「世間知らずの娘」と言うと、世の波にもまれていない、どこかおっとりしたイメージで、それほど馬鹿にしたニュアンスは無いだろうが、一般に「世間知らず」と言うのはほめ言葉でなく、どちらかと言うと「非常識」に近い、貶めたニュアンスで使われる。
ところで、「世間知らず」とはどういう人たちを指すのだろう。「世間」とは社会、世の中のことであることは言うまでもないが、それを知らないというのは、社会から隔絶されたところで生活していると言うことだろう。それはどんな人たちだろうか。しかし誰しも社会から隔絶されて生きていくことはできないから、要するにそういうことに自覚がないか乏しい人、能動的に社会のことを学ぼうとしない人をを「世間知らず」と言うのか。
反対に「世間を知っている」人とは、どういう類の人なのか。「世故」によく通じている人のことか。「世故」とは「世の中の風俗・習慣など、世間づきあいのうえのさまざまの事がら」(広辞苑)だ。作家などは自分の作品のためにあちこち取材して回るから、社会のことなど裏のことまでかなり詳しく知っているだろうし、世故にも長けているのかも知れない。しかし、だからと言って作家という職業の人たちが、すべて常識を備えているかどうかは分からない。「変わり者」もいるだろうし、奇矯な振る舞いをする人もいるだろう。もしそうだとすると「世間知らず」とはそう変わらないとも言える。
かつて私がそうだった教師という職業は、しばしば「世間知らず」の例として挙げられてきた。実際の教師の社会、学校の様子などをほとんど知りもしないのに、「子どもを人質にとって親を見下す」とか「児童や生徒に対して威圧しながら接する」などのステレオタイプの見方をして、教師の社会は閉鎖的で教師は世間知らずだからそうなるのだなどと言う。中にはそういう教師も無きにしも非ずだから、ここでは一応そういうことにしておいて、それでは他の社会にいる者、例えば企業に勤めている人間は、それほど「世間」を知っているのだろうか。これも実態を知らない者のステレオタイプな見方かも知れないが、朝早く出勤して一日中激務に追われ、夜遅く帰宅する。そういう生活の中でどのようにしてゆとりを持って世間を知ることができるのだろうか。こんな話を人としていて「結局、世間て何なんだ」と改めて問いかけると、話はそこで詰まってしまう。
私が教師だった頃は毎日が実に多忙だった。学生時代の勉強不足のツケが回ってきたから、毎晩遅くまで教材研究に追われたし、クラブ活動の指導で夏休みもなかった。それでも社会の動きに遅れまいと、努力はしたつもりだ。これも実態を知らない馬鹿げたステレオタイプな見方で、「教師=日教組=赤旗を振りまわしてデモばかりしている」というのがあるが、教員組合を通じてそれなりに社会の動きなどを学ぶことはあっても、それに明け暮れていたわけではない。私の次男は小学校の教師をしているが、話を聞いてみると何やかやと仕事が多いし、今は5年生の担任だが、1、2年生を担当していた時には、それこそ休み時間もなくへとへとになったようだ。しかしどこで勉強するのか、いろいろなことをよく知っていて話していても楽しい。休日にはフットサルチームの監督をしたり、最近ではサッカーの審判員の資格も取ったりしている。地域の祭などの行事にも積極的に参加していて、我が息子ではあるが、「世間知らず」とは思えない。
「世間を知る」ということは人によってさまざまだと思う。だから職業によっては、例えば職人などは、日がな一日仕事場で過ごし、世間の雑音などは耳に入らないような人もいるが、それはそれで自分の天職を全うしている姿は尊い。それに反して、まだ20代、30代程度の若さで、さも世間を知っているかのように大きな口を叩き、人を見下したような物の言い方をするのに出会うとうんざりするし、滑稽に思うこともある。
世の中のことは何でも知っているかのように才人ぶってべらべらと饒舌であるよりも、「世間知らず」と言われるほうが「非常識」でない限り苦にすることはないのではないか。