「人が存在する」ことの意味を考えると、存在することの意味自体をまず考えることになるのだろうと思う。
存在するということは、単純に分かっているようで、考えると難しい概念だ。
何が存在するかを考えると、物理的に全ての物は素粒子まで還元されてしまう。
では、私が何かが存在していると考えている時に、存在しているものが何かと言えば、素粒子レベルではなく、一つ一つの物だ。この物が、存在する単位になるのだが、この単位は、恣意的に私が物を見る感覚でより分けているのが、実情だ。
多くの人や、建物の風景を見るときにそれらの存在を感じるのだが、それは風景でしかない。個別に何が存在しているかは、風景よりも、もっと近景になった時に初めてその存在を感じることができる。
山登りに出かけ森を見ても、一つの樹木を認識することはできない。そばに寄って初めて存在が理解できる。
私が、存在を感じるのは、このような遠近法に基づいて存在を感じるのである。
「人が存在する」ことの意味を考えた時に、この遠景では「人」の存在は感じることができないのだろう。
この意味で、「何故人は生きるのか」という遠景的な問いをした時に、答えが得られないだと思う。
人が存在することの意味を問うには、その人に近景で意味を問わねばならないのだろう。そうでなければ空回りした空論を生み出すことになるのだろう。
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