渋谷禅寺散策は次回に回し、節分に出掛けたので取り上げます。
日本三大弁財天「江の島・江島神社」節分豆まきに参加しようと、さわやかな日曜日の湘南海岸へ。小田急線で藤沢駅下車し、江ノ電で
「江の島駅」に下車した。このブログでも数回取り上げております、
県南東部、藤沢市南部の相模湾岸で、境川河口にある小島、境川の運ぶ土砂により陸繋島である。地名は、島の形が「江」の字によるもの。「真白き富士の嶺 緑の江の島」と歌われ鎌倉と結んで湘南海岸の観光地である。
江島神社は、琵琶湖の竹生島・安芸の宮島と共に日本三弁天の一つで江戸時代から庶民の参詣が盛んであった。
歌川広重「相州江之島弁財開帳参詣群衆之図」で陸繋島へ渡る姿が描かれている。
両国の江島杉山神社と江の島の弁財天が深い関係あったとは初めて知った。1693年杉山流鍼術の始祖。
「杉山検校」は、10歳で失明し、17・8歳ごろ江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一に学ぶ。
生まれつきのろまで物忘れが激しい性格から、破門を言い渡されるが目の不自由な自分が生きるためには何かを成就大成させねばならぬと、俗説では芸能の神であり盲目の守護神でもある江の島の弁財天の祠に詣で岩屋に篭もり断食祈願をすること8日目の朝、山から下る帰り道に大きな石のそばでつまずいて倒れ、その際体をチクリと刺すものがあり、拾ってみると竹の筒とその中に入った松葉だったという。
これをヒントに考案したのが、管の中に鍼を入れ管の上部に出た鍼の頭を指で叩いて刺入する杉山式管鍼であった。
その後、京都に上って山瀬琢一の師の入江良明を尋ねたがすでに死去しており、その子の入江豊明に入江流を学び鍼術の奥義を極めた。良明の父頼明は豊臣氏の医官岡田道保及び明人呉林達に鍼術を学んで大成した。
杉山検校の墓も神社入口の右手にある。
江の島大橋 門前町商店街
江島神社は、552年、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝える。
神仏習合により当社は金亀山与願寺と称する寺となった。
「吾妻鏡」によれば、1182年、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これをもって創建とすることもある。
歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けた。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになった。
奥津宮旧本宮は、多紀理比賣命を祀る。入母屋造の社殿、1842年に再建。拝殿天井には酒井抱一の「八方睨みの亀」が描かれ、源頼朝が奉納した石鳥居。 中津宮旧上之宮は、市寸島比賣命を祀る、853年創建。権現造の社殿は、1689年に改築された。
辺津宮旧下之宮は、田寸津比賣命を祀る、1206年源実朝が創建。
権現造の社殿は、1675年に再建された。 奉安殿八臂弁財天と妙音弁財天が安置。
境内社 八坂神社は、須佐之男命を祀る、江戸時代は天王社と称した。入母屋造の社殿は、1844年に再建。
瑞心門神門は、龍宮城を模した竜宮造の楼門
文化財 は、 木造彩色八臂弁財天坐像(県指定(彫刻)、 肥前国藤原正広作太刀(県指定(工芸品)、 八方睨みの亀(市指定(絵画)
江島縁起(市指定(書跡)、 青銅鳥居(市指定文化財(建造物)等がある。
本殿前 本殿
「弁天堂」(有料)は、奈良県法隆寺夢殿を模して現在の弁天堂(奉安殿)が江島神社辺津宮境内に新設統合され、改めて信仰対象として妙音弁財天像・八臂弁財天像などが安置されている。
所蔵品と展示は、鎌倉時代の裸形の妙音弁財天座像・鎌倉時代初期の木造彩色の八臂弁財天座像(県指定有形文化財)を堂内正面中央に安置し、十五童子立像・江島大明神勅額・弁財天像扁額など。
弁天堂 堂内
本殿横の八坂神社の前広場で「鬼は外福は内・節分豆まき」が行われた。1~7回、その一回目午後一時に開始され約1千人で溢れ返っていた。
舞台には、神主はじめ藤沢市長など10人程度で、神棚に供えた炒った大豆が投げられた。
八坂神社前で豆まき
平安時代の延喜式によると、黄金四つ目の仮面をかぶり、矛と盾をもつ「方相氏」が鬼をお出でしたとされている。元は中国の追なの儀式に由来すると云う。
豆の拾い方は、地面に落ちたのを拾い、間違っても飛んで来る豆をキャッチしよとしない事と、司会者がアドバイスを。
人混みの中、手、手。女性のパワーには驚き!!
危険なので、神社の配慮で、子供と老人は、本殿前でいただく事が出来た。
片瀬地域は藤沢市の南、東は鎌倉市腰越に接し、西は境川を挟んで鵠沼や鵠沼海岸と接する。
境川河口部の両側が片瀬海岸であり、東浜海水浴場と西浜海水浴場がある。
片瀬橋から、小田急片瀬江ノ島駅が至近。帰りは、小田急でそのまま「新宿」へ。
日本三大弁財天「江の島・江島神社」節分豆まきに参加しようと、さわやかな日曜日の湘南海岸へ。小田急線で藤沢駅下車し、江ノ電で
「江の島駅」に下車した。このブログでも数回取り上げております、
県南東部、藤沢市南部の相模湾岸で、境川河口にある小島、境川の運ぶ土砂により陸繋島である。地名は、島の形が「江」の字によるもの。「真白き富士の嶺 緑の江の島」と歌われ鎌倉と結んで湘南海岸の観光地である。
江島神社は、琵琶湖の竹生島・安芸の宮島と共に日本三弁天の一つで江戸時代から庶民の参詣が盛んであった。
歌川広重「相州江之島弁財開帳参詣群衆之図」で陸繋島へ渡る姿が描かれている。
両国の江島杉山神社と江の島の弁財天が深い関係あったとは初めて知った。1693年杉山流鍼術の始祖。
「杉山検校」は、10歳で失明し、17・8歳ごろ江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一に学ぶ。
生まれつきのろまで物忘れが激しい性格から、破門を言い渡されるが目の不自由な自分が生きるためには何かを成就大成させねばならぬと、俗説では芸能の神であり盲目の守護神でもある江の島の弁財天の祠に詣で岩屋に篭もり断食祈願をすること8日目の朝、山から下る帰り道に大きな石のそばでつまずいて倒れ、その際体をチクリと刺すものがあり、拾ってみると竹の筒とその中に入った松葉だったという。
これをヒントに考案したのが、管の中に鍼を入れ管の上部に出た鍼の頭を指で叩いて刺入する杉山式管鍼であった。
その後、京都に上って山瀬琢一の師の入江良明を尋ねたがすでに死去しており、その子の入江豊明に入江流を学び鍼術の奥義を極めた。良明の父頼明は豊臣氏の医官岡田道保及び明人呉林達に鍼術を学んで大成した。
杉山検校の墓も神社入口の右手にある。
江の島大橋 門前町商店街
江島神社は、552年、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝える。
神仏習合により当社は金亀山与願寺と称する寺となった。
「吾妻鏡」によれば、1182年、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これをもって創建とすることもある。
歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けた。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになった。
奥津宮旧本宮は、多紀理比賣命を祀る。入母屋造の社殿、1842年に再建。拝殿天井には酒井抱一の「八方睨みの亀」が描かれ、源頼朝が奉納した石鳥居。 中津宮旧上之宮は、市寸島比賣命を祀る、853年創建。権現造の社殿は、1689年に改築された。
辺津宮旧下之宮は、田寸津比賣命を祀る、1206年源実朝が創建。
権現造の社殿は、1675年に再建された。 奉安殿八臂弁財天と妙音弁財天が安置。
境内社 八坂神社は、須佐之男命を祀る、江戸時代は天王社と称した。入母屋造の社殿は、1844年に再建。
瑞心門神門は、龍宮城を模した竜宮造の楼門
文化財 は、 木造彩色八臂弁財天坐像(県指定(彫刻)、 肥前国藤原正広作太刀(県指定(工芸品)、 八方睨みの亀(市指定(絵画)
江島縁起(市指定(書跡)、 青銅鳥居(市指定文化財(建造物)等がある。
本殿前 本殿
「弁天堂」(有料)は、奈良県法隆寺夢殿を模して現在の弁天堂(奉安殿)が江島神社辺津宮境内に新設統合され、改めて信仰対象として妙音弁財天像・八臂弁財天像などが安置されている。
所蔵品と展示は、鎌倉時代の裸形の妙音弁財天座像・鎌倉時代初期の木造彩色の八臂弁財天座像(県指定有形文化財)を堂内正面中央に安置し、十五童子立像・江島大明神勅額・弁財天像扁額など。
弁天堂 堂内
本殿横の八坂神社の前広場で「鬼は外福は内・節分豆まき」が行われた。1~7回、その一回目午後一時に開始され約1千人で溢れ返っていた。
舞台には、神主はじめ藤沢市長など10人程度で、神棚に供えた炒った大豆が投げられた。
八坂神社前で豆まき
平安時代の延喜式によると、黄金四つ目の仮面をかぶり、矛と盾をもつ「方相氏」が鬼をお出でしたとされている。元は中国の追なの儀式に由来すると云う。
豆の拾い方は、地面に落ちたのを拾い、間違っても飛んで来る豆をキャッチしよとしない事と、司会者がアドバイスを。
人混みの中、手、手。女性のパワーには驚き!!
危険なので、神社の配慮で、子供と老人は、本殿前でいただく事が出来た。
片瀬地域は藤沢市の南、東は鎌倉市腰越に接し、西は境川を挟んで鵠沼や鵠沼海岸と接する。
境川河口部の両側が片瀬海岸であり、東浜海水浴場と西浜海水浴場がある。
片瀬橋から、小田急片瀬江ノ島駅が至近。帰りは、小田急でそのまま「新宿」へ。