どろっせるまいや~。どうもこんばんは! そうだいでございます。みなさま、今日も一日お疲れさまでございました。
忙しいんですよ……最近忙しいんですよ。でも、それだけお仕事させてもらっとるわけですからねぇ。やっぱり去年の自分の暗中模索っぷりを思い起こせば、ありがたい状況になっていることは確かなんですが。
でも、今さらになってしみじみ思うんですけど、仕事も用事もいっさい入っていない丸一日の休日って、ほんっっっっとに!! 貴重なものなんですなぁ~。そんな日ばっかりで、このブログの更新だけで明け暮れしていた日々がなつかしい……が、もどりたいという気はサラッサラありません。だって、今以上にひもじかったんだもの!
そんな、だんだん変わっているようで内実はそんなには変わっていない近頃の私なんですが、そんな中でいただいた貴重な休日を利用して、今日は東京で2つ、芸術にふれてきました。う~ん、「芸術」っていうとフォーマルすぎるし、「アート」っていうとオシャレすぎるし。もっとなんかこう、気軽な言い方は日本語にないもんかね、チミ~?
まず最初は、東京の東、隅田川近くの馬喰町のギャラリーで行われている美術の個展を。
吉村熊象 個展『あなたに再び会うとは思わなかった』(5月18日~6月15日 東京・馬喰町現代ギャラリー TARO NASU )
実は、この平面・立体・映像アーティストの吉村熊象(くまぞう)さんは私の大学時代のサークルの同期で、現在は奈良県に在住しておられるのですが、今回2~3年ぶりに東京で個展をおこなうということで、連絡をもらって私も喜び勇んでギャラリーに駆けつけました。
熊象さんは、金属や布を使った作品に時には映像の投影や電動の仕掛けなどを組み込んだりして、作品の大小、静動、硬軟にまったくとらわれない自由さをもった芸術家で、その子どもらしさというか、自分の作品を通して、対峙している周辺の世界を少しでも「揺さぶってやろう」というアグレッシヴな稚気に満ちたところが、私はとても好きです。
実際、思い出せば熊象さんは大学時代からそういう視線をもった方で、基本的に物静かに周辺を見つめている人物でありながらも、おそらくは自分の中で「 GO!」と号令をかける声を聞いた瞬間に、誰もが予想だにしなかったものすごい発想や行動を提示してくるという、不思議な魅力のあるお人でした。あざやかだし、カッコよかった。イギリスのような「常識と脱常識の同居」と、虫を捕らえる爬虫類のような「観察と行動のメリハリ」があったんですよ。
そういうところが、現在の熊象さんの作品からも濃厚にただよってくるというのは、なんだか実にうれしいし、ストレートに「私もがんばろう!」という気になるものです。そして、そういう個人的な関係がなくとも、彼の作品のすべてからは誰もが、作者の視線を通したそこはかとないユーモアが立ち昇ってくるのを感じ取るはずなのです。
今回の個展は地下のギャラリーで開催されているのですが、壁面いっぱいを利用した作品がいくつかあるため、スペースの都合かすべてで「4つの作品」が展示・上映されているというささやかさになっています。
でもまぁ、最近の熊象さんにとっての一大テーマになっているという「日の丸」を対象とした作品3つには、やはり観る者に何かを感じさせるインパクトがあって、日の丸にどうしようもなくついてくる政治性を必死に熊象さんが解体しようとする闘いの記録を観るような思いがしました。それは本当に困難だし、無謀な挑戦だとは感じるのですが、問題は勝ち負けじゃなくて、その「闘う意志と姿勢」なんですよね。そこがあったればこその熊象さんの「日の丸シリーズ」であるわけです。
展示作品は3つの平面作品と1つの映像作品になっていたのですが、奥のスペースを占領していた最後の作品は『例えばの詩』というタイトルのもので、今回ではひとつだけの「非日の丸もの」になっています。個人的には、505ページ分のごくふつうの英和辞典を利用したこの作品がいちばんおもしろかったですね。観れば観るほどじわじわ伝わってくる味わいがあります。私は結局、このギャラリーには2時間ほどしかいなかったのですが、もっと長くいられたねぇ、こりゃ。
さてこの日、私は熊象さんの最近のお姿を映像作品で確認していたわけだったのですが(あいかわらず、色気と「非常に危険なかおり」をただよわせているご容貌です……)、実はこの後の午後3時にギャラリーの外で落ち合って旧交を温めあうことになっていました。前回の東京での個展いらいの再会ですね。
そんでま、私は作品を観た直後だったのでかなりテンションを上げて、聞きたいことを満載に頭につめてワクワクしながら待ち受けていたわけだったのですが。
来ず。熊象きたらず!!
ギャラリーの近所のミニストップで待ち合わせだったんですけど、30分たっても来る気配もないし、曇天だった空もポチポチ泣き出してくるしでよう!
結局、いいかげんにこちらから連絡しようと思った矢先に熊象先生のほうから電話があり、都合ができて今日は行けないという残酷な宣告の純情な感情が言い渡されることに。
そりゃあねぇよ~!! こちとら、夜7時過ぎに森下で演劇を観るっていう別の用事ができあがっちゃってるんだぜ!? 今さらハイそうですかと千葉に帰るわけにもいかない中途半端な時間なのよ~。
ホントにカンベンしてよね……『あなたに再び会うとは思わなかった』っていうタイトルの個展を観に行って、会うと約束したあなたに再び会うことができないとは思わなかったですよ!! とんだどんでん返しだぜコンチクショウメーイ☆ ネタかこれは!?
困った。今が夕方前の4時だから、3時間くらいフラフラしなきゃなんねぇぞ。ちなみに、馬喰町から森下までは、隅田川をはさんで徒歩3~40分くらいの距離です。近すぎるんだよなぁ、途中のどこかに時間をつぶせる大きな店があるってわけでもないし。馬喰町はなぜかタオル会社ばっかだし。
とりあえず、雨の方はそんなに強くもならず問題はなかったのですが、その日の東京には、まさに梅雨到来といった感じのじめじめ強風がタイミング悪く吹きすさんでおり、事情も事情だったので実に陰鬱たる、レベルで言うと「おこ」ぐらいのストレスをかかえて街をさまようこととなりました。あぁ、東京砂漠! 土地柄も土地側で、昭和っぽいクラシックなビルがまたそういう天気に似合うのよねぇ。
こういうとき、私はどうするのか? そりゃもう、唄う。次の予定の時間までにひたっすら唄いまくる!!
ちょうどルーム料金が半額になるサービス券を持ってたからさぁ、馬喰町から森下に向かったあと、そこから JR両国駅まで歩いて行って総武線に乗って亀戸駅まで行って、駅前のシダックスで2時間唄っちゃったよ、もう!
カラオケは、いいね……一時的にとはいえ、ストレスも梅雨のじめじめ感もすぱっと発散できるから。いつ唄っても、℃-uteの楽曲は全体的にむずかしい。
さて、気を取りなおして夜7時半。私は予定通りに森下の、おもに演劇公演のための稽古場として利用されることが多い森下スタジオに向かい、お芝居の公開ゲネプロを鑑賞しました。
劇団山の手事情社『道成寺』モルドヴァ・ルーマニア公演 公開ゲネプロ&トークイベント(5月29~30日 東京・森下スタジオCスタジオ)
これは、来月6月に東ヨーロッパはモルドヴァ、ルーマニア2ヶ国の首都の劇場においてと、ルーマニア中部に位置する中世都市シビウで開催される国際演劇祭の参加作品として、市街地から離れた小山にあるというチズナディオラ要塞教会の内部で上演する、『道成寺』の3都市ツアー公演をおこなうにあたって、日本で凱旋公演をやる予定がないため、せっかくだから出国前にゲネプロ(本番に近いリハーサル)を一般公開にしよう、というはこびになったのだそうです。
このはからいは、私にとっては非常にありがたかったですね……まず大前提として、山の手事情社の最新版の『道成寺』を観られたという点があるわけですが、舞台美術や照明・音響設備が本番仕様でない仮であることはそうだとしてもチケット料金が内容に対して異常にリーズナブルだったし(500円)、その上に伊藤園のペットボトルの緑茶(300ml)をいただいてしまいました。そんなにしても、おれからは何も出ねぇぜ……
ただ実は、個人的には作品そのものと同じくらいにありがたかったのが、この公開ゲネプロを通じて私が初めて知った「ルーマニアのトランシルヴァニア地方の要塞教会(要塞聖堂)群」というものの存在で、これは現在のルーマニアの中部+北西部にあたるトランシルヴァニア地方(ドラキュラ伯爵ぅう~!!)には、14~17世紀に600ヶ所もの地方都市に、東の超大国オスマン=トルコ帝国からの侵攻に備えるために建造された「避難&籠城用の城郭」の機能を兼ね備えた素朴な石造りの教会のことを指すのだそうです。城と宗教施設の融合ってあなた、発展の出発点としては同時期の日本のお城の歴史とまったく同じじゃありませんか! これにだだもれのロマンを感じない人間は私じゃありません。
残念ながら、6月に山の手事情社が舞台とするシビウのチズナディオラ要塞教会は現在、教会の機能は失っているようなのですが、21世紀に残る各地の要塞教会の中には、いまだに現役である上に世界遺産に登録されているほどに保存状態の良いものが7城もあるのだそうで、これはもう、私の「お城探訪熱」がついにヨーロッパにまで版図を拡大することとなった最初のきっかけを、今回の『道成寺』公開ゲネプロからいただく形になったわけです。感謝感謝!!
いやぁ、いつか行きたいね~、ルーマニア。ワラキア公ドラキュラの住んでいたトゥルゴヴィシュテ宮殿(ルーマニア中南部)、そして、その西の山奥にあるという、伝説のドラキュラ城こと「ポエナリ城」!! 私の足腰がまだまだ現役であり、かつ、ポエナリ城の廃墟が観光できる状態になっているうちに是が非でも行かなければならない山城ですね。
話をお芝居に戻しますが、山の手事情社の『道成寺』は2004年4月に初演された作品で、私はその初演版を、富山県の南西部にあった東砺波郡利賀村(当時)で開催された国際演劇祭「利賀フェスティバル2004」(4~5月開催)で拝見していました。
私は所属していた劇団の役者としてその演劇祭に参加していたのですが……もうね、『道成寺』っていうタイトルを目にした段階で、そのころの無数の思い出、風景と表情とにおいと声と音と温度と手ざわりがジュンジュンジュワ~っと脳内いっぱいに広がるわけなんですな。単なるお客さんとしてではなく、いろんな、まさしく「いろんなこと」をする人として1~2週間そこに滞在していたわけです。当時は、半年後に行政上の「利賀村」がなくなって新しい「南砺市」が誕生するという土地柄の事情もあってか、例年のフェスティバルにも増して大いに盛り上がっていたような記憶があります。
思い出が風化する前に、せっかくこういう個人ブログっていう場所があるんだから、あのころの楽しすぎたあれこれを文章の形にして保存しておくべきかとも思うのですが……それをするには今現在は時間がなさすぎるし、公開するべきものでもないような気もするし。まず今のところはそこらへんを掘り下げるのはやめておきましょう。
またいつか行ってみたい場所ですね。でも、行ったらそのときの私はおそらく、昔の私とは比べるべくもないただの来訪者であるわけで。あのころの「熱さ」を追体験できることはまず不可能であるわけです。もう、今はいらっしゃらない方も多いですしねぇ。いろんな方々にお世話になりましたよ、ほんっとに。行ったら、たぶん泣くでしょうね、あの大自然を前にして。
まま、そんな経緯もあって個人的に非常に強い印象を持っている山の手事情社版の『道成寺』の最新ヴァージョンを公開ゲネプロの形で観劇したわけだったのですが、至極当然のことながら変わっている部分も多く見受けられて、とても新鮮な感覚で作品を楽しみました。新鮮なのは当ったり前ですよね、10年ちかくたって作品も出演者の一部も、おれも変わってんだから!!
ところで、会場に入ってびっくりしましたけど、確かホームページの告知では「各回定員20名」っていう話だったので私もあわてて予約したんですが、実際には80人くらいお客さんが集まってましたよ!? ちゃんと座席が作られていたんで皆さん座れてはいたようだったんですが、やっぱり山の手事情社の企画が座席20でおさまるはずがないですよね。いや、これはまさか、「残席わずか!」というレア感をねらった宣伝戦略だったとでもいうのか!? 見事に踊らされたかたちの、あたくし。
作品は、日本に古くから伝わる「道成寺」にまつわる伝説や創作作品を、4つほど束ねて構成したものになっています。
道成寺(どうじょうじ)は言うまでもなく、紀伊国日高郡、現在の和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺院で、大宝元(701)年、第42代文武天皇(もんむてんのう 683~707年)の勅願による創設であるとされています。あらっ、文武帝って、あの「備中国鬼ノ城」の裏にあった「岩屋寺」の創建者だと言われている「善通大師(史実にいない人物)」のお父様じゃありませんか。なにかと、当時の仏教事情に縁のある帝なのね。
山の手事情社版の『道成寺』で語られる伝説と物語は、
1、紀伊国の海女が海の中から黄金の千手観音像を拾い上げてそれが道成寺の本尊となり、海女は時の権力者・藤原不比等(ふひと)の養女・藤原宮子(みやこ ?~754年)として文武帝の夫人(ぶにん 現在の皇后)となり、のちに聖武天皇を産んで日本国家と藤原家の繁栄のいしずえとなったという「髪長姫」伝説。
2、延長六(928)年の夏に、旅をする美青年の僧・安珍(あんちん)が、彼に恋焦がれた熊野地方の領主一族の独身女性・清姫に追われて道成寺に逃げ込むが、火を吐く巨大な蛇に変身した清姫が安珍を寺の鐘ごと取り巻いて焼き殺してしまった、という平安時代の「安珍と清姫」伝説。のちに江戸時代に上演された人形浄瑠璃『日高川入相花王』(ひだかがわいりあいざくら 1759年初演)の原作となっている。
3、正平十四(1359)年の春に、清姫が穢してしまった鐘に代わる新しい鐘が完成したが、白拍子(しらびょうし 旅の役者と遊女を兼ねた芸能者)に変身した清姫の怨霊が出現してまた鐘を穢してしまった、という室町時代の能楽『道成寺』や、江戸時代の歌舞伎舞踊『京鹿子娘道成寺』(きょうがのこむすめどうじょうじ 1753年初演)などの芸能作品の原作となった伝説。
4、平安時代の「安珍と清姫」事件の20年後、安珍を救うことができなかった道成寺の住職・妙念が、再び現れた清姫の怨念にとり憑かれて破滅していくという筋の、明治~大正時代の郡虎彦(1890~1924年)の戯曲『道成寺』(1911年発表)。
この4つですが、それらが錯綜しつつ、ストーリーテラーのような立ち位置にいるマリリン=モンローみたいな格好をした謎のインチキ白人女性のガイドに案内されて進行していくのです。ヘンなの~!
さて、ここにくるまでにそ~と~寄り道をしつつ字数を割いてきたわけだったのですが、肝心のお芝居の感想はと言いますと、肩透かしもいいところのささやかなものになってしまいます。
すなはち、「観なきゃわかんないけど、おもしろいよ!」。これだけ。
物語はすべて現代からかけ離れた時代のものばかりですし、語られるセリフもその大部分が江戸時代のものだったり明治時代のものだったりするので、よくよく考えてみればそうとう難解な作品に仕上がっていそうなこの『道成寺』。江戸の庶民向けの言葉遣いよりも、それより現代にちかい言葉遣いであるのはずの郡虎彦の言い回しのほうが、クセだらけでよっぽど意味がわからないという逆転現象に唖然としてしまいますけどね。2~3センテンス聴いただけで「あっ、これ郡虎彦だ。」ってわかってしまうのは、やっぱりすごいことですよ。岡村靖幸みたいな明治人です。
ところが!! ディティールは確かにそうであったのだとしても、そこで語られるのはあきれるほどに単純明快な「おとことおんな」のラヴゲーム。
「その昔、女A は男A を追っていた。追い詰められて男A は破滅してしまった。その20年後、女B は男B を追っていた。追い詰められて男B はやっぱり破滅してしまった。その400年後、女C は男C を追っていた。追い詰められて男C はなんと……破滅してしまった。」
そんな感じなんですね。ものすご~くわかりやすい「女のおそろしさ」と「男のつらさ」を天丼形式で繰り返す物語なんです。でも、つらいからといって女のいない世界に旅立てるわけでもない男のグダグダ感ね! そういう煩悩たらたらの男どもがいるのが日本有数の名刹「道成寺」だってんですから、にんともかんともこの伝説はジョークがきつすぎます。
このへんのシンプルなダメさを実にわかりやすく演出しているのが山の手事情社版の『道成寺』であるわけで、めまぐるしく転換していく時代と舞台の中で、劇団のトレードマークたる演技様式「四畳半」の重厚で息詰まる空間と、現代っぽい軽さを意図的に押し出したヘンな空間とがとっかえひっかえ変わっていくのが、あたかも『うる星やつら』を観ているかのようなデジャヴと「あ~あ感」を醸し出すという構図なのです。女と男の永遠にわかりあえない謎のかけあい、みたいな。
だからなのか、この作品は最終的には各時代の男の屍が横たわる悲劇であるはずなのですが、「治らないんだからしかたない。」という理屈を超えた諦観のようなものを感じ取って、私はなんとなくハッピーな気分になってしまいました。白旗あげま~す! って感じですよね。
ここらへんの、物語を観たあとに「なぜかスッキリする」という感覚は、平安の昔から、もしかしたらさらに昔の神話の時代から語られてきたのかもしれない「女にかんする教訓」のヴァリエーションとしての「道成寺伝説」の本質にあったカタルシスなのかも知れず、だとするのならば、山の手事情社はこの伝説の「平成代表」の座を見事に勝ち取って、次の時代にその名を残すこととなる『道成寺』になりえているのではないのでしょうか。
山の手事情社の『道成寺』。う~ん、10年越しに観ましたけど、やっぱり、イイネ!!
どうやら、今年中に日本で上演する予定はないそうなのですが、なるべく近いうちに舞台として完成された形の『道成寺』をぜひともまた上演してもらいたいなと思いつつ、私は千葉に帰りました。
でも、演出されていない蛍光灯のまっさらな明かりにさらされた山の手事情社の役者さんがたを観るのも、非常に貴重な経験でしたね。あくまでも「肉体が資本!」をちゃんとやっている劇団がやるからこそ、こういう企画も成立するんですよね。当たり前のことですけど。
そんなこんなで、予想外の展開もありつついろんな場所を行ったり来たりして疲れた一日ではありましたが、けっこう楽しい梅雨の日となったのでした~。
熊象先生、今度こそガッツリちゃ~んと会いましょうね、マジで!!
忙しいんですよ……最近忙しいんですよ。でも、それだけお仕事させてもらっとるわけですからねぇ。やっぱり去年の自分の暗中模索っぷりを思い起こせば、ありがたい状況になっていることは確かなんですが。
でも、今さらになってしみじみ思うんですけど、仕事も用事もいっさい入っていない丸一日の休日って、ほんっっっっとに!! 貴重なものなんですなぁ~。そんな日ばっかりで、このブログの更新だけで明け暮れしていた日々がなつかしい……が、もどりたいという気はサラッサラありません。だって、今以上にひもじかったんだもの!
そんな、だんだん変わっているようで内実はそんなには変わっていない近頃の私なんですが、そんな中でいただいた貴重な休日を利用して、今日は東京で2つ、芸術にふれてきました。う~ん、「芸術」っていうとフォーマルすぎるし、「アート」っていうとオシャレすぎるし。もっとなんかこう、気軽な言い方は日本語にないもんかね、チミ~?
まず最初は、東京の東、隅田川近くの馬喰町のギャラリーで行われている美術の個展を。
吉村熊象 個展『あなたに再び会うとは思わなかった』(5月18日~6月15日 東京・馬喰町現代ギャラリー TARO NASU )
実は、この平面・立体・映像アーティストの吉村熊象(くまぞう)さんは私の大学時代のサークルの同期で、現在は奈良県に在住しておられるのですが、今回2~3年ぶりに東京で個展をおこなうということで、連絡をもらって私も喜び勇んでギャラリーに駆けつけました。
熊象さんは、金属や布を使った作品に時には映像の投影や電動の仕掛けなどを組み込んだりして、作品の大小、静動、硬軟にまったくとらわれない自由さをもった芸術家で、その子どもらしさというか、自分の作品を通して、対峙している周辺の世界を少しでも「揺さぶってやろう」というアグレッシヴな稚気に満ちたところが、私はとても好きです。
実際、思い出せば熊象さんは大学時代からそういう視線をもった方で、基本的に物静かに周辺を見つめている人物でありながらも、おそらくは自分の中で「 GO!」と号令をかける声を聞いた瞬間に、誰もが予想だにしなかったものすごい発想や行動を提示してくるという、不思議な魅力のあるお人でした。あざやかだし、カッコよかった。イギリスのような「常識と脱常識の同居」と、虫を捕らえる爬虫類のような「観察と行動のメリハリ」があったんですよ。
そういうところが、現在の熊象さんの作品からも濃厚にただよってくるというのは、なんだか実にうれしいし、ストレートに「私もがんばろう!」という気になるものです。そして、そういう個人的な関係がなくとも、彼の作品のすべてからは誰もが、作者の視線を通したそこはかとないユーモアが立ち昇ってくるのを感じ取るはずなのです。
今回の個展は地下のギャラリーで開催されているのですが、壁面いっぱいを利用した作品がいくつかあるため、スペースの都合かすべてで「4つの作品」が展示・上映されているというささやかさになっています。
でもまぁ、最近の熊象さんにとっての一大テーマになっているという「日の丸」を対象とした作品3つには、やはり観る者に何かを感じさせるインパクトがあって、日の丸にどうしようもなくついてくる政治性を必死に熊象さんが解体しようとする闘いの記録を観るような思いがしました。それは本当に困難だし、無謀な挑戦だとは感じるのですが、問題は勝ち負けじゃなくて、その「闘う意志と姿勢」なんですよね。そこがあったればこその熊象さんの「日の丸シリーズ」であるわけです。
展示作品は3つの平面作品と1つの映像作品になっていたのですが、奥のスペースを占領していた最後の作品は『例えばの詩』というタイトルのもので、今回ではひとつだけの「非日の丸もの」になっています。個人的には、505ページ分のごくふつうの英和辞典を利用したこの作品がいちばんおもしろかったですね。観れば観るほどじわじわ伝わってくる味わいがあります。私は結局、このギャラリーには2時間ほどしかいなかったのですが、もっと長くいられたねぇ、こりゃ。
さてこの日、私は熊象さんの最近のお姿を映像作品で確認していたわけだったのですが(あいかわらず、色気と「非常に危険なかおり」をただよわせているご容貌です……)、実はこの後の午後3時にギャラリーの外で落ち合って旧交を温めあうことになっていました。前回の東京での個展いらいの再会ですね。
そんでま、私は作品を観た直後だったのでかなりテンションを上げて、聞きたいことを満載に頭につめてワクワクしながら待ち受けていたわけだったのですが。
来ず。熊象きたらず!!
ギャラリーの近所のミニストップで待ち合わせだったんですけど、30分たっても来る気配もないし、曇天だった空もポチポチ泣き出してくるしでよう!
結局、いいかげんにこちらから連絡しようと思った矢先に熊象先生のほうから電話があり、都合ができて今日は行けないという残酷な宣告の純情な感情が言い渡されることに。
そりゃあねぇよ~!! こちとら、夜7時過ぎに森下で演劇を観るっていう別の用事ができあがっちゃってるんだぜ!? 今さらハイそうですかと千葉に帰るわけにもいかない中途半端な時間なのよ~。
ホントにカンベンしてよね……『あなたに再び会うとは思わなかった』っていうタイトルの個展を観に行って、会うと約束したあなたに再び会うことができないとは思わなかったですよ!! とんだどんでん返しだぜコンチクショウメーイ☆ ネタかこれは!?
困った。今が夕方前の4時だから、3時間くらいフラフラしなきゃなんねぇぞ。ちなみに、馬喰町から森下までは、隅田川をはさんで徒歩3~40分くらいの距離です。近すぎるんだよなぁ、途中のどこかに時間をつぶせる大きな店があるってわけでもないし。馬喰町はなぜかタオル会社ばっかだし。
とりあえず、雨の方はそんなに強くもならず問題はなかったのですが、その日の東京には、まさに梅雨到来といった感じのじめじめ強風がタイミング悪く吹きすさんでおり、事情も事情だったので実に陰鬱たる、レベルで言うと「おこ」ぐらいのストレスをかかえて街をさまようこととなりました。あぁ、東京砂漠! 土地柄も土地側で、昭和っぽいクラシックなビルがまたそういう天気に似合うのよねぇ。
こういうとき、私はどうするのか? そりゃもう、唄う。次の予定の時間までにひたっすら唄いまくる!!
ちょうどルーム料金が半額になるサービス券を持ってたからさぁ、馬喰町から森下に向かったあと、そこから JR両国駅まで歩いて行って総武線に乗って亀戸駅まで行って、駅前のシダックスで2時間唄っちゃったよ、もう!
カラオケは、いいね……一時的にとはいえ、ストレスも梅雨のじめじめ感もすぱっと発散できるから。いつ唄っても、℃-uteの楽曲は全体的にむずかしい。
さて、気を取りなおして夜7時半。私は予定通りに森下の、おもに演劇公演のための稽古場として利用されることが多い森下スタジオに向かい、お芝居の公開ゲネプロを鑑賞しました。
劇団山の手事情社『道成寺』モルドヴァ・ルーマニア公演 公開ゲネプロ&トークイベント(5月29~30日 東京・森下スタジオCスタジオ)
これは、来月6月に東ヨーロッパはモルドヴァ、ルーマニア2ヶ国の首都の劇場においてと、ルーマニア中部に位置する中世都市シビウで開催される国際演劇祭の参加作品として、市街地から離れた小山にあるというチズナディオラ要塞教会の内部で上演する、『道成寺』の3都市ツアー公演をおこなうにあたって、日本で凱旋公演をやる予定がないため、せっかくだから出国前にゲネプロ(本番に近いリハーサル)を一般公開にしよう、というはこびになったのだそうです。
このはからいは、私にとっては非常にありがたかったですね……まず大前提として、山の手事情社の最新版の『道成寺』を観られたという点があるわけですが、舞台美術や照明・音響設備が本番仕様でない仮であることはそうだとしてもチケット料金が内容に対して異常にリーズナブルだったし(500円)、その上に伊藤園のペットボトルの緑茶(300ml)をいただいてしまいました。そんなにしても、おれからは何も出ねぇぜ……
ただ実は、個人的には作品そのものと同じくらいにありがたかったのが、この公開ゲネプロを通じて私が初めて知った「ルーマニアのトランシルヴァニア地方の要塞教会(要塞聖堂)群」というものの存在で、これは現在のルーマニアの中部+北西部にあたるトランシルヴァニア地方(ドラキュラ伯爵ぅう~!!)には、14~17世紀に600ヶ所もの地方都市に、東の超大国オスマン=トルコ帝国からの侵攻に備えるために建造された「避難&籠城用の城郭」の機能を兼ね備えた素朴な石造りの教会のことを指すのだそうです。城と宗教施設の融合ってあなた、発展の出発点としては同時期の日本のお城の歴史とまったく同じじゃありませんか! これにだだもれのロマンを感じない人間は私じゃありません。
残念ながら、6月に山の手事情社が舞台とするシビウのチズナディオラ要塞教会は現在、教会の機能は失っているようなのですが、21世紀に残る各地の要塞教会の中には、いまだに現役である上に世界遺産に登録されているほどに保存状態の良いものが7城もあるのだそうで、これはもう、私の「お城探訪熱」がついにヨーロッパにまで版図を拡大することとなった最初のきっかけを、今回の『道成寺』公開ゲネプロからいただく形になったわけです。感謝感謝!!
いやぁ、いつか行きたいね~、ルーマニア。ワラキア公ドラキュラの住んでいたトゥルゴヴィシュテ宮殿(ルーマニア中南部)、そして、その西の山奥にあるという、伝説のドラキュラ城こと「ポエナリ城」!! 私の足腰がまだまだ現役であり、かつ、ポエナリ城の廃墟が観光できる状態になっているうちに是が非でも行かなければならない山城ですね。
話をお芝居に戻しますが、山の手事情社の『道成寺』は2004年4月に初演された作品で、私はその初演版を、富山県の南西部にあった東砺波郡利賀村(当時)で開催された国際演劇祭「利賀フェスティバル2004」(4~5月開催)で拝見していました。
私は所属していた劇団の役者としてその演劇祭に参加していたのですが……もうね、『道成寺』っていうタイトルを目にした段階で、そのころの無数の思い出、風景と表情とにおいと声と音と温度と手ざわりがジュンジュンジュワ~っと脳内いっぱいに広がるわけなんですな。単なるお客さんとしてではなく、いろんな、まさしく「いろんなこと」をする人として1~2週間そこに滞在していたわけです。当時は、半年後に行政上の「利賀村」がなくなって新しい「南砺市」が誕生するという土地柄の事情もあってか、例年のフェスティバルにも増して大いに盛り上がっていたような記憶があります。
思い出が風化する前に、せっかくこういう個人ブログっていう場所があるんだから、あのころの楽しすぎたあれこれを文章の形にして保存しておくべきかとも思うのですが……それをするには今現在は時間がなさすぎるし、公開するべきものでもないような気もするし。まず今のところはそこらへんを掘り下げるのはやめておきましょう。
またいつか行ってみたい場所ですね。でも、行ったらそのときの私はおそらく、昔の私とは比べるべくもないただの来訪者であるわけで。あのころの「熱さ」を追体験できることはまず不可能であるわけです。もう、今はいらっしゃらない方も多いですしねぇ。いろんな方々にお世話になりましたよ、ほんっとに。行ったら、たぶん泣くでしょうね、あの大自然を前にして。
まま、そんな経緯もあって個人的に非常に強い印象を持っている山の手事情社版の『道成寺』の最新ヴァージョンを公開ゲネプロの形で観劇したわけだったのですが、至極当然のことながら変わっている部分も多く見受けられて、とても新鮮な感覚で作品を楽しみました。新鮮なのは当ったり前ですよね、10年ちかくたって作品も出演者の一部も、おれも変わってんだから!!
ところで、会場に入ってびっくりしましたけど、確かホームページの告知では「各回定員20名」っていう話だったので私もあわてて予約したんですが、実際には80人くらいお客さんが集まってましたよ!? ちゃんと座席が作られていたんで皆さん座れてはいたようだったんですが、やっぱり山の手事情社の企画が座席20でおさまるはずがないですよね。いや、これはまさか、「残席わずか!」というレア感をねらった宣伝戦略だったとでもいうのか!? 見事に踊らされたかたちの、あたくし。
作品は、日本に古くから伝わる「道成寺」にまつわる伝説や創作作品を、4つほど束ねて構成したものになっています。
道成寺(どうじょうじ)は言うまでもなく、紀伊国日高郡、現在の和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺院で、大宝元(701)年、第42代文武天皇(もんむてんのう 683~707年)の勅願による創設であるとされています。あらっ、文武帝って、あの「備中国鬼ノ城」の裏にあった「岩屋寺」の創建者だと言われている「善通大師(史実にいない人物)」のお父様じゃありませんか。なにかと、当時の仏教事情に縁のある帝なのね。
山の手事情社版の『道成寺』で語られる伝説と物語は、
1、紀伊国の海女が海の中から黄金の千手観音像を拾い上げてそれが道成寺の本尊となり、海女は時の権力者・藤原不比等(ふひと)の養女・藤原宮子(みやこ ?~754年)として文武帝の夫人(ぶにん 現在の皇后)となり、のちに聖武天皇を産んで日本国家と藤原家の繁栄のいしずえとなったという「髪長姫」伝説。
2、延長六(928)年の夏に、旅をする美青年の僧・安珍(あんちん)が、彼に恋焦がれた熊野地方の領主一族の独身女性・清姫に追われて道成寺に逃げ込むが、火を吐く巨大な蛇に変身した清姫が安珍を寺の鐘ごと取り巻いて焼き殺してしまった、という平安時代の「安珍と清姫」伝説。のちに江戸時代に上演された人形浄瑠璃『日高川入相花王』(ひだかがわいりあいざくら 1759年初演)の原作となっている。
3、正平十四(1359)年の春に、清姫が穢してしまった鐘に代わる新しい鐘が完成したが、白拍子(しらびょうし 旅の役者と遊女を兼ねた芸能者)に変身した清姫の怨霊が出現してまた鐘を穢してしまった、という室町時代の能楽『道成寺』や、江戸時代の歌舞伎舞踊『京鹿子娘道成寺』(きょうがのこむすめどうじょうじ 1753年初演)などの芸能作品の原作となった伝説。
4、平安時代の「安珍と清姫」事件の20年後、安珍を救うことができなかった道成寺の住職・妙念が、再び現れた清姫の怨念にとり憑かれて破滅していくという筋の、明治~大正時代の郡虎彦(1890~1924年)の戯曲『道成寺』(1911年発表)。
この4つですが、それらが錯綜しつつ、ストーリーテラーのような立ち位置にいるマリリン=モンローみたいな格好をした謎のインチキ白人女性のガイドに案内されて進行していくのです。ヘンなの~!
さて、ここにくるまでにそ~と~寄り道をしつつ字数を割いてきたわけだったのですが、肝心のお芝居の感想はと言いますと、肩透かしもいいところのささやかなものになってしまいます。
すなはち、「観なきゃわかんないけど、おもしろいよ!」。これだけ。
物語はすべて現代からかけ離れた時代のものばかりですし、語られるセリフもその大部分が江戸時代のものだったり明治時代のものだったりするので、よくよく考えてみればそうとう難解な作品に仕上がっていそうなこの『道成寺』。江戸の庶民向けの言葉遣いよりも、それより現代にちかい言葉遣いであるのはずの郡虎彦の言い回しのほうが、クセだらけでよっぽど意味がわからないという逆転現象に唖然としてしまいますけどね。2~3センテンス聴いただけで「あっ、これ郡虎彦だ。」ってわかってしまうのは、やっぱりすごいことですよ。岡村靖幸みたいな明治人です。
ところが!! ディティールは確かにそうであったのだとしても、そこで語られるのはあきれるほどに単純明快な「おとことおんな」のラヴゲーム。
「その昔、女A は男A を追っていた。追い詰められて男A は破滅してしまった。その20年後、女B は男B を追っていた。追い詰められて男B はやっぱり破滅してしまった。その400年後、女C は男C を追っていた。追い詰められて男C はなんと……破滅してしまった。」
そんな感じなんですね。ものすご~くわかりやすい「女のおそろしさ」と「男のつらさ」を天丼形式で繰り返す物語なんです。でも、つらいからといって女のいない世界に旅立てるわけでもない男のグダグダ感ね! そういう煩悩たらたらの男どもがいるのが日本有数の名刹「道成寺」だってんですから、にんともかんともこの伝説はジョークがきつすぎます。
このへんのシンプルなダメさを実にわかりやすく演出しているのが山の手事情社版の『道成寺』であるわけで、めまぐるしく転換していく時代と舞台の中で、劇団のトレードマークたる演技様式「四畳半」の重厚で息詰まる空間と、現代っぽい軽さを意図的に押し出したヘンな空間とがとっかえひっかえ変わっていくのが、あたかも『うる星やつら』を観ているかのようなデジャヴと「あ~あ感」を醸し出すという構図なのです。女と男の永遠にわかりあえない謎のかけあい、みたいな。
だからなのか、この作品は最終的には各時代の男の屍が横たわる悲劇であるはずなのですが、「治らないんだからしかたない。」という理屈を超えた諦観のようなものを感じ取って、私はなんとなくハッピーな気分になってしまいました。白旗あげま~す! って感じですよね。
ここらへんの、物語を観たあとに「なぜかスッキリする」という感覚は、平安の昔から、もしかしたらさらに昔の神話の時代から語られてきたのかもしれない「女にかんする教訓」のヴァリエーションとしての「道成寺伝説」の本質にあったカタルシスなのかも知れず、だとするのならば、山の手事情社はこの伝説の「平成代表」の座を見事に勝ち取って、次の時代にその名を残すこととなる『道成寺』になりえているのではないのでしょうか。
山の手事情社の『道成寺』。う~ん、10年越しに観ましたけど、やっぱり、イイネ!!
どうやら、今年中に日本で上演する予定はないそうなのですが、なるべく近いうちに舞台として完成された形の『道成寺』をぜひともまた上演してもらいたいなと思いつつ、私は千葉に帰りました。
でも、演出されていない蛍光灯のまっさらな明かりにさらされた山の手事情社の役者さんがたを観るのも、非常に貴重な経験でしたね。あくまでも「肉体が資本!」をちゃんとやっている劇団がやるからこそ、こういう企画も成立するんですよね。当たり前のことですけど。
そんなこんなで、予想外の展開もありつついろんな場所を行ったり来たりして疲れた一日ではありましたが、けっこう楽しい梅雨の日となったのでした~。
熊象先生、今度こそガッツリちゃ~んと会いましょうね、マジで!!