世界を正しく見ることは出来るだろうか。世界について、私の見方が正しいということがあるのだろうか。
世界を見る方向性は、人それぞれ、自分の目線で見ている。同じ物や出来事を見ても、同じ見え方はしていない。
世界についての認識は、人それぞれに異なるのだろうか。誰が正しくて、誰が間違いということはないのだろうか。私たちが作り上げた言語、習慣その中でゲームを行っているだけなのだろうか。その言語や習慣の枠の中で、とりあえずその時に正しいことが決まるのだろうか。
世界をどのように見ても、これが正しいという真実そのものが、幻想に過ぎないのであれば、いかに正しく見ようと言っても、正しさは何に対しての正しさになるのだろうか。言語、習慣に即しているだけなのだろうか。
例えば、人を殺すことは正しくない。これは、原則的に妥当だが、ある条件下では是認されている。戦争や、死刑制度のある国、尊厳死、中絶、色んな原則からの例外があるだろう。
正しく見ることが、人において相対的なら、正しく見ていないという主張はもはや意味を失くすことになる。
正しく生きることは、何を意味するのだろうか。
大きな視点から見ると、ちっぽけなこまごまとした人という存在が正しい、正しくないか、ほぼ、意味がないように思う。こういうと虚無に陥るようだが、世界が無秩序であることを考えると、正しいや正しくないという観点は、人の主観にしか意味がないのだろう。
そう思うと、この人生というのは皮肉なものだろうか。主観の他に意味がないと思いながら、その主観の正当性は、主観にしか担保されず、その主観の上で生きていく。
そうして、皆が手探りで意見をぶつけ合う。それで対話をするのだろうか。そこで対話があればいいのだが、多くの関係は、議論の元に帰るようだが強制、報酬、恐怖による示唆、支配それが正しさになるのだろうか。
それを正しさと認め、ながらながらに進んでいるのだが社会なのだろうか。
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