じゃんぐるぽっけ~じゃんぐるぽっけ~、じゃんぐるぽっけ~!! どうもこんばんは、そうだいでございます~。みなさま、今日も一日お疲れさまでした! 東京と千葉は夜になってから雨が降ってきちゃいましたねぇ。この流れで、明日はずっとしとしと天気? ここ連日きびしい日射しが続いていたんで久しぶりのおしめりはうれしいですけど、土日に限っての雨はちょ~っとお断りですね!
それで今日、下北沢の劇場「ザ・スズナリ」に行って三条会のお芝居を観てきたわけなんですけども。
なにが「それで」なのかよくわからないかとは思うんですが、そのあたりの経緯を話すヒマもないくらいに声を大にして申し上げたい。
「これは観たほうがいい!!」と。
三条会公演 『三人姉妹』(演出・関 美能留、作・アントン=チェーホフ)5月9~13日 東京 下北沢ザ・スズナリにて
今が5月10日も終わろうかという深夜ですからね、あと「3日」の「5回公演」しかないんですよ、このお芝居は! こんなのもう、「目撃」としかいいようのないチャンスの少なさです。可能なお方は是非とも目撃してください! こんな『信長の野望』シリーズでいう「四国一条家」みたいな超零細ブログでワヤワヤわめいてみたところで、いかほどの効果があるのかはまったく心もとないのですが、それでもこう言わずにはいられないわけなのです。目撃してください!!
ロシア帝国の文豪であり、稀代の名戯曲家でもあったアントン=チェーホフ(1860~1904年)の世界的に有名な「4大悲劇戯曲」の第3作にあたる『三人姉妹』は、1901年1月の初演という、まさに「20世紀文学のトップバッター」ともいうべきプレッシャーバリバリのタイミングで世に出たのですが、その位置にまったく負けていない内容を兼ね備えた名作であると、私は今回の三条会公演を観ながら思いを改めました。
「思いを改めた」っていうのは、10年以上昔の大学生時代に私もこの『三人姉妹』は新潮文庫のやつを読んだことはあったのですが、そのときは「セリフが長くてなにが起きてるんだかさっぱりわかんない! ひたすら眠いよ~。」という感想しか残らなかったからなんです……青かった。やっぱり戯曲は「台本」なんですから、舞台の上で役者が演じているかたちを楽しむのがいちばんですよね。
チェーホフの「4大悲劇戯曲」は『かもめ』(1896年初演)、『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)、『三人姉妹』、『桜の園』(1904年初演)の4作なのですが、チェーホフは『桜の園』の初演の半年後に結核で亡くなっている(享年44歳)ため、これらは彼の文学のエッセンスが集約されたものになっている……のだそうです。
「のだそうです。」という腰砕けな言い方になってしまうのは、私も4作すべてを知っているわけではないからでありまして。ましてや、それと比較するべきその他のチェーホフ作品もあんまり読んでません! 『かもめ』と『桜の園』と『タバコの害毒について』(1886年)は好きです。
あ、そういえば、『桜の園』はたしか、映画『ツナグ』の劇中の高校演劇部で橋本愛さんの主演で上演されていましたね。おい、それいつか、ほんとにどっかでやってくれや! 300%ほめ言葉のつもりで言いますけど、橋本愛さんには謹んで「顔面凶器」というキャッチフレーズを献上したいです。
さらにそういえば、明日フジテレビの土曜プレミアム枠(21:00~23:10)で放送される『世にも奇妙な物語 2013春の特別編』で、辻村深月先生の短編『踊り場の花子』がドラマ化されるそうですね。私も楽しみです! TVねぇけど。
いいかげん脱線が過ぎましたので、『ツナグ』の原作版で高校演劇部が上演した舞台が『桜の園』でなくて三島由紀夫の『鹿鳴館』(1956年11月初演)だったという事実を経由して本線の三条会に戻ることにいたしましょう。だから好きなのよねぇ。
そういった感じで、私はチェーホフ文学の特色がどうとか、そこから見た『三人姉妹』のポジションがどうとかぬかせる人間ではないので、ほんとに単純に今日観た三条会の『三人姉妹』から感じとったことだけを元手にいろんなことを言っていきます。舞台化された『三人姉妹』を観るのも今回が初めてというていたらくなんでありまして……間違った解釈をしていたのだとしても、それは私個人の責任に帰する「真剣な曲解」ですので、ひとつあわれみのまなざしをもって見のがしてください。
三条会の『三人姉妹』は戯曲の流れどおりに物語が展開していき、おそらく出演者がもともとの「14人」から「9人+α」にしぼられていることにともなって施されたと思われるセリフやシーンのカットはあるものの、発生する出来事はだいたい戯曲に準拠したものとなっています。
ただし、1954年の訳文だというのにまったく色あせていない名翻訳家・神西清(じんざい きよし 1903~57年)のセリフをほぼ忠実に語る役者陣とはまったく対照的に、舞台上にあるもの全てが「いったん解体されている」のが、やっぱり三条会ならではの真摯な取り組み方であり醍醐味だと思うんですよね。まるで何もないような空間から、役者が「与えられた言葉」で何かを創造していくわけで、そのクリーチャーが果たして、原作と同じ骨格を持っていながらどのくらい原作と違ったものになっているのか? そっくりの双子? よく似た親子? 似ても似つかないきょうだい? オリジナルとリミックス? ゴジラとメカゴジラ?
今回の『三人姉妹』では、開演時の舞台には13脚の椅子と1脚のキャタツくらいしか物が置かれていない状況で、舞台装置としても、舞台の客席よりの前半分と奥半分とを分ける透明なガラス状の壁しかありません。その透明な壁には木の枠が縦横に走っていて、壁というよりも12枚の大きな窓の集まりのように見えるのですが、それがシーンごとの照明の変化によって、ときに舞台前半分の役者を鏡のように反射する効果を出しているのが妙に印象的でした。
とにかくシンプル! そんな舞台であるのですが、だからこそ、役者のセリフとその身のこなしからいろんなことを連想し、その連想を DVDのオーディオコメンタリーのように副音声で流しながら観るのが、今のところの私なりの三条会のお芝居の楽しみ方です。こういう「集中」のしかたでもいいじゃないかと。
そして、そういった「脳内散歩」を楽しむことがそのまんま、その時点での自分の「娯楽のたのしみかた」の根っこみたいな部分をを想像するきっかけになるわけなんですよね。これはそんじょそこらのエンタメじゃあ味わえない域の楽しさですよ……ディズニーランドにはたぶん、ない。
「鏡」というのならば、この『三人姉妹』の物語やその結末も、観る人によってだいぶその解釈が変わってくるものなんじゃないかと感じましたね。おそらく、ある人が観たら「甘い理想を持ったある名家が現実にまみれて没落していく悲劇」となるでしょうし、その一方で「いろいろな種類の人間のうまくいかない人生を皮肉ったブラックユーモアたっぷりの喜劇」とながめる人もいるでしょう。そしてその結末ののち、三人姉妹のいるプローゾロフ一家がどうなるのか? 物語の大筋どおりのバッドエンドとなるのか、ラストシーンで手に手を取って立ち上がった三人姉妹の決心から人生の一発逆転が生まれるのか? どちらを予想するかで、三人姉妹の長女オーリガ(演・大倉マヤ)が語ったスケールの大きすぎるセリフの味わいもだいぶ変わってくると思うんです。
原作の筋書きでは、『三人姉妹』のラストシーンは三人の決意のセリフに合わせるかのように、外からは雄々しい軍楽隊の音楽が聞こえてくるという、一家の復活を前向きに鼓舞するかのような原作者なりの演出が加えられています。
ところが、三条会版のラストシーンは「音楽が流れてきて三人が語る」という点ではまったく同じであるものの、その様相は「ある一家の物語の結末」という枠におさまりきっていない大爆発をとげたものになっている、と私は観ました。これはおそらく、三人、特に長女オーリガのセリフに、ホームドラマの登場人物の言うことにしては異常に距離感のある、どちらかというと「原作者の人生観・世界観」のようなものが配合されていることへの三条会一流の「ストレートな解釈」だったのではないのでしょうか。そしてその結果、三条会版の『三人姉妹』はロシア帝国のいち地方都市の家庭劇を超え、20世紀文学の代表的悲劇を超え、2013年を生きてこの劇場にやってきた会場の人々の目の前に到着するという、当たり前のことながらも他の舞台では滅多に見られない「時をかけるお芝居」になっていたわけなのです。このスケールとスピード感覚は、いいね!!
とは言いましても、今回の舞台を観ていて、少なくとも私は「速さから来る爽快感」を感じることは特にありませんでした。そういった見ていてわかりやすいおもしろさではなく、全編にわたって役者陣が意図的に「観る者の集中力がギリギリ離れない限度のゆるいスピード」で物語を進めていく一点勝負! その迷いのなさにあたしゃあビックラこいちゃったわけなんです。
出てくる名前も「トゥーゼンバフ」とか「チェブトイキン」とか耳慣れないものばっかりだし、「火事」とか「戦争」とか「決闘」といった物語中の出来事もスペクタクル映画のように再現されるわけではないので、役者の語りの実力だけが武器になるというこの状況で、あえてじっくり! そして、それに見事にこたえる、役者陣の緊張感に裏打ちされた魅力!!
このへんは、今年3月に私が岡山市で観た同じ関さん演出のお芝居『月の鏡にうつる聲』とはまったく好対照を成すもので、一般の方々が役者として参加した『月の……』が短距離走のバトンリレーのような疾走感に満ちていたのにたいし、今回の『三人姉妹』はまさに選手全員の能力を知り尽くした監督が采配をとる箱根駅伝のような長距離走をイメージしました。その要求にこたえられるだけの実力を役者が持っているから初めて成立する話であり、そういう意味でも三条会の「ガチンコの本公演」を目の当たりにした思いでしたねぇ。
みなさんすごいんですが、私は特に、三人姉妹の生活に大きな影響を与えることになる、大都会からやって来たヴェルシーニン中佐役の山本芳郎さん(劇団山の手事情社 客演)の尋常でないセリフの「聞かせ力」に瞠目してしまいました。
山本芳郎さんの演じるヴェルシーニン中佐という人物は、ロシアの副首都(1712~1918年の首都はサンクトペテルブルク)であり、13世紀以来の長い歴史を持つ人口100万都市でもあったモスクワから三人姉妹のいる地方都市(人口10万ほど)にやってきた、紳士的で知的魅力にあふれたインテリでアーバンでソフィスティケイトされた伊達男であるのですが、そのいっぽうでは、モスクワにそ~と~厄介な家庭のいざこざを置いてきぼりにしながら、三人姉妹の前では理想的な社会論や道徳観を哲学のベースに乗せて語りまくるスーパー口ばっかし人間でもあるという二面性をかかえたものすごいキャラクターになっています。劇中でも、他の登場人物たちにというよりはモロ観客席のほうを向いて、数分にわたるやたら長い語りを投げかけてくる不気味な魅力に満ちた人物でありながらも、言ってることの内容はコンビニとかで1リットル100円という驚きの価格で販売されている乳酸菌飲料「コーラスウォーター」よりもうっすい理想論の繰り返しで、その口から出る「未来の世界のあるべき姿」も、『三人姉妹』の初演から実に110年以上の時が経過している現在の観客の全員から「ねーよ!!」と総ツッコミを浴びてしまいかねない甘ったるいものになっています。
でも、そんな聞く価値もないような文句の数々も、山本芳郎さんという筋金入りの俳優の身体と声を通せば、あ~ら不思議。なんの打算も悪意もない、本人が心の底からそうだと信じている、というか、もし現実がそうでなかったのだとしてもそうであるようにせねばならないのだと強く信じている何かを胸にいだいた上での「真情あふるる軽薄さ」になってしまうんですから、じっくり最初っから最後まで聞き入っちゃうんですよね! 軽くて重い! 浅くて深い!! まっくらくら~いクラ~イ♪
このヴェルシーニン中佐の妄言と、それに聞き惚れて自分たちの妄想を広げる三人姉妹との相関関係は、はた目から見れば非常におめでたくて残念なものに見えてしまいます。しかし、その渦中にいる人々にとって、案外それはお互いをだます意図さえも存在していない「真実の思い」同士の真剣勝負なのであり、それは劇中のかなりいいポイントで中盤にタイムリーに流れてくる「ある超有名アーティストの楽曲」ともかなりリンクしたものになっていると感じました。それは非常に甘ったるいささやきに満ちた歌ではあるんですが、何百年たとうが何千年たとうが、おそらく人間誰しもが通過する恋の季節をうたったものであり、歴史や教育の積み重ねで取り払えるわけがない「業」をピンポイントでおさえた名曲です。そして、その業があるから人は人なんだよなぁ……と、しみじみ痛感。
さて、このヴェルシーニン中佐と三人姉妹にかぎらず、この物語に登場する人物たちのマンツーマンの関係はすべからく「そんなはずじゃなかったのに……」というかおりの強くただようものになっており、例えば第1幕の終盤でめでたく結ばれたプローゾロフ家の若き当主アンドレイ(三人姉妹の男きょうだい 演・榊原毅)とその恋人ナターシャ(演・山本晃子 劇団百景社 客演)は、その直後の第2幕のとっかかりから価値観のどうしようもない違いと倦怠期に見舞われているというミもフタもない時間の経過が提示されてしまっています。つまり、作品の中で見られる世間と個人、家族同士、恋人同士、夫と妻、親友同士、恋がたき同士、そして、「そうだったはずの自分」と「実際の自分」というすべての対比において、観客の苦笑をさそう何らかの皮肉な現実が用意周到に突きつけられているわけで、そういった戯曲が発表から1世紀以上たった今でもこうやって時間と国境を越えて上演されているのですから、この『三人姉妹』には時空を超えた「全人類あるあるネタ」ともいうべき恐るべき「呪い」がかけられている、というより仕方ありません。まさしく、文学の魔術師チェーホフ一世一代のミラクルイリュージョンとしか言いようがありませんね。
さぁ、そんな強力な呪いのかけられた『三人姉妹』に、果たして三条会はどう挑んでいったのでしょうか?
私がそれを考える上で最も重大なヒントになると見たのは、今回の公演の「上演時間約2時間」という情報でした。
ここ最近の三条会の公演の上演時間は「1時間から1時間半」という場合が多かったのですが、それに比べて『三人姉妹』のおよそ2時間はちょっとだけ長くなっています。ただし、これはある程度のカットがあった上での2時間であるわけですから、「この台本をやったら自然にこういう上演時間になった。」というような消極的な成り行きによるものでないことはあきらかで、それはつまり、何らかの思惑があっていつもよりもちょっとボリュームアップな2時間にしたという積極的な「設計」があった、ということになるのです。
そんなことをモヤモヤ考えながら開演にのぞんだ私だったのですが、内容を最後まで観て、そんな私の疑問はいっぺんに氷解しました。
あぁ、これ、ひとつの2時間のお芝居なんじゃなくて、1時間半の『三人姉妹』ロケットと30分の「三条会」ロケットとで二段構えになってる公演なんだ!
つまり、私もケータイや夜光の腕時計を使って上演中に精確にはかったわけではないので体感時間でしか言えないのですが、この三条会版の『三人姉妹』は、舞台上にいる9名の集まりが原作で言うプローゾロフ一家の周辺に起こる出来事をおっていく内容の立体化を1時間半かけて進める大部分から、ある舞台転換をへて大きく「反転」し、あたかも役者陣が『三人姉妹』の世界を跳び越えて現在の劇場へ出てきたかのような無重力感のある残り30分間の最終第4幕をもって完成となるのです。そして、そんな中で流れ出す最後の音楽と、三姉妹の決意をこめたセリフ。
反転といえば、今回の三条会の『三人姉妹』は反転をもって原作を照射するといったネガポジの効果がいろんなところで見られて、まずなんといっても、タイトルにもなっているプローゾロフ家の三姉妹の存在が、同じきょうだいであるはずなのに男性であるということでそこから除外されている長男アンドレイの視点から強調されていく序盤もそうですし、前半分と奥半分で2つに分割されている舞台で交互に展開していく物語も、もう片面で起きている出来事の反転の繰り返しでできあがっているとも解釈できる部分があります。プローゾロフ家に近い登場人物の服装や舞台全体がのきなみ単調な色彩になっているのに対して、そこに距離感をおいているヴェルシーニン中佐(&彼の登場専用ドア)と長男の嫁ナターシャが極端に色鮮やかな衣装に身を包んでいるのもわかりやすい対比ですし、そんな登場人物全員が、「役者の身体を持っていない」舞台上のチェブトイキン軍医の「声なき声」に常に耳をそばだてているのも、不在が存在に大きな影響を与えている反転の作用だと思います。
こんな感じで、確かに舞台上に展開される物語は、俳優の声と身体以外には補足がないゆえに一見とっつきにくいものがあるのかもしれませんが、ものを観る視点を固有名詞の多い俳優のセリフの文面ではなく、それぞれの俳優のセリフの言い方や身のこなしにおけば、三条会の『三人姉妹』ほど明確に物語の本筋をおさえた『三人姉妹』はありません。「俳優が何を言っているのか」ではなく、「どんな俳優が言っているのか」に注目すれば、チェーホフ一流の言葉の綾に左右されない、セリフに反転されたキャラクターの「本音」が見えてくるはずなのです。そこが見えたらもうオッケーなの!
そんなこんなをへてのクライマックス。三条会版ならではの音楽とともに語られた長女オーリガの最後のセリフのあと、無音となった舞台上では「ある登場人物」がひとりだけある動作をおこなって、この『三人姉妹』は幕を閉じます。
本来の戯曲ではもうちょっと時間がずれていたはずのこの人物の動きが、オーリガの「ホームドラマのキャラクターらしからぬ」超時代的な皮肉、つまりはこの『三人姉妹』におけるチェーホフ最後にして最大の呪いの後に置かれているということは、そのまま、それに対する三条会からの返事ということになるでしょう。それほど突飛なものでもない動作なのですが、それはまさに1世紀モノの呪いを正々堂々と背負った重みのあるものであり、それだけの時間を超えて初演の1901年という過去から現代の下北沢までやってきた三条会製の「タイムマシン」から降り立った乗組員の、未来へ向けての確実な歩みでもあるわけなのです。まさしく「古典から未来の話をする」という今回の公演のコンセプトを体現するエンディングであるわけなのですが、その動きを引き受けた登場人物があの人であるというところに、現在『三人姉妹』の発表時期のチェーホフと同年齢の41歳だという演出家・関美能留の「まなざし」があるような気がいたしました。
ずいぶんと気が早い話ですが、その人物のおもむいた先にある「次なる物語」をはやく観たいとも思ってしまいました。どんな新世界があるんだろうかねェ~!?
先人の古典を死なせたままでなく、そこにこめられた呪いを正々堂々と血のかよったものに復活させた上で勝負をいどむ。そんな三条会のしごくまっとうな、それでいてよその演劇では滅多に見られない闘い方をあらためて堪能した、今回の『三人姉妹』だったのでありました。
これを観て、「あまり大きな起伏がない」とか「セリフが長い」とか「大爆笑できるわかりやすいシーンがない」とかってグチをこぼすようじゃあ、まだまだあまちゃんよね。それはブラックコーヒーを「超にがい!」と批判するようなもんですよ。あったりめぇだっつうの!! 『三人姉妹』をかんたんに観られるものに分解してど~するんだっての。ンなもんなんにも残んないし、それだったら別の人の戯曲をやったほうがよっぽどいいわけですよ。
いつもどおりの真摯な態度で原作の呪いにいどむ三条会の、超高性能タイムマシンが展開するめくるめく反転の時間旅行を、みなさまもぜひともお楽しみくださ~い! 私はあと最低1回は観に行きますよ~。チャンスは決して多くないぞ!
他にも言いたいポイントは山ほどあるんですが、こんな長い文章をいったい誰が読むんだということで、涙をのんで今日はここまで!!
天気はあんまりよろしくないようですが、観てちょ~、観てちょ~☆
それで今日、下北沢の劇場「ザ・スズナリ」に行って三条会のお芝居を観てきたわけなんですけども。
なにが「それで」なのかよくわからないかとは思うんですが、そのあたりの経緯を話すヒマもないくらいに声を大にして申し上げたい。
「これは観たほうがいい!!」と。
三条会公演 『三人姉妹』(演出・関 美能留、作・アントン=チェーホフ)5月9~13日 東京 下北沢ザ・スズナリにて
今が5月10日も終わろうかという深夜ですからね、あと「3日」の「5回公演」しかないんですよ、このお芝居は! こんなのもう、「目撃」としかいいようのないチャンスの少なさです。可能なお方は是非とも目撃してください! こんな『信長の野望』シリーズでいう「四国一条家」みたいな超零細ブログでワヤワヤわめいてみたところで、いかほどの効果があるのかはまったく心もとないのですが、それでもこう言わずにはいられないわけなのです。目撃してください!!
ロシア帝国の文豪であり、稀代の名戯曲家でもあったアントン=チェーホフ(1860~1904年)の世界的に有名な「4大悲劇戯曲」の第3作にあたる『三人姉妹』は、1901年1月の初演という、まさに「20世紀文学のトップバッター」ともいうべきプレッシャーバリバリのタイミングで世に出たのですが、その位置にまったく負けていない内容を兼ね備えた名作であると、私は今回の三条会公演を観ながら思いを改めました。
「思いを改めた」っていうのは、10年以上昔の大学生時代に私もこの『三人姉妹』は新潮文庫のやつを読んだことはあったのですが、そのときは「セリフが長くてなにが起きてるんだかさっぱりわかんない! ひたすら眠いよ~。」という感想しか残らなかったからなんです……青かった。やっぱり戯曲は「台本」なんですから、舞台の上で役者が演じているかたちを楽しむのがいちばんですよね。
チェーホフの「4大悲劇戯曲」は『かもめ』(1896年初演)、『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)、『三人姉妹』、『桜の園』(1904年初演)の4作なのですが、チェーホフは『桜の園』の初演の半年後に結核で亡くなっている(享年44歳)ため、これらは彼の文学のエッセンスが集約されたものになっている……のだそうです。
「のだそうです。」という腰砕けな言い方になってしまうのは、私も4作すべてを知っているわけではないからでありまして。ましてや、それと比較するべきその他のチェーホフ作品もあんまり読んでません! 『かもめ』と『桜の園』と『タバコの害毒について』(1886年)は好きです。
あ、そういえば、『桜の園』はたしか、映画『ツナグ』の劇中の高校演劇部で橋本愛さんの主演で上演されていましたね。おい、それいつか、ほんとにどっかでやってくれや! 300%ほめ言葉のつもりで言いますけど、橋本愛さんには謹んで「顔面凶器」というキャッチフレーズを献上したいです。
さらにそういえば、明日フジテレビの土曜プレミアム枠(21:00~23:10)で放送される『世にも奇妙な物語 2013春の特別編』で、辻村深月先生の短編『踊り場の花子』がドラマ化されるそうですね。私も楽しみです! TVねぇけど。
いいかげん脱線が過ぎましたので、『ツナグ』の原作版で高校演劇部が上演した舞台が『桜の園』でなくて三島由紀夫の『鹿鳴館』(1956年11月初演)だったという事実を経由して本線の三条会に戻ることにいたしましょう。だから好きなのよねぇ。
そういった感じで、私はチェーホフ文学の特色がどうとか、そこから見た『三人姉妹』のポジションがどうとかぬかせる人間ではないので、ほんとに単純に今日観た三条会の『三人姉妹』から感じとったことだけを元手にいろんなことを言っていきます。舞台化された『三人姉妹』を観るのも今回が初めてというていたらくなんでありまして……間違った解釈をしていたのだとしても、それは私個人の責任に帰する「真剣な曲解」ですので、ひとつあわれみのまなざしをもって見のがしてください。
三条会の『三人姉妹』は戯曲の流れどおりに物語が展開していき、おそらく出演者がもともとの「14人」から「9人+α」にしぼられていることにともなって施されたと思われるセリフやシーンのカットはあるものの、発生する出来事はだいたい戯曲に準拠したものとなっています。
ただし、1954年の訳文だというのにまったく色あせていない名翻訳家・神西清(じんざい きよし 1903~57年)のセリフをほぼ忠実に語る役者陣とはまったく対照的に、舞台上にあるもの全てが「いったん解体されている」のが、やっぱり三条会ならではの真摯な取り組み方であり醍醐味だと思うんですよね。まるで何もないような空間から、役者が「与えられた言葉」で何かを創造していくわけで、そのクリーチャーが果たして、原作と同じ骨格を持っていながらどのくらい原作と違ったものになっているのか? そっくりの双子? よく似た親子? 似ても似つかないきょうだい? オリジナルとリミックス? ゴジラとメカゴジラ?
今回の『三人姉妹』では、開演時の舞台には13脚の椅子と1脚のキャタツくらいしか物が置かれていない状況で、舞台装置としても、舞台の客席よりの前半分と奥半分とを分ける透明なガラス状の壁しかありません。その透明な壁には木の枠が縦横に走っていて、壁というよりも12枚の大きな窓の集まりのように見えるのですが、それがシーンごとの照明の変化によって、ときに舞台前半分の役者を鏡のように反射する効果を出しているのが妙に印象的でした。
とにかくシンプル! そんな舞台であるのですが、だからこそ、役者のセリフとその身のこなしからいろんなことを連想し、その連想を DVDのオーディオコメンタリーのように副音声で流しながら観るのが、今のところの私なりの三条会のお芝居の楽しみ方です。こういう「集中」のしかたでもいいじゃないかと。
そして、そういった「脳内散歩」を楽しむことがそのまんま、その時点での自分の「娯楽のたのしみかた」の根っこみたいな部分をを想像するきっかけになるわけなんですよね。これはそんじょそこらのエンタメじゃあ味わえない域の楽しさですよ……ディズニーランドにはたぶん、ない。
「鏡」というのならば、この『三人姉妹』の物語やその結末も、観る人によってだいぶその解釈が変わってくるものなんじゃないかと感じましたね。おそらく、ある人が観たら「甘い理想を持ったある名家が現実にまみれて没落していく悲劇」となるでしょうし、その一方で「いろいろな種類の人間のうまくいかない人生を皮肉ったブラックユーモアたっぷりの喜劇」とながめる人もいるでしょう。そしてその結末ののち、三人姉妹のいるプローゾロフ一家がどうなるのか? 物語の大筋どおりのバッドエンドとなるのか、ラストシーンで手に手を取って立ち上がった三人姉妹の決心から人生の一発逆転が生まれるのか? どちらを予想するかで、三人姉妹の長女オーリガ(演・大倉マヤ)が語ったスケールの大きすぎるセリフの味わいもだいぶ変わってくると思うんです。
原作の筋書きでは、『三人姉妹』のラストシーンは三人の決意のセリフに合わせるかのように、外からは雄々しい軍楽隊の音楽が聞こえてくるという、一家の復活を前向きに鼓舞するかのような原作者なりの演出が加えられています。
ところが、三条会版のラストシーンは「音楽が流れてきて三人が語る」という点ではまったく同じであるものの、その様相は「ある一家の物語の結末」という枠におさまりきっていない大爆発をとげたものになっている、と私は観ました。これはおそらく、三人、特に長女オーリガのセリフに、ホームドラマの登場人物の言うことにしては異常に距離感のある、どちらかというと「原作者の人生観・世界観」のようなものが配合されていることへの三条会一流の「ストレートな解釈」だったのではないのでしょうか。そしてその結果、三条会版の『三人姉妹』はロシア帝国のいち地方都市の家庭劇を超え、20世紀文学の代表的悲劇を超え、2013年を生きてこの劇場にやってきた会場の人々の目の前に到着するという、当たり前のことながらも他の舞台では滅多に見られない「時をかけるお芝居」になっていたわけなのです。このスケールとスピード感覚は、いいね!!
とは言いましても、今回の舞台を観ていて、少なくとも私は「速さから来る爽快感」を感じることは特にありませんでした。そういった見ていてわかりやすいおもしろさではなく、全編にわたって役者陣が意図的に「観る者の集中力がギリギリ離れない限度のゆるいスピード」で物語を進めていく一点勝負! その迷いのなさにあたしゃあビックラこいちゃったわけなんです。
出てくる名前も「トゥーゼンバフ」とか「チェブトイキン」とか耳慣れないものばっかりだし、「火事」とか「戦争」とか「決闘」といった物語中の出来事もスペクタクル映画のように再現されるわけではないので、役者の語りの実力だけが武器になるというこの状況で、あえてじっくり! そして、それに見事にこたえる、役者陣の緊張感に裏打ちされた魅力!!
このへんは、今年3月に私が岡山市で観た同じ関さん演出のお芝居『月の鏡にうつる聲』とはまったく好対照を成すもので、一般の方々が役者として参加した『月の……』が短距離走のバトンリレーのような疾走感に満ちていたのにたいし、今回の『三人姉妹』はまさに選手全員の能力を知り尽くした監督が采配をとる箱根駅伝のような長距離走をイメージしました。その要求にこたえられるだけの実力を役者が持っているから初めて成立する話であり、そういう意味でも三条会の「ガチンコの本公演」を目の当たりにした思いでしたねぇ。
みなさんすごいんですが、私は特に、三人姉妹の生活に大きな影響を与えることになる、大都会からやって来たヴェルシーニン中佐役の山本芳郎さん(劇団山の手事情社 客演)の尋常でないセリフの「聞かせ力」に瞠目してしまいました。
山本芳郎さんの演じるヴェルシーニン中佐という人物は、ロシアの副首都(1712~1918年の首都はサンクトペテルブルク)であり、13世紀以来の長い歴史を持つ人口100万都市でもあったモスクワから三人姉妹のいる地方都市(人口10万ほど)にやってきた、紳士的で知的魅力にあふれたインテリでアーバンでソフィスティケイトされた伊達男であるのですが、そのいっぽうでは、モスクワにそ~と~厄介な家庭のいざこざを置いてきぼりにしながら、三人姉妹の前では理想的な社会論や道徳観を哲学のベースに乗せて語りまくるスーパー口ばっかし人間でもあるという二面性をかかえたものすごいキャラクターになっています。劇中でも、他の登場人物たちにというよりはモロ観客席のほうを向いて、数分にわたるやたら長い語りを投げかけてくる不気味な魅力に満ちた人物でありながらも、言ってることの内容はコンビニとかで1リットル100円という驚きの価格で販売されている乳酸菌飲料「コーラスウォーター」よりもうっすい理想論の繰り返しで、その口から出る「未来の世界のあるべき姿」も、『三人姉妹』の初演から実に110年以上の時が経過している現在の観客の全員から「ねーよ!!」と総ツッコミを浴びてしまいかねない甘ったるいものになっています。
でも、そんな聞く価値もないような文句の数々も、山本芳郎さんという筋金入りの俳優の身体と声を通せば、あ~ら不思議。なんの打算も悪意もない、本人が心の底からそうだと信じている、というか、もし現実がそうでなかったのだとしてもそうであるようにせねばならないのだと強く信じている何かを胸にいだいた上での「真情あふるる軽薄さ」になってしまうんですから、じっくり最初っから最後まで聞き入っちゃうんですよね! 軽くて重い! 浅くて深い!! まっくらくら~いクラ~イ♪
このヴェルシーニン中佐の妄言と、それに聞き惚れて自分たちの妄想を広げる三人姉妹との相関関係は、はた目から見れば非常におめでたくて残念なものに見えてしまいます。しかし、その渦中にいる人々にとって、案外それはお互いをだます意図さえも存在していない「真実の思い」同士の真剣勝負なのであり、それは劇中のかなりいいポイントで中盤にタイムリーに流れてくる「ある超有名アーティストの楽曲」ともかなりリンクしたものになっていると感じました。それは非常に甘ったるいささやきに満ちた歌ではあるんですが、何百年たとうが何千年たとうが、おそらく人間誰しもが通過する恋の季節をうたったものであり、歴史や教育の積み重ねで取り払えるわけがない「業」をピンポイントでおさえた名曲です。そして、その業があるから人は人なんだよなぁ……と、しみじみ痛感。
さて、このヴェルシーニン中佐と三人姉妹にかぎらず、この物語に登場する人物たちのマンツーマンの関係はすべからく「そんなはずじゃなかったのに……」というかおりの強くただようものになっており、例えば第1幕の終盤でめでたく結ばれたプローゾロフ家の若き当主アンドレイ(三人姉妹の男きょうだい 演・榊原毅)とその恋人ナターシャ(演・山本晃子 劇団百景社 客演)は、その直後の第2幕のとっかかりから価値観のどうしようもない違いと倦怠期に見舞われているというミもフタもない時間の経過が提示されてしまっています。つまり、作品の中で見られる世間と個人、家族同士、恋人同士、夫と妻、親友同士、恋がたき同士、そして、「そうだったはずの自分」と「実際の自分」というすべての対比において、観客の苦笑をさそう何らかの皮肉な現実が用意周到に突きつけられているわけで、そういった戯曲が発表から1世紀以上たった今でもこうやって時間と国境を越えて上演されているのですから、この『三人姉妹』には時空を超えた「全人類あるあるネタ」ともいうべき恐るべき「呪い」がかけられている、というより仕方ありません。まさしく、文学の魔術師チェーホフ一世一代のミラクルイリュージョンとしか言いようがありませんね。
さぁ、そんな強力な呪いのかけられた『三人姉妹』に、果たして三条会はどう挑んでいったのでしょうか?
私がそれを考える上で最も重大なヒントになると見たのは、今回の公演の「上演時間約2時間」という情報でした。
ここ最近の三条会の公演の上演時間は「1時間から1時間半」という場合が多かったのですが、それに比べて『三人姉妹』のおよそ2時間はちょっとだけ長くなっています。ただし、これはある程度のカットがあった上での2時間であるわけですから、「この台本をやったら自然にこういう上演時間になった。」というような消極的な成り行きによるものでないことはあきらかで、それはつまり、何らかの思惑があっていつもよりもちょっとボリュームアップな2時間にしたという積極的な「設計」があった、ということになるのです。
そんなことをモヤモヤ考えながら開演にのぞんだ私だったのですが、内容を最後まで観て、そんな私の疑問はいっぺんに氷解しました。
あぁ、これ、ひとつの2時間のお芝居なんじゃなくて、1時間半の『三人姉妹』ロケットと30分の「三条会」ロケットとで二段構えになってる公演なんだ!
つまり、私もケータイや夜光の腕時計を使って上演中に精確にはかったわけではないので体感時間でしか言えないのですが、この三条会版の『三人姉妹』は、舞台上にいる9名の集まりが原作で言うプローゾロフ一家の周辺に起こる出来事をおっていく内容の立体化を1時間半かけて進める大部分から、ある舞台転換をへて大きく「反転」し、あたかも役者陣が『三人姉妹』の世界を跳び越えて現在の劇場へ出てきたかのような無重力感のある残り30分間の最終第4幕をもって完成となるのです。そして、そんな中で流れ出す最後の音楽と、三姉妹の決意をこめたセリフ。
反転といえば、今回の三条会の『三人姉妹』は反転をもって原作を照射するといったネガポジの効果がいろんなところで見られて、まずなんといっても、タイトルにもなっているプローゾロフ家の三姉妹の存在が、同じきょうだいであるはずなのに男性であるということでそこから除外されている長男アンドレイの視点から強調されていく序盤もそうですし、前半分と奥半分で2つに分割されている舞台で交互に展開していく物語も、もう片面で起きている出来事の反転の繰り返しでできあがっているとも解釈できる部分があります。プローゾロフ家に近い登場人物の服装や舞台全体がのきなみ単調な色彩になっているのに対して、そこに距離感をおいているヴェルシーニン中佐(&彼の登場専用ドア)と長男の嫁ナターシャが極端に色鮮やかな衣装に身を包んでいるのもわかりやすい対比ですし、そんな登場人物全員が、「役者の身体を持っていない」舞台上のチェブトイキン軍医の「声なき声」に常に耳をそばだてているのも、不在が存在に大きな影響を与えている反転の作用だと思います。
こんな感じで、確かに舞台上に展開される物語は、俳優の声と身体以外には補足がないゆえに一見とっつきにくいものがあるのかもしれませんが、ものを観る視点を固有名詞の多い俳優のセリフの文面ではなく、それぞれの俳優のセリフの言い方や身のこなしにおけば、三条会の『三人姉妹』ほど明確に物語の本筋をおさえた『三人姉妹』はありません。「俳優が何を言っているのか」ではなく、「どんな俳優が言っているのか」に注目すれば、チェーホフ一流の言葉の綾に左右されない、セリフに反転されたキャラクターの「本音」が見えてくるはずなのです。そこが見えたらもうオッケーなの!
そんなこんなをへてのクライマックス。三条会版ならではの音楽とともに語られた長女オーリガの最後のセリフのあと、無音となった舞台上では「ある登場人物」がひとりだけある動作をおこなって、この『三人姉妹』は幕を閉じます。
本来の戯曲ではもうちょっと時間がずれていたはずのこの人物の動きが、オーリガの「ホームドラマのキャラクターらしからぬ」超時代的な皮肉、つまりはこの『三人姉妹』におけるチェーホフ最後にして最大の呪いの後に置かれているということは、そのまま、それに対する三条会からの返事ということになるでしょう。それほど突飛なものでもない動作なのですが、それはまさに1世紀モノの呪いを正々堂々と背負った重みのあるものであり、それだけの時間を超えて初演の1901年という過去から現代の下北沢までやってきた三条会製の「タイムマシン」から降り立った乗組員の、未来へ向けての確実な歩みでもあるわけなのです。まさしく「古典から未来の話をする」という今回の公演のコンセプトを体現するエンディングであるわけなのですが、その動きを引き受けた登場人物があの人であるというところに、現在『三人姉妹』の発表時期のチェーホフと同年齢の41歳だという演出家・関美能留の「まなざし」があるような気がいたしました。
ずいぶんと気が早い話ですが、その人物のおもむいた先にある「次なる物語」をはやく観たいとも思ってしまいました。どんな新世界があるんだろうかねェ~!?
先人の古典を死なせたままでなく、そこにこめられた呪いを正々堂々と血のかよったものに復活させた上で勝負をいどむ。そんな三条会のしごくまっとうな、それでいてよその演劇では滅多に見られない闘い方をあらためて堪能した、今回の『三人姉妹』だったのでありました。
これを観て、「あまり大きな起伏がない」とか「セリフが長い」とか「大爆笑できるわかりやすいシーンがない」とかってグチをこぼすようじゃあ、まだまだあまちゃんよね。それはブラックコーヒーを「超にがい!」と批判するようなもんですよ。あったりめぇだっつうの!! 『三人姉妹』をかんたんに観られるものに分解してど~するんだっての。ンなもんなんにも残んないし、それだったら別の人の戯曲をやったほうがよっぽどいいわけですよ。
いつもどおりの真摯な態度で原作の呪いにいどむ三条会の、超高性能タイムマシンが展開するめくるめく反転の時間旅行を、みなさまもぜひともお楽しみくださ~い! 私はあと最低1回は観に行きますよ~。チャンスは決して多くないぞ!
他にも言いたいポイントは山ほどあるんですが、こんな長い文章をいったい誰が読むんだということで、涙をのんで今日はここまで!!
天気はあんまりよろしくないようですが、観てちょ~、観てちょ~☆