syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

福井 永平寺と足羽川 

2012-09-14 | 気まま旅

「道元」1200-53年 日本曹洞宗、開祖。
13歳で出家比叡山に登る。建仁寺の「明全」に従って入宋し4年後帰国。
京都の興聖寺を建てたが、延暦寺衆徒の迫害を受け、波多野義重に勧められ越前「永平寺」を建てて僧団を開設した。「正法眼蔵」を書き続け、病で京都で没した。

宋から帰国した歳に「普勧座禅儀」を執筆して自分の立場を明らかにし、座禅の方法を細大もらさず述べている。
後に作られた修道生活のための「永平清規」は、食事の作法など日常生活すべて「禅」と結びついている。と説いた。
「正法眼蔵」は、日本思想史の一頂点と云われている。

北陸自動車道「福井北IC」から、416号を越前竹人形の里を右折364号線沿いに「永平寺」がある。418号線に沿って九頭竜川が流れている。
「九頭竜川」は、福井藩の治水。
越前北ノ庄68万石の太守となった結城秀康(家康次男)は、重臣を要衝に配置し加賀前田氏の押さえと成り、秀康は北ノ庄を福井と改め、福井藩の藩祖となるが
藩政確立の為の領内整備を行った。
特に治水・利水においては家老・本多富正の功績が大きく。富正は家康の重臣・本多重次(作左衛門)の養子で秀康付きの家老となった人物である。
彼は福井城外堀への引水と城下の上水道・灌漑を目的に「九頭竜川」から日野川まで芝原用水を開削、日野川筋にも関ヶ鼻用水を開削して新田開発を促進した。
九頭竜川本川に「元覚堤」、日野川に「昼夜堤」を建設して中世には放置同然であった治水にも力を注ぎ、家老の一人今村盛次は十郷用水の公正な配水慣例を制定し、
以後この慣例にしたがって十郷用水の水利権は履行された。


九頭竜川                  永平寺橋               永平寺入口
    

曹洞宗は8世紀初め、中国の禅僧、洞山良介の“洞”とその弟子である曹山本寂の“曹”をとって“曹洞”としたのが名前の由来。
日本に伝えたのは宋に渡った道元禅師。帰国した道元禅師は宇治から越前に移り「吉祥山永平寺」を建て、弟子の育成に尽力した。
道元の「正法眼蔵」に代表される著書は13部121巻、「普勧座禅儀」や「学道用心集」、「永平清規」などがある、

「永平寺」1244年道元禅師が座禅修業の道場を、ここ深山幽谷に大小70余りの建築され、曹洞宗の大本山として、僧侶の育成と檀信徒の信仰の源となっている。


正面              吉祥閣入口                   楼門
    

建物を「伽藍」と云う。その中の堂で、「七堂伽藍」がある、山門、仏殿、僧堂、庫院、東司、浴室、法堂。
特に、僧堂、東司、浴室は、三黙道場で、私語は禁止とされている。

吉祥閣大広間                    天井画                達磨掛け軸
    

「承陽殿」は、1881年改築され、曹洞宗の聖地、道元禅師霊骨を安置され、拝殿に寺の歴任禅師の位牌、全国の曹洞宗寺院住職の位牌もある。
「法堂」は、禅師の説法の道場、中央に「聖観世音菩薩」をお祀りしている。
「仏殿」は、1902年改築、中国の宋時代の様式で、中央に本尊の釈迦牟尼仏(お釈迦様)に、三体の仏様過去、現在、未来の三世を現わしている。
「僧堂」は、座禅堂で、文殊菩薩が安置している。「大庫院」食事を作る典座寮ともいう、「韋駄尊天」がまつられている。

渡り廊下                   寺内            仏殿             
    

「傘松閣」控室2F156畳。「報恩塔」写経を納める。「鐘楼堂」、「舎利殿」、「東司、お手洗」、「浴室」など、全て渡り廊下でつながっている。

「山門」は、中国唐時代様式の楼閣門、四天王が安置されている。「吉祥の額」があげられている。道元禅師の教えを頑なに守っている道場
と思って参拝した。

僧堂                          堂から見た風景
  

市内を流れる「足羽川」は、県今立郡池田町の冠山を源に発し北流。福井市に入ると国道158号に沿って西に向きを変える。福井市の中心部を流れ、
福井市大瀬町付近で日野川に合流する。福井市街地の堤防に並ぶ日本一の桜並木は、「さくら名所100選」にも選ばれている。
たびたび、水害が起きているが、最近では2004年に、梅雨前線による洪水で、多大な被害を与えた。水害が起きる原因として、福井市の市街地に入ると
急に川幅が狭まって蛇行すること、足羽川にかかる橋が古いために橋脚が多く、川の流れを妨げてしまうということが挙げられる。

桜の名所「幸橋」は、全長 140 m 全幅 36.8 m。 軌道伏線が架かっている、昔から、幹線道の北陸道にあたる下流(西北西)約600 mにある
「九十九橋」に対し、幕末に初の架橋となったため「新橋」とも呼ばれている橋。

幸橋(足羽川)            桜並木の土手      この付近に中級武士が生活を
    

「坂本龍馬」1835-67 土佐藩の風雲児 「船中八策」、大政奉還を遂げた。日本を洗濯してやると徳川幕府打倒に奔走した。
海援隊士陸奥宗光は、「龍馬は、西郷より大きい人物に見えた」と云ってる。


「由利公正宅跡碑」碑に書かれていのは、「この付近には、明治政府初代財政担当者として、又は五箇条の御誓文起案者として知られている福井藩「由利公正」公の宅跡とある。
由利は、在藩時代 三岡八郎と称して居を構えていたが「坂本龍馬」や福井藩「横井小楠」が訪ねたいるとある」。
龍馬は2度福井に行っている、1862年 江戸で松平春嶽に横井小楠への紹介状を書いてもらった坂本龍馬は、1863年 この福井で、小楠と対面している。
その後、彼の案内で龍馬は、舟で足羽川を渡り、この場所、「由利公正」宅を訪ねたとある。幸橋は、1862年に出来ている。龍馬が来た、1863年には幸橋は出来ていた。


龍馬の歌碑                                                由利公正宅跡
    

「由利公正」 1829-1909 竜馬に見出された経済人、藩財政の建て直しに尽力した。龍馬の推挙で新政府の参与、維新後、東京府知事。
龍馬から貰った記念写真を、由利は、常に懐にしのばせていたが、川を渡る途中で落とし「凶事を感じた」。坂本龍馬は、京都で暗殺された刻限のことであったという。

幸橋から鯖江方面に向かうと、「毛矢」の足羽山公園入口、右折の公園方面に行くと、「西光寺」・「左内公園」・「松尾芭蕉宿泊地跡」に出た。


「妙経寺」と、その門前には「善慶寺」があり、近辺には、「顕本寺」や「西光寺」などもあったという。その正確な所在をたどることは困難である。
「善慶寺」に隣接してあったとされる。善慶寺は橋本左内の菩提寺。戦後は「妙経寺」に統合し、その跡地の一部は左内公園となっている。
芭蕉の「洞哉宅跡」の碑は左内公園に置かれている。この付近は寺社地が大半であったが、ちょうどこの一角だけ町屋が置かれていたようである。

市内を流れる足羽川               妙経寺     
    

「橋本佐内」 1834-58 26歳の若さで、大獄に散った福井藩士の秀才。藩主松平春嶽に重用され、一橋慶喜を尽力する。
大老井伊直弼と対立し、安政の大獄で断罪に処された。遺体は、江戸小塚原回向院。

妙経寺本堂                    佐内の案内板
  

橋本佐内と西郷隆盛
明治10年、1877年、西郷隆盛は故郷鹿児島の地において、その長い生涯を終えた。自刃した西郷が携帯していた革文庫の中に、一通の手紙が収められていた。
それは、西郷と橋本左内が「将軍継嗣問題」に奔走していた頃に書かれた左内からの西郷宛の手紙。西郷は、左内の手紙を亡くなるその瞬間まで肌身離さず持っていた。
西郷にとって橋本左内という人物は、一生忘れることの出来ない同志であり、永遠の友人でもあった。

橋本佐内像                      北の庄西光寺
  

   
               柴田勝家の墓
    

「西光寺」は、天台宗真盛派の祖である真盛上人を開祖とする柴田勝家の菩提寺で、元々は福井市次郎丸の山麓にあり、柴田勝家公の北ノ庄築城に際し、
北ノ庄に移転させられ、現在も福井市の左内町に有る。
秀吉軍に攻められ、北の庄城で命を絶つに先立ち、3人の姉妹の将来などを住職に託したと伝えられる。
境内には勝家とお市の方の墓があり、勝家の自筆の書や刀剣、金の御幣の馬標、1874年に発掘された北の庄城の鬼瓦などを展示する柴田勝家公資料館ともなっている。


「愛用の梅の木」は、勝家公が生前に愛用したと伝えられ、昭和20年戦災により焼失したが不思議にも後日発芽したという。
「北ノ庄城礎石」は、明治7年に北ノ庄城濠跡を整地した際に発掘されたもの。

城の土台石                              本殿
  

「松尾芭蕉」仙台・加賀領に逗留している。その為忍者説がある。最後の句「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」大阪で。

「芭蕉宿泊地 洞哉宅跡」は、左内公園内にある。芭蕉が、「おくの細道」の旅の途中、福井の俳人「洞哉」を訪れたのは、1689年だといわれる。
洞哉という人は、どのような人物であったかはあまり知られていない、芭蕉の死後約100年後の1792年、福井の俳人達が百回忌の法会を営み、その時の記録の中に、
「洞哉という人は、貧しい暮らしをしており、芭蕉が訪れたときも枕がなく、幸い近くの寺院でお堂を建てていたので、ころあいの良い、木片をもらってきて芭蕉の枕とした。」
という話があり、このような人柄が芭蕉に気にいられたのか、芭蕉は洞哉の家に2泊したのち、連れ立って敦賀へと向っている。    

 碑  「名月の 見所問ん 旅寝せむ」の句が。

松尾芭蕉宿泊地          洞哉宅跡                碑
    

次回は、福井城へ