自己同一化、アイデンティティーの確立とか、これが問題の根源になっているのだと思う。自分の所有物と自分を同一化、同一視すること、これが執着の始まり。子供がおもちゃを取り上げられると、泣き出すように、大切なものに自分を映し出す。物が自分自身になる。これは、物に限らず、知識や、伝統、地域、出身校、信仰、地位、評判等に自分を見る。
自分を見る時に、其処にあるものは、自分へのイメージ。我を害されたそう思う時に、自分が同一視しているものが害されたのだが、それが、自分へと置き換わる。その時は、自分への攻撃となる。そこからは、対立の関係が始まる。
本当に、自分と自分の所有物は同一だろうか。当たり前のことなのだが、私と私が所有する車や、地位、レコードコレクション、そのようなものと、私は同じではない。しかし、所有物は、これを大切にするうちに私を構成する一部となる。私は、所有物に支配されるに至る。これが、執着心の過程だろう。指輪物語の一つの指輪のように。
私は、所有物でなければ、何なのだろうか。私は、私という思考の枠組みなのだろう。思考もまた、所有物の一つに過ぎない。この思考の枠組みは、正しく動いているだろうか。
論理的に動かなければならない。正しく事実を見なけれならない。
この正しさは、個人に依る正しさではない。相対的な正しさでなく、普遍的に正しさがなくてはならない。これが、理性であり、知恵だとおもう。
このような知恵を、正しいことを正しいと見る。そういう枠組みが自分であれば良いと思うが、こう言うと、それも所有物の一つになるだろう。
この考えさえも、捨てる客観視、そういうものがいるのだろうと思う。それでも、色んなものを疑問に思い、捨てると、 最後に、残るものが理性なのだろう。
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