千駄ヶ谷は、区の北で、JR中央線千駄ヶ谷駅と代々木駅東に地域。千駄は、馬一頭に負わす重さで、カヤを刈り取り馬で運んでいたのであろう
江戸時代は、大名屋敷地で。幕府の火薬庫でもあった。北側は、新宿御苑の一部と東京体育館、都屋外プールなどがある。
昔、代々木寄りに、明治時代、陸軍が、日本初の飛行を試みて、記録では、高度70M,距離3000Mと残る。
「日蓮宗千寿院」は、山号 法雲山。1644年 紀伊の太守徳川頼宣の生母お萬の方の発願により、里見日遙(安房の太守里見義康の次女)を開山として創立。
江戸期、紀伊徳川家、伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、十万石の格式をもって遇せられ、壮大な堂宇と、庭園は江戸名所の一つに数えられ、新日暮里とも呼ばれた。
江戸期において隆盛を誇ったが明治維新の変革によって衰微し、明治18年には火災によって全山焼失し、復興したが昭和20年戦災で再び全山焼失した。
39年の東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、44年には本堂、書院を再建、59年には書院、客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し、現在に至っている。
青山七福神の一ヶ寺であり、布袋尊が祀られている。
千寿院 本殿

「古碧山・龍巌寺」は、神宮前にある臨済宗南禅寺派の寺院、名主半右衛門が居宅を捨てて一寺に、1630年 喚室を開山に迎え創建。
御府内八十八ヶ所霊場9番札所。 釈迦如来像
龍巌寺 山門

「勢揃坂」は、龍巌寺前
永保三年 1083年、「後三年の役」の際、八幡太郎義家が奥州征伐に向かうとき、ここで軍勢を揃えたことからこの名が残された。
勢揃坂

「熊野神社」は、御祭神 五十猛ノ命、大屋津姫ノ命、抓津姫ノ命、伊弉冉ノ命、旧称 熊野大権現。
鎮座地は、神宮前二丁目、創建年代 元和5年(1619)。

「北青山高徳寺」浄土宗の寺。
「河内山宗春」~1823 茶坊主。実在は、確かなようで、水戸藩が無許可の「富くじ」を開帳したことを突き止め、水戸家から五百両の大金をゆすり成功している。後、事件発覚し獄死したという。又、商家の娘が若い侍と蜜通、娘の両親から、二百両で、大名屋敷に乗り込んでいる。宗春は、上野寛永寺の僧侶をかたり娘を救い出したともいう。
講談「天保六花撰」・歌舞伎「天衣粉上野初花」で悪者に。
門を入ってすぐの右側に大正時代に建てられた河内山宗俊の碑が有る。石仏がたくさんあります。
高徳寺 本殿 河内山宗春碑

千駄ヶ谷の「端園寺」で、渋谷区の禅寺は、終わるが、渋谷には武家屋敷が多い為なのか「禅寺」も多い、禅宗は、厳しい修行が条件である。
厳しい修業のそこに、「白隠慧鶴」80余年民衆教化の捧げ、ユニークな書画と美術が生まれてきた事に改めて勉強させられた。
端園禅寺 石仏

達磨大師 禅宗の歴史は西暦520年頃にインドから中国へ布教にやってきた、お釈迦さまから28代目の祖師、菩提達磨により中国に禅宗が伝えられ、発展した。
日本には鎌倉時代に栄西が、南宋代の中国に渡って天台山の万年寺で禅宗を学び、1191年に帰国、初めて臨済宗黄竜派を伝えた。
都での禅の布教は困難を極めたが、1195年、博多に日本最初の禅寺・「聖福寺」を創建。栄西が持ち帰った茶の種を、筑前の脊振山の中腹にある霊仙寺、佐賀県神埼郡東脊振村に捲き、茶栽培(岩上茶)を推進し、お茶を飲む習慣を日本に持ち込んだのも有名。
宇治茶は、栄西が東脊振から送った種が始まりとされている。1200年、鎌倉に出向き寿福寺や建仁寺の住持となり、1215年、鎌倉の寿福寺にて没した。
1223年、道元は、栄西が没した8年後の1223年に中国(宋)に渡り天童山景徳寺で如浄禅師の指導を受け坐禅を中心とした本物の修行し、1227年に帰国して曹洞宗を広め、中国に渡るまで修行した建仁寺に戻ったあと、宇治山田に興聖寺を開山したが比叡山の圧迫などがあって信徒の一人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重から所領がある越前に移ることを勧められ、現在の総本山となっている「永平寺」を開創され全国に広がっていった。
神木 本殿

「観音坂」の坂名は、真言宗観谷山聖輪寺の本尊であった如意輪観音像に由来。観音は聖輪寺の開山とされる行基の作と伝えられていが、残念ながら戦災によって焼失。「江戸名所図会」によると、身の丈は三尺五寸で、両眼は金でつくられていたという。(区教育委員会)
「真言宗豊山派 聖輪寺」は、千駄ヶ谷、観音坂沿いにある。府内88か所霊場10番寺。
観音坂碑 本殿

「鳩森八幡神社」は、千駄ヶ谷1丁目に位置し、主祭神・応神天皇・ 神功皇后、創建ー860年、例祭 9月15日。
千駄ヶ谷一帯の総鎮守で、氏子町は、北は代々木駅・南新宿駅周辺から、新宿駅新南口の高島屋タイムズスクエアと広がる神社。
1789年の築造と言われ、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上に、頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となっており、山腹にはクマザサも植えられている。
山裾の御影石の里宮(浅間社)をはじめ、7合目には身祿様が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂にボク石で覆われている奥宮等富士山を再現。
富士塚の前にある池にみたてた場所には毎年開山式(6月3日)の頃菖蒲が咲く。
鳩森八幡神社 神木

「江戸名所図会」によると、「往古、此地深林の中に時として瑞雲現じける。又或時、碧空より白雲降りて雲上に散ず。村民怪しむで彼の林の下に至るに、忽然として、白鳩数多、西をさして飛び去れり。依って此の霊瑞を称し、小祠を営み名づけて『はとのもり』と云ふ。」とあり、724年〜729年に創建された社に、860年、慈覚大師(円仁)が村民の懇請によって神功皇后・応神天皇・春日明神の像を作り添え、八幡宮として奉ったこと伝えられている。
将棋堂 拝殿

今回で渋谷の散策を終わります。
江戸時代は、大名屋敷地で。幕府の火薬庫でもあった。北側は、新宿御苑の一部と東京体育館、都屋外プールなどがある。
昔、代々木寄りに、明治時代、陸軍が、日本初の飛行を試みて、記録では、高度70M,距離3000Mと残る。
「日蓮宗千寿院」は、山号 法雲山。1644年 紀伊の太守徳川頼宣の生母お萬の方の発願により、里見日遙(安房の太守里見義康の次女)を開山として創立。
江戸期、紀伊徳川家、伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、十万石の格式をもって遇せられ、壮大な堂宇と、庭園は江戸名所の一つに数えられ、新日暮里とも呼ばれた。
江戸期において隆盛を誇ったが明治維新の変革によって衰微し、明治18年には火災によって全山焼失し、復興したが昭和20年戦災で再び全山焼失した。
39年の東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、44年には本堂、書院を再建、59年には書院、客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し、現在に至っている。
青山七福神の一ヶ寺であり、布袋尊が祀られている。
千寿院 本殿



「古碧山・龍巌寺」は、神宮前にある臨済宗南禅寺派の寺院、名主半右衛門が居宅を捨てて一寺に、1630年 喚室を開山に迎え創建。
御府内八十八ヶ所霊場9番札所。 釈迦如来像
龍巌寺 山門



「勢揃坂」は、龍巌寺前
永保三年 1083年、「後三年の役」の際、八幡太郎義家が奥州征伐に向かうとき、ここで軍勢を揃えたことからこの名が残された。
勢揃坂

「熊野神社」は、御祭神 五十猛ノ命、大屋津姫ノ命、抓津姫ノ命、伊弉冉ノ命、旧称 熊野大権現。
鎮座地は、神宮前二丁目、創建年代 元和5年(1619)。



「北青山高徳寺」浄土宗の寺。
「河内山宗春」~1823 茶坊主。実在は、確かなようで、水戸藩が無許可の「富くじ」を開帳したことを突き止め、水戸家から五百両の大金をゆすり成功している。後、事件発覚し獄死したという。又、商家の娘が若い侍と蜜通、娘の両親から、二百両で、大名屋敷に乗り込んでいる。宗春は、上野寛永寺の僧侶をかたり娘を救い出したともいう。
講談「天保六花撰」・歌舞伎「天衣粉上野初花」で悪者に。
門を入ってすぐの右側に大正時代に建てられた河内山宗俊の碑が有る。石仏がたくさんあります。
高徳寺 本殿 河内山宗春碑



千駄ヶ谷の「端園寺」で、渋谷区の禅寺は、終わるが、渋谷には武家屋敷が多い為なのか「禅寺」も多い、禅宗は、厳しい修行が条件である。
厳しい修業のそこに、「白隠慧鶴」80余年民衆教化の捧げ、ユニークな書画と美術が生まれてきた事に改めて勉強させられた。
端園禅寺 石仏



達磨大師 禅宗の歴史は西暦520年頃にインドから中国へ布教にやってきた、お釈迦さまから28代目の祖師、菩提達磨により中国に禅宗が伝えられ、発展した。
日本には鎌倉時代に栄西が、南宋代の中国に渡って天台山の万年寺で禅宗を学び、1191年に帰国、初めて臨済宗黄竜派を伝えた。
都での禅の布教は困難を極めたが、1195年、博多に日本最初の禅寺・「聖福寺」を創建。栄西が持ち帰った茶の種を、筑前の脊振山の中腹にある霊仙寺、佐賀県神埼郡東脊振村に捲き、茶栽培(岩上茶)を推進し、お茶を飲む習慣を日本に持ち込んだのも有名。
宇治茶は、栄西が東脊振から送った種が始まりとされている。1200年、鎌倉に出向き寿福寺や建仁寺の住持となり、1215年、鎌倉の寿福寺にて没した。
1223年、道元は、栄西が没した8年後の1223年に中国(宋)に渡り天童山景徳寺で如浄禅師の指導を受け坐禅を中心とした本物の修行し、1227年に帰国して曹洞宗を広め、中国に渡るまで修行した建仁寺に戻ったあと、宇治山田に興聖寺を開山したが比叡山の圧迫などがあって信徒の一人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重から所領がある越前に移ることを勧められ、現在の総本山となっている「永平寺」を開創され全国に広がっていった。
神木 本殿



「観音坂」の坂名は、真言宗観谷山聖輪寺の本尊であった如意輪観音像に由来。観音は聖輪寺の開山とされる行基の作と伝えられていが、残念ながら戦災によって焼失。「江戸名所図会」によると、身の丈は三尺五寸で、両眼は金でつくられていたという。(区教育委員会)
「真言宗豊山派 聖輪寺」は、千駄ヶ谷、観音坂沿いにある。府内88か所霊場10番寺。
観音坂碑 本殿


「鳩森八幡神社」は、千駄ヶ谷1丁目に位置し、主祭神・応神天皇・ 神功皇后、創建ー860年、例祭 9月15日。
千駄ヶ谷一帯の総鎮守で、氏子町は、北は代々木駅・南新宿駅周辺から、新宿駅新南口の高島屋タイムズスクエアと広がる神社。
1789年の築造と言われ、円墳形に土を盛り上げ、富士山の溶岩は頂上に、頂上に至る登山道は自然岩を用いた階段となっており、山腹にはクマザサも植えられている。
山裾の御影石の里宮(浅間社)をはじめ、7合目には身祿様が安置されている洞窟、烏帽子岩、釈迦の割れ石、山頂にボク石で覆われている奥宮等富士山を再現。
富士塚の前にある池にみたてた場所には毎年開山式(6月3日)の頃菖蒲が咲く。
鳩森八幡神社 神木



「江戸名所図会」によると、「往古、此地深林の中に時として瑞雲現じける。又或時、碧空より白雲降りて雲上に散ず。村民怪しむで彼の林の下に至るに、忽然として、白鳩数多、西をさして飛び去れり。依って此の霊瑞を称し、小祠を営み名づけて『はとのもり』と云ふ。」とあり、724年〜729年に創建された社に、860年、慈覚大師(円仁)が村民の懇請によって神功皇后・応神天皇・春日明神の像を作り添え、八幡宮として奉ったこと伝えられている。
将棋堂 拝殿



今回で渋谷の散策を終わります。