JR内房線、 館山駅ー君津駅間は、君津駅以南、東京湾と房総丘陵の間のわずかな平地を、東京湾の沿岸に寄り添う形で走行する。
沿線にはマザー牧場・鋸山などの観光スポットや、多数の海水浴場が点在する。
館山は南房総における観光拠点の一つ、海岸沿いを走行するため、風の影響を受けやすく、しばしば運休する。
複数ある風規制区間のうち、特に運転中止になりやすい上総湊駅ー佐貫町駅間では、防風柵の設置が行われ、2012年に完成した。
館山ー船形ー上総湊駅 でも風規制で、線区全体での対策が求められているという。
また、区間の沿線人口は少なく、館山市街地以外は集積した市街地がないため、乗車人員が300 - 400人程度の駅が連続する。
君津駅を境界に利用者における極端な段差が生じているため、君津駅以南の普通列車は、日中は1時間に1本で、路線も単線で不便。
観光利用者数も、年々減、バスも少なく大昔からで変わっていない。
内房線「那古船形駅」 一時間に一本単線 船形山崖観音
「普門院船形山・大福寺」 安房国札34観音霊場は、
717年、「行基」によって開かれたと伝えられ、その後天台宗の僧・「円仁」が来山して中興したとされる。
現在の真言宗に属するようになったのは不明。江戸時代には、江戸幕府から朱印状が与えられている。
本堂大日如来 安房国札34観音霊場、4番札
磨崖十一面観音立像は、市指定有形文化財。
この観音堂の本尊、「十一観世音菩薩」で船形山の崖の中腹に刻まれ、この本尊、717年に行基が東国行脚の折に神人の霊を受け、地元漁民の海上安全と豊漁を祈願して、山の岩肌の自然石に「十一観世音菩薩」を彫刻したと言われている。
その後、慈党大師 794~863年が当地に来錫した折に堂字が建設された。
江戸時代になり、1653年に観音堂が火災、朱印・什宝・伝記等すべて失っている。
創建717年の古寺
崖観音という名の通り、崖の中腹にある観音堂。
約100段の階段を登って参拝します。地元の方達は港町の漁師の無事を祈願。参拝の後は、館山湾が一望。
子、丑、寅、戌の四支(欄間にある)は、左甚五郎作と云う。
左 甚五郎は、江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。「左甚五郎作」と伝えられる作品も各地にある。
右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。
日光東照宮の眠り猫をはじめ、「甚五郎作」といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くあり、その製作年間は安土桃山時代~江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、「左甚五郎」とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞となっていたようである。
市有形文化財磨崖十一面観音立像
「行基」 668-749 社会事業によって、多くの人々を救った高僧。
奈良時代の百済系渡来、氏族出の僧、法相宗の道昭のもとで学び、社会事業に尽くした。広範囲に移動している。最後は朝廷に招かれ
大仏建立を助けた。「行基年譜」によると、僧院34、尼院15、橋6、樋3、布施屋9、船息2、池15、溝7、堀川4、直道1などが残っている。
朝廷に取り込まれてからの、民間布教は行われなくなり第二の行基は出ていない。
行基の社会事業の広さに驚く
安房国34観音霊場は、那古寺の千手観世音、新御堂の聖観世音、崖観音の十一面観世音(大福寺)、真勝寺の如意輪観世音、
興禅寺の十一面観世音、長谷寺の十一面観世音、天寧寺の千手観世音、日本寺の十一面観世音、信福寺の如意輪観世音、
往生寺の聖観世音、金銅寺の聖観世音、福満寺の十一面観世音、長谷寺の十一面観世音、神照寺の十一面観世音、高照寺の十一面観世音、
石間寺の十一面観世音、清澄寺の十一面観世音、石見堂の如意輪観世音、普門寺の聖観世音、石堂寺の十一面観世音、智光寺の千手観世音
勧修院の千手観世音、宝珠院の十一面観世音、延命寺の十一面観世音、真野寺の千手観世音、小松寺の聖観世音、住吉寺の正観世音、
松野尾寺の聖観世音、金蓮院の十一面観世音、養老寺の十一面観世音(観音寺)、長福寺の千手観世音、小網寺の聖観世音、
観音院の聖観世音、滝本堂の千手観世音、番外震災観音堂の聖観世音、番外観音寺の聖観世音、番外水月堂の千手観世音。
大福寺は、四番札の寺。
長い階段 船形山から鏡ヶ浦と浦賀水道 本堂前から上を見ると
次回勝山方面へ。
沿線にはマザー牧場・鋸山などの観光スポットや、多数の海水浴場が点在する。
館山は南房総における観光拠点の一つ、海岸沿いを走行するため、風の影響を受けやすく、しばしば運休する。
複数ある風規制区間のうち、特に運転中止になりやすい上総湊駅ー佐貫町駅間では、防風柵の設置が行われ、2012年に完成した。
館山ー船形ー上総湊駅 でも風規制で、線区全体での対策が求められているという。
また、区間の沿線人口は少なく、館山市街地以外は集積した市街地がないため、乗車人員が300 - 400人程度の駅が連続する。
君津駅を境界に利用者における極端な段差が生じているため、君津駅以南の普通列車は、日中は1時間に1本で、路線も単線で不便。
観光利用者数も、年々減、バスも少なく大昔からで変わっていない。
内房線「那古船形駅」 一時間に一本単線 船形山崖観音
「普門院船形山・大福寺」 安房国札34観音霊場は、
717年、「行基」によって開かれたと伝えられ、その後天台宗の僧・「円仁」が来山して中興したとされる。
現在の真言宗に属するようになったのは不明。江戸時代には、江戸幕府から朱印状が与えられている。
本堂大日如来 安房国札34観音霊場、4番札
磨崖十一面観音立像は、市指定有形文化財。
この観音堂の本尊、「十一観世音菩薩」で船形山の崖の中腹に刻まれ、この本尊、717年に行基が東国行脚の折に神人の霊を受け、地元漁民の海上安全と豊漁を祈願して、山の岩肌の自然石に「十一観世音菩薩」を彫刻したと言われている。
その後、慈党大師 794~863年が当地に来錫した折に堂字が建設された。
江戸時代になり、1653年に観音堂が火災、朱印・什宝・伝記等すべて失っている。
創建717年の古寺
崖観音という名の通り、崖の中腹にある観音堂。
約100段の階段を登って参拝します。地元の方達は港町の漁師の無事を祈願。参拝の後は、館山湾が一望。
子、丑、寅、戌の四支(欄間にある)は、左甚五郎作と云う。
左 甚五郎は、江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。「左甚五郎作」と伝えられる作品も各地にある。
右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。
日光東照宮の眠り猫をはじめ、「甚五郎作」といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くあり、その製作年間は安土桃山時代~江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、「左甚五郎」とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞となっていたようである。
市有形文化財磨崖十一面観音立像
「行基」 668-749 社会事業によって、多くの人々を救った高僧。
奈良時代の百済系渡来、氏族出の僧、法相宗の道昭のもとで学び、社会事業に尽くした。広範囲に移動している。最後は朝廷に招かれ
大仏建立を助けた。「行基年譜」によると、僧院34、尼院15、橋6、樋3、布施屋9、船息2、池15、溝7、堀川4、直道1などが残っている。
朝廷に取り込まれてからの、民間布教は行われなくなり第二の行基は出ていない。
行基の社会事業の広さに驚く
安房国34観音霊場は、那古寺の千手観世音、新御堂の聖観世音、崖観音の十一面観世音(大福寺)、真勝寺の如意輪観世音、
興禅寺の十一面観世音、長谷寺の十一面観世音、天寧寺の千手観世音、日本寺の十一面観世音、信福寺の如意輪観世音、
往生寺の聖観世音、金銅寺の聖観世音、福満寺の十一面観世音、長谷寺の十一面観世音、神照寺の十一面観世音、高照寺の十一面観世音、
石間寺の十一面観世音、清澄寺の十一面観世音、石見堂の如意輪観世音、普門寺の聖観世音、石堂寺の十一面観世音、智光寺の千手観世音
勧修院の千手観世音、宝珠院の十一面観世音、延命寺の十一面観世音、真野寺の千手観世音、小松寺の聖観世音、住吉寺の正観世音、
松野尾寺の聖観世音、金蓮院の十一面観世音、養老寺の十一面観世音(観音寺)、長福寺の千手観世音、小網寺の聖観世音、
観音院の聖観世音、滝本堂の千手観世音、番外震災観音堂の聖観世音、番外観音寺の聖観世音、番外水月堂の千手観世音。
大福寺は、四番札の寺。
長い階段 船形山から鏡ヶ浦と浦賀水道 本堂前から上を見ると
次回勝山方面へ。