山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。
(目次)
□第1章 「神の子」になる
□第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
□第4章 暴かれた嘘
■第5章 悪夢は消えた
■あとがき
霊感商法に励むのはまじめだからこそ
統一教会の根っこと幹は明らかに腐っている。このままいけば、枝や葉にも毒素がまわるか、枯れ果てるか、もしくは切り倒されるだけである。
外部からのお金集めが困難になれば、あとは信者に頼るしかない。信者の借金は膨らむ一方であろう。ノルマを達成できずに精神に異常をきたした教会員は、早々に家に帰らせるという。それまでは、どんなに親が「娘に会わせてくれ」と訴えても、名前まで変えて地方を転々とさせておいて、使えなくなったら教会から追いだす。そういう人を見捨てるのが、統一教会の愛なのだろうか。
もし統一原理が真理であるとするならば、堂々と牧師さんと話をしてほしい。
逃げなきゃ守れない信仰や、必死でしがみついていなければ貫けない信仰は、やっぱりおかしい。
そして統一原理が正しければ、霊感商法もニセ募金も正しいことであるはずだ。だとしたら統一教会は、それらすべてを統一教会でやっていると明言すべきである。それが救いなんだと訴えるべきだ。
私は以前、幹部に、「どうして経済活動が統一教会とまったく関係ないというんですか。統一原理からすれば正しいことではないんですか」と質問したことがある。
その時の答えは、「そう認めたいんだけど、裁判がからんでいるから」ということだった。霊感商法の裁判がいくつも進行中なのである。
そう言われると、統一教会のマイナスになることは、やはりできないんだと納得せざるを得なかった。
しかし、その裁判の被告は、すべて統一教会の一信者である。アベルの指示により、統一原理にのっとって霊感商法(本人たちはただの経済活動だと思っている)をしているのである。
「霊感商法をやめないと、それにかかわっていないまじめな信者さんがかわいそう」と思う人もいるようだが、それは違う。まじめな信者だからこそ、まじめに霊感商法をやっているのである。
この世の常識に惑わされて、それを行わないことは、神の摂理を遅らせることになるのだから。
統一教会は絶対に表に出ない。前面に立たない。都合の悪いことは、すべて信者の責任にする「トカゲのしっぽ切り」みたいなことは、素晴らしい宗教のやることではない。
今、生かされていることに感謝する
現在の私は、神を信じていないわけではない。私たちには計り知ることのできない、大きなエネルギーがあるのではないかという想いは、統一原理を学ぶ以前と変わらない。
ただ、統一教会で教えられた“神”の存在とはまったく違うものである。献金をすること、儀式をすることは、私にとっては無意味なものとなった。お金や儀式、形式が大切なのではなく、自分が今こうして生かされているのを感謝することが大切なのだと思う。
そして、占いはもうまっぴらごめん。変な因縁話もいらない。霊界があるかないかは誰にもわからないことだ。先祖をうやまう気持ちはあったとしても、そんな見えない霊界、わからない霊界のために、心を縛られたくはない。
統一教会が言うように、脱会したら地獄へ堕ちるというのなら、私は喜んで地獄へ行こう。人をだまして天国へ行くより、だますことなく地獄へ行った方がましだ。
人をだますこともよしとする“神”など、私はいらない。
この一年あまりのことを、何度も忘れたいと思った。消せるものなら消し去りたいと。世の中に、こんなバカはいないと自分で自分を笑った。
でも今は、決して忘れてはいけないことだと思っている。人生勉強というには、あまりにもみんなに迷惑をかけすぎ、多くの人を傷つけてしまった。私のせいで、どれほど多くの人の人生を狂わせてしまったのだろう。実際に、私が統一教会は素晴らしいと証をしたために、今もまだ、その時の言葉を胸に、一生懸命神のため、メシアのためと歩んでいる人たちがたくさんいるのである。そのことを思うと、心が痛む。だから、この過ちを決して忘れることなく、歩んでいかなければと思う。
私は今、素晴らしい人たちに囲まれて、本当に幸せである。何の宗教を信じていなくても、あふれるような愛を持ち、温かくやさしく強い人たちが、たくさんいることを改めて感じている。そんな仲間たちと、苦しみを乗り越えながら、共に人生を語り合えることに感謝している。
これから、与えられた人生を自分自身でひとつひとつ模索しながら、自分に正直に生きていきたいと思う。ありのままの現実を真っ正面から受け止めて、そしてまた切り開いていきたいと思っている。
ずいぶん回り道をしてしまった。しかし、今までも何度も回り道をし、立ち止まり、倒れながらも、またはい上がり、歩いてきた。だから今度もきっと歩いていけると思う。
今、私は心が解放され、やっと心の底から笑うことができる。
本来の自分と、統一教会員である自分の、「二人の私」の間でゆれ動くこともない。本心を押し殺したまま、歩んでいく必要もない。
一人の人間として生かされている----この幸せを胸に、力強く一歩を歩きだしたところである。
■あとがき
あれから一年がたった。
連日のようにワイドショーや新聞、雑誌に顔を出し、取り沙汰されていた日々から解放され、やっと平穏な毎日を手にした私にとって、この本を書くことは、自分で自分の首を締めるものではないかとも思われた。
できれば、人々の記憶からも自分の記憶からも、早く消えてほしいと思っていたからだ。
けれど、この過ちをきちんと認めなければ、再出発できないと思った。なぜ、私は「統一教会」という迷宮に引きこまれ、自分をなくしていったのかを、再度考えてみたいと思った。これから薄れていくであろう記憶を、しっかりと留めておかなければならないと思った。
誰よりも、自分への戒めのために、心の解放のために、ひとつひとつの記憶をたどりながら、書きつづることにした。
そして、こうして書き終えた今、私の中に本当に温かな穏やかな、それでいて強い希望の光が与えられた。
ただ、これで問題のすべてが解決したわけではない。統一教会が起こす社会悪がなくなったわけでもなければ、それによって苦しむ人がいなくなったわけでもない。依然として多くの問題が残されたままなのである。
この本を読んで、一人でも多くの統一教会員が自分を振り返ってくれれば……と願っているが、その願いがおそらく無駄に終わるだろうということもわかっている。それほどに、一人の人間が「自分」を取り戻すことは、容易なことではない。
だからこそ、私を心の呪縛から解き放ってくださった牧師さんや、キリスト教関係者の方々、元信者の方々、そしてご協力いただいた多くの方々の、みかえりを求めない愛に対して、感謝せずにはいられない。また、身内ではあるが、支援してくださった親戚の方々、兄や姉に、ここで改めてお礼を言いたい。
皆様に対して、「ありがとう」という言葉をいくつ並べても、その想いを伝えるには十分ではない。だから、これからも自分を大切に、力強く生きていくことで、感謝の言葉にかえたい。
1994年2月
山崎浩子
【解説】
第5章では、洗脳が解けた山崎浩子さんが、統一教会の間違いを冷静に分析しています。
「あとがき」で、山崎浩子さんはこう書いています。
誰よりも、自分への戒めのために、心の解放のために、ひとつひとつの記憶をたどりながら、書きつづることにした。
そして、こうして書き終えた今、私の中に本当に温かな穏やかな、それでいて強い希望の光が与えられた。
そして、多くの人がこの本を読むことを望んでいます。
獅子風蓮