開平(カイピン)
開平は広州の西南約120キロにある。中国南部の大河である珠江が作る大三角州の南にある。この三角州には広州や澳門(アモイ)、深圳などの都市もある。
開平はその北東にある江門市に属している県級市(中国では市の下に県がある)で、さほど大きくない農村地帯である。19世紀末には多くの貧しい農民たちが、現在の蛇頭のような闇社会の組織の手で米国に渡った。彼らの中には中国で艱難辛苦して財産を築き、故郷に錦を飾った者もかなりいた。
故郷では彼らはdiao楼(diao=石+周)という中西折衷の石造りの住宅を建てた。これはこの地方に明代後期からあった建築様式に、西洋風の華僑の生活様式が融合したものと言う。元来盗賊や冠水災害の多い地方であったので、建物はそれらを防ぐように、堅牢で高層のものにした。diaoはトーチカ(コンクリート製の防御陣地)と言う意味であり、diao楼は望楼の旧語である。
この建築物は開平市内に多く散在していて、現存するのは1833とあり、車で市域を通っているとあちこちに見られる。今回はその中でも代表とされる自力村に行った。自力村には63戸、170名が居住していると言うことだが、15の楼が現存していて、いずれも192、30年代のものである。開平のdiao楼群は2007年6月に世界文化遺産に登録された。
これは米国で中国料理店を経営して富豪となった方(ファン)と言う人物の住宅、銘石楼。その子孫は現在米国に居住し、その許可を得て内部を公開している。
方氏とその3人の妻。
農機具置き場
厨房
イタリア製の絵ガラス。
この建物は5層で、各階に家族の部屋があり、当時の家具や道具などが保存されている。
ベッド。金箔貼りのもの。
子供部屋にある揚琴。
手回しのミシン。当時ではモダンなものだったのだろう。
蓄音機。これも当時では最先端のものだろう。
天井に吊るされたランプ。
2階の床に穿ってある穴。下の階に盗賊が侵入していないかを見張るためのものだそうだ。
最上階には仏間があり、祖先の位牌が祭ってある。
最上階のバルコニーにある見張り台。銃眼がある。
屋上から見た近くの楼。
19世紀の後半の開平は貧しい寒村であったのだろうが、それが20世紀初頭になると現存しているdiao楼の数は非常に多くなっていることは、成功者がそれだけ多かったのだろう。米国で苦労し成功したのだから辺鄙な故郷に帰ることもないだろうにとも思ったが、ガイドの伍海珠は、中国には「落葉回根」という言葉があって、中国人は死ぬ前に、あるいは死後にでも故郷に帰ることを願うのだと教えてくれた。
村には大きな養魚地があり、家鴨がたくさん飼われていた。家鴨の糞が魚の餌になり一挙両得のようだ。
道路に寝そべる犬。インタネットでは開平の犬は人に吠えつくので怖いとあったが、気楽そうに眠っていた。
開平は広州の西南約120キロにある。中国南部の大河である珠江が作る大三角州の南にある。この三角州には広州や澳門(アモイ)、深圳などの都市もある。
開平はその北東にある江門市に属している県級市(中国では市の下に県がある)で、さほど大きくない農村地帯である。19世紀末には多くの貧しい農民たちが、現在の蛇頭のような闇社会の組織の手で米国に渡った。彼らの中には中国で艱難辛苦して財産を築き、故郷に錦を飾った者もかなりいた。
故郷では彼らはdiao楼(diao=石+周)という中西折衷の石造りの住宅を建てた。これはこの地方に明代後期からあった建築様式に、西洋風の華僑の生活様式が融合したものと言う。元来盗賊や冠水災害の多い地方であったので、建物はそれらを防ぐように、堅牢で高層のものにした。diaoはトーチカ(コンクリート製の防御陣地)と言う意味であり、diao楼は望楼の旧語である。
この建築物は開平市内に多く散在していて、現存するのは1833とあり、車で市域を通っているとあちこちに見られる。今回はその中でも代表とされる自力村に行った。自力村には63戸、170名が居住していると言うことだが、15の楼が現存していて、いずれも192、30年代のものである。開平のdiao楼群は2007年6月に世界文化遺産に登録された。
これは米国で中国料理店を経営して富豪となった方(ファン)と言う人物の住宅、銘石楼。その子孫は現在米国に居住し、その許可を得て内部を公開している。
方氏とその3人の妻。
農機具置き場
厨房
イタリア製の絵ガラス。
この建物は5層で、各階に家族の部屋があり、当時の家具や道具などが保存されている。
ベッド。金箔貼りのもの。
子供部屋にある揚琴。
手回しのミシン。当時ではモダンなものだったのだろう。
蓄音機。これも当時では最先端のものだろう。
天井に吊るされたランプ。
2階の床に穿ってある穴。下の階に盗賊が侵入していないかを見張るためのものだそうだ。
最上階には仏間があり、祖先の位牌が祭ってある。
最上階のバルコニーにある見張り台。銃眼がある。
屋上から見た近くの楼。
19世紀の後半の開平は貧しい寒村であったのだろうが、それが20世紀初頭になると現存しているdiao楼の数は非常に多くなっていることは、成功者がそれだけ多かったのだろう。米国で苦労し成功したのだから辺鄙な故郷に帰ることもないだろうにとも思ったが、ガイドの伍海珠は、中国には「落葉回根」という言葉があって、中国人は死ぬ前に、あるいは死後にでも故郷に帰ることを願うのだと教えてくれた。
村には大きな養魚地があり、家鴨がたくさん飼われていた。家鴨の糞が魚の餌になり一挙両得のようだ。
道路に寝そべる犬。インタネットでは開平の犬は人に吠えつくので怖いとあったが、気楽そうに眠っていた。