前の“ルオー大回顧展”で感想を述べさせていただいた、「葉子」。
カラーではなく、田中さんにティケットと共に頂いていたコピーにあった。それを、更にスキャンして、イメージを少しでも伝え、残して置きたいのでここに登場して頂こう。
(その後、田中さんにこの記事をご報告いたしました。すると早速カラーコピーの「葉子」をお届けくださいましたので、とても有り難く拝見。感謝して、カラーの作品と差し替えますのでご覧ください。)
葉子の鼻の線(すなわちルオーが感じた葉子)は、これで見る限り私の第一印象(前ページ参照)の衝撃感よりは大丈夫!…見られる。
あまりの厚塗りで盛り上がっていて「あらっ! これでは何だか可哀想…」と思ってしまったから少し目をそらせたのかも知れない。
もう少し絵から離れて、きちんと見てあげてなかったことを反省する。
絵具をあれこれ使って色合いが混ざっていたような印象で、日本画のような迷わない色、整った決心の見える線…などとは程遠いもので、自由さ、奔放さ、躍動感が油絵にはある。
その画材・オイルペインティングを扱って描くルオーの絵も、自由さの点でかなり頑張っている。直に絵を観るということは、その絵の作家の息遣いや肌合いまで、近く寄せて貰える感覚があるから、どんなに疲れても、この目で見なければ掴めない何かを探しに、そんなふれあいを楽しく受けるために出かける。
以前見た「ゴッホ展」では、日本に憧れて日本画・版画に学ぶ気持ちがあったゴッホの喜びを見た。ゴッホが広重の「大はしあたけの夕立」を、多分ゴッホにとって斬新な考えたこともない構図に魅せられて、模写している。ゴッホの描いた絵をよく見ると、日本画材の岩絵具が油に混じり添えられて使われていた。油に交えて岩絵具の粒子がキラキラ光っていたのだ。これは画集で見ても判らない。直に絵に目を近づけて判ったこと、発見であった。もともと私はキラキラ光ってさらさら砂のような動きを見せる岩絵具が好きで、日本画を学びたいと思っていたことを思い出した。
ゴッホの気持ちが痛いほどわかった。少しの岩絵具を手に入れることだって大変だったろうと。版画だけではなく、岩絵具まで入手できて模写したゴッホの踊るような嬉しさが手に取れた。
田中さんから頂いたコピーは美術館散歩―出光美術館のページ(←クリック・大きなページが見られます)。タイトルは “自らの作品を愛し続けたルオーが生み出した“溶岩のようなマティエール”
そのコピーに依ると、ルオーは晩年になるほど絵具の厚塗りが極端に厚くなっているという。これ以上盛り上げると絵具の層ごと画面から剥がれ落ちそう…と書いている。
なぜこうなったか?
その一つの理由は、わが子のように愛してやまない自分の作品に対する深い愛情にあった―という。葉子の父君は福島繁太郎。彼はルオーの絵を収集したが、突然訪ねてきたルオーによって「裸婦立像」が、描き直されて、とうとう駄目になった(すっかり違う作品になってしまった)という。
つまり―ルオーにとって作品とは常に気がかりな対象であり、チャンスさえあれば自分の満足のいくとおり何度でも筆を加えたい存在だった―というのである。
(…出光美術館主任学芸員 八波浩一…氏の書いた文を参考にした。)