1月の日曜日渋谷東急本店横の「ザ・ミユージアム」ー禅画に込めたメッセージ・白隠展ーに出掛けた。(12月22日から2月24日まで)
渋谷駅からハチ公前は、若者ので溢れ返っていた。
今から500年前、江戸中期の禅僧「白隠慧鶴」、民衆教化に捧げた、現代の臨済宗中興の高僧で、天皇より「神機独妙禅師」の号を賜った、白隠(はくいん)1685-1768 駿河国(沼津)で生まれるいる。
15歳で臨済宗、松蔭寺に出家し全国行脚、33歳で松蔭寺に戻り住職に、臨済宗を説く、僧には珍しく豪勇で、狼が昼夜出没し村人に害を
与えているにもかまわず、白隠は、独り座禅を組んだ、狼は、白隠の顔を舌で舐められ、頭上を飛び回っても動じずに座禅を続けていたという
「臨済宗」とは、お釈迦様が深い瞑想のもとに悟った「無我の境地」を、坐禅や日常生活を通して体験し、自覚すること、
「こだわらず」「とらわれず」、迷いも欲望も苦悩もない、自然と同化した絶対的境地。
それが本来、人間がもつ清浄な仏心そのものと云う。
日本の禅宗には、三つの宗旨「臨済宗・曹洞宗・黄檗宗」があり、臨済宗はその中のひとつ。臨済宗の教えを「臨済禅」と呼びます。
坐禅を宗旨の中心として、師匠から与えられた問題「公案」について工夫し、坐禅により身体で会得した見解を提示し、点検してもらいます。これをいわゆる禅問答「入室参禅」といい、このような坐禅修行を中心とする教えが臨済宗である。
蓮池観音は、珍しく鮮やかな多色づかい。
農業土木の上野英三郎博士に1924(大正13)年から17カ月間飼われた犬の「ハチ」。亡くなった主人を待ち続けたことで有名になり、1934(昭和9)年にでき(初代)、1948(昭和23)年に再建された犬の(二代)ハチ公の像。渋谷のシンボルとなり、その名を冠したコミュニティーバス「ハチ公バス」も走っているという。
今日は、中国観光客が大勢で記念写真、若いカップルに頼まれシャッターを。
駅前交差点、左から道元坂、文化村通り、センター通り、井の頭通りと扇状に、その文化村通りを5分程行くと左手に。
忠犬ハチ公像 文化村ビル
今回の展示は、白隠の仏教的に留まらず、七福神やお福など庶民信仰にもとずき、又猿、鼠、書道と多岐にわたっている。ユーモアをこめたものや書画と多数展示されていた。
会場は、可なりの人で混雑し、平日のもう一度ゆっくり見たいと思う。
白隠の似顔絵ではと云われている「達磨」
「白隠慧鶴」は、駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)で生まれ、(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させたという。また、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救った。
曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。 現在も、臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦する。
現在、世界の白隠と云われ、墓は原の「松蔭寺」にあって、県指定史跡となり、彼の描いた禅画も多数保存されていると云う。
ユニークな独特な白隠の書画
達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。
壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。
これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されている。529年、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。
達磨は彼の入門を認め、名を「慧可」と改めた。この「慧可」が禅宗の第二祖であるという。
以後、中国に禅宗が広まったとされる。528年に150歳で遷化したとされ。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう。厳しい座禅修業で、手足が成長を止めたという伝説も。
「元祖くじら屋」で昼食、65年前を懐かしながら、
うまい鯨と旨い日本酒置いているとの事、鯨を食べたことのある方は鯨の美味しさの再確認と初めて食べる方は鯨の美味しさにきっとびっくりするはず!低カロリー、低脂肪、高タンパクの鯨肉の専門店。 電話 03-3461-9145、道玄坂2、文化村通り。
今日は、日本酒と日替わりランチ「鯨肉てんぷら定食」税込980円を注文した。
昔懐かしいクジラ屋の天ぷら定食
渋谷からお隣の恵比寿駅下車、恵比寿は、七福神一人で大黒さんと並んで福神の代表、商売の神様であった。その福神をビールの名前に付けて売り出した、発売早々好評、外人にも人気で帝国ホテルにも置かれたという。
恵比寿ビールの荷物扱いの駅が工場の隣にあり明治39年ビールの商品名を取って「恵比寿駅」となった。
ビールと云えば水、三田用水は、麦芽に最良の軟水であったともいう。現在、サッポロビールの香りする駅から「渋谷川」へ。
渋谷川は、新宿御苑、明治神宮の湧き水等の源水のほか、玉川上水完成(1653年)後、四谷大木戸(現在の四谷四丁目)の水番所から上水の余った水を渋谷川へ流すことで、流量が飛躍的に増えたという。
これにより、水車を掛けることが可能になり、渋谷川には幾つか水車が作られた。
北斎の富嶽三十六景の「穏田の水車」は、原宿穏田村付近(現在の神宮前三丁目)の渋谷川の水車小屋を描いたものであるという。
JR恵比寿駅下車 ビルの谷間の渋谷川
「聖心女子大学」は、渋谷区広尾、大学は、1948年に設置。
開校は1916年。私立聖心女子学院高等専門学校を前身とし、1948年、新学制により聖心女子大学として発足。
日本最初の女子大学の一つ。初代学長はエリザベス・ブリッド。元国連難民高等弁務官の緒方貞子は新制大学の第一期生。
1800年、フランスに設立された女子修道会「聖心会」を母体とし、世界42カ国に170校の姉妹校を持つ。現在の聖心会総本部はイタリア・ローマにある。広尾の大学構内には聖心会日本管区本部のほか、付属研究機関としてキリスト教文化研究所、カトリック女子教育研究所が設置されている。なお、同大学のキャンパスはもとの久邇宮邸であり、香淳皇后(昭和天皇皇后)が幼少を過ごした地、結婚の折にはこの地から宮中に向かった。正門とパレスと呼ばれる伝統的日本家屋は、当時のものがそのまま修復保存されているという。
皇后美智子様(今上天皇皇后)の出身大学でもある。
本大学は、2代続けて皇后様に縁のあるキャンパスということになる。
奥が校舎
「広尾」は、樋籠と記され、広大な原野で「広尾原」とも呼ばれた。
文政から天保年間に描かれた『江戸名所図会』では、一面にススキが広がる景色が描かれている。港区と渋谷区に跨る広域地名でもあった。
江戸時代初期までは下渋谷村の一部であったのが、1664年に町屋の起立が許され渋谷広尾町が発足。
後、1713年に江戸町奉行の所管になった際に広尾橋を挟んで麻布側にも麻布広尾町が発足。渋谷広尾町は、恵比寿駅前と渋谷橋周辺、及び広尾駅周辺に点在していた。
「上宮寺」浄土真宗 本願寺派の寺。(渋谷区広尾5)
次回は、広尾、麻布方面に。