栃木県小山市(県南思川の台地小さな山、小山氏の祇園城、江戸を結ぶ日光街道宿場城下町)を、左折し国道50号線に入り、茨城県結城市、
下館市方面に変えた。
「結城」は、木綿(ゆう)の木が生える地に由来、鬼怒川流域の沖積層の水田地帯。江戸時代の結城水野氏の城下町である。
「下館」は、中世の藤原秀郷が、平貞盛・平将門征伐で、上・中・下の館の内将門討伐拠点は下の館。
50号線に沿って観音堂があった。1721年に現在の地に移転し、再建されたとある。
本尊は、1356年、結城家八代・結城直光の寄進による人手観音(正観世音菩薩立像)で、像高は1mほど、33年に一度開帳される。
昔より「人手の観音さま」と親しまれ、開運・安産で名高く、多くの人々に信仰、大輪寺境外に観音堂はある。
国道沿いのお堂
「大輪寺」、仁王門を入れば正面に平成4年再建の入母屋造り瓦葺、六間四面の本堂がある。本尊は如意輪観世音。
1227年、結城朝光が田河原の大輪坊の僧・元観を招き坊舎を移建して大輪寺に改め、朝光の帰依により結城家代々の結願所になった。
1688~1703年には僧・俊寿が中興し藩主水野家の祈願所に、中本寺として末寺二十二ヵ寺を有した。
位碑堂(八角堂)をはじめ諸堂が建立され寺容は整った。大輪寺で管理している「観音堂」桜の名所として知られる。
「弘経寺」ぐきょうじは、浄土宗の寺。山号は寿亀山。院号は松寿院。本尊は阿弥陀如来。1592年~1596年結城秀康の開基、存把の開山により創建され、
1596年~1615年には檀林が設置、県指定文化財、絹本著色当麻曼荼羅、絹本著色襖絵(与謝蕪村筆)関東十八檀林。
与謝蕪村は、約10年間に渡り,結城に滞在し、俳人「砂岡雁宕」の指導を受け、蕪村は、襖絵や結城を詠んだ俳句を残している。
正式名称を「寿亀山天樹院弘経寺」、1414年 嘆誉良肇上人によって創建、室町時代には関東浄土宗の中心寺院として栄えた、
多くの学僧を世に送った有力寺院であった。
1577年、壇越常陸下妻城主多賀谷氏と小田原北條氏の合戦に巻き込まれ多賀谷氏が弘経寺に陣を張ったために、戦火で堂宇を焼かれたが、
第九世壇誉存把上人は下妻に逃れ、後に結城に秀康の帰依を得て結城に弘経寺を再建。
そのため弘経寺は寺院活動の停止したが、第十世照誉了学上人の代に寺院再興。上人は、徳川三代(家康・秀忠・家光)から帰依、厚遇され
特に家康公の孫にあたる千姫は上人に帰依し、弘経寺を菩提所を定め、再建に多大な寄進をした。
江戸時代には紫衣壇林として十八壇林の中でも上位に置かれた。
「平山、結城城趾と聴敏神社」 「聴敏」とは江戸時代の結城藩主家水野家の結城藩主としての初代水野勝長の号で、その徳を顕彰するため子孫によって建てられた。
城域内は、現在公園として整備されていた。中世の面影を感じさせろ物は残っていなかった。
当時のこの辺りは、軍勢より上がる幟には幕府方で、上杉・今川・武田等の紋、城はまもなく落城を迎える。これより関東戦乱の世に至る。
水野勝長は、能登国西谷藩主。のちに下総国結城藩の初代藩主となる。5代で無嗣除封となった水野宗家の備後福山藩の初代藩主・水野勝成の曾孫。
水野 宗家6代。1679年に旗本・水野勝直の長男として生まれる。
水野勝成 1651年に福山城内において88歳で死去、福山城下の菩提寺、賢忠寺。
戦国武将としてはかなりの長寿であった。 神道の礼では聡敏明神として祀られ 、福山城北にある福山八幡宮の境内に聡敏神社と、ここ茨城県の結城城址脇の神社。
梅、桜と植えられ地域の安らぎの公園、近くの保育園の子供達で賑わっていた。
「下館城跡」1542年、下館城主・水谷正村は入道して蟠龍斎。1545年、宇都宮氏の家臣・中村日向入道玄角を下野中村城に攻め滅ぼした上で
、宇都宮氏の逆襲に備え久下田城を築城し、自らは久下田城に移り住み、下館城は弟の勝俊に預けた。
1600年の関ヶ原の役では水谷勝俊は徳川秀忠に従って東軍につき、下館城には上杉景勝攻めに向かう秀忠が逗留したこともある。
水谷氏は勝俊の後、1639年、勝隆のときに備中成羽に転封、さらにその後に備中松山城に転封となり、松山城を大々的に改修した。
下館城には松平頼重五万石が入ったが、1642年に讃岐高松に移封され、一時幕領となり、1663年、増山正弥が入封、以後井上正岑、黒田直邦と続き、
1732年、直邦が上野沼田城に転封となると、石川総茂が二万石で入封し、石川氏九代ののちに明治維新を迎え廃城。
現在は、城跡も無く、小さな神社になっていた。
「下館上羽黒神社」の創建は1481年、下館城主水谷勝氏が出羽 三山(山形県鶴岡市)の羽黒大権現を勧請したことが始まりと伝えられている。
勝氏は 下館城築城に際し風水に乗っ取った都市計画をしており城を中心に鬼門、風門、等を採用し鎮座した。
「羽黒坂」一月上旬、だるま市で賑わう。
「下館羽黒神社」主祭神 大己貴命、玉依姫命、 郷社、創建 1481年、下館の氏神であり、正式には羽黒神社。
下館城城主水谷勝氏が領内の安泰を祈願して出羽三山から羽黒権現を勧請したことにはじまる。
地元では下館城を中心に大町の羽黒神社をはじめ同市内稲野辺・下岡崎・外塚村・岡芹・大根田・口戸にある羽黒神社を総称して「七羽黒」と呼んでいる。
毎年7月下旬に筑西市下館地区の市街地にて行われる下館祇園祭はこの神社の祭であり、大神輿などで有名である。
本堂
次回は下妻市方面へ。
下館市方面に変えた。
「結城」は、木綿(ゆう)の木が生える地に由来、鬼怒川流域の沖積層の水田地帯。江戸時代の結城水野氏の城下町である。
「下館」は、中世の藤原秀郷が、平貞盛・平将門征伐で、上・中・下の館の内将門討伐拠点は下の館。
50号線に沿って観音堂があった。1721年に現在の地に移転し、再建されたとある。
本尊は、1356年、結城家八代・結城直光の寄進による人手観音(正観世音菩薩立像)で、像高は1mほど、33年に一度開帳される。
昔より「人手の観音さま」と親しまれ、開運・安産で名高く、多くの人々に信仰、大輪寺境外に観音堂はある。
国道沿いのお堂
「大輪寺」、仁王門を入れば正面に平成4年再建の入母屋造り瓦葺、六間四面の本堂がある。本尊は如意輪観世音。
1227年、結城朝光が田河原の大輪坊の僧・元観を招き坊舎を移建して大輪寺に改め、朝光の帰依により結城家代々の結願所になった。
1688~1703年には僧・俊寿が中興し藩主水野家の祈願所に、中本寺として末寺二十二ヵ寺を有した。
位碑堂(八角堂)をはじめ諸堂が建立され寺容は整った。大輪寺で管理している「観音堂」桜の名所として知られる。
「弘経寺」ぐきょうじは、浄土宗の寺。山号は寿亀山。院号は松寿院。本尊は阿弥陀如来。1592年~1596年結城秀康の開基、存把の開山により創建され、
1596年~1615年には檀林が設置、県指定文化財、絹本著色当麻曼荼羅、絹本著色襖絵(与謝蕪村筆)関東十八檀林。
与謝蕪村は、約10年間に渡り,結城に滞在し、俳人「砂岡雁宕」の指導を受け、蕪村は、襖絵や結城を詠んだ俳句を残している。
正式名称を「寿亀山天樹院弘経寺」、1414年 嘆誉良肇上人によって創建、室町時代には関東浄土宗の中心寺院として栄えた、
多くの学僧を世に送った有力寺院であった。
1577年、壇越常陸下妻城主多賀谷氏と小田原北條氏の合戦に巻き込まれ多賀谷氏が弘経寺に陣を張ったために、戦火で堂宇を焼かれたが、
第九世壇誉存把上人は下妻に逃れ、後に結城に秀康の帰依を得て結城に弘経寺を再建。
そのため弘経寺は寺院活動の停止したが、第十世照誉了学上人の代に寺院再興。上人は、徳川三代(家康・秀忠・家光)から帰依、厚遇され
特に家康公の孫にあたる千姫は上人に帰依し、弘経寺を菩提所を定め、再建に多大な寄進をした。
江戸時代には紫衣壇林として十八壇林の中でも上位に置かれた。
「平山、結城城趾と聴敏神社」 「聴敏」とは江戸時代の結城藩主家水野家の結城藩主としての初代水野勝長の号で、その徳を顕彰するため子孫によって建てられた。
城域内は、現在公園として整備されていた。中世の面影を感じさせろ物は残っていなかった。
当時のこの辺りは、軍勢より上がる幟には幕府方で、上杉・今川・武田等の紋、城はまもなく落城を迎える。これより関東戦乱の世に至る。
水野勝長は、能登国西谷藩主。のちに下総国結城藩の初代藩主となる。5代で無嗣除封となった水野宗家の備後福山藩の初代藩主・水野勝成の曾孫。
水野 宗家6代。1679年に旗本・水野勝直の長男として生まれる。
水野勝成 1651年に福山城内において88歳で死去、福山城下の菩提寺、賢忠寺。
戦国武将としてはかなりの長寿であった。 神道の礼では聡敏明神として祀られ 、福山城北にある福山八幡宮の境内に聡敏神社と、ここ茨城県の結城城址脇の神社。
梅、桜と植えられ地域の安らぎの公園、近くの保育園の子供達で賑わっていた。
「下館城跡」1542年、下館城主・水谷正村は入道して蟠龍斎。1545年、宇都宮氏の家臣・中村日向入道玄角を下野中村城に攻め滅ぼした上で
、宇都宮氏の逆襲に備え久下田城を築城し、自らは久下田城に移り住み、下館城は弟の勝俊に預けた。
1600年の関ヶ原の役では水谷勝俊は徳川秀忠に従って東軍につき、下館城には上杉景勝攻めに向かう秀忠が逗留したこともある。
水谷氏は勝俊の後、1639年、勝隆のときに備中成羽に転封、さらにその後に備中松山城に転封となり、松山城を大々的に改修した。
下館城には松平頼重五万石が入ったが、1642年に讃岐高松に移封され、一時幕領となり、1663年、増山正弥が入封、以後井上正岑、黒田直邦と続き、
1732年、直邦が上野沼田城に転封となると、石川総茂が二万石で入封し、石川氏九代ののちに明治維新を迎え廃城。
現在は、城跡も無く、小さな神社になっていた。
「下館上羽黒神社」の創建は1481年、下館城主水谷勝氏が出羽 三山(山形県鶴岡市)の羽黒大権現を勧請したことが始まりと伝えられている。
勝氏は 下館城築城に際し風水に乗っ取った都市計画をしており城を中心に鬼門、風門、等を採用し鎮座した。
「羽黒坂」一月上旬、だるま市で賑わう。
「下館羽黒神社」主祭神 大己貴命、玉依姫命、 郷社、創建 1481年、下館の氏神であり、正式には羽黒神社。
下館城城主水谷勝氏が領内の安泰を祈願して出羽三山から羽黒権現を勧請したことにはじまる。
地元では下館城を中心に大町の羽黒神社をはじめ同市内稲野辺・下岡崎・外塚村・岡芹・大根田・口戸にある羽黒神社を総称して「七羽黒」と呼んでいる。
毎年7月下旬に筑西市下館地区の市街地にて行われる下館祇園祭はこの神社の祭であり、大神輿などで有名である。
本堂
次回は下妻市方面へ。