なかなか近寄りがたいところだが、将棋会館の存在は知っていた。
結局、未だに一度も入ったことがない。
将棋関係のみやげ物だけでも、見に入ってもいいところなのだが。
最近、千駄ヶ谷へ行くことがなくなってしまった。同窓会の集る場所だったプロローグのママが引退してしまったからなのだ。
残念。
なかなか近寄りがたいところだが、将棋会館の存在は知っていた。
結局、未だに一度も入ったことがない。
将棋関係のみやげ物だけでも、見に入ってもいいところなのだが。
最近、千駄ヶ谷へ行くことがなくなってしまった。同窓会の集る場所だったプロローグのママが引退してしまったからなのだ。
残念。
仙川を渡ることは多い。
このころはもう暖かくなっていたようだ。
羽田ーお台場を船で
とまりぎ
日経新聞に下記のように出ている。
海を渡って羽田へアクセス。旅客船運営のケーエムシーコーポレーション(横浜市)は、羽田空港と横浜市のみなとみらい(MM)21地区、東京・お台場を結ぶチャーター船の運航を始める。
飛行機の離着陸を真下から眺められることや、京浜臨海部の工場群の景色が売り物。熊沢喜一郎社長は「羽田空港周辺の観光資源を掘り起こし、国内外の観光客の需要を取り込みたい」と話す。
羽田ーお台場は6月から始める。
子供の頃の遊び場だ。
富士山から持ってきた溶岩を積み上げているから、ちょっと痛い。
触らないように登ったものだった。
あの頃の仲間は、この近辺から消えた。
同窓会で顔をあわせると、まだこのあたりに住んでいるような錯覚を覚える。
去年はまだ梅の時期だったようだ。
同じ梅の木は、今年完全に花びらを散らしきった。
去年は寒く、今年は寒かったのが急に暖かくなったということか。
神代植物園のすぐ北にある。
去年は、まだ梅が咲いていたんだ。
この近くにKさんが住んでいたのだが、亡くなってしまった。
会津出身で、次男坊だったからか、気楽に東京へ出てきていた。
一緒に仕事をした期間が一年半ほどだっただろうか。教えられることが多かった。
環境が変ってからも、たまに会ったことがあったのだが。
旅路1
とまりぎ
戦中に伊豆の大島で生れたそうだ。戦時中のことだから大島も危ないので、東京大空襲の最中、船で中央区へ渡った。運良く生き延びて、人形町の菓子屋の二階を借りて住んでいた。
入学した小学校は日本橋東華小学校。わずか一週間ほど通っただけで、渋谷区千駄ヶ谷へ転居した。そこから千駄ヶ谷の生活が始まったのだが、その年の暮れに日本料理の調理師だった父親が病死で、母親と弟との三人の生活になった。この頃は皆が貧しい時代だったから、それほど苦にはならなかった。父親側と母親側の親戚の収入の少ない若い叔父たちが、次々に同居していたこともあったからだろう。
千駄ヶ谷小学校から外苑中学へ通ううちに、中学を卒業したら就職することになった。気のすすまぬ就職だったが、止むを得ない。高校は夜学へ通っていた。恵比寿駅から天現寺橋へ向う途中の渋谷川近くの町工場だ。
金属加工のヤスリを使い、ボール盤を使い、切断機のシャーを使った。時には近くの溶接工場へも行って、溶接や切断、焼鈍しをやってもらってくることもあった。
暑い夏のことだった。切断機を使っている時に機械と材料の間に指を挟まれ、翌日工場近くの広尾病院で右手人差し指の爪をとることになった。その後もしばらく爪が生えきるまで、指には力が入らなかった。
調布にはBigBoyとガストが近くにあって、競合状態になっている。
どちらも力が入っているから、客が多い。
甲乙つけがたい。
路線バスの無線LANを使っている人を、見ない。
乗る時間が短いこともあるだろうし、「優先席付近では」という心配もあるのだろう。
狭い車内のことだから、皆さん気を使っているようだ。
横浜の中では、元町がいいところかもしれない。
南には山手の外人墓地があり、さらに南へ行けば本牧の三渓園がある。
北には関内から伊勢佐木町へも近い。
なかなかいい場所にある。
横浜へよく行っていたんだな。
小さな公園だが横浜球場の北側にあって、人通りが多い。
中華街のすぐ近くだ。
梅の花が咲いているから、今年よりも寒かったようだ。