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全国城めぐり宣言 第37回 「尾張国 勝幡城」資料編

2020年01月15日 23時40分44秒 | 全国城めぐり宣言
尾張国 勝幡城 とは

 勝幡城(しょばたじょう)は、尾張国の海東郡と中島郡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)にまたがる勝幡地区にあった平城。
 稲沢市の指定史跡で「勝幡城址」と「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の石碑と、「文化財史跡勝幡城址」の木碑がある。日光川の嫁振橋には「勝幡城復元図」がある。

 永正年間(1504~21年)頃、尾張国清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織田信定が、尾張国の海西郡を手中に治めた際に、平安時代後期の尾張国権守・大中臣安長の邸宅跡に勝幡城を築城した。
 この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていたが、縁起が悪いという理由で信定または息子の織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれる。
 天文元(1532)年、信定の跡を継いだ信秀は今川家の武将・今川氏豊から尾張国那古野城を攻め取ると那古野城に移り、勝幡城には家臣の武藤掃部雄政を城代として置いた。
 翌天文二(1533)年、公卿・山科言継は信秀から勝幡城に招かれ、その際に城の規模と出来栄えに驚いたと日記『言継卿記』に記している。このことから、商業地の津島を支配下に置いた織田弾正忠家の経済力が窺える。

 宝永五(1708)年に著された『尾州古城志』によると、信秀の嫡男・信長は天文三(1534)年にこの勝幡城で産まれたとされている。
 弘治元(1555)年、信長は主家の織田大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、勝幡城代の武藤雄政を尾張国野府城へと移した。それにより勝幡城は廃城となった。

構造
 勝幡城は二重の堀で囲まれていた平城であり、三宅川が外堀の役目をしていたと推定される。慶安三(1650)年頃に尾張藩が作成した『勝幡村古城絵図』によると、本丸は東西29間(約52m )、南北43間(約77m )の方形で、幅3間(約5m )の土塁に囲まれていたと記されている。三宅川と日光川が合流する三角州となっているが、現在の日光川は江戸期に萩原川が大規模に掘削され流れを変えられたものであり、また、城郭の多くの部分が現在の日光川の流域に位置するため、当時の縄張りは窺い辛い。
 1979年に、櫓台とされる位置の地下3m から基石が発見され、愛西市佐織支所に保管されている。

交通
 名鉄津島線・勝幡駅(愛知県愛西市勝幡町五俵入)で下車し、徒歩で約10分。

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