鎌倉時代から700年続いた武士が治める世から、王政復古へ。
国のグランドデザインを大きく書換え、近代化を目指した。
「明治維新」をおおまかに言えばそうなるかもしれない。
以降、天皇を中心とした国家という歴史的価値観---「皇国史観」は、
教育や政策の中で用いられるようになったが、昭和20年8月15日を以て終焉。
歴史家たちは、戦争に突き進んだ日本の近代を批判的に評価するようになり、
その出発点・明治維新もネガティブに捉える風潮が強まった。
しかし、いわゆる高度成長期を経た頃、人心は180度転換。
あの出来事を痛快なサクセス・ストーリーとして考え出したのだ。
低い身分の出身ながら、志をもって動乱の社会で活躍した「志士」に、
戦後復興を成し遂げ経済大国の一員となった当時の自分たちを重ね合わせたのである。
こうして、すっかり有名になった志士たちは、
四六時中敵に狙われていたため目立たぬよう地下活動を主としていた。
変名や偽名を使うこともしばしば。
ちなみに「坂本龍馬」は実家の屋号と「勝海舟」の子息ににちなみ
「才谷梅太郎(さいたに・うめたろう)」と名乗った。
また、密偵を警戒する隠語も盛んに用いた。
皇室=太陽家(天照大神に由来?)将軍家=百度公(公方/くぼうが元?)
長州=江の本(瀬戸内を大きな川・江に見立てた?)といった具合である。
彼らの日常において不可欠な存在が、花街。
しなやかで逞しい女性たちが司るそこは、外界と隔絶した一種の隠れ家。
男は料亭や遊郭に身を潜め、馴染みに連絡役を任せるなど活動の拠点となったのだ。
また志士たちは、案外遊び好き。
ひと時、死と隣り合わせの使命を忘れ酒を呑み、芸者・遊女と情を交わし合ったという。
コワモテの偉人にも艶話が残されている。
明治の元勲には、志士として活動する中で知り合い、
同志のような関係を築いた元芸者と結婚したケースが少なくない。
・新政府の基本骨格「五箇条の御誓文」を編んだ「木戸孝允(桂小五郎)」。
・廃藩置県を実行し富国強兵策を推進した「大久保利通」。
・初代内閣総理大臣「伊藤博文」。
・亀山社中、海援隊メンバーで欧米との不平等条約撤廃に尽力したカミソリ大臣「陸奥宗光」。
・日露戦争の分水嶺となった二百三高地攻略を指揮した軍人「児玉源太郎」。
例に挙げた彼らは変革期を生き延び、功を成し名を残した者ばかり。
その裏では、志半ばで命を落としたケースも多々あったに違いない。
ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百四十五弾「GEISHAとSAMURAI」。
ここからは幕末の志士の中から、長州の「井上馨(いのうえ・かおる)」に注目してみよう。
後に、第1次伊藤(博文)内閣の外相を務め、明治政府の重鎮となる人物である。
文久3年(1863)、彼はロンドンへ派遣されることに。
当時、長州藩のポリシーは天皇を敬い外国を排斥する「尊王攘夷(そんのうじょうい)」。
そこで、世界有数の海軍力を誇るイギリスの敵情視察を試みた訳だ。
だが、国外渡航が厳しく禁じられていた頃。
いわば密航留学の出帆を控えた「井上」は、懇意の女性にこっそり不安に満ちた胸の内を明かす。
『これが今生の別れになるかもしれない。何か形見の品をくれないか』
彼女---祇園一の美貌を誇る芸者「中西君尾(なかにし・きみお)」は、
男の決死の覚悟を悟り帯の間から小さな袋を取り出した。
包まれていたのは愛用の手鏡。
男は“女の魂”を忍ばせ波濤を越えるのだった。
イギリスに留学中、大事件が勃発。
長州藩が攘夷実行のため航行中の外国船に対して砲撃を加えた報復として、
米仏軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し陸上砲台を攻撃。
更に英・仏・米・蘭4ヶ国連合艦隊と交戦、惨敗を喫した。
世に言う「下関戦争」である。
藩存亡の危機を知り「井上」は急遽帰国。
現地で国力の違いを目の当たりにし勝ち目はないと確信していた彼は、
講和交渉の通訳をつとめ事態収拾に尽力した。
ところが、今度は「井上」の身に災いが降りかかる。
下関戦争と相前後し、幕府は行き過ぎた攘夷運動を行う長州に対し討伐軍の派遣を決定。
対策を話し合う藩御前会議の意見は二分した。
全面的に謝罪して許しを乞う、絶対恭順派。
謝罪はするが軍備は整え戦いの姿勢を保つ、武備(ぶび)恭順派。
「井上」は後者に属していた。
激論が交わされた後、藩主は武備恭順を支持。
この結果に納得できない勢力が闇討ちを企てる。
帰宅途中、突然、数人の刺客に行く手を阻まれた「井上」!
襲い掛かる暗殺剣!
うつ伏せに倒れた背中に痛みが走り、鮮血がほとばしる!
幸い致命傷に至らず逃走を試みるが、またもや転倒!
すかさず右脇腹あたりに白刃が滑り込む!
『殺られた!』
黄泉への旅路を覚悟した瞬間、切っ先が何かに当たり止まった。
瀕死の「井上」は救出され、40針も縫う深手を負うも何とか死を免れる。
懐中で命を守ったのは、あの手鏡。
洋行以来、片時も肌身離さず共に過ごしてきた「君尾」の身代わりだった---。
侍に勤王(きんのう/天皇忠義派)、佐幕(さばく/幕府支持派)があれば、
芸者も客贔屓によって自然とどちらかに分かれ、座敷が忙しい。
勤王派の芸者で名を知られた1人が「君尾」である。
佐幕派要人にあえて囲われ、勤王側へ情報を流した。
お座敷で言い寄る新選組局長「近藤勇」を袖にした。
転がり込んできた志士を匿い、追手を退けてのけた。
そんな勇ましい逸話が伝えられている。
彼女の出身地は、現在の京都府 南丹市。
府内中央に位置し“森の京都”と称される山間に生まれた。
10代半ばで祇園の置屋・島村屋に属し、様々な宴に色どりを添え、
やがて多くの長州藩士と交流を持つように。
仲介役は奇兵隊を率いた“風雲児”「高杉晋作(たかすぎ・しんさく)」。
やはり「井上馨」も先輩に導かれ、花柳界の敷居を跨ぐ。
≪いずれ菖蒲か杜若(あやめかきつばた)≫
見初めたのは、まだ披露目間もない「君尾」だった。
片や、理想に燃え野暮で無骨な長州侍。
片や、夜の稼業に染まる前の駆け出し。
いわば初心(うぶ)同士のボーイ ミーツ ガールと言えるかもしれない。