甲斐国 白山城とは
白山城(はくさんじょう)は、現在の山梨県韮崎市神山町鍋山にあった山城。築城年、築城者は不明(武田信義の説あり)。「白山城」の名は、鍋山の中腹に鎮座する白山権現社に由来する。別名に鍋山砦、江戸時代の文化十一(1814)年に成立した地誌『甲斐国志』では「要害城」と伝わる。国史跡。
所在する鍋山は甲府盆地の北西端にあたり、赤石山地北東の巨摩山地・甘利山地に属する独立峰状の尾根に立地する。標高573m。釜無川右岸地域で塩川との合流地点に近く、釜無川が七里岩の崖下に押し付けられ回廊状となった地形の末端部にあたる。前面には開削された段丘が広り、谷底平野が形成されている。
釜無川右岸には武田信義(甲斐武田家初代当主 1128~86年?)の居館跡もあり、同じ神山町の宮地には信義の菩提寺である願成寺や武田八幡宮など、甲斐武田家にまつわる史跡が分布している。七里岩上の韮崎市中田町中條には、戦国時代末期に武田勝頼(甲斐武田家第十七代当主 1546~82年)が築城した新府城が所在している。
白山城の南に隣接する尾根には「南烽火台(ムク台烽火台)」、北に隣接する尾根には「北烽火台」と呼ばれる山城が存在している。
周辺の主要街道としては、信濃国方面から西郡地域を経て甲府盆地南部の河内路へ通じる「西郡路(現・国道52号線)」のほか、甲州街道の一部である「河路」や、韮崎宿から七里台上を経て八ヶ岳山麓の信濃国蔦木宿へ通じる「原路」などが存在している。
江戸時代の地誌『甲斐国志』に拠れば、白山城は「城山」と呼ばれ、甲斐源氏の祖・源清光の子である武田信義が築城したとしている。信義の子である武田信光の子孫・武田信時の系統は巨摩郡武川流域に土着し、戦国時代には在郷武士団である「武川衆」となった。寛政年間(1789~1801年)に江戸幕府が編纂した武家家譜集『寛政重修諸家譜』によれば、白山城は武川衆の一族である青木家が領有し、甲斐武田家第十四代当主・武田信縄(1471~1507年)から第十六代当主・晴信(1521~73年)までに仕えた八代・青木信種(1481~1541年)が「鍋山城」を守備したとあり、これが白山城にあたると考えられている。その後、青木家の分家・山寺家が領したという。
その一方で、中世の文書や記録史料には白山城に関するものは見られず、もっぱら近世の地誌類や家譜などにしか見られない。寛永二十(1643)年に江戸幕府が編纂した家譜集『寛永諸家系図伝』や、先述の『寛政重修諸家譜』においては、戦国時代に武川衆の青木・山寺両家が甲斐武田家から「鍋山の砦」の守備を任されたとしている。
江戸時代の甲府勤番士の日記『裏見寒話』によれば、武田八幡宮の南に「鍋山八幡」の存在を記している。『裏見寒話』では、この鍋山八幡を源為朝伝説に付会した説を取り、これは現在の白山神社と為朝神社に比定されると考えられる。
戦国時代末期の天正十(1582)年三月、織田・徳川連合軍の侵攻により甲斐武田家は滅亡し、第十七代当主・武田勝頼は居城の新府城を退去して重臣・小山田信茂の領地である郡内へ逃れる途中に、田野(現・甲州市大和町)において自害した。同年六月、本能寺の変により織田信長が死去すると、甲斐・信濃国の旧武田領を巡り「天正壬午の乱」が発生し、甲斐国では徳川家康が七里岩台上の新府城跡に布陣し、同国の若神子城(現・北杜市須玉町)に本陣を置く北条氏直と対峙した。その中で武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、白山城には武川衆の青木家・山寺家が配置され、諏訪方面の監視を行った。白山城はその時期に修築されたと考えられている。
江戸時代初期の寛文年間(1661~73年)に廃城となった。
現在の白山城跡には、鍋山の山頂を中心とし中腹や背後の尾根に曲輪、土塁、横堀、堀切、竪堀などの遺構が残されており、南北に烽火台・物見台が配置された、山梨県内でも類例の少ない中世城郭の遺構と考えられている。天守閣は無かったと思われる。
山頂に位置する本丸は約25m 四方程の方形で、南東と北西に虎口が開き、土塁が巡らされている。この南側には一段下がって二ノ丸が存在し、本丸と二ノ丸の間には横堀が掘られ、西側には堀切が2本見られる。
白山城跡の南東には白山権現社が所在し、慶応四(1868)年に江戸幕府に提出された報告書『甲斐国社記・寺記』によれば、かつて当社には慶安二(1649)年付の徳川家朱印状が伝来し、その頃には神社としての態勢が整えられていたと考えられている。神主は大村家。
『甲斐国志』によれば、甲斐源氏初代当主である新羅三郎義光(1045~1127年 武田信義の曽祖父)が甲斐国へ進出した時期にはすでに当社が存在していたとする由緒が伝わっている。
白山城(はくさんじょう)は、現在の山梨県韮崎市神山町鍋山にあった山城。築城年、築城者は不明(武田信義の説あり)。「白山城」の名は、鍋山の中腹に鎮座する白山権現社に由来する。別名に鍋山砦、江戸時代の文化十一(1814)年に成立した地誌『甲斐国志』では「要害城」と伝わる。国史跡。
所在する鍋山は甲府盆地の北西端にあたり、赤石山地北東の巨摩山地・甘利山地に属する独立峰状の尾根に立地する。標高573m。釜無川右岸地域で塩川との合流地点に近く、釜無川が七里岩の崖下に押し付けられ回廊状となった地形の末端部にあたる。前面には開削された段丘が広り、谷底平野が形成されている。
釜無川右岸には武田信義(甲斐武田家初代当主 1128~86年?)の居館跡もあり、同じ神山町の宮地には信義の菩提寺である願成寺や武田八幡宮など、甲斐武田家にまつわる史跡が分布している。七里岩上の韮崎市中田町中條には、戦国時代末期に武田勝頼(甲斐武田家第十七代当主 1546~82年)が築城した新府城が所在している。
白山城の南に隣接する尾根には「南烽火台(ムク台烽火台)」、北に隣接する尾根には「北烽火台」と呼ばれる山城が存在している。
周辺の主要街道としては、信濃国方面から西郡地域を経て甲府盆地南部の河内路へ通じる「西郡路(現・国道52号線)」のほか、甲州街道の一部である「河路」や、韮崎宿から七里台上を経て八ヶ岳山麓の信濃国蔦木宿へ通じる「原路」などが存在している。
江戸時代の地誌『甲斐国志』に拠れば、白山城は「城山」と呼ばれ、甲斐源氏の祖・源清光の子である武田信義が築城したとしている。信義の子である武田信光の子孫・武田信時の系統は巨摩郡武川流域に土着し、戦国時代には在郷武士団である「武川衆」となった。寛政年間(1789~1801年)に江戸幕府が編纂した武家家譜集『寛政重修諸家譜』によれば、白山城は武川衆の一族である青木家が領有し、甲斐武田家第十四代当主・武田信縄(1471~1507年)から第十六代当主・晴信(1521~73年)までに仕えた八代・青木信種(1481~1541年)が「鍋山城」を守備したとあり、これが白山城にあたると考えられている。その後、青木家の分家・山寺家が領したという。
その一方で、中世の文書や記録史料には白山城に関するものは見られず、もっぱら近世の地誌類や家譜などにしか見られない。寛永二十(1643)年に江戸幕府が編纂した家譜集『寛永諸家系図伝』や、先述の『寛政重修諸家譜』においては、戦国時代に武川衆の青木・山寺両家が甲斐武田家から「鍋山の砦」の守備を任されたとしている。
江戸時代の甲府勤番士の日記『裏見寒話』によれば、武田八幡宮の南に「鍋山八幡」の存在を記している。『裏見寒話』では、この鍋山八幡を源為朝伝説に付会した説を取り、これは現在の白山神社と為朝神社に比定されると考えられる。
戦国時代末期の天正十(1582)年三月、織田・徳川連合軍の侵攻により甲斐武田家は滅亡し、第十七代当主・武田勝頼は居城の新府城を退去して重臣・小山田信茂の領地である郡内へ逃れる途中に、田野(現・甲州市大和町)において自害した。同年六月、本能寺の変により織田信長が死去すると、甲斐・信濃国の旧武田領を巡り「天正壬午の乱」が発生し、甲斐国では徳川家康が七里岩台上の新府城跡に布陣し、同国の若神子城(現・北杜市須玉町)に本陣を置く北条氏直と対峙した。その中で武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、白山城には武川衆の青木家・山寺家が配置され、諏訪方面の監視を行った。白山城はその時期に修築されたと考えられている。
江戸時代初期の寛文年間(1661~73年)に廃城となった。
現在の白山城跡には、鍋山の山頂を中心とし中腹や背後の尾根に曲輪、土塁、横堀、堀切、竪堀などの遺構が残されており、南北に烽火台・物見台が配置された、山梨県内でも類例の少ない中世城郭の遺構と考えられている。天守閣は無かったと思われる。
山頂に位置する本丸は約25m 四方程の方形で、南東と北西に虎口が開き、土塁が巡らされている。この南側には一段下がって二ノ丸が存在し、本丸と二ノ丸の間には横堀が掘られ、西側には堀切が2本見られる。
白山城跡の南東には白山権現社が所在し、慶応四(1868)年に江戸幕府に提出された報告書『甲斐国社記・寺記』によれば、かつて当社には慶安二(1649)年付の徳川家朱印状が伝来し、その頃には神社としての態勢が整えられていたと考えられている。神主は大村家。
『甲斐国志』によれば、甲斐源氏初代当主である新羅三郎義光(1045~1127年 武田信義の曽祖父)が甲斐国へ進出した時期にはすでに当社が存在していたとする由緒が伝わっている。
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