身延山地は、県南西部、富士川河谷西側山地、身延山高さ1153m、富士川、静岡糸魚川、春木川との間で、石英閃緑岩で富士川川の斜面は、地滑りが多い。
身延山を日蓮宗総本山「久遠寺」が占め、寺城も身延山と呼んでいる。本堂裏から奥の院までロープウエイが通じ観光化している。
工事中の山門 門前町

鎌倉時代、蓑を着た農夫の形に似ている所から「蓑夫山」と云われ、日蓮入山して「身を延ぶる山」と改名されたという。
町は山林原野で83%を山に占められている。茶栽培、人工造林などが盛ん、シイタケ生産、ゆばが知られている。
立派な楼門 参道

「久遠寺」は、1274年日蓮が、やまの西谷に草庵が起源で、1281年身延山久遠寺と命名された。
本尊は、大曼荼羅、1882年江戸池上で没し、遺言で墓を身延山西谷草庵北に置くように云い残している。今でも多数の僧坊が建てられている。
1712年時数133に達したという。
久遠寺参拝、287段の石段を登ると左手に五重塔、正面に大本堂で、日蓮宗の聖地である。
総門、三門、本堂、祖師堂、奥の院と続く、広い境内には、樹齢400年の枝垂れ桜が迎えてくれた。
287の急な階段

佐渡島流罪を許さ蛇日蓮が、「波木井実長公」の招きで身延山に入山し、庵室をかまえた事が起こりとされている。
以来9年に渡り、法華経の読誦と門弟達の指導に努めた日蓮は、1281年身延山に本格的工事をし本堂を建設している。
療養の為、武蔵の国池上で没した。

日蓮 1222-82 戦闘的な日蓮宗の開祖、千葉県、安房の生まれ、安房の清澄寺にて出家、浄土教を批判した。
鎌倉で「立正安国論」を書き上げる。北条時頼に提出したが無視され、伊豆へ流された。他宗の僧から憎まれ、佐渡ヶ島へ流された。身延山で蒙古来襲している。
鎌倉竜の口で打ち首時、雷鳴と稲妻が走り命が助かっている。
本堂

本堂裏手に身延山山頂を目指すロープウエイで約7分に奥の院「恩親閣」があり、ここからの展望は南アルプス、富士山を望む事が出来る。
富士山の見えるロープウエイ

日蓮は身延山に草庵をかまえ、法華経読誦の日々を送る、その草庵をとりかこむ山々のうち西方にひときわ高く屏風のようにそびえたっていたのが七面山で、
山頂に近い平坦地に身延山久遠寺に属する敬慎院があり、登詣する人々で賑わい、この敬慎院には、身延山を守護する鎮守神として七面大明神がまつられている。
霊山の大自然は、登詣者の苦行にこたえるかのように、眼前に一大パノラマを展開し、七面山への登詣は、険しい山坂を越えて行くもので苦行を伴い、
その道程が修行の道と云われている。


「清水市興津町」
風光明媚で知られた清見潟は、古代、清見関と息津駅が置かれた。
この場合の息津は現在の興津と異なり、西寄りの横砂あたりではないかと言われている。
江戸時代には興津宿として東海道五十三次の17番目の宿場町として発展し、明治以降は鉄道が開通したことにより、西園寺公望などの元勲の別荘が建ち、
避寒地として全国的にも知られていた。
東海道本線「興津駅」。清見寺では境内の一部が鉄道敷地として召し上げられ、それによって風致が損なわれた事に対する補償金が支払われたが、
寺の住職はそれを献納したといわれ、その名残で、東京側から見ると興津駅を過ぎた先で、清見寺の総門と本堂の間を東海道本線が横切っているのを見る事ができる。
興津駅 興津宿

鎌倉時代 興津氏が宿の長者として一帯を支配し、南北朝時代から戦国時代まで 1345年-国ごとに安国寺利生塔が建てられ、駿河国の寺は承元寺に定め、
塔は清見寺に建てている。
江戸時代 1601年-宿駅伝馬制度により興津宿駅が制定され、1663年-府中に駿府代官所が置かれ、清見寺・興津・中宿・洞・薩埵・八木間がその支配下となる。
承元寺は清見寺領、1793年-興津・中宿・洞・八木間が韮山代官所の支配となる。現在は、海岸線、国道一号線、東海道線と狭い街になっている。
清見寺境内の中を東海道線が走っている

次回は、興津宿から清水方面へ。
身延山を日蓮宗総本山「久遠寺」が占め、寺城も身延山と呼んでいる。本堂裏から奥の院までロープウエイが通じ観光化している。
工事中の山門 門前町



鎌倉時代、蓑を着た農夫の形に似ている所から「蓑夫山」と云われ、日蓮入山して「身を延ぶる山」と改名されたという。
町は山林原野で83%を山に占められている。茶栽培、人工造林などが盛ん、シイタケ生産、ゆばが知られている。
立派な楼門 参道



「久遠寺」は、1274年日蓮が、やまの西谷に草庵が起源で、1281年身延山久遠寺と命名された。
本尊は、大曼荼羅、1882年江戸池上で没し、遺言で墓を身延山西谷草庵北に置くように云い残している。今でも多数の僧坊が建てられている。
1712年時数133に達したという。
久遠寺参拝、287段の石段を登ると左手に五重塔、正面に大本堂で、日蓮宗の聖地である。
総門、三門、本堂、祖師堂、奥の院と続く、広い境内には、樹齢400年の枝垂れ桜が迎えてくれた。
287の急な階段



佐渡島流罪を許さ蛇日蓮が、「波木井実長公」の招きで身延山に入山し、庵室をかまえた事が起こりとされている。
以来9年に渡り、法華経の読誦と門弟達の指導に努めた日蓮は、1281年身延山に本格的工事をし本堂を建設している。
療養の為、武蔵の国池上で没した。


日蓮 1222-82 戦闘的な日蓮宗の開祖、千葉県、安房の生まれ、安房の清澄寺にて出家、浄土教を批判した。
鎌倉で「立正安国論」を書き上げる。北条時頼に提出したが無視され、伊豆へ流された。他宗の僧から憎まれ、佐渡ヶ島へ流された。身延山で蒙古来襲している。
鎌倉竜の口で打ち首時、雷鳴と稲妻が走り命が助かっている。
本堂


本堂裏手に身延山山頂を目指すロープウエイで約7分に奥の院「恩親閣」があり、ここからの展望は南アルプス、富士山を望む事が出来る。
富士山の見えるロープウエイ


日蓮は身延山に草庵をかまえ、法華経読誦の日々を送る、その草庵をとりかこむ山々のうち西方にひときわ高く屏風のようにそびえたっていたのが七面山で、
山頂に近い平坦地に身延山久遠寺に属する敬慎院があり、登詣する人々で賑わい、この敬慎院には、身延山を守護する鎮守神として七面大明神がまつられている。
霊山の大自然は、登詣者の苦行にこたえるかのように、眼前に一大パノラマを展開し、七面山への登詣は、険しい山坂を越えて行くもので苦行を伴い、
その道程が修行の道と云われている。






「清水市興津町」
風光明媚で知られた清見潟は、古代、清見関と息津駅が置かれた。
この場合の息津は現在の興津と異なり、西寄りの横砂あたりではないかと言われている。
江戸時代には興津宿として東海道五十三次の17番目の宿場町として発展し、明治以降は鉄道が開通したことにより、西園寺公望などの元勲の別荘が建ち、
避寒地として全国的にも知られていた。
東海道本線「興津駅」。清見寺では境内の一部が鉄道敷地として召し上げられ、それによって風致が損なわれた事に対する補償金が支払われたが、
寺の住職はそれを献納したといわれ、その名残で、東京側から見ると興津駅を過ぎた先で、清見寺の総門と本堂の間を東海道本線が横切っているのを見る事ができる。
興津駅 興津宿


鎌倉時代 興津氏が宿の長者として一帯を支配し、南北朝時代から戦国時代まで 1345年-国ごとに安国寺利生塔が建てられ、駿河国の寺は承元寺に定め、
塔は清見寺に建てている。
江戸時代 1601年-宿駅伝馬制度により興津宿駅が制定され、1663年-府中に駿府代官所が置かれ、清見寺・興津・中宿・洞・薩埵・八木間がその支配下となる。
承元寺は清見寺領、1793年-興津・中宿・洞・八木間が韮山代官所の支配となる。現在は、海岸線、国道一号線、東海道線と狭い街になっている。
清見寺境内の中を東海道線が走っている



次回は、興津宿から清水方面へ。