真鶴は、県南西部、箱根火山の南東麓、小田原と湯河原に間の街で地形がツルが羽を広げた形から来ている。
黒松、楠の大木の自然林と岬の先端で風光明媚。
主産業は、有名な小松石の発掘と加工で歴史のある町である。真鶴半島は、長さ3K・面積7KM2で箱根溶岩流が半島の原型で、起伏がある。
私は、好きな街で特に新井城跡公園のしだれ桜は見事である。
1606年幕府より江戸城用石調達の命令を受け、筑前大名「黒田長政」が、開拓し、江戸の町の建設に重用されている。下田もここを経由し
紀伊、尾張、水戸、浅野、黒田、加藤なども石切り場としている。運搬は船が多いようで港に大型クレーンが常に動いている。
真鶴と江戸は、直結していた。石の文化は真鶴へであろう。
JR東日本鉄道「真鶴駅」は、東海道線 快速「アクティー」と普通 根府川駅 -「真鶴駅」 - 湯河原駅ー東京駅。
湘南新宿ラインの特別快速が小田原 - 熱海駅間で延長運転され、新宿方面行き列車は当駅を出ると次の停車駅は小田原駅で便利になった。
JR真鶴駅前 路上に岩のりが
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/c1/09b827935491fb6b113683d5fb2f9ccc.jpg)
「真鶴港」は、真鶴半島の北側に位置し、半島の陰にある天然の良港。 真鶴町では、古くから石材業が盛んで、江戸城築城以来の歴史を持っており、当時から真鶴港を利用して石材を海運していた。
現在でも、石材業は、町の地場産業を支える大きな柱となっている。 現在は、真鶴港には、クルーザーを中心に約30隻のヨットと、約60隻の漁船が収容、中央に大型クレーンが。
「品川台場礎石の碑」は、江戸時代末期に築かれた品川台場(砲台)にも真鶴産の石が使われている。礎石のみ真鶴に移されている。
今でも石材がここから 品川台場礎石の碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/ba/17f94cc5ff7af7007f48abc424cf60a6.jpg)
真鶴町の東岸に位置する、「岩海岸」は、入り江、波静かな海水浴場として人気がある。
真鶴新道の「岩大橋」と、岩と云う名の由来ともなった大岩など恵まれている。
岩海岸で8月の第一土曜日に行われるのが、「岩海岸夏まつり」、真鶴を代表する「貴船祭り」が終わった直後、小田原市では、「酒匂花火大会」が開催されているが、花火、灯籠流し等が行われる。
岩海岸と岩大橋
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「如来寺跡」は、岩海岸から路地を進むと、如来寺跡がある。
帰命山・如来寺は1620年に建てられ、1911年に廃寺となった古寺。
本尊は石仏の阿弥陀如来であったと伝えられます。古い境内には石窟があり、内部には石造りの十王像や菩薩形座像、地蔵菩薩像などが安置されている。
如来寺跡の石仏が 寺跡の碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/75/0371a294fc4fcebaa5f809d504c67843.jpg)
石仏群は、岩海岸大浦の一角に、廃寺の洞窟。通称、岩の赤石・赤馬石と言われる岩盤を掘り進めた、地獄・間道・極楽は岩肌も荒々しく薄暗く、
閻魔大王を初め十王像や奪衣婆が並び業の秤や善悪人頭杖が置かれ不気味な感じ。
月山和尚が建立し他と云われ、本尊阿弥陀如来石仏は但唱の作で、境内には石室(洞窟)があり十王及び聖観音と地蔵の石仏があると「新編相模国風土記稿」に書かれている。
岩村明細帳では、1641年月桂和尚が開山で、本尊は同じく但唱作となっている。
1725年の如来寺財産目録に、本尊弥陀は今迄通り安置、但唱が一夜で仕上げた観音石仏は岩穴に置かれ村人が百万遍の数珠を廻して念仏していると書かれている。
無縁墓石が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/c0/6902066a34577b6233bd0bfbd450ef1b.jpg)
「閻魔大王」のモデルは古代インド神話に登場する日神ビバスバットの子であり、自ら死を 望んで冥土への道を切り開いて、冥府の王者になった人類の始祖であるヤマ王とされ ている。
閻魔大王石仏 お天王さん
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/49/ddf20bfb6539954142d096f307c86fc5.jpg)
「児子神社」は、栃木県から彫刻師を呼んで造らせた陶器製の狛犬や、流石海辺の神社、境内社に龍宮神がある。
文徳天皇の皇子 惟喬親王とその御子神をお祀りしている。
17世紀の創立と伝えられるが、天保年間大災のため社殿を焼失し、古記録等は失った。
古来、岩地区の人たちの生産と生活の守り神として信仰されている。7月の「夏祭り」は、花山車、神輿、囃子の順で町内を練り歩くという
素朴なお祭り。
児子神社 石鳥居 拝殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/2d/7be62cb243ee1a158b083de48aad989b.jpg)
「竜神」竜の姿をして水中に住み、水をつかさどるとされる神。
農業と 結びつき雨乞い祈願の対象となり、漁師にも信仰されている。
神社横に龍宮神 拝殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/d2/90c16ad20bfadf0e3a6ba34e65d814fd.jpg)
「石工先祖の碑」は、石段上に、鎌倉時代に石材業を始めた「土屋格衝」と江戸城を築くための採石に当たった黒田長政支配下の
業績をたたえ、碑が再建されたものである。(住宅街の一画に)
石工先祖碑 石材業の土屋格衛等の碑が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/3a/971e45aaabf79f989e1b5eb436502824.jpg)
湯河原吉浜に建つ「小道地蔵堂」、元々は、椙山の山中に建てられていた。
「石橋山の合戦」に敗れた源頼朝は土肥郷を領していた土肥実平に導かれながら逃れるのだが、敵方の大庭軍の追撃を受け、その際に小道地蔵堂の修行僧「純海」の命懸けの庇護を受けて無事に真鶴に逃れることが出来た。
後に頼朝はその時の大恩に報いようと、椙山々中に新たに勝地を卜して僧堂を建立、寺田を純海に与えたとある。
残念ながらその堂宇も1265年に焼失し、寺田もまた海潮により流失してしまったと云う。
その後かなりの期間を経て、岩本勘兵衛と云う人が1685年に焼跡から石造の地蔵像を探し出し、その30年後に禅廊上人が現在地に地蔵堂を再建した。
国道湯河原も地蔵堂
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/88/6f8f693c796ac21d1eb7f2656c5895a4.jpg)
「湯河原・吉祥院」は、1590年に庵主の輪轉全法が空山為徳を開山に迎えて開基したものと伝えられている。山号の如意山。
如意輪観音を本尊とすし、現在は、曹洞宗寺院。
入口の右手には御覧の庚申供養塔と六十六部供養塔が並び建てられている。
庚申塔や六十六部供養塔がある。
地蔵堂の隣が吉祥寺 前が湯河原海水浴場
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/d3/ab258a7868ada6e45194b69eb3279e11.jpg)
「土肥実平」一族は、現在の小田原城付近に小峰館という館を建てて住んだ、「自分の土地」ということをみんなに知らせるため、近くを流れる早川から「小早川氏」という名前に変えている。
のちに広島方面に移住した小早川一族、戦国時代毛利元就の親族となり、豊臣政権五大老の智将、小早川隆景まで続いて行く。
歴史を感じる墓石が。
中腹まで墓地に
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/fa/c4b0288b09f8321e14f6096479bbea32.jpg)
次回は、源頼朝の若き日を追います。
黒松、楠の大木の自然林と岬の先端で風光明媚。
主産業は、有名な小松石の発掘と加工で歴史のある町である。真鶴半島は、長さ3K・面積7KM2で箱根溶岩流が半島の原型で、起伏がある。
私は、好きな街で特に新井城跡公園のしだれ桜は見事である。
1606年幕府より江戸城用石調達の命令を受け、筑前大名「黒田長政」が、開拓し、江戸の町の建設に重用されている。下田もここを経由し
紀伊、尾張、水戸、浅野、黒田、加藤なども石切り場としている。運搬は船が多いようで港に大型クレーンが常に動いている。
真鶴と江戸は、直結していた。石の文化は真鶴へであろう。
JR東日本鉄道「真鶴駅」は、東海道線 快速「アクティー」と普通 根府川駅 -「真鶴駅」 - 湯河原駅ー東京駅。
湘南新宿ラインの特別快速が小田原 - 熱海駅間で延長運転され、新宿方面行き列車は当駅を出ると次の停車駅は小田原駅で便利になった。
JR真鶴駅前 路上に岩のりが
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/c1/09b827935491fb6b113683d5fb2f9ccc.jpg)
「真鶴港」は、真鶴半島の北側に位置し、半島の陰にある天然の良港。 真鶴町では、古くから石材業が盛んで、江戸城築城以来の歴史を持っており、当時から真鶴港を利用して石材を海運していた。
現在でも、石材業は、町の地場産業を支える大きな柱となっている。 現在は、真鶴港には、クルーザーを中心に約30隻のヨットと、約60隻の漁船が収容、中央に大型クレーンが。
「品川台場礎石の碑」は、江戸時代末期に築かれた品川台場(砲台)にも真鶴産の石が使われている。礎石のみ真鶴に移されている。
今でも石材がここから 品川台場礎石の碑
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真鶴町の東岸に位置する、「岩海岸」は、入り江、波静かな海水浴場として人気がある。
真鶴新道の「岩大橋」と、岩と云う名の由来ともなった大岩など恵まれている。
岩海岸で8月の第一土曜日に行われるのが、「岩海岸夏まつり」、真鶴を代表する「貴船祭り」が終わった直後、小田原市では、「酒匂花火大会」が開催されているが、花火、灯籠流し等が行われる。
岩海岸と岩大橋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/e7/b13f66c3408ca1eeed4686866fb3acc0.jpg)
「如来寺跡」は、岩海岸から路地を進むと、如来寺跡がある。
帰命山・如来寺は1620年に建てられ、1911年に廃寺となった古寺。
本尊は石仏の阿弥陀如来であったと伝えられます。古い境内には石窟があり、内部には石造りの十王像や菩薩形座像、地蔵菩薩像などが安置されている。
如来寺跡の石仏が 寺跡の碑
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石仏群は、岩海岸大浦の一角に、廃寺の洞窟。通称、岩の赤石・赤馬石と言われる岩盤を掘り進めた、地獄・間道・極楽は岩肌も荒々しく薄暗く、
閻魔大王を初め十王像や奪衣婆が並び業の秤や善悪人頭杖が置かれ不気味な感じ。
月山和尚が建立し他と云われ、本尊阿弥陀如来石仏は但唱の作で、境内には石室(洞窟)があり十王及び聖観音と地蔵の石仏があると「新編相模国風土記稿」に書かれている。
岩村明細帳では、1641年月桂和尚が開山で、本尊は同じく但唱作となっている。
1725年の如来寺財産目録に、本尊弥陀は今迄通り安置、但唱が一夜で仕上げた観音石仏は岩穴に置かれ村人が百万遍の数珠を廻して念仏していると書かれている。
無縁墓石が
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/c0/6902066a34577b6233bd0bfbd450ef1b.jpg)
「閻魔大王」のモデルは古代インド神話に登場する日神ビバスバットの子であり、自ら死を 望んで冥土への道を切り開いて、冥府の王者になった人類の始祖であるヤマ王とされ ている。
閻魔大王石仏 お天王さん
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/49/ddf20bfb6539954142d096f307c86fc5.jpg)
「児子神社」は、栃木県から彫刻師を呼んで造らせた陶器製の狛犬や、流石海辺の神社、境内社に龍宮神がある。
文徳天皇の皇子 惟喬親王とその御子神をお祀りしている。
17世紀の創立と伝えられるが、天保年間大災のため社殿を焼失し、古記録等は失った。
古来、岩地区の人たちの生産と生活の守り神として信仰されている。7月の「夏祭り」は、花山車、神輿、囃子の順で町内を練り歩くという
素朴なお祭り。
児子神社 石鳥居 拝殿
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「竜神」竜の姿をして水中に住み、水をつかさどるとされる神。
農業と 結びつき雨乞い祈願の対象となり、漁師にも信仰されている。
神社横に龍宮神 拝殿
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「石工先祖の碑」は、石段上に、鎌倉時代に石材業を始めた「土屋格衝」と江戸城を築くための採石に当たった黒田長政支配下の
業績をたたえ、碑が再建されたものである。(住宅街の一画に)
石工先祖碑 石材業の土屋格衛等の碑が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/56/72dde930078b0447a77c179c43541f51.jpg)
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湯河原吉浜に建つ「小道地蔵堂」、元々は、椙山の山中に建てられていた。
「石橋山の合戦」に敗れた源頼朝は土肥郷を領していた土肥実平に導かれながら逃れるのだが、敵方の大庭軍の追撃を受け、その際に小道地蔵堂の修行僧「純海」の命懸けの庇護を受けて無事に真鶴に逃れることが出来た。
後に頼朝はその時の大恩に報いようと、椙山々中に新たに勝地を卜して僧堂を建立、寺田を純海に与えたとある。
残念ながらその堂宇も1265年に焼失し、寺田もまた海潮により流失してしまったと云う。
その後かなりの期間を経て、岩本勘兵衛と云う人が1685年に焼跡から石造の地蔵像を探し出し、その30年後に禅廊上人が現在地に地蔵堂を再建した。
国道湯河原も地蔵堂
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「湯河原・吉祥院」は、1590年に庵主の輪轉全法が空山為徳を開山に迎えて開基したものと伝えられている。山号の如意山。
如意輪観音を本尊とすし、現在は、曹洞宗寺院。
入口の右手には御覧の庚申供養塔と六十六部供養塔が並び建てられている。
庚申塔や六十六部供養塔がある。
地蔵堂の隣が吉祥寺 前が湯河原海水浴場
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/17/5577bfbd5fd03d4d22b83ee3b373175a.jpg)
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「土肥実平」一族は、現在の小田原城付近に小峰館という館を建てて住んだ、「自分の土地」ということをみんなに知らせるため、近くを流れる早川から「小早川氏」という名前に変えている。
のちに広島方面に移住した小早川一族、戦国時代毛利元就の親族となり、豊臣政権五大老の智将、小早川隆景まで続いて行く。
歴史を感じる墓石が。
中腹まで墓地に
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/fa/c4b0288b09f8321e14f6096479bbea32.jpg)
次回は、源頼朝の若き日を追います。