意味は、人によって見出される。
どのようなものでも、これに意味を与えているのは人だ。
人がいようがいまいが、物は人に関係なく存在する。花は存在するが、人がはじめてこの花というものを見つけて意味を見出す。
人がいなくては、花に意味をつけることができないが、花がなくては花に意味をつけることもできない。
花は、私が滅んでもやはり存在し続けるが、この花を認識するものがいなくなる。 花の、物の存在は、意味とは別個にある。在ることと意味とは別だ。花は人が見ていようがいまいがある。
よその庭にある花を見つけて、こんなところ花が咲いているのかと思うことがある。この花を見つけなければ、花の意味をつけることができないし、花があることも分からずじまいだ。
生活で、世の中の多くの物に出会いその時々に、その物に意味を見つけ、印象の強い出来事は、記憶に残し、多くの物事はその時につけた意味を忘れていく。一度でも出会う出来事よりも、世界に広がる物事には、出会わないことの方が絶対的に多い。
この出会わない出来事には、意味はない。テレビの世界であれ、一度でも出会わないことには、在ること自体が認識できない。
そうすれば、意味の発生の原因は、私の出会いであり、出来事であり、その出来事に対する印象、印象から発した言葉が意味の内容だ。意味が生まれるには、出来事が必要だが、在ることだけでは意味とはならない。
散歩で見つけたもの、喫茶店で見つけた漫画、どれも、たまたま見つけたものだ。この発見は不思議だ。見つけたから自分で意味を見出したが、見つけなくてもその喫茶店には、その漫画が存在する。多くのものごとを多くの人が発見し、その物事に次々と意味を与えている。
私は、多くの出来事で他人がつけた意味を何も知らずに過ごしている。
顕微鏡を覗けば、水滴の中にも多くの出来事が発見できるだろう。夜に空を見上げれば星を見つけることもできるし、天体望遠鏡があれば、より多くの星が見えるだろう。
世の中の出来事の絶対多数が、私とは無縁に、私に観察されることなく、過ぎ去っていく。私の存在も、世の中の出来事の絶対多数からすれば、全く顧慮されるところなく、過ぎ去っていく。
私の生活の中では、私が常に世界の中心に位置しているが、その私の存在も、世の中の出来事の絶対多数からみれば大海の泡沫、ミクロな場所でのミクロの時間での出来事にすぎない。
自分の存在がミクロな事象であることを知りつつも、世界の中心が自分と言っている。私の世界では、私は、私の周辺に絶対的な影響を与え生活を続けている。
私の頭を悩ますことが、私の問題が、世の中でいつも起こり続けている。それも、私の小さな世界の小さな出来事だ。
何か滑稽で、さみしくもある。
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