んっは~い、どうもこんにちは! そうだいでございます~。2月も始まりましたが、みなさんお元気ですか?
いや~なんか、雨はひんぱんに降ってはいるんですが、月が変わってから全体的に暖かくなりましたね! 関東は。少なくともダウンコートをはおって電車に乗ったら汗をかいてしまう気温にはなったのですが、ホントに今週、雪また降るんですかね? 寒暖の差には気をつけなければいけませんなぁ。
それはともかく、この1週間ほど、とにかく忙しいんですよ……休日がとれないんですよ! もう、バッタバタ。
だいたい先月末に0泊3日の岡山ダンス鑑賞旅をしたあたりの前後からこのかた、毎日お仕事の日々でございます。充実してるね~。充実はしてるけど、早くも初旬の段階で、今月2月もあっという間に終了してしまいそうな感覚になってきましたよ!?
とにかく、健康第一ですよ……仕事場にしても電車移動にしても、今はカゼだインフルだの危険でいっぱいでございます! 逃げ切れ逃げ切れ~。ついでに、花粉症とか、かの国の有害スモッグとかからも逃げ切れ~!!
さぁ、そんなこんなで今月も始まってしまいましたので、その岡山行のついでにしゃれこんだ不定期企画「全国城めぐり宣言」の最新記事もちゃっちゃとまとめることにいたしましょう。やっぱり楽しかったねぇ~。
今回の岡山行も、目的は昨年3月のときとまったく一緒で、岡山市でおこなわれる公演(今回はダンス)の鑑賞。しかも、私が観ることにした上演回も前回と同じ時間帯のお昼過ぎということで、日程はおんなじように「前日の夜に高速バスで東京を出発~到着した早朝から午前中いっぱいをかけて城めぐり~お昼過ぎに公演を鑑賞~その夜に高速バスで帰る」という流れになりました。芸がなくてすみませんねぇ~! 次こそはゆっくり宿泊……できるかナ!?
昨年はプライベートで岡山県におもむくのは初めてということで、高速バスの中でも緊張のためになかなか寝付けずしんどい思いをしたのですが、長距離のバスの移動はサービスエリアでの休憩ももちろんあることにはあるものの、夜9時に新宿を出発して翌朝7時に JR岡山駅前に到着するわけなのですから、トータルで実に10時間もかかることになります。ここで眠れなかった昨年は、特に大事には至らなかったものの、午前中の足を使う岡山城めぐりがしんどくてしょうがなかったんですよねぇ!
ということで、今回はバスの中でなにがなんでも寝てやるぞ、という意志の元に、出発する日はその早朝からバス搭乗にギリギリ間に合う時間まで、たっぷり普通に働きました! そのおかげもあってか、バス移動中はかなりぐっすり眠ることができたのですが……あれ、これって結局は疲れた状態で岡山に行くってことになるんじゃ……こまけぇことは、いいか。要はちゃんと睡眠がとれたらいいんです。
まぁ、バスの中ではいつもの不運さで後ろにバッチリ他のお客さんがいて、リクライニングはちょっとしかできませんでしたけどね! そんなの想定内のイベントよ~。余裕でガーガー眠れました。
満を持して、予定通りに翌朝7時に岡山市に到着。もはや「桃太郎大通り」というネーミングと、駅前に当ったり前のように屹立する桃太郎一行の銅像にも動じるような私ではありません。最初に観たときはそりゃあ呆然としたもんです……
ちなみに、JR岡山駅の東口駅前広場にある郵便ポストの上にも、寝そべって上目づかいに手紙の文章を考えているていの桃太郎の像がすえつけられているのですが、その顔が絶妙に「イラかわいい」表情をしているのが素晴らしいです。思わず平手打ちをくらわせたくなるプリティさなのですが、彼がわずか2匹と1羽という手勢だけで鬼ヶ島を制圧した日本史上屈指の軍神であることを思い出して、そこはとどまりました。
さて、ある程度の覚悟はしていたものの、やはり1月の岡山市は極寒でした。天気は昨年と同じような気持ちのいいまでの快晴でしたね!
昨年おとずれたのは早春の3月だったのですが、それでもお昼ちかくくらいまでは肌寒かったのをよくおぼえていたので防寒の準備はしていたのですが、やっぱりさみいもんはさみぃ!! うがいをするために自販機で買ったボルヴィックもキンキンに冷えています。
今回の岡山入りの最終目的であるダンス公演の会場は、その桃太郎大通りをしばらく歩いて曲がって行ったところにある「岡山県天神山文化プラザ」という文化施設の中にあるホールなのですが、まずはなにはなくとも午前中の貴重な数時間を利用しての城郭探訪を! ということで、私はさっそく JR岡山駅の中に入り、岡山駅が始発となる地方線「吉備線」に乗り込むこととあいなりました。
吉備線の、自動でなく乗客の押しボタン式でドアが開閉するという、寒い季節の地方ではスタンダードなタイプの車両に揺られること約20分。出発して5駅目にあたるその目的地の駅名は、「備中高松駅」!!
そうなんです。中国地方だけでなく、天下にその名を轟かせる名城・岡山城の次に私が選んだ「全国城めぐり宣言」の最新ターゲットは、ネームバリューでは岡山城に勝るとも劣らない有名度を持つ、「備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)」なのでありました!!
備中高松城とは……
戦国時代、備中国高松(現・岡山県岡山市北区高松558-2)に存在した城。讃岐国(現・香川県)の高松城(現・高松市玉藻町、天守閣は現存せず)と区別して備中高松城と呼ばれる。織田家の重臣・羽柴(のちの豊臣)秀吉による水攻めの舞台になったことでつとに有名。
城の形式は梯郭式平城(ていかくしき・ひらじろ)で、石垣は築かれず土塁によって築城されており、城の周囲の低湿地帯が天然の堀を形成していた。
築城時期ははっきりしないが、備中国の戦国大名・三村家親(みむら いえちか 1517~66年 備中松山城主)の命により、備中国守護代で三村家の重臣だった石川久智(いしかわ ひさとも ?~1567年 備中国一ノ宮吉備津神社社務代でもあった)が築いた城である。天正3(1575)年の備中兵乱(びっちゅうへいらん 1574年10月~75年6月)で石川家が主家の三村家ともども毛利家に滅ぼされた後は、石川久智の娘婿でありながら毛利家に寝返った武将・清水宗治(しみず むねはる 1537~82年)が城主となったが、一説によると石川家の滅亡以前の永禄8(1565)年からすでに宗治が久智の命により高松城主に着任していたともいわれており、具体的に清水宗治が城主となった時期と経緯は不詳である。
天正10(1582)年、織田信長の重臣・羽柴秀吉は中国地方制圧の方面軍司令官を任され、4月15日に高松城攻めも視野に入れた備中国侵攻を開始した。しかし高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落の様相を呈していたため、攻城は持久戦となった。秀吉は翌5月8日に入って軍師・黒田官兵衛孝高(よしたか)の献策により、高松城を土塁の堰堤で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえる作戦を決行した。これによって堤の中に近隣を流れる足守川(あしもりがわ)の水流を引き入れ、低湿地にあった高松城を水没させるというものであり、これが後世に言う「高松城水攻め」である。秀吉軍の突貫工事によって11日後の5月19日に堤防が完成し、折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ、城は見事に水没した。
秀吉は備中戦線に信長を招く準備をしていたともいわれるが、6月2日未明に京で「本能寺の変」が起こり、計画は頓挫した。翌日、なんらかのかたちで信長の死を知った秀吉は(通説では明智光秀の毛利家への密使を秀吉軍が拘束したためといわれる)、この情報を秘匿しつつ毛利家の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)を仲介として毛利家との和議を即座に成立させた。翌4日、城兵の生命との引き替えを条件に城主・宗治は切腹(享年46歳)。その直後に秀吉軍は明智光秀と対決すべく「中国大返し」を敢行し、強行軍で畿内地方に引き返した。
その後、高松城は秀吉の従属大名である宇喜多秀家の支配地となり、宇喜多家の武将で当主の名代として水攻めにも従軍していた花房正成(はなぶさ まさなり 1555~1623年)が3万1千石の新領主として入城する。一説によると、水攻めの献策をしたのは黒田孝高ではなく花房正成であり、それに対する論功行賞として秀吉が正成を高松城主にすえたともいわれる。
慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原合戦ののち、敗戦した石田三成軍の将として改易(所領没収)となった宇喜多秀家とともに正成も城主の座をおわれ、かつて宇喜多家の武将だったが数年前の文禄4(1595)年に秀家に追放された身だった花房職秀(もとひで 1549~1616年 花房正成のまたいとこという説もあるが縁戚関係は不詳)が、新たな徳川体制下での城主となった(石高8千石)。この時期に高松城の城域も整備されたが、職秀の死没する直前、慶長20(1615)年閏6月に徳川幕府が発令した一国一城令によって廃城あつかいとなり、職秀の没後に領地は備中国足守藩(あしもりはん)2万5千石に編入された。ちなみに、足守藩は秀吉の正室・高台院おねの実兄である木下家定(きのした いえさだ 1543~1608年)を初代藩主とする。
現在は秀吉が築いた水攻めの堰堤や、城の地形が僅かにあるのみで、城郭としての痕跡はほとんど残っていない。城跡には清水宗治自刃の碑、宗治の首塚と胴塚があり、本丸・二ノ丸区域は史跡公園として整備されており資料館が開館している。堰堤跡は「高松城水攻め史跡公園」として整備され、発掘調査により土杭などが確認されている。城跡と堰堤跡は「高松城跡 附・水攻築堤跡」として国史跡に指定されている。
どぉお~だいみんな! ものすごいお城だろう!? まさに歴史の動く現場となった「時代の証人」ともいうべき名城だったというわけなのさ!!
……そして、今は跡形もなくなっているんだってさ……
いやいや、いいんです、いいんです! 想像力と好奇心、そしてちょっぴりの交通費さえあるのならば、私の城めぐりに「行った甲斐がない」という文字は存在し得ないんです!! 雄々しく今回もレッツラゴーだ!!
到着した JR備中高松駅は非常にシンプルなつくりの地方駅で、自動改札機はあるもののかなり静かなたたずまいでした。
そこを出てあたりを見まわしてみても、目の前を通る国道180号線こそ車の往来があるものの、ガソリンスタンド、中学校、病院、ドラッグストア、物産館、地域センターといった地方らしい建物が散在しているといった印象で、あるにはあるものの、コンビニはちょっと目立たない一歩下がった場所にひかえていました。ゲームの『MOTHER 』の町なみみたい。マイカーが生活必需品になっている世界というか、とっても私の実家に似ていると瞬間的に感じてしまいました。
備中高松駅のある岡山県岡山市北区高松は、住所を見てわかるように、昨年に私がおとずれた岡山城のある街とまったく同じ区に属しているはずなのですが、電車で5駅も離れた20分もかかる場所であることもそうだし、だいいち住民のみなさんの生活スタイルからしてまるで違っているように見受けられました。なんだかんだいっても、 JR岡山駅の周辺はやっぱり都市なんですよね。
それもそのはずで、岡山市の北区は日本全国にある行政区の中でも4番目の広さを誇っているのだそうで(およそ450平方キロメートル)、岡山城のある北区の南東部と備中高松城のある南西部とでは、直線距離でいっても12キロものへだたりがあるのです。この2地点の関係だって、北部にはるかに広大な土地がひろがる北区の全貌を語るものではない、ごく一部の話なんですからね……東京の区の概念じゃあ、なかなか想像がつかないスケールであります。
しかもしかも! この「同じ区」という定義だって、つい最近の2009年に岡山市に区政がしかれて以来のものですし、そもそも「同じ岡山市」になったのも1971年からのことだったのです。たかだか40数年前。
そして、そういった最近の地理感覚の話をはるかに上回る時間の長さで、実は岡山城のある土地と備中高松城のある土地とのあいだには、正真正銘の「よその国どうし」という常識が存在していたのです! 同じ区になってるのに、昔は違う国!! ベルリンか!?
むちゃくちゃ元をただせば、古代、中国地方の瀬戸内海側をさす「山陽道」の真ん中あたり、つまり現在でいう岡山県に広島県の東部を含めた地域は「吉備国(きびのくに)」と呼ばれるひとつの国として成り立っていたらしく、沿海部の漁業と内陸部の農業、そして山間部の鉄生産という三本柱を持った強国として存在していました。全体的な政権があったのかどうかはっきりしていない時期も含めれば、そこには実に弥生時代の後期、つまり2世紀ごろから独自の文化圏ができあがっていたとも言われているのです。早熟だ!
ところが、この吉備国の豊かな国力をなんとしても手中におさめたいと野望を燃やしたのがご存じ畿内地方のヤマト王権。ご存じもなにも、今わたしたちがこうやって暮らしている国家のルーツですよね。んだども、おらぁエミシの出なんだげどもね。
ヤマト王権と吉備王権との激しい抗争は5~7世紀のあいだに繰り広げられたようなのですが、最終的にはヤマト王権が吉備国を吸収するというかたちに決着しました。
この当時の吉備王権の王族の墓所と推定されているのが、今回私がおとずれた備中高松城からさほど遠くない場所に残っている「造山(つくりやま or ぞうざん)古墳」と「作山(つくりやま or さくざん)古墳」という2基の前方後円墳なのですが、どちらも全長3~400メートル、高さ2~30メートル級の立派な墳墓になっており、当時の吉備の国威をうかがわせるものがあります……が! 時間がなかったので今回は実物を観にはいけませんでした。まぁ、お城じゃねぇし、いっか!
ともあれ、今に残る記録こそ多くはないものの、お互いの政権の存続を賭けた大戦争の末に勝利をつかみ取ったと思われるヤマト王権は、689年6月に持統天皇(女帝)が発布した法令「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」によって、吉備国の国土を「備前国(びぜんのくに 岡山県東部)」、「備中国(びっちゅうのくに 岡山県西部)」、「備後国(びんごのくに 広島県東部)」に3分割し、中央の豪族をそれぞれの国主、つまり「国守(くにのかみ)」に任官させることによる支配をはかったのです。そのしばらくのちの713年4月に、ヤマト王権はさらに鉄生産の要地だった備前国北部を「美作国(みまさかのくに)」として分立させたため、かつての吉備国は「4つの国」に分割されることになったわけなのです。
そして、この国制が結局は1868年の明治維新をへて、1871年の廃藩置県にいたるまでの「およそ千二百年!」にわたって続くこととなり、1876年に現在の岡山県ができあがったことにより、「備前と備中と美作は同じ県」という新概念が生まれることとなったのでした。
これによって、見ようによっては吉備国の再統一(備後がないけど)がなされたということも言えなくもないのですが、千二百年前のきまりを突然復活されても、ねぇ……
しかも、ヤマト王権、つまりはのちの朝廷が決めた国の概念の他にもうひとつ、その朝廷にたいして、それまでのどの武家政権よりもキツく接する姿勢をとった徳川幕府が、幕府に従う大名家それぞれに土地を直接支配させる、新たな「藩」という国土の分割法を全国に徹底させてしまったため、その土地土地に住む人々にとっては「おらが国」のとらえ方がさらに細かくなった時代が250年間さしはさまれることとなったのでした。現在は「47都道府県」、ヤマト王権由来の国制では「67ヶ国(北海道と沖縄をのぞく)」、それにたいして江戸時代は「徳川300藩体制」ってんだからハンパねぇ!!
余談ですが、「藩」という中国(チャイナのほう)生まれの言葉は江戸時代リアルタイムではほとんど使われておらず、明治時代以降に広まった呼びかたです。当時はどうやらシンプルに「~領分」とか「~家」と呼ばれていたようですね。だから、TV の時代劇で「わが~藩は」とかってしゃべってる奴は、現代でいうと日常会話にネット用語やオタク用語を頻繁にさしはさむような変人だ! 当時はひたすら、その土地を支配する殿様の家自体がその土地と一心同体のものだったのです。
とにかく、話をギュンと元に戻しますが、岡山城のある土地と備中高松城のある土地とは、今でこそ「岡山市北区」という同一の枠組みにおさまってはいるのですが、それぞれのお城が生まれた戦国時代には「備前国の岡山」と「備中国の高松」、江戸時代には「岡山藩の岡山城下町」と「足守藩の高松村」という完全な隔絶があったというわけなのです。
そして、私が今回おとずれる備中高松城は、そこらへんをよく理解して「岡山城とはまったく別、っていうかむしろ敵国同士の関係!」の土地に誕生し、大活躍した城郭であるということを頭に入れておかなければならないのでありました。やぁっぱり歴史はおもしろいなぁ~!!
さぁ、というわけで、大地にバリバリ霜がおりている酷寒の早朝8時にたどりついた私が敢行した具体的な探訪と、そこから立ちのぼってきた壮絶な戦国抗争史についてのあれこれは、また次回のココロだ~いっと。
『信長の野望』ではたいして重要視した記憶がなかったんですが、まさか備中国にこれほどまでに血沸き肉躍るドラマがあったとは……おのれの浅学ぶりが身に沁みました。
っていうか、あの異常に巨大な鳥居はなんだ~!? ひっとえんどら~ぁん☆
いや~なんか、雨はひんぱんに降ってはいるんですが、月が変わってから全体的に暖かくなりましたね! 関東は。少なくともダウンコートをはおって電車に乗ったら汗をかいてしまう気温にはなったのですが、ホントに今週、雪また降るんですかね? 寒暖の差には気をつけなければいけませんなぁ。
それはともかく、この1週間ほど、とにかく忙しいんですよ……休日がとれないんですよ! もう、バッタバタ。
だいたい先月末に0泊3日の岡山ダンス鑑賞旅をしたあたりの前後からこのかた、毎日お仕事の日々でございます。充実してるね~。充実はしてるけど、早くも初旬の段階で、今月2月もあっという間に終了してしまいそうな感覚になってきましたよ!?
とにかく、健康第一ですよ……仕事場にしても電車移動にしても、今はカゼだインフルだの危険でいっぱいでございます! 逃げ切れ逃げ切れ~。ついでに、花粉症とか、かの国の有害スモッグとかからも逃げ切れ~!!
さぁ、そんなこんなで今月も始まってしまいましたので、その岡山行のついでにしゃれこんだ不定期企画「全国城めぐり宣言」の最新記事もちゃっちゃとまとめることにいたしましょう。やっぱり楽しかったねぇ~。
今回の岡山行も、目的は昨年3月のときとまったく一緒で、岡山市でおこなわれる公演(今回はダンス)の鑑賞。しかも、私が観ることにした上演回も前回と同じ時間帯のお昼過ぎということで、日程はおんなじように「前日の夜に高速バスで東京を出発~到着した早朝から午前中いっぱいをかけて城めぐり~お昼過ぎに公演を鑑賞~その夜に高速バスで帰る」という流れになりました。芸がなくてすみませんねぇ~! 次こそはゆっくり宿泊……できるかナ!?
昨年はプライベートで岡山県におもむくのは初めてということで、高速バスの中でも緊張のためになかなか寝付けずしんどい思いをしたのですが、長距離のバスの移動はサービスエリアでの休憩ももちろんあることにはあるものの、夜9時に新宿を出発して翌朝7時に JR岡山駅前に到着するわけなのですから、トータルで実に10時間もかかることになります。ここで眠れなかった昨年は、特に大事には至らなかったものの、午前中の足を使う岡山城めぐりがしんどくてしょうがなかったんですよねぇ!
ということで、今回はバスの中でなにがなんでも寝てやるぞ、という意志の元に、出発する日はその早朝からバス搭乗にギリギリ間に合う時間まで、たっぷり普通に働きました! そのおかげもあってか、バス移動中はかなりぐっすり眠ることができたのですが……あれ、これって結局は疲れた状態で岡山に行くってことになるんじゃ……こまけぇことは、いいか。要はちゃんと睡眠がとれたらいいんです。
まぁ、バスの中ではいつもの不運さで後ろにバッチリ他のお客さんがいて、リクライニングはちょっとしかできませんでしたけどね! そんなの想定内のイベントよ~。余裕でガーガー眠れました。
満を持して、予定通りに翌朝7時に岡山市に到着。もはや「桃太郎大通り」というネーミングと、駅前に当ったり前のように屹立する桃太郎一行の銅像にも動じるような私ではありません。最初に観たときはそりゃあ呆然としたもんです……
ちなみに、JR岡山駅の東口駅前広場にある郵便ポストの上にも、寝そべって上目づかいに手紙の文章を考えているていの桃太郎の像がすえつけられているのですが、その顔が絶妙に「イラかわいい」表情をしているのが素晴らしいです。思わず平手打ちをくらわせたくなるプリティさなのですが、彼がわずか2匹と1羽という手勢だけで鬼ヶ島を制圧した日本史上屈指の軍神であることを思い出して、そこはとどまりました。
さて、ある程度の覚悟はしていたものの、やはり1月の岡山市は極寒でした。天気は昨年と同じような気持ちのいいまでの快晴でしたね!
昨年おとずれたのは早春の3月だったのですが、それでもお昼ちかくくらいまでは肌寒かったのをよくおぼえていたので防寒の準備はしていたのですが、やっぱりさみいもんはさみぃ!! うがいをするために自販機で買ったボルヴィックもキンキンに冷えています。
今回の岡山入りの最終目的であるダンス公演の会場は、その桃太郎大通りをしばらく歩いて曲がって行ったところにある「岡山県天神山文化プラザ」という文化施設の中にあるホールなのですが、まずはなにはなくとも午前中の貴重な数時間を利用しての城郭探訪を! ということで、私はさっそく JR岡山駅の中に入り、岡山駅が始発となる地方線「吉備線」に乗り込むこととあいなりました。
吉備線の、自動でなく乗客の押しボタン式でドアが開閉するという、寒い季節の地方ではスタンダードなタイプの車両に揺られること約20分。出発して5駅目にあたるその目的地の駅名は、「備中高松駅」!!
そうなんです。中国地方だけでなく、天下にその名を轟かせる名城・岡山城の次に私が選んだ「全国城めぐり宣言」の最新ターゲットは、ネームバリューでは岡山城に勝るとも劣らない有名度を持つ、「備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)」なのでありました!!
備中高松城とは……
戦国時代、備中国高松(現・岡山県岡山市北区高松558-2)に存在した城。讃岐国(現・香川県)の高松城(現・高松市玉藻町、天守閣は現存せず)と区別して備中高松城と呼ばれる。織田家の重臣・羽柴(のちの豊臣)秀吉による水攻めの舞台になったことでつとに有名。
城の形式は梯郭式平城(ていかくしき・ひらじろ)で、石垣は築かれず土塁によって築城されており、城の周囲の低湿地帯が天然の堀を形成していた。
築城時期ははっきりしないが、備中国の戦国大名・三村家親(みむら いえちか 1517~66年 備中松山城主)の命により、備中国守護代で三村家の重臣だった石川久智(いしかわ ひさとも ?~1567年 備中国一ノ宮吉備津神社社務代でもあった)が築いた城である。天正3(1575)年の備中兵乱(びっちゅうへいらん 1574年10月~75年6月)で石川家が主家の三村家ともども毛利家に滅ぼされた後は、石川久智の娘婿でありながら毛利家に寝返った武将・清水宗治(しみず むねはる 1537~82年)が城主となったが、一説によると石川家の滅亡以前の永禄8(1565)年からすでに宗治が久智の命により高松城主に着任していたともいわれており、具体的に清水宗治が城主となった時期と経緯は不詳である。
天正10(1582)年、織田信長の重臣・羽柴秀吉は中国地方制圧の方面軍司令官を任され、4月15日に高松城攻めも視野に入れた備中国侵攻を開始した。しかし高松城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落の様相を呈していたため、攻城は持久戦となった。秀吉は翌5月8日に入って軍師・黒田官兵衛孝高(よしたか)の献策により、高松城を土塁の堰堤で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえる作戦を決行した。これによって堤の中に近隣を流れる足守川(あしもりがわ)の水流を引き入れ、低湿地にあった高松城を水没させるというものであり、これが後世に言う「高松城水攻め」である。秀吉軍の突貫工事によって11日後の5月19日に堤防が完成し、折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ、城は見事に水没した。
秀吉は備中戦線に信長を招く準備をしていたともいわれるが、6月2日未明に京で「本能寺の変」が起こり、計画は頓挫した。翌日、なんらかのかたちで信長の死を知った秀吉は(通説では明智光秀の毛利家への密使を秀吉軍が拘束したためといわれる)、この情報を秘匿しつつ毛利家の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)を仲介として毛利家との和議を即座に成立させた。翌4日、城兵の生命との引き替えを条件に城主・宗治は切腹(享年46歳)。その直後に秀吉軍は明智光秀と対決すべく「中国大返し」を敢行し、強行軍で畿内地方に引き返した。
その後、高松城は秀吉の従属大名である宇喜多秀家の支配地となり、宇喜多家の武将で当主の名代として水攻めにも従軍していた花房正成(はなぶさ まさなり 1555~1623年)が3万1千石の新領主として入城する。一説によると、水攻めの献策をしたのは黒田孝高ではなく花房正成であり、それに対する論功行賞として秀吉が正成を高松城主にすえたともいわれる。
慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原合戦ののち、敗戦した石田三成軍の将として改易(所領没収)となった宇喜多秀家とともに正成も城主の座をおわれ、かつて宇喜多家の武将だったが数年前の文禄4(1595)年に秀家に追放された身だった花房職秀(もとひで 1549~1616年 花房正成のまたいとこという説もあるが縁戚関係は不詳)が、新たな徳川体制下での城主となった(石高8千石)。この時期に高松城の城域も整備されたが、職秀の死没する直前、慶長20(1615)年閏6月に徳川幕府が発令した一国一城令によって廃城あつかいとなり、職秀の没後に領地は備中国足守藩(あしもりはん)2万5千石に編入された。ちなみに、足守藩は秀吉の正室・高台院おねの実兄である木下家定(きのした いえさだ 1543~1608年)を初代藩主とする。
現在は秀吉が築いた水攻めの堰堤や、城の地形が僅かにあるのみで、城郭としての痕跡はほとんど残っていない。城跡には清水宗治自刃の碑、宗治の首塚と胴塚があり、本丸・二ノ丸区域は史跡公園として整備されており資料館が開館している。堰堤跡は「高松城水攻め史跡公園」として整備され、発掘調査により土杭などが確認されている。城跡と堰堤跡は「高松城跡 附・水攻築堤跡」として国史跡に指定されている。
どぉお~だいみんな! ものすごいお城だろう!? まさに歴史の動く現場となった「時代の証人」ともいうべき名城だったというわけなのさ!!
……そして、今は跡形もなくなっているんだってさ……
いやいや、いいんです、いいんです! 想像力と好奇心、そしてちょっぴりの交通費さえあるのならば、私の城めぐりに「行った甲斐がない」という文字は存在し得ないんです!! 雄々しく今回もレッツラゴーだ!!
到着した JR備中高松駅は非常にシンプルなつくりの地方駅で、自動改札機はあるもののかなり静かなたたずまいでした。
そこを出てあたりを見まわしてみても、目の前を通る国道180号線こそ車の往来があるものの、ガソリンスタンド、中学校、病院、ドラッグストア、物産館、地域センターといった地方らしい建物が散在しているといった印象で、あるにはあるものの、コンビニはちょっと目立たない一歩下がった場所にひかえていました。ゲームの『MOTHER 』の町なみみたい。マイカーが生活必需品になっている世界というか、とっても私の実家に似ていると瞬間的に感じてしまいました。
備中高松駅のある岡山県岡山市北区高松は、住所を見てわかるように、昨年に私がおとずれた岡山城のある街とまったく同じ区に属しているはずなのですが、電車で5駅も離れた20分もかかる場所であることもそうだし、だいいち住民のみなさんの生活スタイルからしてまるで違っているように見受けられました。なんだかんだいっても、 JR岡山駅の周辺はやっぱり都市なんですよね。
それもそのはずで、岡山市の北区は日本全国にある行政区の中でも4番目の広さを誇っているのだそうで(およそ450平方キロメートル)、岡山城のある北区の南東部と備中高松城のある南西部とでは、直線距離でいっても12キロものへだたりがあるのです。この2地点の関係だって、北部にはるかに広大な土地がひろがる北区の全貌を語るものではない、ごく一部の話なんですからね……東京の区の概念じゃあ、なかなか想像がつかないスケールであります。
しかもしかも! この「同じ区」という定義だって、つい最近の2009年に岡山市に区政がしかれて以来のものですし、そもそも「同じ岡山市」になったのも1971年からのことだったのです。たかだか40数年前。
そして、そういった最近の地理感覚の話をはるかに上回る時間の長さで、実は岡山城のある土地と備中高松城のある土地とのあいだには、正真正銘の「よその国どうし」という常識が存在していたのです! 同じ区になってるのに、昔は違う国!! ベルリンか!?
むちゃくちゃ元をただせば、古代、中国地方の瀬戸内海側をさす「山陽道」の真ん中あたり、つまり現在でいう岡山県に広島県の東部を含めた地域は「吉備国(きびのくに)」と呼ばれるひとつの国として成り立っていたらしく、沿海部の漁業と内陸部の農業、そして山間部の鉄生産という三本柱を持った強国として存在していました。全体的な政権があったのかどうかはっきりしていない時期も含めれば、そこには実に弥生時代の後期、つまり2世紀ごろから独自の文化圏ができあがっていたとも言われているのです。早熟だ!
ところが、この吉備国の豊かな国力をなんとしても手中におさめたいと野望を燃やしたのがご存じ畿内地方のヤマト王権。ご存じもなにも、今わたしたちがこうやって暮らしている国家のルーツですよね。んだども、おらぁエミシの出なんだげどもね。
ヤマト王権と吉備王権との激しい抗争は5~7世紀のあいだに繰り広げられたようなのですが、最終的にはヤマト王権が吉備国を吸収するというかたちに決着しました。
この当時の吉備王権の王族の墓所と推定されているのが、今回私がおとずれた備中高松城からさほど遠くない場所に残っている「造山(つくりやま or ぞうざん)古墳」と「作山(つくりやま or さくざん)古墳」という2基の前方後円墳なのですが、どちらも全長3~400メートル、高さ2~30メートル級の立派な墳墓になっており、当時の吉備の国威をうかがわせるものがあります……が! 時間がなかったので今回は実物を観にはいけませんでした。まぁ、お城じゃねぇし、いっか!
ともあれ、今に残る記録こそ多くはないものの、お互いの政権の存続を賭けた大戦争の末に勝利をつかみ取ったと思われるヤマト王権は、689年6月に持統天皇(女帝)が発布した法令「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」によって、吉備国の国土を「備前国(びぜんのくに 岡山県東部)」、「備中国(びっちゅうのくに 岡山県西部)」、「備後国(びんごのくに 広島県東部)」に3分割し、中央の豪族をそれぞれの国主、つまり「国守(くにのかみ)」に任官させることによる支配をはかったのです。そのしばらくのちの713年4月に、ヤマト王権はさらに鉄生産の要地だった備前国北部を「美作国(みまさかのくに)」として分立させたため、かつての吉備国は「4つの国」に分割されることになったわけなのです。
そして、この国制が結局は1868年の明治維新をへて、1871年の廃藩置県にいたるまでの「およそ千二百年!」にわたって続くこととなり、1876年に現在の岡山県ができあがったことにより、「備前と備中と美作は同じ県」という新概念が生まれることとなったのでした。
これによって、見ようによっては吉備国の再統一(備後がないけど)がなされたということも言えなくもないのですが、千二百年前のきまりを突然復活されても、ねぇ……
しかも、ヤマト王権、つまりはのちの朝廷が決めた国の概念の他にもうひとつ、その朝廷にたいして、それまでのどの武家政権よりもキツく接する姿勢をとった徳川幕府が、幕府に従う大名家それぞれに土地を直接支配させる、新たな「藩」という国土の分割法を全国に徹底させてしまったため、その土地土地に住む人々にとっては「おらが国」のとらえ方がさらに細かくなった時代が250年間さしはさまれることとなったのでした。現在は「47都道府県」、ヤマト王権由来の国制では「67ヶ国(北海道と沖縄をのぞく)」、それにたいして江戸時代は「徳川300藩体制」ってんだからハンパねぇ!!
余談ですが、「藩」という中国(チャイナのほう)生まれの言葉は江戸時代リアルタイムではほとんど使われておらず、明治時代以降に広まった呼びかたです。当時はどうやらシンプルに「~領分」とか「~家」と呼ばれていたようですね。だから、TV の時代劇で「わが~藩は」とかってしゃべってる奴は、現代でいうと日常会話にネット用語やオタク用語を頻繁にさしはさむような変人だ! 当時はひたすら、その土地を支配する殿様の家自体がその土地と一心同体のものだったのです。
とにかく、話をギュンと元に戻しますが、岡山城のある土地と備中高松城のある土地とは、今でこそ「岡山市北区」という同一の枠組みにおさまってはいるのですが、それぞれのお城が生まれた戦国時代には「備前国の岡山」と「備中国の高松」、江戸時代には「岡山藩の岡山城下町」と「足守藩の高松村」という完全な隔絶があったというわけなのです。
そして、私が今回おとずれる備中高松城は、そこらへんをよく理解して「岡山城とはまったく別、っていうかむしろ敵国同士の関係!」の土地に誕生し、大活躍した城郭であるということを頭に入れておかなければならないのでありました。やぁっぱり歴史はおもしろいなぁ~!!
さぁ、というわけで、大地にバリバリ霜がおりている酷寒の早朝8時にたどりついた私が敢行した具体的な探訪と、そこから立ちのぼってきた壮絶な戦国抗争史についてのあれこれは、また次回のココロだ~いっと。
『信長の野望』ではたいして重要視した記憶がなかったんですが、まさか備中国にこれほどまでに血沸き肉躍るドラマがあったとは……おのれの浅学ぶりが身に沁みました。
っていうか、あの異常に巨大な鳥居はなんだ~!? ひっとえんどら~ぁん☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます