私が見る世界。私を構成する世界。私を構成する世界とは、私が眺める風景、風景には、言葉どおりの視覚を含めて私が理解する世界のことだ。
世界は、私から見た世界しかない。反対に私を世界の側から見ることはできない。自分の目は自分で見ることはできない。
私が見る世界は、私を規定する。学習によってこれまで世界の見方を規定され、言葉を使用して世界を見ている。日本語を使用して思考している以上、日本語で規定できる思考しかできない。世界によって、私は構成され、私は「私という思考する枠」を通して世界を見るしかない。
私を規定するものはなんだろうか。私は、職業人であり、父であり、夫であり、子でもある。社会的な役割を自分自身と同一視することは、簡単な自己理解だ。物欲、権威、単純さを喜ぶ人はこれでOK。これ以上の私はいらないのかもしれない。
「思考する枠としての私」は、決して社会的役割ではない。社会的役割はいつか喪失するし、喪失を恐れる限り、私は社会的役割を超えた視点を持つことできないだろう。
ではどのような「私」を思考する枠とすればいいのだろう。私の個性だろうか。個性は、社会的に規定された結果にすぎないかもしれないし、社会的役割と変わりがないのかもしれない。私を規定するのに個性を持ち出しても同じ意味を違う言葉に置き換えただけだ。
こうすると私を規定できるものなど、ないのかもしれない。私が空だとすることはできない。規定はできないが私は確かにある。少なくとも言葉を語っている。
規定できないものが私だ。思考の枠で私を見ることが無理なのかもしれない。
言葉で、考えるほかないが、言葉で私を示すこともできない。
シンプルさを受け入れなければ、こんなことを考え続けなければならないのか。
探し続ける意味もないのかもしれない。
これが楽しくて探しているだけなのか。探すことが私なのか。
もう少し時間をかけて考えていこう。やっぱり思考でしか「私」を語れないのか。
「私」はことばでしかないのか。
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