閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声
山深く森に囲まれた寺院。
世俗とかけ離れたそこで、ただ蝉だけが命を燃やしている。
やがてその声も遠くなり、私の心は幽玄へと誘われてゆく。
「松尾芭蕉」が山形県の寺を訪れ、この句を詠んだのは、
元禄2年(1689年)の5月27日と言われる。
新暦にすると7月13日頃。
梅雨明け間もない時期。
つまり岩に染入っていた声の主は「ニイニイゼミ」と推測できる。
ニイニイゼミは、梅雨明け頃から出現する早い種類だ。
大きさは20~24mm、翅の端までは35mm程度。
灰色のまだら模様は樹皮に溶け込んでしまい目立たなくなる。
今朝、散歩中に抜け殻を見つけた。

ニイニイゼミの抜け殻は、全身が泥だらけ。
他は外皮が露わになっているのが殆どなのに、一線を画している。
泥被りの理由は、水分を多く含んだ土中で過ごすためとか、
小さな個体の乾燥を防ぐためなどと考えられているが、よく分かっていない。
とにかく、小指の先大ほどのサイズで実に可愛らしい。
ニイニイゼミは4~5年あまりを暗闇の中で生き永らえ、
夏の初めに太陽の下へ出る。
そして、サナギを経ず成虫にメタモルフォーゼ。
当たり前だが、僕たち人間とは、まったく違う。
それは、神秘的だ。
生き物は逞しく、神秘に満ちている。

例えばコレもその一つだと思う。
今朝ニイニイゼミの抜け殻を発見した場所、
「しらとり児童公園」の入口から中を撮影した写真である。
中央・奥の立木に注目していただきたい。
わずか半年前の姿形は別物。
すっかり枝葉を切り落とされていたのだ。

物も言えず、動いて逃げることも出来ない樹木は、
再生力、治癒力に優れている。
傷口で細胞分裂が始まり、細胞が増殖。
そこで、コルク組織が形成されて修復。
一旦はすってんてんになった状態から、
葉を生やし、枝を伸ばし、甦る様子は感動すら覚えてしまうのである。

数年間、地中で生きて、やっと地上に出ると数日で人生を終えるセミを「可哀想」と評する人がいるけど、可哀想なのは、可哀想と評する人の方かもしれないと僕は思います。
地上での生活が幸せだと思うのは、人間の感覚で、セミにとっては、むしろ地中の生活が幸せで、地上の生活は、人生の最後の苦行かもしれないって、想像力があっても良いと思います。
真実は、誰もわからないことですが。
どうでも良い、与太コメント、失礼いたしました。
では、また。
俗に「地中7年、地上1週間」と言われますが、
昨今の研究によると、違うらしいとか。
成虫はもっと長生きのようです。
彼等にとって地上が苦行なのか楽園なのか?
地中の暮らし向きはどう思うのか?
こればかりは蝉に聞いてみないと分かりませんね。
運動や勉強、仕事に手工芸などで
重ねた努力が実り、納得いく結果を得た時、
「一皮むけたな」と感じた時は、
蝉ほどに鮮やかではありませんが、
「変態」に似ているかもしれませんね。
とりとめのない返信コメント、
失礼しました。
では、また。
たくさんあると思います。
楽しい、悲しいなどの感情の前に
生きる力・・・という事の大切さを勉強できますね。
動物の中で未来に不安を抱いて落ち込むのは、
人間だけのようです。
他は「今日を生き抜き」明日を迎えれば、
それで大満足なんだとか。
「考えて行動しない」
「感情を持たなさそうな」植物の心は、
想像もつきませんね。
神秘の領域。
おっしゃるとおり学ぶ点は沢山ありそうです。