結果」に終わってしまったのです。
要するに、「アイドル映画」というパッケージかなぐり捨てた以上は、ちゃんとした映画としての「中身」が伴っていなければならないということなんですな。たいした勉強もしていないくせに「昔はよかった。今は悪くなった!」ばっかりしか言うことがない99分なんか丁重にあんたの脳内にお返しします、今をがんばって生きている人たちにカラむのはやめていただきたいというお話なんです。
映画『スケバン刑事』のあれこれは、以上でございます!!
また今回も長くなっちゃったし、なんだか異様に鼻息が荒くなってしまいました。
松浦亜弥さんの今後の活躍を心から応援させていただきつつ、牛乳とにぼしでカルシウムを補給しながら眠りにつきたいと思います。
じゃあ次回は、そんな『スケバン刑事』の中でも、体当たりのボンデージ姿で実に狡猾に「ひとり勝ち」に近い収穫をもぎ取っていったチャーミー石川梨華さんがその6年後に再び銀幕に返り咲くことになった、現在公開中の映画『篤姫ナンバー1』についてのあれこれを、少しだけやりましょうか。
ちょっと、感心したところもあったのよねェ。『スケバン刑事』よりはよっぽど俳優さんが幸せそうな映画でしたよ~!