栃木市の街は、東武日光線新栃木駅とJR栃木駅を結ぶように、巴波川、例弊使街道沿いに街並みが出来、約450棟の店舗「見世蔵」
「土蔵」記念館、資料館などが点在、その裏手に公園や神社仏閣で、2時間余りでゆっくりウオークを楽しめる。
「栃木のお伊勢さま、県社神明宮」
神明宮の祭神は、天照皇大神、配神素盞雄命、造化三神、由緒は、下野国栃木の鎮護の神。
近郷榎本城の支配を受け、天正年間豊臣秀吉小田原城征伐で、時の城主榎本藤四郎は北条氏に属し、小山氏の居城小山城落城と共に榎本城も没落を見た。
栃木城内に皆川広照公の支城に「神明宿」の小字がある。江戸時代は、代官領となり、明治5年、県社に成る。県下初めてのことであった。
伊勢皇大神宮の内宮に奉斉され、日の神、皇祖の大神として奉祀され我国最高の貴神と仰がれている。
本殿は、市指定重要文化財、総欅素木を使い、伊勢内宮にならい神明造銅板葺である。公園は、市の第二公園になっている。
「満福寺・孤高の日本画家・田中一村が眠る」
鎌倉時代の1262年、薗部村の太平山麓に創建されたと言われ、真言宗のお寺。
赤・青・黒三体の「三鬼尊」は、我国でも珍しい鬼神像で、中央の青鬼は鎖につながれている珍しい三鬼尊。
その由来は、昔酒屋を荒らしたため縛られたという民話で、古来より、招福厄除、育児安産、疫病平癒に信仰を集めている。
青鬼は、左甚五郎作とも定朝作ともいわれて、1961年に市指定文化財(彫刻)となる。
没後、その画業と作品が大きな反響を呼んだ本市出身の孤高の日本画家・田中一村が眠っており、本堂の前にその供養碑が建っている。
「画家田中一村」は、1908年、栃木市に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。
若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞。10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得たという。
1926年 東京・芝の芝中学校を卒業。1926年東京芸術大学日本画科に入学したが、中退。1931年に、それまで描いていた南画と訣別している。
1938年千葉に暮らす、1947年 川端龍子主催の青龍展に入選、1953年 第9回日展に「松林桂月門人」として出品するが落選。
1958年奄美大島に渡る(50歳)、1958年 生計を立てるため大島紬の染色工として働き始める、1977年没、享年69。
田中一村の生涯を描く映画『アダン』が2006年に公開された。
「定願寺」は、市の有形文化財に指定された天台宗の寺
1573~1592年、川連村(現大平町川連)より、現在地に移された天台宗の古い寺で、本堂や鐘桜、山門、不動堂、弁天堂、安産地蔵堂などがある。
不動堂には、扁額と見事な彫刻がほどこされた扉があるが、扁額は亀田鵬斎の「不動尊」の書を木彫りしたもの、扉は北面の武士遠藤盛造が僧文覚となり、
紀州熊野の那智滝で荒行する場面を彫った透彫りで、野州富田村(現大平町)の磯部儀兵衛の作と言われている。
境内には、市出身の第2代横綱綾川五郎次の墓がある。
御成門の彫刻、不動堂の扉彫刻と扁額、平等庵の鐘は、1961年に市指定有形文化財(彫刻、書跡、工芸品)となる。
「
次回は下野国分寺尼寺跡へ。
「土蔵」記念館、資料館などが点在、その裏手に公園や神社仏閣で、2時間余りでゆっくりウオークを楽しめる。
「栃木のお伊勢さま、県社神明宮」
神明宮の祭神は、天照皇大神、配神素盞雄命、造化三神、由緒は、下野国栃木の鎮護の神。
近郷榎本城の支配を受け、天正年間豊臣秀吉小田原城征伐で、時の城主榎本藤四郎は北条氏に属し、小山氏の居城小山城落城と共に榎本城も没落を見た。
栃木城内に皆川広照公の支城に「神明宿」の小字がある。江戸時代は、代官領となり、明治5年、県社に成る。県下初めてのことであった。
伊勢皇大神宮の内宮に奉斉され、日の神、皇祖の大神として奉祀され我国最高の貴神と仰がれている。
本殿は、市指定重要文化財、総欅素木を使い、伊勢内宮にならい神明造銅板葺である。公園は、市の第二公園になっている。
「満福寺・孤高の日本画家・田中一村が眠る」
鎌倉時代の1262年、薗部村の太平山麓に創建されたと言われ、真言宗のお寺。
赤・青・黒三体の「三鬼尊」は、我国でも珍しい鬼神像で、中央の青鬼は鎖につながれている珍しい三鬼尊。
その由来は、昔酒屋を荒らしたため縛られたという民話で、古来より、招福厄除、育児安産、疫病平癒に信仰を集めている。
青鬼は、左甚五郎作とも定朝作ともいわれて、1961年に市指定文化財(彫刻)となる。
没後、その画業と作品が大きな反響を呼んだ本市出身の孤高の日本画家・田中一村が眠っており、本堂の前にその供養碑が建っている。
「画家田中一村」は、1908年、栃木市に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。
若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞。10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得たという。
1926年 東京・芝の芝中学校を卒業。1926年東京芸術大学日本画科に入学したが、中退。1931年に、それまで描いていた南画と訣別している。
1938年千葉に暮らす、1947年 川端龍子主催の青龍展に入選、1953年 第9回日展に「松林桂月門人」として出品するが落選。
1958年奄美大島に渡る(50歳)、1958年 生計を立てるため大島紬の染色工として働き始める、1977年没、享年69。
田中一村の生涯を描く映画『アダン』が2006年に公開された。
「定願寺」は、市の有形文化財に指定された天台宗の寺
1573~1592年、川連村(現大平町川連)より、現在地に移された天台宗の古い寺で、本堂や鐘桜、山門、不動堂、弁天堂、安産地蔵堂などがある。
不動堂には、扁額と見事な彫刻がほどこされた扉があるが、扁額は亀田鵬斎の「不動尊」の書を木彫りしたもの、扉は北面の武士遠藤盛造が僧文覚となり、
紀州熊野の那智滝で荒行する場面を彫った透彫りで、野州富田村(現大平町)の磯部儀兵衛の作と言われている。
境内には、市出身の第2代横綱綾川五郎次の墓がある。
御成門の彫刻、不動堂の扉彫刻と扁額、平等庵の鐘は、1961年に市指定有形文化財(彫刻、書跡、工芸品)となる。
「
次回は下野国分寺尼寺跡へ。