松田山は足柄平野全域を眺められ、富士山もよくみえる。
頂上部はほぼ全域、チェックメイトカントリークラブの敷地となっていて、夜間はゲートが締まり、車は入って来られない。
松田山の横断コースは、松田駅-ハーブガーデン/自然館-最明寺史跡公園-谷戸口橋という“松田山みどりの風自然遊歩道”。
多くの野鳥・野草に出会える好散策コース。上りは車道歩きで問題ないが、下りの山道では道が崩れかけていて少々危ないところがある。
人通り無く寂しい道。
「最明寺史跡公園」は、標高500m以上のところにある自然公園。鳥や植物の説明パネルもあって散策には最適。池のある狭い平地部に八重紅シダレ、
斜面にはオオシマザクラが咲き、春にはお花見を楽しめる。
史跡公園から山の一番高いところを目指して歩いて行くとゴルフ場の末端に出る。ここは、丹沢・秦野が一望できる展望ポイント。
さらに、指導標に従って寄方向へ向かうと、ほどなくあずま屋にぶつかり、富士山展望ポイント。
史跡公園から尾根筋をさらに西に向かうと標高400mの高松集落へ下る。
「最明寺跡」 鎌倉幕府の執権最明寺入道北条時頼が信奉した〈相州善光寺如来〉の寺として知られる最明寺(西明寺)。
最明寺は、1221年、伊豆山の別当浄連上人源延が、信州善光寺の本尊を模写し、越前の仏師が彫った一光三尊善光寺如来立像を安置し開山した。
その後、応仁の乱など戦乱で衰えた寺勢の復活を諮ったが、山道険しく困難を極めた。1469年頃、大井町金子へ移る時に、
信徒が阿弥陀如来立像を作り本尊として祀った。護摩堂跡には善光寺如来と刻んだ石塔のほか、西方に鐘撞堂跡がある。
仏像は、〈庶子の善光寺さん〉と親しまれ、4月10日の例祭から庶子の各戸を巡回、信仰を守り伝えている。
平成7年頃までは背負い紐の厨子に納めていたが、重くて持ち運びが困難なため現在、手提げ用厨子にレプリカを納め、各戸を巡回している。
「からさわ古窯跡群古代瓦焼窯跡」
これは、今から1200年位前(奈良時代)の屋根瓦を焼いた松田町庶子にあった、からさわののぼり窯。
神奈川県内でも大変珍しいのぼり窯であり、永く保存したいという願いから、道路公団の協力を得て第三号窯を移築したもの。
全体の長さは約7メートル、幅は約2メートル。のぼっていく角度は45度位。窯の規模からして1回に屋根瓦を150枚から200枚位は焼くことが出来たと思われる。
この窯跡から発見された瓦と同じ瓦がここから約8km離れた小田原市千代の奈良時代に建てられたおいう廃寺の跡から発見されているので、
その寺をつくる時の屋根瓦をからさわで焼いたことがわかる。運搬するには舟で酒匂川を利用したと思われる。
池のそばの短い石段を登っていくと最明寺の由来を記した石碑が建っていた。
「物言い坂」
この急坂は,昔はもっと急だったらしい、、荷物運びの馬も上るのは難儀して、母馬が仔馬に何か言い聞かせながら上ったことから「物言い坂」
と呼ばれると看板が。あまりの急坂で足の親指が痛み出した。
やがて展望が開け、明るい茶畑エリアに、ここまでくると下の方を通る東名のクルマの騒音も聞こえ、現世に戻ってこれたことを感じてホッとした。
ほどなく246号線にぶつかり、物言い坂ダウンヒルは終了。少々疲れが・・・・。
東名高速のガードを潜り、小田急の松田駅を目指した。右に酒匂川、旧道らしき峠の細い道を行くと「道祖神」「供養塔」
「庚申塔」等の
石塔が左右に点在していた。江戸、明治時代と思われる。
塔の建立は、いろいろで生物の霊を慰めるためのもの、峠や村境や橋のたもとが多い、外敵、疫病等を守るため、素朴な民間信仰から生まれている。
特にこの辺り、庚申塔が主で関所があった所と聞く、その為村や、集落の出入り口に申(さる)と太陽と月が描かれている庚申信仰された石塔が多かった。
旧相模国中心に広がったと聞く。
次回は小田原早川一夜城へ。
頂上部はほぼ全域、チェックメイトカントリークラブの敷地となっていて、夜間はゲートが締まり、車は入って来られない。
松田山の横断コースは、松田駅-ハーブガーデン/自然館-最明寺史跡公園-谷戸口橋という“松田山みどりの風自然遊歩道”。
多くの野鳥・野草に出会える好散策コース。上りは車道歩きで問題ないが、下りの山道では道が崩れかけていて少々危ないところがある。
人通り無く寂しい道。
「最明寺史跡公園」は、標高500m以上のところにある自然公園。鳥や植物の説明パネルもあって散策には最適。池のある狭い平地部に八重紅シダレ、
斜面にはオオシマザクラが咲き、春にはお花見を楽しめる。
史跡公園から山の一番高いところを目指して歩いて行くとゴルフ場の末端に出る。ここは、丹沢・秦野が一望できる展望ポイント。
さらに、指導標に従って寄方向へ向かうと、ほどなくあずま屋にぶつかり、富士山展望ポイント。
史跡公園から尾根筋をさらに西に向かうと標高400mの高松集落へ下る。
「最明寺跡」 鎌倉幕府の執権最明寺入道北条時頼が信奉した〈相州善光寺如来〉の寺として知られる最明寺(西明寺)。
最明寺は、1221年、伊豆山の別当浄連上人源延が、信州善光寺の本尊を模写し、越前の仏師が彫った一光三尊善光寺如来立像を安置し開山した。
その後、応仁の乱など戦乱で衰えた寺勢の復活を諮ったが、山道険しく困難を極めた。1469年頃、大井町金子へ移る時に、
信徒が阿弥陀如来立像を作り本尊として祀った。護摩堂跡には善光寺如来と刻んだ石塔のほか、西方に鐘撞堂跡がある。
仏像は、〈庶子の善光寺さん〉と親しまれ、4月10日の例祭から庶子の各戸を巡回、信仰を守り伝えている。
平成7年頃までは背負い紐の厨子に納めていたが、重くて持ち運びが困難なため現在、手提げ用厨子にレプリカを納め、各戸を巡回している。
「からさわ古窯跡群古代瓦焼窯跡」
これは、今から1200年位前(奈良時代)の屋根瓦を焼いた松田町庶子にあった、からさわののぼり窯。
神奈川県内でも大変珍しいのぼり窯であり、永く保存したいという願いから、道路公団の協力を得て第三号窯を移築したもの。
全体の長さは約7メートル、幅は約2メートル。のぼっていく角度は45度位。窯の規模からして1回に屋根瓦を150枚から200枚位は焼くことが出来たと思われる。
この窯跡から発見された瓦と同じ瓦がここから約8km離れた小田原市千代の奈良時代に建てられたおいう廃寺の跡から発見されているので、
その寺をつくる時の屋根瓦をからさわで焼いたことがわかる。運搬するには舟で酒匂川を利用したと思われる。
池のそばの短い石段を登っていくと最明寺の由来を記した石碑が建っていた。
「物言い坂」
この急坂は,昔はもっと急だったらしい、、荷物運びの馬も上るのは難儀して、母馬が仔馬に何か言い聞かせながら上ったことから「物言い坂」
と呼ばれると看板が。あまりの急坂で足の親指が痛み出した。
やがて展望が開け、明るい茶畑エリアに、ここまでくると下の方を通る東名のクルマの騒音も聞こえ、現世に戻ってこれたことを感じてホッとした。
ほどなく246号線にぶつかり、物言い坂ダウンヒルは終了。少々疲れが・・・・。
東名高速のガードを潜り、小田急の松田駅を目指した。右に酒匂川、旧道らしき峠の細い道を行くと「道祖神」「供養塔」
「庚申塔」等の
石塔が左右に点在していた。江戸、明治時代と思われる。
塔の建立は、いろいろで生物の霊を慰めるためのもの、峠や村境や橋のたもとが多い、外敵、疫病等を守るため、素朴な民間信仰から生まれている。
特にこの辺り、庚申塔が主で関所があった所と聞く、その為村や、集落の出入り口に申(さる)と太陽と月が描かれている庚申信仰された石塔が多かった。
旧相模国中心に広がったと聞く。
次回は小田原早川一夜城へ。