石川県加賀市大聖寺に入る。県南西部、市の中心地区、地名は白山五院の一寺に由来、江戸時代は、加賀藩の支藩「大聖寺藩10万石の城下町であった。
県南の行政、経済、文化の中心で、商工業も盛んであった。
大聖寺川は、県南西部を流れる川で、福井県の大日西斜面に源を発し、山中町、加賀市、大聖寺を流れ大塩谷港で日本海に注ぐ、中流部に
山中温泉がある、
下流に我谷ダムが出来て、よく氾濫したが市街は減少している。
「大聖寺」駅は、JR西日本北陸本線の駅。一部の特急列車が停車する。小松駅ほど多くはないが、金沢方面へ折り返す普通列車の始発駅としても設定されている。
北陸本線において金沢支社直轄となっている駅は当駅から倶利伽羅駅までの各駅で、隣の牛ノ谷駅から福井寄りは同支社福井地域鉄道部の管轄であり、
当駅はその指令上の境界とされている。かつては当駅から北陸鉄道山中線が、山中温泉・山代温泉方面へ延びていた。
藩祖前田利治を祝う十万石祭り9月に

江戸時代には、加賀藩前田家の分家として「大聖寺藩 前田家」が生まれ、加賀藩の百万石と違い、七万石後に十万石の小さな城下町で独自の文化や美意識を
持っている。金沢と違い古い街並み、桜の名所、四季折々の街でもある。
「加賀染織保存会」、加賀染織保存会では主として、花岡慎一「ゑり華」会長によって、昭和40年代から石川県内で収集されてきた、江戸末期~昭和初期までの
「加賀のお国染」と言われる染織品等、を保管、整理、アーカイブ、公開のための管理運営活動を行っている。
その活動内容は、幅広く、全国の美術館、ギャラリーなどにも展示要請を受け貸し出ししている。コレクショングッズの企画開発、販売もしている。
伝統工芸 焼き物と彫金 お茶・お花が盛ん


九谷焼は,加賀藩の支藩である大聖寺藩の初代藩主・前田利治が,領内の九谷村で鉱山開発中に陶石が発見されたのを機に 磁器の生産を企画。
九谷鉱山で錬金の仕事に従事していた後藤才次郎を陶業技術の修得のために肥前有田に派遣。後藤は帰藩後 九谷の地に窯を築き,田村権左右衛門らを指導して,
1655(明暦元)年頃に色絵磁器の生産を始めた。これが九谷焼のはじまりである。
その後 二代藩主利明に引き継がれ,この時期に焼成された作品は「古九谷」と呼ばれ,後の時代の「再興九谷」とは一線を画して扱われた。
しかし この古九谷は約50年後,元禄の頃(1700年代初頭)に突然姿を消した。廃窯の原因は不明であるが,事業を推進してきた二代藩主利明が死去し,
さらに製陶の責任者だった後藤才次郎が1704年に死去して,中心人物を失ったこと,また藩財政が悪化したことにより 多額の経費を要する九谷陶業が
廃止されたのではないかと推定。
古九谷の廃窯から一世紀の後 九谷焼が再興され,吉田屋窯・木崎窯・宮本屋窯・松山窯などが開かれた。古九谷が官営の窯であったのに対して
この時代の九谷焼は民営の窯で行なわれ「復興九谷」と呼ばれ,これが明治以降まで引き継がれてきた。
前田家の古九谷焼き 工芸館



「実性寺」は、初代大聖寺藩主前田利治の老臣玉井市正が、金沢の僧、通外祗徹大和尚を1641年大聖寺に招き、現在の大聖寺一本橋あたりに庵を設けたのが始まり。
その後、祗徹がこの庵で1644年に死去したため、玉井市正は祗徹の弟子の天柱響補を金沢から招き、この庵を寺として、開山を祗徹、開基を市正の父廓庵宗英居士として、
その名前からこの寺を宗英寺、山号を霊光山と称した。
1660年には藩主利治が死去。まだ菩提寺も決まっていなかったので、この宗英寺で式をあげ、天柱響補和尚が焼香した。
その縁で利治の法号をいただいて「実性院」と改め、さらに二代藩主利明が、1661年 実性院を現在の地に移し、山号を改め金龍山とした。
曹洞宗の寺大聖寺藩主の菩提樹で萩の寺実性院



大聖寺には隣の越前との国境付近であったところにから、大聖寺藩が意識的に寺社を集めたと言われる。
「山の下寺院群」と呼ばれ、7寺院、1神社が並んでいる。浄土真宗の寺は城下の町中に、
曹洞宗、日蓮宗、法華宗、浄土宗の寺はこの通りに移されたと云う。
実性院、曹洞宗のお寺。大聖寺藩前田家の菩提寺で「萩の寺」としても知られている。蓮光寺 日蓮宗のお寺。毎年1月15日に、僧侶が冷水をかぶる水行の
「星祭り」が行われる。
久法寺 法華宗の寺。日本で初めて鉛筆を作った柿澤理平のお墓がある。全昌寺 曹洞宗のお寺、芭蕉が立ち寄ったことで知られ、境内には句碑がある。
「五百羅漢像」あり。正覚寺 浄土宗のお寺、秘仏の「履行阿弥陀如来」と呼ばれる珍しい如来像がある。
宗寿寺 日蓮宗のお寺、大聖寺藩の関所の門が払い下げられ、山門として移設されている。
本光寺 法華宗のお寺、「日本百名山」の著書で知られる深田久弥のお墓がある。の7寺院。
藩主たちは、各寺で休息している


大聖寺が日本史に登場するのは、侍が勃興し、彼らが全国を舞台に駆け巡るようになった「太平記」の時代以降。太平記によれば、1335年
北条氏の残党である名越
「太郎時兼」が、加賀・能登・越中の兵を引き連れて都に上ろうとしたとき、敷地方天神の神官狩野氏を中心とした郷党が、宮方として大聖寺城によってこれを防ぎ
、時兼を敗死させたことが記されている。
松尾芭蕉が立ち寄った金昌寺



大聖寺は浄土真宗の町でもあり、1471年、越前と加賀の境にある吉崎に蓮如上人がきて、僧や役人を説得し、北陸の一角にその勢力を植え付けた。
その種子は見事に成長し、加賀の守護富樫氏を滅ぼし一向一揆の勢力となり、「百姓の持ちたる国」といわれ、越前の朝倉氏と何度も大聖寺城での攻防戦が繰り返された。
その後、織田信長による全国支配の手がこの地にもおよび、凄惨な一向宗との戦いの後、1580年「柴田勝家」の配下となり、柴田勝家の滅亡後、
秀吉の部下の「溝口秀勝」が大聖寺城を守ったが、溝口氏は、後に新発田に転封され、越前小早川秀秋の老臣山口玄蕃宗永の守ることとなり、
1600年 関が原の合戦が起こる前、その余波は加賀にもおよび、東軍に味方した金沢の前田利長は、西軍に応じた山口玄蕃の大聖寺を討とうとして、関が原の前哨戦が起こった。
町の名前も鍛冶・鉄砲・鷹匠・京などの城下町



関が原の後、江沼一円は、前田家の支配するところとなり、城代が数代にわたって派遣されたが、元和の一国一城令で城は完全に廃され、1639年「前田利治」が
初代大聖寺藩主として金沢から分封され、城は造らず藩邸を現在の錦城小学校から江沼神社にかけての一帯に構え、大聖寺川、熊坂川を自然の堀として明治維新になる。
時を知らせる時鐘楼が多い


「加賀神明宮・山下神社」は、 旧縣社、祭神、天照大神、以前は山下神社と称し江戸時代には神明宮と称している。現拝殿は、1824年再建の棟札。
毎年4月の第2土、日曜に 開催される通称「桜まつり」は、盛大で、山車や子どもたちの囃子、手踊りが獅子舞とともに舞う。
大聖寺 熊坂川桜花は、熊坂川両岸に咲き誇る桜と加賀神明宮(山下神社)の大祭は、毎年賑わいを見せている。
神社 鳥居 拝殿



加賀一の宮の白山五院として白山妙理大権現を勧請、創建し真言新義派、大聖寺の守護神である、三光院大聖寺として壮大な伽藍を造営し、
神佛両部を奉祀、天文年中の乱で兵火に逢い慈光院として再建した。
1398年、前田利長は、六反余の社地の寄進を受け、大聖寺の氏神として再建された。社地400歩を拝領し神明宮、慈光院を建てる。
藩祖前田利治・菅原道真を祀る



「大聖寺城」は、錦城ともいう。城郭 連郭式平山城、築城主は、狩野氏、鎌倉時代、主な改修者は、柴田勝家。
城は、加賀市に南北朝時代から江戸時代初期まで存在した平山城。跡地は「錦城山公園」噂では、20km以上離れた金沢城と、地下道で
結ばれているという。
大聖寺城跡錦城山遊歩道 土塁



1575年に越前を平定した織田信長の軍勢は加賀にも侵攻し、江沼郡・能美郡を占領した。
信長は柴田勝家に命じて日谷城と大聖寺城を修復させ、戸次広正や堀江景忠を配置した。
翌年には江沼・能美両郡で一揆が蜂起したが、救援した勝家によって鎮圧された。
この際、佐久間盛政が大聖寺城主となっている。勝家は、1577年にかけて大聖寺城の修復とともに兵力を増強し、上杉氏の南下に備えた。
天正8年に勝家は本願寺勢力の金沢御堂を攻略し、拝郷家嘉を大聖寺城主にしている。
1583年の「賤ヶ岳の戦い」で勝家が敗れた後は、北ノ庄(現・福井市)の丹羽長秀の与力として溝口秀勝が大聖寺城に4万4千石で置かれた。
1585年に長秀が没した後も秀勝は大聖寺城にとどめられ、江沼郡と能美郡の新領主・堀秀政の与力となっている。
その後、1598年に堀秀政の子・堀秀治が加増移封され春日山城に移ると、あわせて秀勝も新発田藩に転封された。これを受けて同年に小早川秀秋が江沼郡の領主となり、家臣の山口宗永を大聖寺城に6万3千石で置いた。翌年に秀秋は再び転封されたが、宗永は当地に残って秀吉の直臣となった。
1600年、関ヶ原の戦いで宗永は西軍についたため、東軍の前田利長に攻められて9月に大聖寺城は落城し、宗永は自刃した。
その後は前田家の家臣が城代を務めたが、1615年の一国一城令のため廃城となった。
1639年には前田利治が7万石を分けられて大聖寺藩を立て、跡地に藩庁として大聖寺陣屋を設けた。
城跡 本丸跡


次回、福井駅前から。