ライリ~ライリ~ライラ~っとぉ! みなさんこんばんは、そうだいでございます。いやぁ、まだまだ寒い日が続きますなぁ~。
正月くらいは妙にあったかくて、あぁこりゃ楽チンだな~、なんて思ってたんですけど、10日くらいからググッと寒くなってねぇ。
できれば、せっかくいただいたお休みは一日中のんびり家んなか、出費もなるたけ省エネルギーモードでいきたいところなんですが、そう言ってたら、ただでさえ加速化しているオッサン化がさらに激化するということで、本日はあえてがっちりと予定をつくってお出かけすることにいたしました。
行った先は、わこうどの町、下北沢! 久しぶりだなぁ~。
目的は例によって、観劇。下北沢だもんねぇ。
東京シェイクスピア・カンパニー「ヴェニス連作・同時公演」(2014年1月8~19日 下北沢・劇小劇場)
『鏡の向こうのシェイクスピア ポーシャの窓』(作&演出・江戸馨)
『ヴェニスの商人』(作・ウィリアム=シェイクスピア、演出・江戸馨)
今回、この公演を観に行く直接のきっかけとなったのは、私が劇団の俳優をしていた時期に一緒の舞台に立っていたこともある女優さんが『ヴェニスの商人』のほうに主演していることだったのですが、まぁそれだったら、同時上演になっているもう片方のオリジナル続編も観ておかなきゃいかんかなぁ、と思ったので、一日まるまる休みをとって2本とも観ることにしました。
なんてったって、演出している方が『鏡の向こうのシェイクスピア』というシリーズとしては約10年ぶりに発表する新作だというんですからね! これをついでに楽しまない手は無いんじゃなかろうかと。
さて、ここらで早々に、今回の公演を観に行くにあたって私が胸に抱いていた本音を包み隠さずバラしちゃうんですけど、実はまぁ~、行く気がしなかったしなかった。なんせお芝居2本なもんですから、仕事の合間に久々にいただいた休日をほぼ全部使ってわざわざ下北沢に遠出するわけでしてね、たいして若くもないのに。
言い訳をのべさせてもらえば、シェイクスピア作品って、普遍的に上演される不朽の名作なだけあって、逆に言うと「今観なきゃいけませんかね、それ!?」っていう億劫さが前に立っちゃうのよね! しかも『ヴェニスの商人』なんでしょ!? 筋もだいたい知ってるし。
しかも、年末年始のバタバタもあいまってか、今回は主演している女優さんから特に観劇をプッシュされたわけでもなかったので、チケットを予約するかなり直前まで「しれっとスルーしちゃおっかな……」という気分も大勢を占めていたのでしたが、ここは雄々しく! 2本どちらも観るという賭けに出たわけでした。まだまだ若いんだぞ!と。
そして、これがけっこういい目に出たんだよなぁ~、今回は! 楽しかったんだ、いろいろと。
いちおう、チラシのふれこみによると新作『ポーシャの窓』は、『ヴェニスの商人』の主要登場人物たちの「およそ10年後」を描いた続編となっているということだったのですが、私が予約した本日16日にかぎって、「未来」の『ポーシャの窓』をまず昼間に上演したあとに、夜から「過去」の『ヴェニスの商人』を上演するというさかしまなタイムスケジュールになっていたのです。
これも、観劇する前までは「なんかおかしな日に予約しちゃったなぁ。」と居心地悪く感じていたのですが、これがまた、けっこういい順番だったんだ! 「未来」のあとに「過去」を観て見えてくるものがあったわけです。
まず、午後2時に開演した『ポーシャの窓』のほうだったのですが、かつて『ヴェニスの商人』でスーパーヒロインのような八面六臂の活躍をして、悪役たるユダヤ人の高利貸しシャイロックをギャフンと言わせた女傑ポーシャが、好青年バッサーニオとめでたく結婚した後に「どうなったのか?」というあたりに空想の翼を広げた内容になっています。
これは作品の内容そのものになってしまうので詳しくは言いませんが、ポーシャとバッサーニオの生活は、それはそれは平凡で、『ヴェニスの商人』の華々しい活躍がはるか遠くのことと思えてしまう淡白なものになっていました。しかも、2人の間には明確に「不幸」と言い表す他ない「ある事実」が横たわっており。
もうひとつ無視できないのは、『ヴェニスの商人』であれほど完膚なきまでに失意のどん底に叩き落されたはずの高利貸しシャイロックが、キリスト教徒に転身した事実を利用してさらに利益を増やしてポーシャやヴェニスの商人アントーニオ以上に世間に認められる富豪に栄達し、10年前をピークにゆるやかに没落しつつあるポーシャたちを完全に「庇護する」立場になってしまっている、という皮肉な設定でした。この『ポーシャの窓』におけるシャイロックは、表面上は棄教しつつも、半世紀以上にわたる地道な生活の連続によってその身にしみこんだ、ユダヤ教の「無心に耐え、生き抜く」という摂理をかたくなに捨てずに生き続けている実直堅実な老紳士になっているのです。
これは恐ろしい未来ですよね……キリスト教至上主義の単純明快な勝利はまったく勝利ではなく、結局ヒーローも超人もいない「淡々とした現実」しか残っていない未来。勝ったはずの人間は理不尽ともいえる不幸におびえ、負けたはずの人間はその負けさえをも利用して、さらに強く生き続けているという。この作品でのシャイロックの異常な聖人君子ぶりは、ちょっと芥川龍之介の『神々の微笑』(1922年)をほうふつとさせる不気味な堅牢さがありました。演じる原金太郎さんの、アクの一切ない清廉きわまるたたずまいが印象的。
そして、こういった小津安二郎のような静寂とした作品を観た「あと」で、あの能天気な喜劇『ヴェニスの商人』を観ると、いったいどんな感慨がわきおこるのかといいますと!?
なんか、「そうそう、昔の自分たちの思い出って、こういう感じに輝かしいよね……やってたことはバカそのものなんだけど。」という、古いアルバムの写真かホームビデオの映像をのぞいたようなざわざわした感動に包まれるワケなのよ!
あんときは、いろいろ後先のことも考えずにムチャクチャやってたんだよな……『ヴェニスの商人』に登場する、シャイロック以外のキャラクターたちの無計画で楽天的な、しかしそれでいてやたらエネルギッシュな行動の数々は、半分うらやましくもあり、半分こっぱずかしくもあり。自分自身のいろんな過去さえも連想させるバカバカしさに満ちていたのでした。
『ポーシャの窓』は作者の思い入れがふんだんに炸裂した、メッセージに満ちた作品だったのですが、そのいっぽうで『ヴェニスの商人』はまったくもってオーソドックスな喜劇らしい喜劇に徹しており、高利貸しシャイロックも、古畑任三郎みたいな猫背で聞こえよがしにイヤミたっぷりな独り言を朗々と語る紺野相龍さんが好演していました。典型的な悪人でしたね、こっちでは。
でもまぁ~、今回観て再認識したんですけど、シェイクスピア作品はセリフがなげぇなげぇ!! 会話も独り言も長い上に、ぜんぜん実感の湧かないイタリアの物語で、宗教ネタとか人種ネタが満載なわけでしょう? それを極東のアジア人が21世紀に演じてるんですから、他ならぬシェイクスピア御本人が泉下で「え、なんでやんの!?」とびっくりされるんじゃないんでしょうか。
ただ、こういうアウェーばっかりの条件だからこそ、演じる役者の技量ってものがハッキリ見えちゃうんですよねぇ。つまり、おもしろい俳優さんはいつまでも聞き続けていたい長ゼリフの洪水を活き活きと泳ぎぬく輝きを見せてくれるけど、目先の難しさにアップアップする程度の人は、見るも無残な過呼吸演技でお客さんをうんざりさせることしかできなくなる。実際、今回の『ヴェニスの商人』も、かなり残酷でシビアな現場になっていたと思います。若い人があからさまにヘタだと本当にがっかりしちゃいますよね。
そういう意味で、シェイクスピア作品というものは、その底流に時代を超えた「愛」だの「野望」だのという人類共通のテーマがあるからこそ、役者さんの実力を試す定期テストのような意味合いで常にどこかで上演されるニーズがあると思うんです。それが素晴らしい俳優さんだけが大集合する公演になるんだったら、これ以上なく観客を楽しませてくれる「オールスター感謝祭」になるわけでね。
完全に思い出話になってしまうのですが、私もかつて俳優をやっていた時期に、シェイクスピア作品のいくつかに役者として出演したことがありました。そして、それはまぁ~楽しい公演だったんですよ、どれも演じていて。上演中の観客のみなさんの返してきてくれるエネルギーみたいなものも、他の公演よりもずっと直接的に感じることができていたような気がします。笑い声とかいう単純なものじゃなくて。
よくわかんないですけど、シェイクスピア作品の特に有名なものって、やっぱ有名になるだけの特別な「祝祭性」があるような気がするんですよね。俳優として日常的に演じている作品とはちょっと違う「特別公演」になると思うんだよなぁ、どれも。
「しゃべりまくり」だからなんでしょうかねぇ。うまくまわればサービス過剰な世界がテンションを上げてくれるんだろうなぁ。役者と観客の、どっちも。
とまぁ、いろんなことを感じさせてくれる「静」と「動」の2本立て公演だったのでした。
いやぁ、これはホントに、ケチってどっちか片方だけ観てもしょうがないお芝居企画でしたわ! ましてや、シェイクスピア作品だからといって、なんとなく敬遠して行かないなんて、問題外!! ふつうの現代劇もいいですけど、シェイクスピアは定期的におりを見て観たほうがいいですね。だって、扱ってるテーマが「人間が一生考えても解決できない問題」なんだもんね! 明るく深いね~。
さて、そんな感じでそれだけでも十二分に行った甲斐のあった本日の下北沢行だったのですが、実は個人的に、いっちばん「行ってよかった。」と思ったのは、お芝居とはまるで関係のない出来事だったりして……
今回、昼間の『ポーシャの窓』が終演したのが夕方4時半ごろで、夜の『ヴェニスの商人』が始まるのが7時半だったんですね。
だもんで、3時間の空きをどうしようかということで、ラーメンを食べたり久しぶりのマックでコーヒーを飲んだりしていたんですが、結局ほとんどの時間を、かの「なんでも雑貨店」ヴィレッジヴァンガードで過ごしたわけだったのです。ベッタベタでごめ~んねっと!
そんでま、おもしろいけど買うのはどうかしてるよな~、なんていう品々をながめているうちに書籍のコーナーに入っていって、太宰治とか三島由紀夫とかの新潮文庫版がぞろっと並んでいる「若いねェ……」という感じの棚を見ようとしたわけ。寺山修司とか夢野久作とか、中井英夫とかねぇ。たしか、辻村深月さんとか宮部みゆきさんはあったけど、京極夏彦はなかったですね。いかにもありそうなのに……あの商売のあざとさが鼻につくのかな。
そんなこんなをモヤモヤ考えながらつっ立っていたら、なんか棚の一角ででっかい撮影用カメラをかかえている人と、こっちのほうをしげしげとうかがっている店員さんらしい青年がいて、その視線に思わず、「そんなに万引きしそうに見えてるのかな……」といい加減に自分の風体を気にしだしたところで、おもむろにその店員さんが近づいてきて、
「ちょっとすみません、もしお時間があったらインタビューに答えていただきたいのですが。」
と言われてしまいました。
ええ、今ヒマなんでいいですが……と承諾したところ、
「今、こうやって若い人むけのお店で三島由紀夫とか太宰治のコーナーを置いているんですが、そのことについて質問をさせていただきたいと思います。そういう昔の作家さんの本は読んだこと、ありますか?」
と事前の確認をとられました。
いや、読んだこともなにも、家の私の本棚には新潮文庫版太宰の黒の背表紙と、三島の朱色の背表紙に染まっている一角がありまして、あと安部公房の水色と春陽堂文庫版の乱歩の……と言いたかったのですが、ここは手短に、
「えぇ、いちおう、ざーっとは……」
と答えました。
それで、5分に満たないくらいの時間、カメラの前で愛想笑いを顔に浮かべながら、太宰治の『人間失格』と三島由紀夫の『金閣寺』についてどう思うか、というインタビューに答えるという、なんとも摩訶不思議なひとときを体験してしまいました。
そりゃまぁ、ひととおりもっともらしいことをくっちゃべって「ご協力ありがとうございました。」ということになったのですが、よくよく考えてみたら、その映像がいつどこで公開されるのかも聞いてませんでした。TV 番組の撮影のようには見えなかったし、もしかしたら店内放送もされずに、文豪コーナーを開いてみた営業記録として客の反応をリサーチした非公開資料用だったのかも知れませんね。公開されないのがいちばんいいです!! バカ面さげて言いたいことの100分の1も語れなかったし。
だいたいさ、私は太宰治も三島由紀夫もいちおう、好きよ!? 好きだけどさ、『人間失格』と『金閣寺』限定でクエスチョンされてもさ~ってところ、あるじゃないっすか!! これってつまり、
「モーニング娘。の『 LOVE マシーン』とBerryz工房の『ジンギスカン』のいいところを教えてください。」
って聞かれてるようなもんよ!? いやいや、私の本領は『泣いちゃうかも』と『胸さわぎスカーレット』だからさぁ、そんな最大公約数なあたりをツッコまれてもなぁ~、っていう感じになるわけです。
だって、こっちのシミュレーションとしては、「太宰治 or 三島由紀夫の作品で好きなのはどれですか?」という質問の「だ」か「み」が聞こえた瞬間に即座に、
「太宰治は『右大臣実朝』が好きであります! 三島由紀夫は『美しい星』が大大大好きであります!!」
って答えるつもりだったんですけど、そんな質問さえこなかったしね。
こういう突発的なインタビューって、かなりあけすけに自分の好きなものがなんなのか、そしてそれのどこがどうだから好きなのかを整理してわかりやすい言葉に変換する必要に迫られるじゃないですか。こういうのって、脳みそのふだん使ってないところをフル回転させる気持ちよさがあって、とっても楽しいですよね。
他人の方との、こういうアクシデントぎみのやりとりは、いいね!
やっぱり下北沢、行ってフラフラしててよかったなぁ~と思った一日でありました。楽しい町だったね、今日も。
正月くらいは妙にあったかくて、あぁこりゃ楽チンだな~、なんて思ってたんですけど、10日くらいからググッと寒くなってねぇ。
できれば、せっかくいただいたお休みは一日中のんびり家んなか、出費もなるたけ省エネルギーモードでいきたいところなんですが、そう言ってたら、ただでさえ加速化しているオッサン化がさらに激化するということで、本日はあえてがっちりと予定をつくってお出かけすることにいたしました。
行った先は、わこうどの町、下北沢! 久しぶりだなぁ~。
目的は例によって、観劇。下北沢だもんねぇ。
東京シェイクスピア・カンパニー「ヴェニス連作・同時公演」(2014年1月8~19日 下北沢・劇小劇場)
『鏡の向こうのシェイクスピア ポーシャの窓』(作&演出・江戸馨)
『ヴェニスの商人』(作・ウィリアム=シェイクスピア、演出・江戸馨)
今回、この公演を観に行く直接のきっかけとなったのは、私が劇団の俳優をしていた時期に一緒の舞台に立っていたこともある女優さんが『ヴェニスの商人』のほうに主演していることだったのですが、まぁそれだったら、同時上演になっているもう片方のオリジナル続編も観ておかなきゃいかんかなぁ、と思ったので、一日まるまる休みをとって2本とも観ることにしました。
なんてったって、演出している方が『鏡の向こうのシェイクスピア』というシリーズとしては約10年ぶりに発表する新作だというんですからね! これをついでに楽しまない手は無いんじゃなかろうかと。
さて、ここらで早々に、今回の公演を観に行くにあたって私が胸に抱いていた本音を包み隠さずバラしちゃうんですけど、実はまぁ~、行く気がしなかったしなかった。なんせお芝居2本なもんですから、仕事の合間に久々にいただいた休日をほぼ全部使ってわざわざ下北沢に遠出するわけでしてね、たいして若くもないのに。
言い訳をのべさせてもらえば、シェイクスピア作品って、普遍的に上演される不朽の名作なだけあって、逆に言うと「今観なきゃいけませんかね、それ!?」っていう億劫さが前に立っちゃうのよね! しかも『ヴェニスの商人』なんでしょ!? 筋もだいたい知ってるし。
しかも、年末年始のバタバタもあいまってか、今回は主演している女優さんから特に観劇をプッシュされたわけでもなかったので、チケットを予約するかなり直前まで「しれっとスルーしちゃおっかな……」という気分も大勢を占めていたのでしたが、ここは雄々しく! 2本どちらも観るという賭けに出たわけでした。まだまだ若いんだぞ!と。
そして、これがけっこういい目に出たんだよなぁ~、今回は! 楽しかったんだ、いろいろと。
いちおう、チラシのふれこみによると新作『ポーシャの窓』は、『ヴェニスの商人』の主要登場人物たちの「およそ10年後」を描いた続編となっているということだったのですが、私が予約した本日16日にかぎって、「未来」の『ポーシャの窓』をまず昼間に上演したあとに、夜から「過去」の『ヴェニスの商人』を上演するというさかしまなタイムスケジュールになっていたのです。
これも、観劇する前までは「なんかおかしな日に予約しちゃったなぁ。」と居心地悪く感じていたのですが、これがまた、けっこういい順番だったんだ! 「未来」のあとに「過去」を観て見えてくるものがあったわけです。
まず、午後2時に開演した『ポーシャの窓』のほうだったのですが、かつて『ヴェニスの商人』でスーパーヒロインのような八面六臂の活躍をして、悪役たるユダヤ人の高利貸しシャイロックをギャフンと言わせた女傑ポーシャが、好青年バッサーニオとめでたく結婚した後に「どうなったのか?」というあたりに空想の翼を広げた内容になっています。
これは作品の内容そのものになってしまうので詳しくは言いませんが、ポーシャとバッサーニオの生活は、それはそれは平凡で、『ヴェニスの商人』の華々しい活躍がはるか遠くのことと思えてしまう淡白なものになっていました。しかも、2人の間には明確に「不幸」と言い表す他ない「ある事実」が横たわっており。
もうひとつ無視できないのは、『ヴェニスの商人』であれほど完膚なきまでに失意のどん底に叩き落されたはずの高利貸しシャイロックが、キリスト教徒に転身した事実を利用してさらに利益を増やしてポーシャやヴェニスの商人アントーニオ以上に世間に認められる富豪に栄達し、10年前をピークにゆるやかに没落しつつあるポーシャたちを完全に「庇護する」立場になってしまっている、という皮肉な設定でした。この『ポーシャの窓』におけるシャイロックは、表面上は棄教しつつも、半世紀以上にわたる地道な生活の連続によってその身にしみこんだ、ユダヤ教の「無心に耐え、生き抜く」という摂理をかたくなに捨てずに生き続けている実直堅実な老紳士になっているのです。
これは恐ろしい未来ですよね……キリスト教至上主義の単純明快な勝利はまったく勝利ではなく、結局ヒーローも超人もいない「淡々とした現実」しか残っていない未来。勝ったはずの人間は理不尽ともいえる不幸におびえ、負けたはずの人間はその負けさえをも利用して、さらに強く生き続けているという。この作品でのシャイロックの異常な聖人君子ぶりは、ちょっと芥川龍之介の『神々の微笑』(1922年)をほうふつとさせる不気味な堅牢さがありました。演じる原金太郎さんの、アクの一切ない清廉きわまるたたずまいが印象的。
そして、こういった小津安二郎のような静寂とした作品を観た「あと」で、あの能天気な喜劇『ヴェニスの商人』を観ると、いったいどんな感慨がわきおこるのかといいますと!?
なんか、「そうそう、昔の自分たちの思い出って、こういう感じに輝かしいよね……やってたことはバカそのものなんだけど。」という、古いアルバムの写真かホームビデオの映像をのぞいたようなざわざわした感動に包まれるワケなのよ!
あんときは、いろいろ後先のことも考えずにムチャクチャやってたんだよな……『ヴェニスの商人』に登場する、シャイロック以外のキャラクターたちの無計画で楽天的な、しかしそれでいてやたらエネルギッシュな行動の数々は、半分うらやましくもあり、半分こっぱずかしくもあり。自分自身のいろんな過去さえも連想させるバカバカしさに満ちていたのでした。
『ポーシャの窓』は作者の思い入れがふんだんに炸裂した、メッセージに満ちた作品だったのですが、そのいっぽうで『ヴェニスの商人』はまったくもってオーソドックスな喜劇らしい喜劇に徹しており、高利貸しシャイロックも、古畑任三郎みたいな猫背で聞こえよがしにイヤミたっぷりな独り言を朗々と語る紺野相龍さんが好演していました。典型的な悪人でしたね、こっちでは。
でもまぁ~、今回観て再認識したんですけど、シェイクスピア作品はセリフがなげぇなげぇ!! 会話も独り言も長い上に、ぜんぜん実感の湧かないイタリアの物語で、宗教ネタとか人種ネタが満載なわけでしょう? それを極東のアジア人が21世紀に演じてるんですから、他ならぬシェイクスピア御本人が泉下で「え、なんでやんの!?」とびっくりされるんじゃないんでしょうか。
ただ、こういうアウェーばっかりの条件だからこそ、演じる役者の技量ってものがハッキリ見えちゃうんですよねぇ。つまり、おもしろい俳優さんはいつまでも聞き続けていたい長ゼリフの洪水を活き活きと泳ぎぬく輝きを見せてくれるけど、目先の難しさにアップアップする程度の人は、見るも無残な過呼吸演技でお客さんをうんざりさせることしかできなくなる。実際、今回の『ヴェニスの商人』も、かなり残酷でシビアな現場になっていたと思います。若い人があからさまにヘタだと本当にがっかりしちゃいますよね。
そういう意味で、シェイクスピア作品というものは、その底流に時代を超えた「愛」だの「野望」だのという人類共通のテーマがあるからこそ、役者さんの実力を試す定期テストのような意味合いで常にどこかで上演されるニーズがあると思うんです。それが素晴らしい俳優さんだけが大集合する公演になるんだったら、これ以上なく観客を楽しませてくれる「オールスター感謝祭」になるわけでね。
完全に思い出話になってしまうのですが、私もかつて俳優をやっていた時期に、シェイクスピア作品のいくつかに役者として出演したことがありました。そして、それはまぁ~楽しい公演だったんですよ、どれも演じていて。上演中の観客のみなさんの返してきてくれるエネルギーみたいなものも、他の公演よりもずっと直接的に感じることができていたような気がします。笑い声とかいう単純なものじゃなくて。
よくわかんないですけど、シェイクスピア作品の特に有名なものって、やっぱ有名になるだけの特別な「祝祭性」があるような気がするんですよね。俳優として日常的に演じている作品とはちょっと違う「特別公演」になると思うんだよなぁ、どれも。
「しゃべりまくり」だからなんでしょうかねぇ。うまくまわればサービス過剰な世界がテンションを上げてくれるんだろうなぁ。役者と観客の、どっちも。
とまぁ、いろんなことを感じさせてくれる「静」と「動」の2本立て公演だったのでした。
いやぁ、これはホントに、ケチってどっちか片方だけ観てもしょうがないお芝居企画でしたわ! ましてや、シェイクスピア作品だからといって、なんとなく敬遠して行かないなんて、問題外!! ふつうの現代劇もいいですけど、シェイクスピアは定期的におりを見て観たほうがいいですね。だって、扱ってるテーマが「人間が一生考えても解決できない問題」なんだもんね! 明るく深いね~。
さて、そんな感じでそれだけでも十二分に行った甲斐のあった本日の下北沢行だったのですが、実は個人的に、いっちばん「行ってよかった。」と思ったのは、お芝居とはまるで関係のない出来事だったりして……
今回、昼間の『ポーシャの窓』が終演したのが夕方4時半ごろで、夜の『ヴェニスの商人』が始まるのが7時半だったんですね。
だもんで、3時間の空きをどうしようかということで、ラーメンを食べたり久しぶりのマックでコーヒーを飲んだりしていたんですが、結局ほとんどの時間を、かの「なんでも雑貨店」ヴィレッジヴァンガードで過ごしたわけだったのです。ベッタベタでごめ~んねっと!
そんでま、おもしろいけど買うのはどうかしてるよな~、なんていう品々をながめているうちに書籍のコーナーに入っていって、太宰治とか三島由紀夫とかの新潮文庫版がぞろっと並んでいる「若いねェ……」という感じの棚を見ようとしたわけ。寺山修司とか夢野久作とか、中井英夫とかねぇ。たしか、辻村深月さんとか宮部みゆきさんはあったけど、京極夏彦はなかったですね。いかにもありそうなのに……あの商売のあざとさが鼻につくのかな。
そんなこんなをモヤモヤ考えながらつっ立っていたら、なんか棚の一角ででっかい撮影用カメラをかかえている人と、こっちのほうをしげしげとうかがっている店員さんらしい青年がいて、その視線に思わず、「そんなに万引きしそうに見えてるのかな……」といい加減に自分の風体を気にしだしたところで、おもむろにその店員さんが近づいてきて、
「ちょっとすみません、もしお時間があったらインタビューに答えていただきたいのですが。」
と言われてしまいました。
ええ、今ヒマなんでいいですが……と承諾したところ、
「今、こうやって若い人むけのお店で三島由紀夫とか太宰治のコーナーを置いているんですが、そのことについて質問をさせていただきたいと思います。そういう昔の作家さんの本は読んだこと、ありますか?」
と事前の確認をとられました。
いや、読んだこともなにも、家の私の本棚には新潮文庫版太宰の黒の背表紙と、三島の朱色の背表紙に染まっている一角がありまして、あと安部公房の水色と春陽堂文庫版の乱歩の……と言いたかったのですが、ここは手短に、
「えぇ、いちおう、ざーっとは……」
と答えました。
それで、5分に満たないくらいの時間、カメラの前で愛想笑いを顔に浮かべながら、太宰治の『人間失格』と三島由紀夫の『金閣寺』についてどう思うか、というインタビューに答えるという、なんとも摩訶不思議なひとときを体験してしまいました。
そりゃまぁ、ひととおりもっともらしいことをくっちゃべって「ご協力ありがとうございました。」ということになったのですが、よくよく考えてみたら、その映像がいつどこで公開されるのかも聞いてませんでした。TV 番組の撮影のようには見えなかったし、もしかしたら店内放送もされずに、文豪コーナーを開いてみた営業記録として客の反応をリサーチした非公開資料用だったのかも知れませんね。公開されないのがいちばんいいです!! バカ面さげて言いたいことの100分の1も語れなかったし。
だいたいさ、私は太宰治も三島由紀夫もいちおう、好きよ!? 好きだけどさ、『人間失格』と『金閣寺』限定でクエスチョンされてもさ~ってところ、あるじゃないっすか!! これってつまり、
「モーニング娘。の『 LOVE マシーン』とBerryz工房の『ジンギスカン』のいいところを教えてください。」
って聞かれてるようなもんよ!? いやいや、私の本領は『泣いちゃうかも』と『胸さわぎスカーレット』だからさぁ、そんな最大公約数なあたりをツッコまれてもなぁ~、っていう感じになるわけです。
だって、こっちのシミュレーションとしては、「太宰治 or 三島由紀夫の作品で好きなのはどれですか?」という質問の「だ」か「み」が聞こえた瞬間に即座に、
「太宰治は『右大臣実朝』が好きであります! 三島由紀夫は『美しい星』が大大大好きであります!!」
って答えるつもりだったんですけど、そんな質問さえこなかったしね。
こういう突発的なインタビューって、かなりあけすけに自分の好きなものがなんなのか、そしてそれのどこがどうだから好きなのかを整理してわかりやすい言葉に変換する必要に迫られるじゃないですか。こういうのって、脳みそのふだん使ってないところをフル回転させる気持ちよさがあって、とっても楽しいですよね。
他人の方との、こういうアクシデントぎみのやりとりは、いいね!
やっぱり下北沢、行ってフラフラしててよかったなぁ~と思った一日でありました。楽しい町だったね、今日も。