意味は存在するのか。抽象概念は存在するのだろうか。世界に存在するのは、個々の物だけ、人が考える思考の結果、概念のように抽象的なものは存在しない。そのように考えるのは、いわゆる唯物論だが、そうすると、意味というものも存在しなくなる。
意味という個物は存在しない。意味が存在しないのであれば、あらゆる個物についての意味も存在しない。そうすると、人間が存在する意味や、人それぞれが存在する意味も存在しない。人に意味がないのであれば、人生の意味というものも存在しない。
私は生きる意味というか、自分がいる意味とかを考えることがあるが、そういうことには本当は意味がない。意味は実在ではないのだから。
そういう意味で、人は生きることに色んな意味を持たしたり、考えたりすることもできるのだが、そういうものはフィクション。創作でしかないのだろう。宗教はそういう意味では壮大な創作物だし、創作物が人間を作ったというところまで信じる立場になる。
世の中に、本当に存在するのは物だけだとすると、そこに色んな意味を詰め込んでいる人は、創作者、創造者なのだろうが、社会的に意味を創造したのが人で、物の側に意味などないということを忘れてしまう。
物の側にないはずの意味を認め、人生の意味や社会的な構造、システムにも意味を認めているのだが、そこに意味を詰め込んだのは人であることを忘れ、それが意味だと、意味の方の実在、存在を疑うことを知らずに過ごしてしまう。社会の側から、社会、システムに本当は意味が存在しないという不都合を言うことはないから。むしろ、不都合であることも考えもせずに初めから意味を盲信している。
物事の意味の存在を信じる人は、意味の世界、意味が織り成す構造、マトリックスの方が実在、リアリティを持ってくる。実在の姿を観察する人は、そこに意味の連関、因果関係を見て実在を理解しようとするのだから、意味も存在すると考えるのも自然のことだ。
人から見た意味の連関、意味の織物は、実は存在しない、人の語り、創作だということを思い起こすと、世の中は、空になるのだろうと思う。人の思考が織り成した意味の連関は実は、空でしかないだろうと思う。
世の中、世界の側に意味があると、意味の実在を信じる人は、抽象概念の存在を信じるしかないだろう。唯物論を信奉していることはできない。
赤色や、薔薇、もっと言えば赤色性、薔薇性のような性質の存在を認めるのでなければ、つまるところは唯物論に行き着くのでないかと思う。
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