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つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

梅は咲いたか 桜はまだかいな

2022年03月12日 20時00分00秒 | 日記
                    
季節は次のステージへと進んでいる。
ここ北陸も例外ではないが、まだ寒さも残る中、
春を感じさせてくれるのが、可憐に咲き香る「梅の花」だ。



大陸に渡った遣隋使や遣唐使、僧侶らが苗を持ち帰り普及したと考えられる梅。
8世紀半ばに編まれた「万葉集」で梅を題材にした歌は110首。
ちなみに桜モチーフが43首止まりだから、梅の人気ぶりが窺える。
--- また、次の歌も有名ではないだろうか。

東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな

作者は“学問の神様”とされる「藤原道真」。
都での権力争いに敗れた「道真公」が九州・大宰府に左遷される際、
日頃慈しんでいた梅に別れを告げて詠んだとか。
すると、梅の木は一晩にして500キロ余りを飛翔。
太宰府天満宮に根を下ろしたという。
わが津幡町を含む加賀を治めた大名「前田家」は、
この「飛梅」に象徴される「道真公」を祖とするとして、梅の意匠を家紋に定めた。





そんな歴史的背景もあってか、町立学校の校章には梅がデザインされている。
上掲画像、順に「津幡小学校」→「津幡中学校」。
早春に花開く力強さ。
香りで周囲を華やぐ奥ゆかしさ。
梅の花の如く成長して欲しいとの願いを込めた。
小学校も、中学校も、僕が通っていた当時とは違う学び舎になったが、
母校は、今も花のエンブレムを戴いている。



白鳥橋の上で、部活へ向かう後輩とすれ違った。
名も知らぬ彼女をはじめ年若い方々へのエールとして、
また、きのう大震災から11年の節目を迎えた東北への励ましとして、
力強い女性ボーカルを贈りたいと思う。

出だしはやゝ声量大きい。
環境によっては再生前にスピーカーレベルを落とした方が無難かもしれない。
では--- 。
2007年リリース「Metis(メティス)」、「梅は咲いたか 桜はまだかいな」。
                       


梅は咲いたか? 桜はまだかいな?
ただただ ひらひら 華麗に舞い待ちわびる花
梅は咲いたか? 桜はまだかいな?
ただただ ひらひら 華麗に舞い待ちわびる花

なにげなく 過ごした日々が こんなに大切なものだったと知った
春の日差しが 止まる足押して 僕たちは言葉につまった

たわいもない言い争い 笑いあった日
そんな些細な出来事を 思い出しては時は過ぎ去った

誰の上にも 歩き始めるために桜は咲くのさ
全てに意味があることのように 君に桜は咲くのさ
カバンはいらない 古い荷物は捨てなさい
まだ今始まったから 道は長い
あるとき春が訪れるとき あなたたちから始める時代

梅は咲いたか? 桜はまだかいな?
ただただ ひらひら 華麗に舞い待ちわびる花
恋は咲いたか? 愛はまだかいな?
ただただ ひらひら 華麗に舞い待ちわびる花

誰でも心の奥に卒業できないものがあるでしょう?
「人は弱くもあり 強くもある」だから人は支えあえるはず

掴むために風は吹いてく
人は生きるために息をしてる
愛する誰かのために今歌う
この声がどこまでも届きます様に

誰の上にも 歩き始めるために桜は咲くのさ
全てに意味があることのように 君に桜は咲くのさ
カバンはいらない 古い荷物は捨てなさい
まだ今始まったから 道は長い
あるとき春が訪れるとき あなたたちから始める時代

誰の上にも 歩き始めるために桜は咲くのさ
全てに意味があることのように 君に桜は咲くのさ
カバンはいらない 古い荷物は捨てなさい
まだ今始まったから 道は長い
あるとき春が訪れるとき あなたたちから始める時代

梅は咲いたか? 桜はまだかいな?
ただただ ひらひら 華麗に舞い待ちわびる花
恋は咲いたか? 愛はまだかいな?
ただただ ひらひら 華麗に舞い待ちわびる花

<作詞/作曲:Metis「梅は咲いたか 桜はまだかいな」>
                     
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上越めぐり。~ 武郵伝。

2022年03月06日 22時00分00秒 | 旅行
<新潟県・上越市への小旅行、続篇>
                     
松平→酒井→松平→幕府直轄→稲葉→戸田→松平→榊原。
きのう投稿した通り、上越市内に威容を残す「高田城」の主は、
藩政400年の間に何度も入れ替わった。
その経緯を踏まえ、僕は一つの疑問を抱く。
『上越市民にとって歴史的象徴・ヒーローは誰なんだろう?』
高田城を訪れた際、城郭管理の方に伺ってみたところ、
少し逡巡しつつ、こんな趣旨の返答をしてくれた。
『--- やはり多くの人が思い浮かべるのは「上杉謙信」だろう』



上越市内には「謙信公」にあやかったネーミングや肖像が溢れている。
言わずと知れた戦国の雄。
“越後の龍”は、高田城築城の50年以上前「春日山(かすがやま)城」で生まれた。



「土偏」に「成る」と書いて「城」。
春日山城はまさに「土の城」である。
自然の地形を利用し、空堀(からぼり/尾根を掘って作る人工的な凹地)や
土塁(どるい/土を盛って作った障壁)に守られた山城跡を訪ねた。







僕の道行きは、中腹より下の「春日山神社」でストップ。
山頂への道は雪で閉ざされ、辿り着けず。
本丸跡からの眺望は断念、残念無念。



「毘沙門天」(びしゃもんてん)の頭文字をあしらった旗印を見た途端、
気持ちがアガってしまうのは、歴史ファンの性だろうか。
「上杉謙信」は自身を、毘沙門天の生まれ変わりであると信じ、
家臣にも『我を毘沙門天と思え』と語った逸話もあるとか。
有名なエピソードだ。



謙信公の面影の一端を見聞した後、別の偉人の記念館を訪ねた。
名は「前島 密(まえじま・ひそか)」という。
江戸末期、現在の上越市・下井池部に生まれた。
全国津々浦々へ同じ料金で手紙が配達される郵便制度を確立した“近代郵便の父”。
日本通運や日本郵船の土台となる会社を設立した。

その顔は、1円切手の肖像画でもお馴染みかもしれない。
彼については、随分前に自身の思い出を投稿したことがある。
僕が、切手収集を趣味にしていた小学生当時のハナシだ。
以下、拙文を再掲載したい。

【多分、まず名前に魅かれたのだと思う。
 「密」と書いて「ひそか」。 ミステリアスで高貴な感じがする。
 また、彼のアイディアが受け継がれている事に感心したのだと思う。
 「切手」「葉書」「郵便」…これらの言葉は「前島密」の発案だと知った。
 そして明治官僚の気骨。
 「縁の下の力持ちになることを厭うな。 人のためによかれと願う心を常に持て。」
 強い信条の元、日本の近代化を陰から支えた彼のモノクロ写真に、
 僕は、まだ幼いころ亡くなった明治生まれの祖父の面影を重ね合わせた。】
(※【   】内、拙ブログ2010年7月5日投稿より抜粋/引用)



通信における時間と距離の概念がなくなった現代。
明治とはすっかり様変わりした世界を見たとしたら、
「前島翁」は、さぞ驚くことだろう。どんな感慨を抱くのだろうか。



さて、ラストは、上越市民が慣れ親しんでるという食のハナシ。
70年近く営業している「塚田そば」は、
老若男女の客足が絶えない人気店。
上掲画像の電光掲示にある通り、確かに「安い」。



自家製茹で中華麺を温め、玉ねぎのかき揚げをトッピング。
アツアツの蕎麦つゆをかけた「天ぷら中か」は、300円。
小盛りが嬉しい甘口カレーは、330円。
どちらもコスパ最高、旨いっす!
大学時代の「学食」の雰囲気を思い出しつつ完食。



どうも、ごちそうさまでした!!
           
(後記:今投稿のタイトル「武郵伝(ぶゆうでん)」は、
    上杉謙信の「武勇」と前島密の「郵便」をかけたモノです)
                       
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上越高田。~男たちの趨勢と女たちの志。

2022年03月05日 23時39分39秒 | 旅行
                            
僕は今「新潟県・上越市」にいる。
石川県・津幡町からは車で片道2時間余り。
充分日帰り圏内だが、今月(2022/03)末までが賞味期限の「宿泊券」を手に入れ、
ビジネスホテルの一室に身を置き、こうしてキーボードを叩いているのだ。
---「新型コロナ オミクロン株」の感染は未だ収まっていない。
---「ウクライナ-ロシア戦争」の真っ最中。
何かと気が引ける要素はあるものの、せっかくのチケットを紙屑にするのは忍びなく、
前々から訪れてみたい場所もあり、ハンドルを握り参上した次第である。
よろしかったら、しばし旅の記録にお付き合いくださいませ。



【ときは一六一四年。時代は、豊臣家と徳川家の最終決戦を迎えようとしていました。
 徳川家康は、関東から北陸への出入り口にあたる越後頚城に、
 自らの息子・松平忠輝(ただてる)を置き、新たな城を築くことを命じたのです。
 高田城は、豊臣との最終決戦に臨む、
 家康の最後にして盤石の布石だったといえるでしょう。
 それから四〇〇年。城下町高田には、いくつもの浮き沈みがありました。
 また、多くの人びとがこの上越の地に生まれ、
 喜び、悲しみ、そして亡くなっていきました。
 この地に暮らした一人一人の人生を幾重にも紡ぎ合わせて、
 この土地の歴史はできているのです。】
(※【   】内、企画展「花の高田」ガイドブックより引用/抜粋)



松平→酒井→松平→幕府直轄→稲葉→戸田→松平→榊原。
何度も入れ替わる殿様たちを迎えてきた「高田城」は、2つの特徴を持つ。
1つは「天守閣がない」。
代わって象徴となるのが画像の3重3階の三重櫓(やぐら)だ。
もう1つは石垣ではなく「土塁を防壁とした」。
この理由は、対豊臣戦を見越した僅か4ヶ月の突貫工事のためと考えられている。



最上階の展望室からは「妙高山」をはじめ、高田の町並みが見渡せた。
往時の威容を今に伝える城構えを見学し、
あれこれと思いを巡らせるうち、時刻は13時過ぎ。
腹の虫に促された僕は城下に繰り出す。



目当ては“雪むろ酒かすラーメン”。
上越産の酒粕を使用する。
雪室(雪を茅や藁の屋根で覆った天然冷蔵庫)に貯蔵した食材を使用する。
発酵食品や上越産の野菜、魚介類等をトッピングに使用する。
そうルール付けられたご当地麺だ。
町中華「王華飯店」に落ち着き早速注文。
運ばれてきたのは、なかなか美しい一杯。



頚城酒造の酒粕を使った清湯スープに、味噌と豆乳。
上越産の唐辛子や山椒、甘えびオイルを加えた爽やかな辛さ。
チャーシューは鶏肉。レモンの酸味も効いている。
上品な酸辣湯麺といったところか。



旨いっす。
完食致しました。
腹ごしらえを済ませ、いよいよ今回の旅の本丸「瞽女(ごぜ)ミュージアム高田」へ。



【瞽女(ごぜ)とは目が不自由な女性で、
 各地を巡り、唄と三味線の演奏を披露する旅芸人です。
 昭和の高度経済成長期以前の、現代に比べて娯楽の少ない時代、
 農山村の人々にとって瞽女の巡業は数少ない楽しみの一つでした。】





【高田の雁木が続く界隈にはかつて瞽女の家があり、
 最盛期(明治半ば)には17軒89人が暮らしていました。
 瞽女の戒律はとても厳格なもので、弟子は親方の厳しい指導のもと芸を磨き、
 共同で規則正しい生活を送っていました。
 旅にあっては目が不自由なハンデを抱えながらも、
 およそ15キログラムにもなる重い荷物を背負い、
 互いに助け合い励まし合いながら毎年決まったルートを巡業しました。】
 


【瞽女ミュージアム高田は、瞽女の住まいの雰囲気を体感できる
 高田の雁木町家「麻屋高野」(昭和12年建造、国の登録有形文化財に登録)において、
 その姿を今に伝える写真や映像、瞽女を題材とした作品を多く残した
 斎藤真一画伯の絵画を展示するほか、
 資料の収集や瞽女文化を市内外に発信する活動を行っています。】
(※【   】内、上越市HPより引用/抜粋)

盲目というハンデを負ってしまった女性たちが自立・自活する営みは、
迫力と哀切、逞しさと健気がない交ぜになり胸に迫った。
「瞽女さん」についての個人的な感想は、
じっくり思考を重ねてから、回を改めて投稿したい。

---さて、前述の町中華も、ミュージアムも「雁木(がんぎ)通り」に軒を連ねる。
雁木とは、おもに冬季の通路を確保するため、
家屋の一部やひさしなどを延長したもので、豪雪地の生活の知恵だ。
高田地区に現存する雁木の総延長は、日本一だという。
そこで見かけた味のある風景のスナップを掲載して、今回は結びとする。






                     
コメント (4)
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