友人の死を悼む
とまりぎ
連絡が入ったのはとまりぎ幹事からだったが、翌日亡くなった宏さんのお兄さんからも電話があった。
突然のことで皆さんの動揺がわかる。
亡くなった本人と最後に会ったのは、わたらせ渓谷鉄道で足尾銅山の5月一泊旅行だった。
以後、一度も会うこともなく、携帯電話で呼んでみたが出ず、その日に亡くなっていたとのことだった。
マラソンに参加するほどの健康体だと思っていたが、病魔は忍び寄ってきていたのだ。
最初に会ったのは、同じ会社の新入社員のときだった。
職場が離れていたので、たまにしか会うこともなく過ぎていたが、あるとき法政大学の授業へ出るので、一緒に行こうという。
そこで社会の別の世界を見ることになった。ある衝撃と感動を受けたといえる。
人生の転機において、示唆してくれた重要人物なのだ。
税理士資格を取ったのも、会計事務所を開設したのも聞いていた。
お互いに忙しい時期を乗り越えたときに、奥さんが亡くなった。
このままでは、会うこともなく時間が過ぎていくので、「とまりぎ」の旅への参加を要請して、以後今日まで続いてきた。
まだまだ続けることができると思っていたのだが、残念なことだ。
冥福を祈る。
大先輩のナーさんは、一年前はまだ千葉住まいで元気だった。
それで、訪問するという何人かのうちの一人に、井の頭公園周辺の写真を渡してくれるように頼んだ。
まだまだ長生きするだろうと、訪問した何人かが言っていたのだが。
その後も、時々電話がかかってきて、ナーさんとは何度か話をした。
明るい性格だったこともあってか、電話の話は長く、愉快だった。
住まいが離れているから、そう簡単に会うわけにもいかず、元気だろうと思っていたのだが。
そのナーさんが、暮に亡くなってしまった。
旅路2
とまりぎ
中学卒業式が終るや否や、町工場へ勤めることになった。つまり3月中のことだった。
ほかに選ぶ選択肢はなく、ただその道だけが決められていた。
理系、特に弱電関係の興味はあった。興味だけで学んだわけではないから、学ぶためにも何とかその関係へと思っていたが、町工場での仕事は機械関係だった。
広尾から近くの、天現寺橋にその町工場はあった。
その頃の友人が、潮さんだ。潮さんは電気には興味がなく、アルバイトで生活していた。
その潮さんが建設会社の役員から私大の教授になっていった。
潮さんとたまに会って話をするのが楽しかったのは、云うまでもない。
信じあえる友人がいて良かったという想いだ。(潮さんについてはいずれまた)
旅路1
とまりぎ
戦中に伊豆の大島で生れたそうだ。戦時中のことだから大島も危ないので、東京大空襲の最中、船で中央区へ渡った。運良く生き延びて、人形町の菓子屋の二階を借りて住んでいた。
入学した小学校は日本橋東華小学校。わずか一週間ほど通っただけで、渋谷区千駄ヶ谷へ転居した。そこから千駄ヶ谷の生活が始まったのだが、その年の暮れに日本料理の調理師だった父親が病死で、母親と弟との三人の生活になった。この頃は皆が貧しい時代だったから、それほど苦にはならなかった。父親側と母親側の親戚の収入の少ない若い叔父たちが、次々に同居していたこともあったからだろう。
千駄ヶ谷小学校から外苑中学へ通ううちに、中学を卒業したら就職することになった。気のすすまぬ就職だったが、止むを得ない。高校は夜学へ通っていた。恵比寿駅から天現寺橋へ向う途中の渋谷川近くの町工場だ。
金属加工のヤスリを使い、ボール盤を使い、切断機のシャーを使った。時には近くの溶接工場へも行って、溶接や切断、焼鈍しをやってもらってくることもあった。
暑い夏のことだった。切断機を使っている時に機械と材料の間に指を挟まれ、翌日工場近くの広尾病院で右手人差し指の爪をとることになった。その後もしばらく爪が生えきるまで、指には力が入らなかった。
元気ですか
とまりぎ
今年は訃報が多かった。
急に寒くなったこともあるのか、暮れが近づいて増えたような気がする。
長生きだった長老は戦友が次々に亡くなっていき、取り残されたような気になっていたのか「長く生きることが良いのか悪いのか」と常々言っていたが。
杖が必要になって、外出することがおっくうになっていたようだった。歩かなくなると、衰えは急加速する。
93歳で暮に亡くなってしまった。
茨城県境町
とまりぎ
叔母が亡くなったとの連絡あり、通夜と告別式へ参列のために東武動物公園駅で降りる。
駅前のバス停に立つ。ドトールコーヒーの並びにパトカーが停まっている。
駅前交番ができている。地名では杉戸だったので、昔は杉戸駅だったのだが東武動物公園という名前に変わって、もう数十年になる。
バスは江戸川を越え、埼玉県から千葉県へ入る。
観光のために再建された関宿城がある。中には博物館があって、関宿が関東の要衝であったことを展示説明している。
次に利根川を越えると、茨城県へ入る。関宿城の先で江戸川と利根川は分流していて、流れは利根川の方が大きい。
堺町はもうすぐだ。
東京からの距離はそう遠くはない。 だが、電車が近くにないことと、新しく建設した圏央道が遠く北を通るために、交通不便で陸の孤島だ。
この地で子、孫を育てて91歳まで生きた。外へ出て行った親戚が集るたびに、蕎麦を打ってくれたことを思い出す。
茨城訛のわかり辛い話も、今はなつかしい。
浴風園
とまりぎ
環八を通る関東バスの停留所には、「浴風園」の名がある。
社会福祉法人 浴風会が全体の名前のようだ。
中では細かく分かれていて、南陽園、第二南陽園、第三南陽園、南陽園在宅サービス、第二南陽園在宅サービス、グループホームひまわり、地域包括支援センター、居宅介護支援事業所、ヘルパーステーション、浴風園、松風園、ケアハウス、認知症介護研究研修東京センター、ケアスクール、本部、浴風会病院とある。
病院もあるので、このような施設へ入ることができれば家族も安心だ。
広いから樹が多く、静かだ。
まだ建設の予定があるようだ。
松風園の入口。
広いから、入口があちこちにある。
亡くなった遠藤博先生がバスをここで降りたことがあった。
趣味の絵画教室を遠藤伯として、ここでやっていたとしても不思議ではない。
脳梗塞や、痴呆症、怪我によって自由に動けない人たちのリハビリのひとつとして。
神様のカルテ
とまりぎ
8月末から映画が公開されている。
舞台は信州松本だ。
しかも読んだのは文庫本だ。
ということは、すでに2009年第十回小学館文庫小説賞を受賞しているし、2010年本屋大賞第二位とも帯に書いてある。
さらに、「神様のカルテ2」が出ているようだ。
たしかに、医療現場に従事している医師が書いているとすれば、私小説的にシリーズができるのかもしれない。
作者は夏目漱石の作品が好きなようで、あの独特の文体を似せているというか、実際に似ているところが多い。
そのことが案外新鮮に見えるのかもしれない。
出生と死亡
とまりぎ
6月2日の日経新聞によると、2010年の合計特殊出生率(一人の女性が生涯に生むとされる子供の人数)は1.39だった。
2009年の出生率は1.37であったから、若干上昇した。(上昇は二年ぶり)
出生数から死亡数を引いた自然増加減数はマイナス12万6千人となり、4年連続で人口は減少した。
死亡者数については、119万7066人で、前年より5万5201人増加。
死因別では「がん」が35万3318人(29.5%)でトップ。
その部位別では男性は肺がんが5万369人で最も多く、胃がんが3万2928人、大腸がん2万3914人。
女性は大腸がんが2万314人、肺がん1万9409人、胃がん1万7185人の順だった。
全体で二番目に多い死因は心疾患で18万9192人(15.8%)、ついで脳血管疾患の12万3393人(10.3%)で、三大死因で全死因の55.6%になり半数を超えている。
いま手塚治虫のブッダが上映中だ。
ブッダの時代から「生老病死」について説いていて、現代仏教にも受け継がれている。
親が二人いて、その親が四人いて、十代遡るだけでその世代の祖先は1024人になる。
夫婦が子供を二人生んだとすれば、同じく十代後には子孫は1024人だ。
その流れの中心に、自分が今ひとりいるのだと考える。この世に生れてきた意味は深い。
そこへ現代は、人口減少が重くのしかかってきた。
ロハス・メディカル4月号
とまりぎ
社会福祉士熊田梨恵氏の「初めての介護保険」を前月号に続いて見る。
高齢者向け施設の特徴を紹介している。
1.特別養護老人ホーム(特養)
常に介護を必要とし、在宅での生活が難しい人が対象。
市区町村の役場が受け付けていて、都市では待機者が多いので入所待ちになることが多い。
2.介護老人保健施設(老健)
在宅復帰を目的に、リハビリテーション中心の施設。
期間は半年程度が目安。
特養の入所待ちをする待機者もいる。
3.介護療養型医療施設
病院や診療所に併設され、長期医療を必要とする人が利用する。
以上が介護認定を受けている人が入所できる。
そのほか有料老人ホーム、グループホーム、軽費老人ホーム、シルバーハウジング、グループリビング、生活支援ハウス、養護老人ホームなどについて説明している。
4月6日の日経新聞では、東京都の2009年時点で要介護認定を受けている人は約41万人。これが2025年には7割以上増えて72万人になると推計されている。
これに対して、すでに介護の施設や人材は不足しているという。
自力で動けない老人には、厳しい現実が待っている。生きていくのもなかなか大変だ。
ロハスメディカル3月号
とまりぎ
医療機関で無料配布しているロハスメディカルの3月号を見た。
「初めての介護保険」を社会福祉士熊田梨恵氏が解説している。
介護の問題は突然やってくるので、事前情報として知っておくに越したことはない。
まず介護認定を受けているかどうか。
[1] 受けているならば、
1)終の棲家として生活でき、一般的な介護を受けられることを望むならば、
特別養護老人ホーム、介護老人保健施設、ケアハウス、シルバーハウジングなどを選択する。
経済状態に余裕があるなら、有料老人ホーム、高齢者専用住宅、高齢者向け優良賃貸住宅なども選択肢に入る。
2)在宅復帰のためのリハビリ機能を望むならば、
介護老人保健施設。
3)医療依存度が高い場合、医師のもとでの医学的管理を望むならば、
介護療養型医療施設、(介護老人保健施設)。
4)認知症だが体は元気なので、楽しく生活することを望むならば、
グループホーム、(優良老人ホーム)、(ケアハウス)。
[2]介護認定を受けていない場合は費用がかかるが、早めに施設へ住むことを希望する場合、賃貸月払い方式と終身利用権方式がある。
60歳以上ならば、軽費老人ホーム、ケアハウス、生活支援ハウスなどがある。
費用負担が大きいが、高齢者専用賃貸住宅、高齢者向け有料賃貸住宅などもある。
終身利用権方式の場合、有料老人ホームがある。
特別養護老人ホームは「特養」といわれ、市区町村が窓口になり、比較的安い。
介護老人保健施設は「老健」といわれ、それぞれ直接申し込みを行わなければならない。期間は半年程度の入所が目安。
有料老人ホームは入所金が高額なところもあり、それぞれ内容にちがいがあることに注意。
家族のだれかが病気や怪我で入院し、介護認定を受けた場合には戸惑うことが多い。事前に知っておくと、あわてないで対処できる。
連帯保証
とまりぎ
1月6日の日経新聞に、「連帯保証 経営者に限定」と題し、金融庁は中小企業向け融資で、原則として連帯保証の対象を経営者本人に限定する方針だ。
こんなことはあたりまえなのだが未だにできていなかったとは、金融機関の中小企業への貸付がいかに厳しいかを感じさせられる記事だ。
株式上場していない会社は連帯保証が借入の条件になっている。
思い出すのが5年ほど前のことだ。友人で中小企業の社長が、客先が倒産したことによって売上金の回収ができなくなり、連鎖倒産になった。
結果として、彼は自己破産手続により個人資産のすべてを失った。
現在、タクシーの運転を仕事として元気でやっている。
都立水元公園
とまりぎ
最初に水元公園のことを聞いたのは、マロニエの先生からだった。そのときは住んでいるところから近くに広い公園があるということぐらいしか聞いていなかったものだったから、たいして記憶に残らなかったのだが。旅行先のパリで亡くなったのが平成9年の初秋のこと、戦前生まれの62歳だった。その5年ほど前に台東区へ移り住んでいたから、もっと前に聞いたことになる。ということは20年ほど前のことだったのかもしれない。
車の運転免許がなかったこともその一因であったかもしれない。平成7年に運転免許を取得して運転に慣れてきたころ、一度だけ昼食に蕎麦屋へお連れしたことがあったぐらいだ。先生は若いころから運転してきたので、免許証には自動二輪も運転できることになっていた。昔の人にはそういう人が多い。だが車以外は運転したことは無かったそうだ。
その水元公園へ最初に行ったのは、先生が亡くなってしばらく時間経過したころ、新聞に紹介記事があったのがきっかけだった。都立公園なので淡水魚と水草についての東京都の水産試験場があって、一部は中へ入ることができなかった。それが他へ移転していったものだから、現在はたいへん広い公園が、ずいぶん見通しよくなった。
東京都のはずれにあって、大きな池の向うには埼玉県のみさと公園が見え、これも公園が大きく見える一因になっている。池のはずれの方には、橋でみさとへ行き来できるようになっている。池の真ん中あたりには魚釣りの人たちがいる。小合溜というこのあたりを、むかしの案内書でみると釣仙郷といったところでもある。水の流れの上流には蓮、コウホネや睡蓮が広大に水面を覆っていて、また池に向ってバードウォッチングできるところが三ヶ所ほどある。みさと公園にも同じような設備がある。そのほかにもこの公園ならではというところがいくつもあって、季節を問わず楽しめるところだ。
マロニエの先生は若いころ肺結核を患ったから、ながい病院生活の時代があったそうだ。そのため、身に降りかかる危険を避ける慎重さがあった。その一方で、短い一生を楽しむことにも貪欲だった。肝臓が丈夫にできているからと、酒の席にはよく同席させていただいた。そういうときには過去の女性関係についての嫌みのない話も多かった。
しかし亡くなるのは本人の予測どおり、肺結核手術により片肺であったことが原因で、無理をした海外旅行中に、肺炎が直接の死因になったことはたいへん残念なことであった。水元公園という名前が出ると、思い出すは普通の人より息つぎの回数が多く、歌える曲が限られていたせいか、“マロニエの木陰”をよく選んでいたことである。 (命日を前にして)
『彼方遠く 君は去りて
わが胸に 残る痛みよ
想いでの マロニエの木陰に
ひとり佇めば 尽きぬ想いに
今日も溢るる 熱き涙よ』
(作詞:坂口淳、作曲:細川潤一、編曲:江口浩司、歌:松島詩子)