「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第36話 突然の作戦会議
中秋の名月まであと3日と迫った日の夕刻。
路上似顔絵師がいつもの時間に、バー「S」が入っているビルの入り口に着く。
「十五夜」と言うから、15日が中秋の名月だろうと勘違いしている人は多い。
実際には毎年9月の中旬から10月上旬の間に、旧暦の8月15日がやってくる。
旧暦と現在の暦の数え方にずれが有るため、毎年、中秋の日は異なる。
「十五夜」は満月のことではない。旧暦の8月15日に見える月のことだ。
旧暦で秋は7~9月となっており、真中の日は8月15日にあたる。
これが「中秋」と呼ばれるようになった由縁だ。
空がもっとも澄みわたる時期だ。月がきわめて明るく美しく見えるため、
平安時代から、観月の宴などが開催されてきた。
江戸時代に入ると宴と秋の収穫を感謝する祭事が合わさり、さらに広まりを見せる。
こうして今日の、「お月見」の原型が形成されてきた。
「そう言えばお月さまも、だいぶ、丸くなってきたな・・・」
夕暮れの空に輝き始めた月へ一瞥をくれてから、似顔絵師が階段をトントンと駆け上がる。
いつもなら照明が入り、廊下も店の前も明るくなっているはずだが、この日は様子が違う。
今日に限り、うす暗いままの空間になっている。
「おかしいな」習慣的にドアノブへ手を伸ばした路上似顔絵師が、
ひらりと下がっている短冊に、ようやくのことで気がつく。
「作戦会議中につき、本日、臨時休業」と、流れるような書体で書いている。
流麗な筆使いだ。マスターの字じゃないぞ、誰が書いたものだろう・・・
「聞いていないぞ、臨時休業なんて」
それでも似顔絵師の手は、躊躇わずにいつものようにドアノブを右へ回す。
カチャリと軽い開錠の音が響いて、ドアが苦も無くふわりと開く。
(なんだよ。開いてるんじゃないか。人騒がせな短冊だな・・・)
ひょいと現れた路上似顔絵を、3つの顔が同じタイミングで一斉に振り返る。
カウンターで、パイプを手にしているバー「S」の老オーナ。
相対する側で、パイプをくわえたまま固まっている「おおきに財団」の理事長。
その向こうに、妙齢と思えるご婦人の着物姿がちらりと見える。
(誰だ、もう一人は?・・・)
「あ。休みだから今日は帰ってもいいぞ」と言いかけた老オーナを、
「おおきに財団」の理事長が、慌てて手で制止した。
「ちょうどええとこに来た。埒のあかない会議でええ加減、腹が減ってきた。
坊主。来たついでや。
いつものすいとんを3人前、急いで作ってくれ。
旨いもんでも食って、ちびっと休憩しようや」
いいから厨房へ入り、さっさと準備しろと理事長が手で合図を送って来る。
(いったい、なんの相談がはじまったんだ。今頃・・・)
いぶかりつつ、似顔絵師がすいとんを作るための準備に取りかかる。
会議が中断したのだろうか。パイプ煙草の煙が厨房にまで立ちこめてきた。
すいとん作りに没頭しているはずの、路上似顔絵師のとりあえずの関心は、
先ほどかすかに見えた着物姿の妙齢のご婦人のことだ。
着物の着こなし振りから、花街の関係者だろうという事は一瞬にして理解した。
だがチラリと見えた横顔に、まったく見覚えはない。
路上似顔絵師の脳裏を、祇園で出会った人たちの顔が忙しく浮かんでは消えていく。
だが記憶の中に、やはり、該当する記憶は浮かんでこない・・・
(あの人はいったい誰だ。やっぱり、まったく初めて見るご婦人のようだな・・・)
すいとんが出来上がるころ、おおきに財団の理事長が厨房に顔を出した。
「お、ドンピシャで出来上がったようだな。
飯は旨いほうがええが、空腹時には、手早う出来ることのほうが御馳走になる。
やっぱり坊主は腕がええ。
絵を書くことより、料理の方におおいに才能が有る。
とワシは思うんのやけど、美人の佳つ乃(かつの)の意見にはさからえんからな。
かまわん、かまわん。ワシが運んでいくさかい」
おおきに財団の理事長は、佳つ乃(かつの)が似顔絵師をバックアップする
という話を、すでに何処かで小耳にしてきたようだ。
五花街を支えるだけあって、情報収集にはまるで地獄のような耳を持っている。
「あそこに来とるのは、置屋、福屋の女将や。
ということは、佳つ乃(かつの)のお母はんという事になる。
あとで挨拶をしておくとええ。
祇園甲部では3本指に入る怖いうえに、祇園町屈指の実力者や。
挨拶をしておいて、あとで損は無い」
第37話につづく
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