かつてはアメリカ・インディアンと呼ばれていたアメリカ大陸の原住民は今ではネイティブ・アメリカンと言われるようになっていますが、多くの種族があったようです。その中のニューメキシコ州に居住するタオス・プエブロという種族の生活に入り込んで古老が語る言葉を書き留めたナンシー・ウッドという女性がいました。彼女はそれを翻訳して本にまとめて出版し、この本は日本では金関寿夫訳で『今日は死ぬのにもってこいの日』(めるくまーる社1995年刊)という題で出されました。表題になっている散文詩は次のようなものです。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きている物すべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声がわたしの中で合唱している。
総ての美がわたしの目の中で休もうとしてやってきた。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。
ネイティブ・アメリカンは、白人が渡来する以前、古代から広大なアメリカ大陸で自然と共に生きていました。その死生観はその自然の中で作られたもので、前にも別な本でそのことを強く思わされたことがあります。この散文詩も死というものを達観しています。この世に思い遺すことは何もないと言うだけでなく、自分の死に最もふさわしい時をおおらかに受け止めていて、何の未練もありません。それは死というものが生の続きとしてあると考えているからでしょう。
この散文詩を読んで、では私はどうなのかと考えますとまことに頼りないものがあります。家族のことについては何の心配もありませんし、処理する資産というものもありません。いつ死んでもおかしくない年になりましたし、それを恐れる気持ちは今のところないのですが、それでも「今日は死ぬのにもってこいの日だ」と思える境地にはとてもなりませんし、多分そんな日は私にはないのだろうと思います。ネイティブ・アメリカンにしても、白人に圧迫され、住んでいた土地を追われて居留地に押し込められ、生活も大きく白人化した今では、「死ぬのにもってこいの日」はもう失われてしまっているでしょう。文明とは何だろうかと考えさせられます。