つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

営みは春へと向かう、人も、花も。

2025年03月09日 23時00分00秒 | 日記
                                    
ここ数日は「余寒」と言っていいだろう。
最高気温が一桁を超えるに至らず、屋外では厚手の服が、屋内では暖房が欠かせない。
明日(2025/03/10)は、全国的に春らしい陽気になる予想。
2日ほどで天気は下り坂となるが、来週は二桁の暖かさが望めそうだ。
やゝゆっくりとではあるが、ここ北陸の季節も歩みを進めている。


駐車場の残雪。
アスファルト接地面が濡れているのは融け出している証拠なのだが、
未だ消雪には至っていない。


町から地区ごとに分配された除雪車。
この冬、ずいぶん助けてもらった。
唸りをあげ雪を吹き飛ばす雄姿は忘れられない。


枝から取り外された「雪吊り」。
雪の重さから木々を護る頼もしい縄張りが彼方此方で見受けられたが、
どうやら役目を終えたようだ。





津幡川沿い、護岸で風に揺れる水仙。
日本での名称の由来は、美しい立姿や清々しい香りから仙人を思わせるかららしいが、
原産地はヨーロッパや地中海沿岸。
学名は学名は「ナルキッソス」。
花言葉が「自己愛」。
いわゆる「ナルシスト」がギリシャ神話に由来しているのは有名な話である。

大勢の女性たちに想いを寄せられるも全くなびかず、
冷淡な態度を取り続けた美貌の少年・ナルキッソス。
余りの冷淡ぶりから、ついに命を絶つ者まで現れ、
事態を重く見た女神が、彼に自分しか愛せない呪いをかけた。
水鏡に映った自分の姿に恋したナルキッソスは水を飲むことも忘れ、
やがてやせ細って死んでしまう。
そこに咲いたのが水仙の花なんだとか---。

寒さに負けず凛と咲く水仙。
確かに他とは隔絶した孤高の印象がある。
ともあれ、いち早く春の訪れを予感させてくれる花の1つだ。
                              
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花萌し、春兆す。

2025年03月02日 18時35分35秒 | 草花
                        
まるで一週間前が嘘のようだ。
かれこれ一ヶ月近く行く手を阻み忍従を強いていた雪が、わずか数日で消えた。
気温が上がれば融けるのは道理と分かっていて、
何度も経験していても劇的に映るのである。
まだ肌寒くはあるが、ようやく春の兆しが垣間見えてきた。





それを象徴するのが、道端の寒桜だ。
春爛漫の桜花には比べる程のこともない寂しげな桜は、
あたり一面冬枯れの中に灯がともったような感慨を与えてくれる。
濡れそぼり風に揺れる小さく可憐な花が、逞しく思えた。
                       
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時をこえる旅人。

2025年02月22日 21時00分00秒 | 旅行
                       
現在(2025/02/22)津幡ふるさと歴史館「れきしる」に於いて、歴史資料巡回展を開催中。
石川中央都市圏(金沢市・白山市・かほく市・野々市市・内灘町・津幡町)の
史跡や歴史・考古資料を集めた第7弾、江戸時代編である。
津幡町からは津幡宿宿場町関連資料として旅の携帯道具を展示。
今投稿では、その一部を紹介したい。
尚以下<   >内の記述は、館内説明パネルより抜粋/引用した。



<津幡は加賀・能登・越中の分岐点にあたる宿場町です。
 交通の要衝であり、竹橋(たけのはし)宿とともに倶伽羅峠をひかえる立地条件から、
 加賀藩内で最も多い駅馬が備えられた宿場町です。
 関ヶ原合戦ひかえた慶長4年(1599年)に、
 戦支度の一環として前田家はつつがなく物資の輸送を行うために領内整備を行いました。
 津幡宿はその際、周辺4ヵ村をもって町立ちされた宿場町です。>

江戸時代以前の旅は、貴族や武士、裕福な商人、上層農民など、
経済的に余裕のある人々に限られていた。
庶民の旅も皆無ではなかったが、為政者から強要されたり、病気平癒のためだったり、
旅自体を生活の場としたり。
娯楽とは一味違い、必要に迫られた結果が多かった。
また、道路や宿泊施設など、基本的な旅のインフラも不十分。

転換期は開幕。
関ヶ原合戦の翌年、東海道に「伝馬制」が敷かれた。
江戸⇔京都聞に宿駅を定め、公用文書や役人を各駅に置いた人馬で運送するシステムである。
その後、全国の諸大名に参勤交代が義務化されると大小の宿が備えられた。
街道には距離標識「一里塚」が築かれ、日除けとなる並木を植樹。
交通環境が着々と整備されてゆく。

やがて、世の中が安定し商品経済が発達すると庶民の生活も向上。
遠隔地へ出かけるゆとりが生まれる。
元禄年間(1688-1703)以降、伊勢参宮など社寺参詣の旅が行われた。
文化・文政の頃(19世紀初頭)には、名所めぐりや芝居見物などが加わる。
旅は江戸時代の庶民にとって最大の娯楽として盛んになっていった。

この需要に応じて作られたのがガイドブック。
旅の心得などを紹介する『旅行用心集』は必需品をこう案内した。
「矢立・扇子・糸針・懐中鏡、日記手帳・櫛と鬢付油、
 提灯・ろうそく・火打道具・懐中付け木、麻綱、印板」。



画像中央、横長の道具2種のうち手前の短いものが「矢立(やたて)」。
戦国期に武将が矢と一緒に立てて、陣中で使っていた硯箱が由来とか。
小さな墨つぼに、細長い筆を入れるスペースが付属。
旅人は帯に挟んで日記やメモを取る際に使った。
その上、やや長いのは「秤(はかり)」である。
小型の棹秤で上下二つ割りひょうたん型のケース下部に棹・皿・分銅を収納できる。
用途としては小粒貴金属などの取り引きに用いられていたと推測される。
特に西日本の主流通貨・銀は、重さで価値を計る秤量貨幣。
大切な道具だ。



画像中央は、折りたたんで、小さくできる木製の携帯枕。
旅行以外にも湯治場、茶屋のひと休み、仮眠用などでも使われていたようだ。
江戸時代の旅は道中の大半を自らの足で歩くため、
持ち物は軽くて機能的、運び易いように工夫されていたのである。
京都~金沢から、江戸~越中から、能登から、津幡宿を訪れた旅人たちは、
こうしたアイテムを使いどんな会話を交わしていたのだろう---。
想像しながら楽しいひと時を過ごした。



<すべての荷物・旅客は宿駅を通過するよう藩によって定められていましたが、
 小矢部~金沢間には、北国街道よりも短距離の小原越えや二俣越えといった間道があり、
 また、能登方面においても、距離的に有利な金沢宮越から内灘砂丘を通る
 「浜往来」が使用されるなど、津幡宿を通らない「宿抜け」が常態化していました。
 さらには、農民が農耕馬を使って荷物を輸送してお金を稼ぐ
 「牽売馬稼ぎ(けんばいうまかせぎ)」も黙認常態であったため、
 宿駅経済は大変苦しいものでした。
 そこで、かほく市大崎や金沢市塚崎(※作注:津幡に至る手前)などで
 通行料である「口銭(こうせん)」を徴収して宿場収入に充てていた記録が残っています。>

--- 現実は、なかなかキビシかったようだ。



画像右手、宿場の面影を残す頃に撮影した写真に近似した場所から眺めたのがコチラ。



大正から令和となり、趣きはずい分異なる。
そんな時の流れを感じ感慨に浸るのも、この巡回展の魅力かもしれない。
石川中央都市圏歴史資料展 第7弾・江戸時代編は、
3月16日(日)まで津幡ふるさと歴史館「れきしる」にて開催中。
都合と時間が許せば、足を運んでみてはいかがだろうか。
三連休におススメしたいところだが---





何しろ積雪が著しい。
大西山へ登るのは、しばらく難儀するかもしれない。
足元には要注意である。
                     
コメント (2)
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幕末純情伝。

2025年02月16日 09時09分09秒 | 手すさびにて候。
                        
鎌倉時代から700年続いた武士が治める世から、王政復古へ。
国のグランドデザインを大きく書換え、近代化を目指した。
「明治維新」をおおまかに言えばそうなるかもしれない。

以降、天皇を中心とした国家という歴史的価値観---「皇国史観」は、
教育や政策の中で用いられるようになったが、昭和20年8月15日を以て終焉。
歴史家たちは、戦争に突き進んだ日本の近代を批判的に評価するようになり、
その出発点・明治維新もネガティブに捉える風潮が強まった。
しかし、いわゆる高度成長期を経た頃、人心は180度転換。
あの出来事を痛快なサクセス・ストーリーとして考え出したのだ。
低い身分の出身ながら、志をもって動乱の社会で活躍した「志士」に、
戦後復興を成し遂げ経済大国の一員となった当時の自分たちを重ね合わせたのである。

こうして、すっかり有名になった志士たちは、
四六時中敵に狙われていたため目立たぬよう地下活動を主としていた。

変名や偽名を使うこともしばしば。
ちなみに「坂本龍馬」は実家の屋号と「勝海舟」の子息ににちなみ
「才谷梅太郎(さいたに・うめたろう)」と名乗った。
また、密偵を警戒する隠語も盛んに用いた。
皇室=太陽家(天照大神に由来?)将軍家=百度公(公方/くぼうが元?)
長州=江の本(瀬戸内を大きな川・江に見立てた?)といった具合である。

彼らの日常において不可欠な存在が、花街。
しなやかで逞しい女性たちが司るそこは、外界と隔絶した一種の隠れ家。
男は料亭や遊郭に身を潜め、馴染みに連絡役を任せるなど活動の拠点となったのだ。
また志士たちは、案外遊び好き。
ひと時、死と隣り合わせの使命を忘れ酒を呑み、芸者・遊女と情を交わし合ったという。
コワモテの偉人にも艶話が残されている。

明治の元勲には、志士として活動する中で知り合い、
同志のような関係を築いた元芸者と結婚したケースが少なくない。

・新政府の基本骨格「五箇条の御誓文」を編んだ「木戸孝允(桂小五郎)」。
・廃藩置県を実行し富国強兵策を推進した「大久保利通」。
・初代内閣総理大臣「伊藤博文」。
・亀山社中、海援隊メンバーで欧米との不平等条約撤廃に尽力したカミソリ大臣「陸奥宗光」。
・日露戦争の分水嶺となった二百三高地攻略を指揮した軍人「児玉源太郎」。

例に挙げた彼らは変革期を生き延び、功を成し名を残した者ばかり。
その裏では、志半ばで命を落としたケースも多々あったに違いない。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百四十五弾「GEISHAとSAMURAI」。



ここからは幕末の志士の中から、長州の「井上馨(いのうえ・かおる)」に注目してみよう。
後に、第1次伊藤(博文)内閣の外相を務め、明治政府の重鎮となる人物である。

文久3年(1863)、彼はロンドンへ派遣されることに。
当時、長州藩のポリシーは天皇を敬い外国を排斥する「尊王攘夷(そんのうじょうい)」。
そこで、世界有数の海軍力を誇るイギリスの敵情視察を試みた訳だ。
だが、国外渡航が厳しく禁じられていた頃。
いわば密航留学の出帆を控えた「井上」は、懇意の女性にこっそり不安に満ちた胸の内を明かす。

『これが今生の別れになるかもしれない。何か形見の品をくれないか』

彼女---祇園一の美貌を誇る芸者「中西君尾(なかにし・きみお)」は、
男の決死の覚悟を悟り帯の間から小さな袋を取り出した。
包まれていたのは愛用の手鏡。
男は“女の魂”を忍ばせ波濤を越えるのだった。

イギリスに留学中、大事件が勃発。
長州藩が攘夷実行のため航行中の外国船に対して砲撃を加えた報復として、
米仏軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し陸上砲台を攻撃。
更に英・仏・米・蘭4ヶ国連合艦隊と交戦、惨敗を喫した。
世に言う「下関戦争」である。
藩存亡の危機を知り「井上」は急遽帰国。
現地で国力の違いを目の当たりにし勝ち目はないと確信していた彼は、
講和交渉の通訳をつとめ事態収拾に尽力した。

ところが、今度は「井上」の身に災いが降りかかる。
下関戦争と相前後し、幕府は行き過ぎた攘夷運動を行う長州に対し討伐軍の派遣を決定。
対策を話し合う藩御前会議の意見は二分した。
全面的に謝罪して許しを乞う、絶対恭順派。
謝罪はするが軍備は整え戦いの姿勢を保つ、武備(ぶび)恭順派。
「井上」は後者に属していた。
激論が交わされた後、藩主は武備恭順を支持。
この結果に納得できない勢力が闇討ちを企てる。

帰宅途中、突然、数人の刺客に行く手を阻まれた「井上」!
襲い掛かる暗殺剣!
うつ伏せに倒れた背中に痛みが走り、鮮血がほとばしる!
幸い致命傷に至らず逃走を試みるが、またもや転倒!
すかさず右脇腹あたりに白刃が滑り込む!

『殺られた!』

黄泉への旅路を覚悟した瞬間、切っ先が何かに当たり止まった。
瀕死の「井上」は救出され、40針も縫う深手を負うも何とか死を免れる。
懐中で命を守ったのは、あの手鏡。
洋行以来、片時も肌身離さず共に過ごしてきた「君尾」の身代わりだった---。

侍に勤王(きんのう/天皇忠義派)、佐幕(さばく/幕府支持派)があれば、
芸者も客贔屓によって自然とどちらかに分かれ、座敷が忙しい。
勤王派の芸者で名を知られた1人が「君尾」である。
佐幕派要人にあえて囲われ、勤王側へ情報を流した。
お座敷で言い寄る新選組局長「近藤勇」を袖にした。
転がり込んできた志士を匿い、追手を退けてのけた。
そんな勇ましい逸話が伝えられている。

彼女の出身地は、現在の京都府 南丹市。
府内中央に位置し“森の京都”と称される山間に生まれた。
10代半ばで祇園の置屋・島村屋に属し、様々な宴に色どりを添え、
やがて多くの長州藩士と交流を持つように。
仲介役は奇兵隊を率いた“風雲児”「高杉晋作(たかすぎ・しんさく)」。
やはり「井上馨」も先輩に導かれ、花柳界の敷居を跨ぐ。

 ≪いずれ菖蒲か杜若(あやめかきつばた)≫

見初めたのは、まだ披露目間もない「君尾」だった。
片や、理想に燃え野暮で無骨な長州侍。
片や、夜の稼業に染まる前の駆け出し。
いわば初心(うぶ)同士のボーイ ミーツ ガールと言えるかもしれない。
                           
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津幡短信vol.128. ~ 令和七年 如月。

2025年02月15日 19時19分19秒 | 津幡短信。
                     
津幡町で見聞した、よしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
今回は、以下の1本。
                               
【凍晴の街歩き。】

今投稿の内題に選んだ「凍晴(いてばれ)」は、冬の季語である。
2月の記事には相応しくないが、まさにピッタリ。
放射冷却によって凍りつくように寒い快晴の今朝、
久しぶりに小一時間の散歩を楽しんだ。



最初の写真はご近所の歩道の様子。
あちこちに雪が融け残っている。
無理もない、ほんの1週間前は一面の雪景色だったのだ。
左手前、薄氷がお分かりになるだろうか?
路面のちょっとした窪みに張った氷は、一種のトラップ。
気付かずに勢いよく踏み出し滑ったりしたら、転倒~ケガに繋がりかねない。
故に、歩みは自然とスローテンポに。
また、不安定な一本足の滞空時間を短くするため歩幅は狭くなる。
安全第一。僕は慎重に津幡川を目指して進んだ。



対岸から「弘願寺(ぐがんじ)」を望む。
大屋根の下には、甍を滑り落ちて出来上がった堆い雪の山。
流れる水は勿論冷たい。
もし、僕が落ちたりしたら1分と留まってはいられないだろう。
川面を覗き込んでも観止める魚影もない環境だが、ここを棲み処にする生きものがいる。



川がS字カーブを描き淀む一角には、大勢の水鳥たち。
羽毛が断熱材として空気層を作り、冷たい外気温から守っているのに加え、
彼らは体内に「ワンダーネット」という仕組みを持つ。
動脈に静脈が絡まった構造によって動脈が静脈を温める。
外気(水)の影響で冷えた血液が、体の芯まで冷やしてしまうのを防いでいるのだ。
まったく、自然の偉大さには叶わないと思う。



自然の偉大さ--- 言い換えるなら強大さの現れの1つが「地震」だ。
清水八幡宮の第一鳥居は、あの揺れによってダメージを被り撤去された。
案内看板にある石材「赤戸室石(あかとむろいし)」は、
金沢市の郊外の戸室山周辺で採掘されている青・赤色系の安山岩。
硬質で耐火性・耐凍結性に強いのが特徴で、金沢城の城壁などにも使われている。
看板背後、同材らしきの石灯籠も無傷ではいられなかったのか?
竿(さお)に補強のためと思われる部材を発見。
この分野に疎い僕の杞憂に終わればいいが、これからも佇んでいて欲しいものだ。



さて、寒いとはいえ、季節の巡りは春に差し掛かっている。
梅の一輪でも綻んでいないかと考え、思い当たるところを訪ねてみたが開花は見つけられず。
やはり、今、眼福を与えてくれるのは、やはり冬の季語である花「山茶花」だ。



山茶花や 土気はなれて 雪のいろ  -  加賀千代女


<津幡短信 vol.128>
                           
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