11月27日、個人的に大好きなレスラーだった、マイティ井上さんがお亡くなりになった。
【私的プロレススーパースター列伝】第2弾は、僭越ながら井上さんを追悼すべく、
マスコミがあまり報じておらず、Wikipediaなどにも記されていない実績や戦歴、私個人の思い出などを語らせていただく。
いつものプロレスブログと同様、選手は基本敬称略とする。また、単なる素人のプロレス好きゆえの事実誤認、
さらには井上さん及び関係者に対し、失礼な表現もあるだろうが、どうかお許しいただきたい。
こちらはベースボール・マガジン社のサイトからスクショで借りた、全盛期のマイティ井上の勇姿。
(C)BBM
上記画像は、当時所属していた国際プロレスのチャンピオン時代であろう。
身長183cm、体重105kgと、昭和時代の国内外のトップ選手との比較では、サイズはやや小柄ながら、
欧州など世界中で習得した多彩なテクニックや、格上や巨漢相手にもひるまない、闘志剥き出しのファイトで奮闘。
国際プロレス崩壊後は、全日本プロレスに移籍したが、全盛期を過ぎてもなお、気性の激しさは健在であった。
ちなみにWikipediaでは、井上の身長は175cmとされているが、食べログと同様、ウィキも信用していない拙ブログでは、
下記の全日本プロレス・パンフレットや、当時の雑誌などに掲載されていた、183cmのデータを採用する。
1988年3月の日本武道館大会で購入した、上記パンフ内で井上は、1/3ページで紹介されていた。
ニックネームは「技巧派の魔術師」らしいが、「燃える闘魂」や「東洋の巨人」ほどの知名度はなかった。
その後、全日本のパンフ名称は「テクニカルソルジャー」に変更されたが、そう呼んでいたファンは少ないと思われる。
また、「和製マットの魔術師・マイティ井上さん死去」なんて訃報もあったが、和製マット~は、同タイプ寺西勇の別称のはず。
井上の愛称はやはり「マイティ」であり、しいて付けるとしたら、「サマーソルトドロップ」か。
井上の得意技かつ代名詞でもあるサマーソルト~は、「サンセットフリップ」という別名もあり、
仰向けにした相手に向かい、少し離れた場所からダッシュし、前転宙返りで背中から落ち、相手を押し潰す荒技で、
回転する直前、右手を縦にグルグル回しながら「アアア~!!」と大声で叫ぶため、会場は毎回沸いたものだった。
上記画像はたしか、東スポサイトから拝借。コーナーに控えている寺西の表情もいいね!
現役時代末期は、試合の流れに関係なく繰り出すこともあったが、全盛期は何度も3カウントを奪っている。
シュミット式バックブリーカーとは反対に、持ち上げた相手の背中ではなくお腹を、自身が立てた膝の上に落とす、
ストマックバスター(ストマックブロックともいう)を決めたあと、サマーソルトで相手の腹部にさらにダメージを与えるのが、
「井上の殺人フルコースだった」と、プロレス評論家の流智美氏が紹介していた。殺人フルコースって、懐かしい響きだね。
さきほどのパンフ画像に戻るが、「前アジア・タッグ選手権者」と記されているように、
パンフ販売の数日前まで、井上は石川敬士とのコンビで第44代アジアタッグ王者であった。
サムソン冬木&川田利明のフットルースが2度挑戦するも、井上組が2連勝。
すると、フットルースが「チーム解散」だか「天龍同盟離脱」を賭けて挑戦直訴したらしく、3度目の選手権試合では案の定、井上組が王座転落。
当時、フットルースの熱狂的なファンなんて少なかったはずなので、解散なんて口にされてもシラケるだけであった。
ちなみに、84年の大仁田厚は、「負けたら引退」と宣言して臨んだ試合で、本当に敗退。
記念すべき(?)1度目の引退となったのだが、その相手こそ、マイティ井上であった。
翌月、井上&石川組は、新王者のフットルースに挑戦するも、たしかレフェリーのミスがあり、王座奪還ならず。
その後、石川も井上もアジアタッグ挑戦機会は与えられず、それが直接の原因ではないが、石川は年末に全日本を退団した。
なお、井上は石川と2回、阿修羅原とは1回、国際時代にもアニマル浜口とのコンビで、計4回アジアタッグ王者に君臨。
原とのコンビは、7度の防衛を重ねたが、84年に「井上がジュニアヘビー挑戦に備えるため」という理由で返上するハメに。
よくわからないが、当時の全日本は、「アジアタッグはジュニアの選手は不可」のような不文律があったのかね。
ヘビー級だった井上が、減量してまで挑戦した(させられた)のが、NWAインタジュニアヘビー級のベルト。
王者チャボ・ゲレロには、大仁田や渕正信らが何度か挑戦したが歯が立たず、井上に頼らざるを得なくなった模様。
井上は見事ベルトを奪い、その後は先述した引退を賭けた大仁田や、ゲレロを破って6度の防衛を果たし、
翌85年、7度目の防衛戦でダイナマイト・キッドに敗れると、以降はリターンマッチの権利すら与えられず。
数年後、世界ジュニアヘビー級と名称を変えたベルトは、87年には渕が王者となるも、89年1月にジョー・マレンコに完敗。
その5日後、マレンコは大阪府立体育会館で防衛戦を行なうのだが、挑戦者の白羽の矢が立ったのが、地元の井上だった。
キッド相手に王座転落して以来、約3年半ぶりのジュニア挑戦ゆえ、唐突だった感は否めないが、井上はマレンコの関節技にもわたり合った。
最後はバックを奪った井上が、くるっとマレンコを一回転させ、自身の両足で相手の足をフックし、気付けば3カウントが入っていた。
不可解な説明になってしまったが、観ていた私もよくわからなかったし、記憶も薄れているので仕方ない。
試合後の井上は、「あれは(ビル・)ロビンソンが使っていた固め技」とコメント。決まり手は「欧州式変形エビ固め」…だったかな?
いずれにしても、井上の豊富なキャリアと、卓越したテクニックが実証された好試合であったが、
その後、渕に敗れ世界ジュニア王座から転落すると、以降はまたまた、ベルト挑戦権は与えられず。
連日、前座で若手や二流外国人の相手をさせられる日々に、井上ファンの私は憤慨したものである。
ちょっと文章が続いたので、ブレイクタイム。
こちらは、以前ここで紹介した、井上さんとの記念撮影画像。
2014年、お台場でのプロレストークイベント&その後の打ち上げ的飲み会に、井上さんがゲストで来ると聞き、
私も当然のように参加し、飲み会では図々しくも乾杯させていただき、さらに記念撮影やサインまでお願いしたのであった。
※お台場でいただいた、井上さんの記事が載ったムック本へのサイン
ハナシは戻って。1989年3月の王座転落以降、前座で燻っていた井上に、再度スポットが当たったのが翌90年の1月。
全日本正規軍と天龍同盟の抗争が激化し、苛立った天龍源一郎が、正規軍セコンドの渕や井上にも攻撃を加える。
無論、井上もやられっ放しではなく、「ならやったろうやないか」(本人談)と、臆することなく正式に対戦を表明。
ジュニア、外様、ベテラン(=井上はすべて該当)を軽視しがちな全日本プロレスだが、このときは珍しく井上の希望が承諾され、
TV中継のある会場のメインとして、井上組と天龍組の6人タッグがマッチメークされた。
このシリーズでの井上は、第3試合あたりでボビー・フルトン&トミー・ロジャースのザ・ファンタスティックスに負けるなど冴えず、
冒頭の画像、若草色のガウンを着ていた国際プロレス時代と比べると、筋肉が落ちてしまった現状で、
エース格ヘビー級レスラーとの対戦、しかも妥協をしない天龍が相手ゆえ、正直不安になったものだった。
試合が行われたのは1月25日、福島県の郡山セントラルホール。
カードはジャンボ鶴田、ザ・グレート・カブキ、マイティ井上-天龍源一郎、川田利明、サムソン冬木の60分1本勝負。
正規軍は私が支持する3人が、(たぶん)初のトリオ結成も、近年の実績や体格で見劣る井上が、最後はやられるだろうと覚悟していた。
結果を先に書いてしまうと、
1月25日 90新春ジャイアントシリーズ第17戦 第9試合 6人タッグマッチ60分1本勝負
ジャンボ鶴田 ザ・グレート・カブキ ○マイティ井上 21分20秒 リングアウト
×天龍源一郎 川田利明 サムソン冬木 ※場外の天龍に井上がフライングショルダータックル
なんと、予想に反し井上が天龍に勝ったのである!
試合中の井上は、体格差ある天龍の強烈な攻めや、川田・冬木の若さに圧倒されるも、素早い動きと飛び技で応戦。
鶴田やカブキのアシストもあり、コーナーにもたれる天龍に鉄拳制裁する場面もあった。
天龍を殴りつける井上の姿には、国際プロレスのチャンピオンだった意地、欧州など世界中でレスリングを学んだ誇り、
全日本移籍後、外様ゆえ不遇な扱いを受けたことへの怒りなど、いろんな感情が見て取れた。すべて私の勝手な妄想だが。
最後のタックルは魂のこもった一撃で、実況の倉持隆夫アナも、解説のジャイアント馬場も大絶賛。
この試合を観たい方は、「1990 01 25 Inoue Tenryu」でネット検索すると、動画にヒットするはず。
私もさっき、久しぶりに視聴したが、結果はわかっているのに、興奮かつ涙ちょちょぎれ状態だ。
国際プロレス時代を知らない私にとっては、この6人タッグこそ、マイティ井上のベストバウトである。
先述した、井上さんと記念撮影してもらったお台場では当然、この6人タッグの感想を聞いた。
私が「90年の正月シリーズで、メインで初めて天龍組と対戦したときの試合…」と質問し始めたところ、
井上さんは私の言葉を遮り、「おお、あの郡山の試合な。あれは天龍から(リングアウト勝ちを)獲ったもんなあ」と即答。
恥ずかしながら、私は会場が郡山だったことを忘れていたのだが、1967年にデビューし、2010年のレフェリー引退まで、
40年を超えるプロレス人生で、何万試合も経験してきたはずの井上さんは、試合結果だけでなく会場もしっかり記憶していた。
井上さんにとっても、「全日時代では、あの試合が一番印象に残ってるわなあ」と語ってくれて、私も嬉しかったよ。
天龍同盟との抗争が始まり、冬木や川田からピンフォールを奪うなど、完全に息を吹き返した印象の井上だったが、
数ヶ月後に天龍が全日本プロレスを離脱。カブキも天龍に追随し、井上は再び前座生活に戻ったことで、私のプロレス熱も少し冷めた。
それから数年後、いつだったかは忘れたが、ダニー・クロファットがジュニア王者の時代に、
「井上がクロファットに挑戦表明!?」という記事を、週刊プロレスで見かけた記憶があるが、結局、王座再挑戦は実現せず。
数年後、井上はレスラーを引退しレフェリーに転向。全日本からノアに移籍し、先述したように2010年にプロレス界に別れを告げた。
※デイリーのサイトより拝借
その後も、昭和プロレスの貴重な証人として、インタビューや取材をこなし、トークイベントなどにも精力的に参加。
亡くなる1ヶ月前にも、水道橋でのイベントに出演なさっていたそうだ。
私が井上さんとお会いできたのは、14年のお台場と、19年に巣鴨のプロレスショップ『闘道館』で開催された、
「マイティ井上 対 渕正信 トークライブ&サイン撮影会 -全日本ジュニア戦線の舞台裏-」の2回。
巣鴨では、特別参加したカブキさんと3人で、全日本時代のことを懐かしそうに語っていらした。
トーク終了後、渕選手との3ショット撮影したのち、
おふたりのサイン色紙もいただいた。
5年前の井上さんは、顔色も良く元気そうであった。
残念ながら、巣鴨のイベントでは歓談する時間はなく、記念撮影の直後、
「以前、お台場でサインと記念撮影をお願いしたものです。あのときはありがとうございました」とお礼を言うのが精一杯であった、
カブキさんのときと同様、井上さんについてはまだまだ書き足りないので、また改めて執筆させていただきたい。
最後に、お台場で井上さんにいただいたものをもうひとつ紹介。
若手時代はヨーロッパに遠征し、ミッキー井上のリングネームで戦っていた頃の井上さんが、
フランスのエッフェル塔の前で撮った、写真を基に作成した絵葉書である。
下部分には、2014年頃に住んでいた、宮崎県の自宅住所と電話番号が記載されており、
「(宮崎に)来る機会があったら連絡ちょうだい」と仰ってくれたが、恐れ多くて連絡はできぬままであった。
今思えば、一度だけでも遊びに行かせていただき、井上さんのプロレス人生や哲学を、教わっておけばよかったな。
絵葉書の写真のように、スーツを着こなしたかと思えば、試合では時代を先取りしたサイケデリックな模様のタイツを着用。
実生活では、女優さんと結婚し映画にも出演。さらには、甘い歌声でレコードをリリースするなど、
マイティ井上さんは、昭和レスラーの中では数少ないダンディな方であり、紛れもないスーパースターであった。
マイティ井上こと井上末雄さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます。
マイティ井上
本名:井上末雄 ニックネーム:技巧派の魔術師
全盛期の公称サイズ:身長183cm、体重105kg
主なタイトル歴:IWA世界ヘビー級、世界ジュニアヘビー級、アジアタッグ他
得意技:サマーソルトドロップ、フライングショルダータックル、ストマックバスターなど
【私的プロレススーパースター列伝】第2弾は、僭越ながら井上さんを追悼すべく、
マスコミがあまり報じておらず、Wikipediaなどにも記されていない実績や戦歴、私個人の思い出などを語らせていただく。
いつものプロレスブログと同様、選手は基本敬称略とする。また、単なる素人のプロレス好きゆえの事実誤認、
さらには井上さん及び関係者に対し、失礼な表現もあるだろうが、どうかお許しいただきたい。
こちらはベースボール・マガジン社のサイトからスクショで借りた、全盛期のマイティ井上の勇姿。
(C)BBM
上記画像は、当時所属していた国際プロレスのチャンピオン時代であろう。
身長183cm、体重105kgと、昭和時代の国内外のトップ選手との比較では、サイズはやや小柄ながら、
欧州など世界中で習得した多彩なテクニックや、格上や巨漢相手にもひるまない、闘志剥き出しのファイトで奮闘。
国際プロレス崩壊後は、全日本プロレスに移籍したが、全盛期を過ぎてもなお、気性の激しさは健在であった。
ちなみにWikipediaでは、井上の身長は175cmとされているが、食べログと同様、ウィキも信用していない拙ブログでは、
下記の全日本プロレス・パンフレットや、当時の雑誌などに掲載されていた、183cmのデータを採用する。
1988年3月の日本武道館大会で購入した、上記パンフ内で井上は、1/3ページで紹介されていた。
ニックネームは「技巧派の魔術師」らしいが、「燃える闘魂」や「東洋の巨人」ほどの知名度はなかった。
その後、全日本のパンフ名称は「テクニカルソルジャー」に変更されたが、そう呼んでいたファンは少ないと思われる。
また、「和製マットの魔術師・マイティ井上さん死去」なんて訃報もあったが、和製マット~は、同タイプ寺西勇の別称のはず。
井上の愛称はやはり「マイティ」であり、しいて付けるとしたら、「サマーソルトドロップ」か。
井上の得意技かつ代名詞でもあるサマーソルト~は、「サンセットフリップ」という別名もあり、
仰向けにした相手に向かい、少し離れた場所からダッシュし、前転宙返りで背中から落ち、相手を押し潰す荒技で、
回転する直前、右手を縦にグルグル回しながら「アアア~!!」と大声で叫ぶため、会場は毎回沸いたものだった。
上記画像はたしか、東スポサイトから拝借。コーナーに控えている寺西の表情もいいね!
現役時代末期は、試合の流れに関係なく繰り出すこともあったが、全盛期は何度も3カウントを奪っている。
シュミット式バックブリーカーとは反対に、持ち上げた相手の背中ではなくお腹を、自身が立てた膝の上に落とす、
ストマックバスター(ストマックブロックともいう)を決めたあと、サマーソルトで相手の腹部にさらにダメージを与えるのが、
「井上の殺人フルコースだった」と、プロレス評論家の流智美氏が紹介していた。殺人フルコースって、懐かしい響きだね。
さきほどのパンフ画像に戻るが、「前アジア・タッグ選手権者」と記されているように、
パンフ販売の数日前まで、井上は石川敬士とのコンビで第44代アジアタッグ王者であった。
サムソン冬木&川田利明のフットルースが2度挑戦するも、井上組が2連勝。
すると、フットルースが「チーム解散」だか「天龍同盟離脱」を賭けて挑戦直訴したらしく、3度目の選手権試合では案の定、井上組が王座転落。
当時、フットルースの熱狂的なファンなんて少なかったはずなので、解散なんて口にされてもシラケるだけであった。
ちなみに、84年の大仁田厚は、「負けたら引退」と宣言して臨んだ試合で、本当に敗退。
記念すべき(?)1度目の引退となったのだが、その相手こそ、マイティ井上であった。
翌月、井上&石川組は、新王者のフットルースに挑戦するも、たしかレフェリーのミスがあり、王座奪還ならず。
その後、石川も井上もアジアタッグ挑戦機会は与えられず、それが直接の原因ではないが、石川は年末に全日本を退団した。
なお、井上は石川と2回、阿修羅原とは1回、国際時代にもアニマル浜口とのコンビで、計4回アジアタッグ王者に君臨。
原とのコンビは、7度の防衛を重ねたが、84年に「井上がジュニアヘビー挑戦に備えるため」という理由で返上するハメに。
よくわからないが、当時の全日本は、「アジアタッグはジュニアの選手は不可」のような不文律があったのかね。
ヘビー級だった井上が、減量してまで挑戦した(させられた)のが、NWAインタジュニアヘビー級のベルト。
王者チャボ・ゲレロには、大仁田や渕正信らが何度か挑戦したが歯が立たず、井上に頼らざるを得なくなった模様。
井上は見事ベルトを奪い、その後は先述した引退を賭けた大仁田や、ゲレロを破って6度の防衛を果たし、
翌85年、7度目の防衛戦でダイナマイト・キッドに敗れると、以降はリターンマッチの権利すら与えられず。
数年後、世界ジュニアヘビー級と名称を変えたベルトは、87年には渕が王者となるも、89年1月にジョー・マレンコに完敗。
その5日後、マレンコは大阪府立体育会館で防衛戦を行なうのだが、挑戦者の白羽の矢が立ったのが、地元の井上だった。
キッド相手に王座転落して以来、約3年半ぶりのジュニア挑戦ゆえ、唐突だった感は否めないが、井上はマレンコの関節技にもわたり合った。
最後はバックを奪った井上が、くるっとマレンコを一回転させ、自身の両足で相手の足をフックし、気付けば3カウントが入っていた。
不可解な説明になってしまったが、観ていた私もよくわからなかったし、記憶も薄れているので仕方ない。
試合後の井上は、「あれは(ビル・)ロビンソンが使っていた固め技」とコメント。決まり手は「欧州式変形エビ固め」…だったかな?
いずれにしても、井上の豊富なキャリアと、卓越したテクニックが実証された好試合であったが、
その後、渕に敗れ世界ジュニア王座から転落すると、以降はまたまた、ベルト挑戦権は与えられず。
連日、前座で若手や二流外国人の相手をさせられる日々に、井上ファンの私は憤慨したものである。
ちょっと文章が続いたので、ブレイクタイム。
こちらは、以前ここで紹介した、井上さんとの記念撮影画像。
2014年、お台場でのプロレストークイベント&その後の打ち上げ的飲み会に、井上さんがゲストで来ると聞き、
私も当然のように参加し、飲み会では図々しくも乾杯させていただき、さらに記念撮影やサインまでお願いしたのであった。
※お台場でいただいた、井上さんの記事が載ったムック本へのサイン
ハナシは戻って。1989年3月の王座転落以降、前座で燻っていた井上に、再度スポットが当たったのが翌90年の1月。
全日本正規軍と天龍同盟の抗争が激化し、苛立った天龍源一郎が、正規軍セコンドの渕や井上にも攻撃を加える。
無論、井上もやられっ放しではなく、「ならやったろうやないか」(本人談)と、臆することなく正式に対戦を表明。
ジュニア、外様、ベテラン(=井上はすべて該当)を軽視しがちな全日本プロレスだが、このときは珍しく井上の希望が承諾され、
TV中継のある会場のメインとして、井上組と天龍組の6人タッグがマッチメークされた。
このシリーズでの井上は、第3試合あたりでボビー・フルトン&トミー・ロジャースのザ・ファンタスティックスに負けるなど冴えず、
冒頭の画像、若草色のガウンを着ていた国際プロレス時代と比べると、筋肉が落ちてしまった現状で、
エース格ヘビー級レスラーとの対戦、しかも妥協をしない天龍が相手ゆえ、正直不安になったものだった。
試合が行われたのは1月25日、福島県の郡山セントラルホール。
カードはジャンボ鶴田、ザ・グレート・カブキ、マイティ井上-天龍源一郎、川田利明、サムソン冬木の60分1本勝負。
正規軍は私が支持する3人が、(たぶん)初のトリオ結成も、近年の実績や体格で見劣る井上が、最後はやられるだろうと覚悟していた。
結果を先に書いてしまうと、
1月25日 90新春ジャイアントシリーズ第17戦 第9試合 6人タッグマッチ60分1本勝負
ジャンボ鶴田 ザ・グレート・カブキ ○マイティ井上 21分20秒 リングアウト
×天龍源一郎 川田利明 サムソン冬木 ※場外の天龍に井上がフライングショルダータックル
なんと、予想に反し井上が天龍に勝ったのである!
試合中の井上は、体格差ある天龍の強烈な攻めや、川田・冬木の若さに圧倒されるも、素早い動きと飛び技で応戦。
鶴田やカブキのアシストもあり、コーナーにもたれる天龍に鉄拳制裁する場面もあった。
天龍を殴りつける井上の姿には、国際プロレスのチャンピオンだった意地、欧州など世界中でレスリングを学んだ誇り、
全日本移籍後、外様ゆえ不遇な扱いを受けたことへの怒りなど、いろんな感情が見て取れた。すべて私の勝手な妄想だが。
最後のタックルは魂のこもった一撃で、実況の倉持隆夫アナも、解説のジャイアント馬場も大絶賛。
この試合を観たい方は、「1990 01 25 Inoue Tenryu」でネット検索すると、動画にヒットするはず。
私もさっき、久しぶりに視聴したが、結果はわかっているのに、興奮かつ涙ちょちょぎれ状態だ。
国際プロレス時代を知らない私にとっては、この6人タッグこそ、マイティ井上のベストバウトである。
先述した、井上さんと記念撮影してもらったお台場では当然、この6人タッグの感想を聞いた。
私が「90年の正月シリーズで、メインで初めて天龍組と対戦したときの試合…」と質問し始めたところ、
井上さんは私の言葉を遮り、「おお、あの郡山の試合な。あれは天龍から(リングアウト勝ちを)獲ったもんなあ」と即答。
恥ずかしながら、私は会場が郡山だったことを忘れていたのだが、1967年にデビューし、2010年のレフェリー引退まで、
40年を超えるプロレス人生で、何万試合も経験してきたはずの井上さんは、試合結果だけでなく会場もしっかり記憶していた。
井上さんにとっても、「全日時代では、あの試合が一番印象に残ってるわなあ」と語ってくれて、私も嬉しかったよ。
天龍同盟との抗争が始まり、冬木や川田からピンフォールを奪うなど、完全に息を吹き返した印象の井上だったが、
数ヶ月後に天龍が全日本プロレスを離脱。カブキも天龍に追随し、井上は再び前座生活に戻ったことで、私のプロレス熱も少し冷めた。
それから数年後、いつだったかは忘れたが、ダニー・クロファットがジュニア王者の時代に、
「井上がクロファットに挑戦表明!?」という記事を、週刊プロレスで見かけた記憶があるが、結局、王座再挑戦は実現せず。
数年後、井上はレスラーを引退しレフェリーに転向。全日本からノアに移籍し、先述したように2010年にプロレス界に別れを告げた。
※デイリーのサイトより拝借
その後も、昭和プロレスの貴重な証人として、インタビューや取材をこなし、トークイベントなどにも精力的に参加。
亡くなる1ヶ月前にも、水道橋でのイベントに出演なさっていたそうだ。
私が井上さんとお会いできたのは、14年のお台場と、19年に巣鴨のプロレスショップ『闘道館』で開催された、
「マイティ井上 対 渕正信 トークライブ&サイン撮影会 -全日本ジュニア戦線の舞台裏-」の2回。
巣鴨では、特別参加したカブキさんと3人で、全日本時代のことを懐かしそうに語っていらした。
トーク終了後、渕選手との3ショット撮影したのち、
おふたりのサイン色紙もいただいた。
5年前の井上さんは、顔色も良く元気そうであった。
残念ながら、巣鴨のイベントでは歓談する時間はなく、記念撮影の直後、
「以前、お台場でサインと記念撮影をお願いしたものです。あのときはありがとうございました」とお礼を言うのが精一杯であった、
カブキさんのときと同様、井上さんについてはまだまだ書き足りないので、また改めて執筆させていただきたい。
最後に、お台場で井上さんにいただいたものをもうひとつ紹介。
若手時代はヨーロッパに遠征し、ミッキー井上のリングネームで戦っていた頃の井上さんが、
フランスのエッフェル塔の前で撮った、写真を基に作成した絵葉書である。
下部分には、2014年頃に住んでいた、宮崎県の自宅住所と電話番号が記載されており、
「(宮崎に)来る機会があったら連絡ちょうだい」と仰ってくれたが、恐れ多くて連絡はできぬままであった。
今思えば、一度だけでも遊びに行かせていただき、井上さんのプロレス人生や哲学を、教わっておけばよかったな。
絵葉書の写真のように、スーツを着こなしたかと思えば、試合では時代を先取りしたサイケデリックな模様のタイツを着用。
実生活では、女優さんと結婚し映画にも出演。さらには、甘い歌声でレコードをリリースするなど、
マイティ井上さんは、昭和レスラーの中では数少ないダンディな方であり、紛れもないスーパースターであった。
マイティ井上こと井上末雄さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます。
マイティ井上
本名:井上末雄 ニックネーム:技巧派の魔術師
全盛期の公称サイズ:身長183cm、体重105kg
主なタイトル歴:IWA世界ヘビー級、世界ジュニアヘビー級、アジアタッグ他
得意技:サマーソルトドロップ、フライングショルダータックル、ストマックバスターなど