syuの日記・気まま旅

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茨城県石岡市古墳、国分寺

2013-06-24 | 気まま旅
今回は中世の歴史に興味あり、4回にわたり常磐線石岡駅から土浦、牛久と回ってきました。

「茨城県石岡市」は、県中央部、筑波連峰の東方、霞ケ浦の北西端になる。
石岡の名は、鎌倉期の大掾資幹居城の石岡城(府中城)にちなんでいる。大化改新により、「常陸国府」が置かれ「府中」と呼ばれている。
中世は、大掾氏の支配下にあり、「国衙」を置き、「六斉市」が開かれた。

「常陸国分寺」を訪ねた。

駅構内には、古墳時代から国府宮の絵が迎えてくれた
  

常磐自動車道路建設に伴う発掘調査で発見された遺跡、「鹿の子遺跡」から発掘された建物は、住居ブロッ、工房ブロック(鉄品や銅製品を造った作業場)官衙ブロック(役所的な機能を持ったところ)の三つのブロックに分かれており、この遺跡は、鉄製品を中心に製造していた特殊な構造を備えた建物跡が発見され、常陸国の官営工房跡と考えられる。

昭和 44 年まで石岡小学校の校門に、( 現在は,学校敷地内に移転)箱式石棺が、発掘調査により、一辺 130cmの方形の古墳が発見、約 1300 年前のものと推定されており、蓋石. 5枚、側石8枚、妻石2枚で作られている。


石岡は、貴重な原始・古代の遺跡や古墳や貝塚が出土
    


石岡陣屋門石岡市民俗資料館、 常陸国の国府跡と見られている現在の石岡小学校の 敷地内に、石岡陣屋門がある。
1828年に府中松平藩の陣屋正門として建て られた重厚な門で、形式は高麗門。
隣接の石岡市民俗資料館は、主に奈良、平安時代 の石岡の遺跡、遺物を展示。

小学校に隣接して、常陸国総社宮が、 大国主命など の神話は、ここから。

水戸を中心に常陸国一大豪族の基盤を作る「大掾家」将門の侵攻からまもる
  


「風間阿弥陀」は、高さ約130cm、五輪塔が壊れたような形。小栗城(旧協和町)の守り本尊として祀られていたという。
1423年小栗城落城の折、小栗十勇家臣の風間次郎正興、八郎正国親子が三河に落ち延びる途中(旧千代田町下志筑)、幼い四代目三郎正三と共にこの阿弥陀を残してきた。
それが風間家で代々守り続けている阿弥陀であるという。
「風間家古文書」によると、本尊は地下に埋没し、地上に粘土で固めた像を作製したと言い伝えられている。

柔らかいまるで幼子のような感のする阿弥陀さま、

万葉歌碑に、「庭に立つ麻手刈り干し布さらす 東女を忘れたまふな」あり。

歴史ある石塔が
    

「常陸国分尼寺跡」国指定特別史跡)地、石岡市若松、

国分寺・国分尼寺は、741年 「聖武天皇」の勅願により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた寺院。

国分尼寺は、法華滅罪之寺といい、常住の尼僧10名を置き、寺院の財政は、水田10町によってまかなわれたという。
一般に国分尼寺は、国分寺より早く衰退したらしく、今日では、その遺跡すらどこにあるのか不明なものが多い。
常陸国分尼寺跡は、一直線上に中門跡・金堂跡・講堂跡の礎石群が基壇上にあって保存され、全国的に見ても極めて貴重な遺跡である。
昭和44年から4次にわたる発掘調査により、各建造物基壇の規模や南大門跡、北方建物跡、西及び北を限る溝跡などが明らかにされている。
発掘調査で出土した遺物の中には、瓦類や土器などがあるが、瓦類は常陸国分寺跡出土のものと同形のものが多い。
また、土器の中では、「法華」の墨書銘のある土師器が出土しており、法華滅罪之寺を証明する資料となっている。
国分尼寺のあった場所は昔尼寺ヶ原と呼ばれており、後に市街地に移った清涼寺もあった。


「常陸国分寺跡」特史指定は、石岡駅北西約1km、国分寺境内にある寺跡、

尼寺は、国分寺北西約500mに 
    

全国に国分寺跡はかなり現存していますが、このように国分尼寺跡がそのままのこされているところは非常に少なく、
備中(岡山県総社市)とここ常陸(石岡市)だけである。
特に常陸は唯一国分寺跡と共に国の特別史跡に指定され、現在は訪れる人もほとんどなく桜の古木が2本の寂しい。

小学校の裏手に礎石が
  

 
府中城の大掾氏が佐竹義宣により滅亡に追い込まれた 1590年、この国分尼寺も兵火で七堂伽藍焼失。 国分尼寺では、火の回りがあまりにも早く、全部の物品を持ち出すことができず、大切な仏像、金と銀で作られた調度品や装飾品などを炎の中から運びだし、略奪から逃れるため、全てごき洗いの池に投げ込まれたと伝えられている。
しかし、兵火の中で尼僧や寺院の関係者は全員死亡し、ごき洗いの池も焼け落ちた瓦や木材で埋まってしまいました。そのためごき洗いの地中には、黄金が眠っているのだと伝えられている。

江戸時代、このごき洗いを掘ろうとした百姓は、崩れ落ちた土の下敷きになって死んでしまいました。
仏罰を恐れた人々はそれ以来誰も掘ろうとはしなかったといわれている。
 
「朝日さす 夕日かがやくごき洗い 黄金千枚 仏千体」 尼寺ヶ原にひそかに言い伝えられた歌。

貴重な焼き物など出土している
    

国分尼寺は光明皇后の強い願いで建立され、「法華滅罪之寺」という。
総国分寺が東大寺であるのに対し、総国分尼寺は法華寺である。

近くに舟塚山古墳・原始・古代遺跡や貝塚が
    

聖武天皇は、五穀豊穣・国土安穏を願い、68の国ごとに国分寺・国分尼寺を建てるよう命じ、疫病も流行しており、仏の力を借りることで国を安定させようと考えた。

石岡市にある「常陸国分寺」は、発掘調査を行った結果、中門・金堂・講堂が一直線に並び、中門から金堂にかけて回廊が巡ることが分かり、境内内には塔跡のものと思われる礎石(心礎)が出土。
塔の正確な位置はまだ判明していませんが、伽藍の東側に「ガラミドウ」という地名があり、関係が注目されている。

741年、聖武天皇の勅願により創建。伽藍、中門跡残る、金堂 講堂 南西回廊などの礎石
    

国分寺が金光明四天王護国之寺、国分尼寺が法華滅罪之寺、が建てられた。

関東の国分寺は、甲斐国分寺(山梨県笛吹市一宮町国分)、相模国分寺(神奈川県海老名市国分)、武蔵国分寺(東京都国分寺市西元町)
安房国分寺(千葉県館山市国分)、上総国分寺(千葉県市原市惣社)、下総国分寺(千葉県市川市国分)で、その近く尼寺がある。

弘法大師堂                     瓦屋根が
    

石岡市の寺院は、「浄瑠璃山東方院 国分寺」、 宗派真言宗智山派
国分寺は、五穀豊穣・国土安穏を願い、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てるよう命じ、ここ常陸国分寺の建立は、752年で百済王敬福が常陸守に任ぜられたとある。
寺域は東西約270m南北約240mの大変大きな規模で、金堂、講堂、中門、回廊、仁王門や七重の塔などの礎石が昭和52年、56年の発掘調査で明らかになっている。
平安中期の平将門の乱(939年)など度々の焼失、再建を繰り返し、 現在の本堂は国分寺跡に明治43年に筑波から移設したもの。

入口の中門跡から右側の参道を通ると薬師堂が建立されており、左側の参道を行くと 旧千住院山門があり、さらにその奥に国分寺本堂が建立されている。
境内には杉などのほか桜の木が多い。
薬師堂の右手に都々逸坊扇歌堂が建てられています。 扇歌は、1804年 久慈郡佐竹村磯部(常陸太田市)に生まれ 江戸へ出て音曲噺の大家、船遊亭扇橋に弟子入りし、寄せの上座に上がり、評判も高く、さらに京、大坂方面を巡業し都々逸を広めた。
高座で聴衆からのなぞかけを即座に解く頭の回転の速さで評判となったが、当時の政治・社会を批判し江戸追放となり、 姉の嫁ぎ先である府中(石岡)に身を寄せていたという。
上は金、下は杭なし吾妻橋 (江戸追放のきっかけとなった川柳)


七重塔の心礎が
    

桓武天皇 737-806 50代 44歳で即位 平安京を造営、律令制を再編強化。遷都は、奈良平城京から京都40kmの長岡亰(784-794)川の
水運などで現京都平安亰に移っている。

平将門 940年 武将桓武平氏の一人、東国司追放し、新皇と称した。平貞盛・藤原秀郷に討たれる。

田岡の大祭の山車・石岡囃子・幌獅子は有名である
    

都々一坊扇歌は、1804年に、常陸太田市に生まれ、江戸で都々逸節を 広めた。
しかし、「上は金、下に杭なし吾妻橋」という歌が幕府の怒りを買い、江戸 払いになり、姉の嫁ぎ先である府中、石岡市で生涯を終えました。 扇歌堂は国分寺 境内中央にある。

一坊扇歌像
    

石岡の銘酒(平成5~6年時)
石岡酒造(白鹿・筑波など)。白菊酒造(白菊)。藤田聡(富士泉、室町美人、吟声正宗)

本堂                          扇歌の墓
    

次回は、石岡城(府中城)を。