栃木市を後に、国道352号線(来た道の4号線石橋宿方面)に戻る、その右手が「下野、しもつけ」である。
ここは、考古学資料が集中している所、有名な吾妻古墳は、全長117mの大形埋葬施設横穴石室で6世紀ごろと云われている、7世紀頃の丸塚古墳、
琵琶塚古墳などが点在し、奈良時代、平安時代の貴重な資料が発掘されている地域である。
下野国府跡の発掘調査は、1976年から1983年まで栃木県教育委員会により実施された。それにより古代の下野国庁が、ほぼその全貌を現し、
1979年には国指定史跡に指定された。
下野国庁は8世紀前半から10世紀前半の間に、4期の変遷が認められる。
Ⅰ期 8世紀前半から中頃まで(奈良時代前期)掘立柱建物で屋根は板又は檜皮で葺いた。
Ⅱ期 8世紀末まで(奈良時代後期)ほぼⅠ期建物を踏襲。前殿が1棟となり 前殿、脇殿は瓦葺きとなる。
Ⅲ期 9世紀初めから中頃(平安時代初期) 主要殿舎が礎石建物となり、周囲を区画 施設は掘立柱の板塀から築地塀に変わる。
Ⅳ期 9世紀後半から10世紀初め(平安時代前期)前殿が無くなり、脇殿は再び掘立柱建物になる。
下野国庁跡 南門から復元された前殿を望め、前殿を復元、 檜造り、八葉複弁蓮華文の軒丸瓦、三重弧文の平瓦、鬼瓦は出土品により復元。
正殿があったと推定される宮野辺神社境内 脇殿跡は藤棚になっている、正殿が眠る宮野辺神社 古風な習俗を残す祭儀の説明板、氏子組織や神前の
直会など民俗学的に貴重だという。
国庁域は約90m四方で、築地で囲まれ、南正面からは幅9mの朱雀大路が延びて、その左右に官衙や国司館が立ち並んでいた。
京のように整然とした碁盤目状の街路はない。役所や倉庫などは、政庁周辺に分散。
下野国総社(大神神社)があった。
「思川」は、江戸時代から明治期にかけて行われた利根川東遷の河川、以前は渡良瀬川に直接合流していたと推定、
東遷工事により渡良瀬川の流路が利根川とされたため暫くの間は利根川に注ぐ川となっていた。
明治期には渡良瀬川下流部に渡良瀬遊水地が整備され渡良瀬川の流路が東に向けられた結果、思川は利根川東遷工事以前のように渡良瀬川(渡良瀬遊水地)
に注ぐ河川の位置づけとなる。
小山市の思川にあった乙女河岸は、徳川家康が小山から関ヶ原に向かう際、多数の兵馬を本河岸で荷積みし舟運にて運搬したことから、その恩により、
江戸時代から流路を改良され工事が進められた。
中世から江戸川と通じた舟運の盛んな川で、明治時代までその面影を残した。明治期には小山付近では舟遊びが盛んで屋形船がたくさんあったという。
「蓮華寺」は、浄土真宗 本願寺派 山号 紫雲山。
浄土真宗は10の大きな派閥、諸派に分裂、最大規模の派閥が、西本願寺を本山とする「本願寺派」。
「一向宗」とも呼ばれる、次が東本願寺を本山とする「大谷派」。3番目に浄土真宗の本山で「根本中堂」だった高田山 専修寺の「高田派」
とある。
「下野国分寺尼寺跡・風土記・民俗資料館」と広々とした公園
奈良時代、聖武天皇は、全国に国家平成を祈願し国分尼寺の建立を進め、「妙法蓮華経」を根本の経典とし、奈良東大寺の様式を基本した。
建物跡を見ても、南大門、中門、金堂、講堂が南北一直線上に並んでいる。
しもつけ風土民俗資料館玄関前
古墳時代から奈良・平安時代に作られたこれらの史跡について、古代の政治と民衆の生活、中央と地方の関わり、土木・建築技術の発達など、
いくつかの側面から取りあげている。
展示は、風土記の丘の地理的・歴史的環境を紹介するA導入展示と、時代ごとに区分したB古墳文化の展開・C終末期の古墳・D律令国家と仏教文化の
4つのテーマに分けてあり、資料と史跡との関連を重視した展示を行い、全体として「古代下野国の歴史」等が学べる。
「小金井宿・一里塚」
南北6町42間で、江戸の方から下町、中町、上町の小金井宿、 元は金井村とい、現在地より西方に集落を形成して村名に「小」をつけて「小金井村」とした。
奥州街道・日光街道第14宿 日本橋から89.4km 石橋宿まで5.9km、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒
小金井一里塚、 日本橋から22番目の一里塚。五間(9.1m)四方の方形で、榎が植えられていた。
1884年に現在の国道4号線が開通したとき旧街道は廃されたが、一部が村道の名目で残ったため、一里塚も残る。
ほぼ原形を保っているという。塚の崩落を防ぐため12m四方の位置に石を巡らしている。高さは2.5mで、榎と櫟(くぬぎ)の巨木が同居している珍しい。
次回は小山から茨城県に続きます。