@「知謀と先見力」 政宗に仕えた片倉小十郎と家康の子紀伊城主頼宣に仕えた安藤帯刀は、まさに命をかけ支え続けた参謀・懐刀であった。現代でも「参謀」たるものの資格とはこの知謀・先見力(知識・情報・分析・行動)である。 更に「時」を読み「素早い判断から行動」をとることが必要とされている。 上司に信頼される部下は更に「行動判断力と実績」だと言ってもいい。言葉だけの理論武装者は「忠臣」(参謀)にはなれない。
『身命を惜しまず』津本陽
伊達政宗の知謀と先見力を備えた片倉小十郎、父は信州伊那郡から政宗の祖父晴宗に仕え1千石、母は勇猛な武将の出身の妻、小姓として米沢城に出仕。小十郎を支えたのは母の姉、喜多で梵天丸の乳母であった。漢学、兵法、武芸鍛錬に励み梵天丸、後の政宗に仕える。伊達家は奥州で蘆名と並ぶ豪族で周りの衆と争いが絶えない地域(相馬氏、田村氏、畠山氏、蘆名氏など)であった。 政宗の父、伊達輝宗を支えたのが遠藤基信で、梵天丸の病気で痛む片目をくり抜いたのは小十郎で、その時以来小十郎は政宗に信頼を寄せ、終生仕えることになる。 政宗の言葉「小十郎は俺にとって闇夜の灯明だ。あれがそばにいるので俺は謀殺にもかけられずにすむのじゃ」。小十郎は常に腕利きの忍者4-50人から周辺の豪族情報を入れ込み戦に備えて戦った。数々の戦いから、特に蘆名氏との戦の勝利で陸奥国54郡、出羽国12郡を制覇し百数十万石の大領主となる。
徳川家康の重臣安藤帯刀は三河出で安祥譜代衆、身長182cm、剛膽で筋骨、剣、槍、鉄砲、格闘技など武勇に優れた。様々な合戦があったが中でも長久手の戦いで池田勢9千人、池田恒興、紀伊の守を討ち取った手柄が大きい。 その後家康の第10子、頼宣の傅役をとなった。頼宣は世間知らずの暴れ者で、短気な性格は、百姓を試し斬りしたり、小姓の顔立ちに苛立ち刀を振い殺害したり、紀州の城を勝手に修復するなど家康の反感を買う度に帯刀が決死の仲介役となり治めた。「我が主人紀伊殿に逆意があるならば、直ちに大阪の城を奪い取って入り申す。和歌山などの狭き城に篭城いたしてはなんともなりませぬ」と幕府幕閣を納得させた。 また、事あるごとに家康に報告していた。帯刀は家来たちを愛し、罪を犯した時もその事情を詳しく調べ、資材に処すべきものを許し、寛大な心情の持ち主であった。
- 「武士道」=気質、「恩の死はせねど、情の死はする」恩とは俸給で、侍は武勇に優れ、軍勢の指導能力のあるものは高給で召抱えられる、が雇い主が武運なく破滅の段階に至るとさっさと逃げるか敵方に寝返ることが頻繁にあった。また、「忠孝」、互いに気が合い、深い感情の絆で結び合っている家来は打算を捨て主人とともに最後まで戦って死んだ。
- 歴史の記録は3分の1が事実で3分の1が似たことがあった程度、残りの3分の1は嘘だという(大久保彦左衛門の著書「三河物語」)
- 浄土真宗「欣求浄土、厭離穢土」(進むものは往生極楽、退くものは無間地獄)
- 徳川家康、松平家の家訓は決して首位に立たず、ナンバー2の地位を保つこと
- 日本刀の切れ味は世界無比である、それは島根県、安来が産出する玉鋼(砂鉄)である