千葉県は、本州のやや中央で房総半島が県境「上総、下総、安房」からなる。北は利根川で向かいが茨城県、北西に江戸川、で埼玉県東京都南太平洋と東京湾三面海に囲まれている。
利根川を交通路として栄えてきた。千葉市は、東京湾寄りで、平安時代の794年~1185年の中期に桓武天皇の子孫「平良文」が千葉の地に住みその二男「平忠頼」が、千葉介を名のり、その子「平忠常」は、最大の豪族として、上総国に本拠地を構えた。
1126年、忠常の子孫が「千葉常重」で、池田郷猪鼻の城(千葉城)の移り、城を中心に城下町を形成した。
1126年、千葉(介)常重は大椎城から、猪鼻城、この地に本拠を移し、以後13代330年ものあいだ存続した城である。
常重の子千葉常胤の代には石橋山の合戦に敗れた源頼朝をよく助け、千葉氏は全盛期を迎える。
やがて附近に城下町を形成、これが現在の千葉市の起こりと伝えられている。
城は現在の千葉市街の南から東に延びる台地を利用し、北は都川を天然の水堀、西は急崖、南は入り組んだ谷津を空堀とした要害であった。
しかし室町中期に入ると鎌倉公方・足利氏と関東管領・上杉氏との抗争が激化、これに巻き込まれた千葉氏もしだいに分裂していった。
そして1455年、一族の「馬加康胤や原胤房」の襲撃にあい千葉城はついに炎上、千葉氏嫡流の滅亡とともにこの城の歴史も幕を閉じている。
忠胤は、下総国の守護に任ぜられ、千葉は、鎌倉に比べられる程、有力な城下町であったと云う。
県市など出資による第三セクター鉄道・都市モノレール 坂月川は都川の支川
「千葉神社」は、古くは、「北斗山金剛授寺尊光院」江戸時代には家康の命によって「妙見寺」と改称し、明治時代の神仏分離令によって「千葉神社」と改められた。
千葉宗家がもっとも厚く信仰した寺で、「北辰妙見尊星王を主祭神」として祀っている。
2000年をもって開創千年を迎えている。
北辰妙見尊星王はその名のとおり、北天の中心に位置して全宇宙の神々を掌握すると考えられていた北辰、つまり北極星と北斗七星の具現された神で、千葉氏の祖である「平忠常」の子・「覚算大僧正」によって伽藍が整備、一条天皇の眼病平癒の勅願所とされている。
1000年に「北斗山金剛授寺」の寺名を賜ったと伝えられ、本尊の「妙見大菩薩像」は上総国大椎に移されていたものを、1126年、千葉介常重によって千葉庄池田郷堀内へ移されたとされている。
同寺には頼朝も参詣して願文・太刀などを奉納したとも伝えられている。
鎌倉時代、日蓮が宗門の興隆を祈願すべく参詣した際にありがたい吉祥があり、日蓮はこの「妙見神」こそ我が宗門の守護であるとされ、現在でも日蓮宗では「妙見大菩薩」を信仰の対象としており、日蓮は請願成就ののち自筆の法華経を奉納している。
源頼朝も参詣・太刀等奉納、 旧妙見寺の千葉神社、 日蓮の自筆の法華経
1591年、徳川家康が関東の国主として入部した直後、千葉に赴いて金剛授寺に参詣して寺領安堵ならびに太刀一振を納めて深く崇敬の念を捧げ、供祭料田として永代二百石が寄進され、あわせて十万石待遇という非常に高い格式を賜ったている。
代々の将軍家の崇敬も厚く、全国に「千葉大妙見」と親しまれて幕末にいたっている。
千葉大妙見と親しまれている
毎年8月16日から七日間、「妙見大祭」が行われる。
この祭りは、千葉常重が大治元年の千葉移住に伴い、民衆のために年に一度、「妙見神」を神輿に乗せ奉り、七日間にわたって御仮屋に逗留させることによって神力をあまねく行きわたらせようとしたのが始まりとされた。
祭りの期間が七日間というのは、北斗七星に一日一回の願掛けを行うためです。22日の縁日で満願となり、願いは成就されるという。
江戸時代10万石待遇 本殿 格式高い
「和田合戦」は「 北条義時」の罠。1213年 上総国(現在の千葉県)に引退していた「和田義盛」は、面縛された胤長は居並ぶ和田一族の前に引き出され、さらに重い罰を加えるとの意志が伝えられ、和田義盛の面目は丸潰れとなり、 3月、胤長は、陸奥国岩瀬郡に配流、荏柄天神前にあった胤長の屋敷は、一族の和田義盛のものとなるが、4月、北条義時は、一方的に屋敷を取り上げ、代官の久野谷弥次郎を追い出してしまう。 再びの屈辱を受け、決起することとなる。
幕府を2分する戦いへ、1213年、和田義盛は、ついに挙兵します。
戦いには、和田一族の他にも、朋友たちも加わり、1213年に、幕府を二分する戦いとなる。
和田氏の一族でもある三浦義村・三浦胤義他が参加しなかったこともあり、北条義時側の勝利に終わる。
和田義盛は鎌倉武士の一典型といわれ、惣領制による一族の団結を重視した古い型の東国武士であったと云う。
北条氏の時代へ1205年、北条義時は父の北条時政に代わって政所別当になっている。1213年には、和田氏の侍所別当も兼ねており、
執権としての地位を固めています。源実朝暗殺、1219年、源実朝が甥の公暁に暗殺され、公暁をそそのかしたのは、北条義時、もしくは三浦義村ではないかと推測されていますが、証拠は残っていません。和田義盛戦死。
平安桓武天皇の子「平良文」が千葉に 子次男忠頼が千葉介名乗る
城前に千葉常胤の銅像( 騎馬武者姿で弓矢が天守方面に向かって自分の城に攻撃している像)
なお、「吾妻鏡」によればその際に以前に兄である秀胤によって不当に所領を奪われて不仲であった弟の時常も駆けつけて自害しており、「勇士の美談」と称されたという。東胤行が戦功と引き換えに自分の外孫(泰秀の息子)の助命を求めたために、その子を含めた秀胤の子孫の幼児は助命されたという。「吾妻鏡」上総千葉氏は滅亡する。
1126年常重築城 千葉寺千葉大医学部など含む広大
「千葉城と本佐倉城」
1455年、千葉一族の「馬加康胤」は、千葉氏の本拠である千葉城を焼き討ちして千葉氏嫡流を滅亡させ、新たに千葉氏(後期千葉氏)を名乗った。
康胤の子輔胤は、ここ本佐倉に築城して千葉城より本拠を移し、以後は代々千葉氏の居城となった。
当初の城域は「城山」「セッテエ山」「倉趾」のみの簡素なものだったが、その後四散していた旧家臣団も次第にこの地に集まり、生活の場の確保や上杉氏との戦いに備えて新たに「荒上」「根古谷」「向根古谷」などの地域を取り入れてさらに規模が拡大、南の台地下には城下町を形成していった。
しかし天正18年の1590年、に豊臣秀吉の関東攻めで小田原城陥落で後北条氏が滅亡すると、この城も廃城となり焼かれている。
千葉一族内部対立 佐倉に(千葉城廃墟)
玉の浦と呼ばれていた海岸が、九十九里浜になったのは源頼朝に由来する。
頼朝の命により、古代の1里である6町(1町は109m)ごとに矢を立てたところ、99本になった(約60km)との伝承あり。
房総半島は源頼朝の鎌倉幕府成立において大きな役割を果たし、鎌倉幕府のあった三浦半島と房総半島はわずか10kmの距離。
千葉氏や三浦水軍の味方を得た頼朝にとって房総半島は、切っても切れない地域。
白河法皇の院政期、房総の平氏たちが各郡や荘の名を苗字に変えていった時期。この中の一党に千葉氏がある。千葉氏は平氏の分流、
中世、この半島の武将として名高い千葉氏が歴史にあらわれるのは下総の初代守護「千葉常胤」。
1180年、頼朝は伊豆で挙兵しますが石橋山の敗戦で「千葉常胤」を頼って安房国に逃れ、反撃に転じた。
その後も「常胤」は、頼朝の絶大な信頼を得て、下総の守護としてゆるぎない地位を築き、千葉氏は鎌倉幕府の名門へのし上がり、
以後、室町時代まで権勢を誇る。
千葉一族は分家しながらも全国各地で勢力を伸ばし、陸奥相馬氏のように明治時代まで生き残った家系もある。
1455年千葉城焼き討ち 胤直一族自殺(1538年下総国府台の戦いに)
安房で生まれた「日蓮」 1222-82 安房の清澄寺で出家し、浄土教を批判、鎌倉で「立正安国論」を書いて「北条時頼」に出したが無視
佐渡へ流される。大田区の池上で没したが、「日像」が京都で妙願寺を建て勅願寺に。
私見だが、日蓮があれだけ活動が出来たのは、千葉の力があったからと思えた。
千葉城の入口階段下にある「智光院」 真言宗豊山派 の寺
「京成電鉄」は、戦後沿線の下総台地にあった陸軍施設が軍隊解散とともに民間施設に転用。千葉・津田沼には鉄道連隊が設置され、演習線が津田沼を起点に千葉・松戸に延びていた。
この演習線跡地に、京成電鉄は下総電鉄を設立して、連合軍総司令部 (GHQ)運輸省への払い下げ交渉を開始し、西武鉄道との激しい競合の末に1946年に転用許可を、8月には路線免許を獲得し、10月に新京成電鉄を創立して新線開業を押し進め現在に、
その、千葉中央駅から市川の国府台駅へ向かう。
1180-常胤、国府台で頼朝軍に参降する。源頼朝挙兵。 1185-常胤下総の守護になる。
1191-常胤戦功により下総国他所領を賜る。 1274-千葉介頼胤九州出陣(蒙古来襲)
1331-千葉介貞胤、北条高時西軍に(元弘の変) 1335-千葉氏内乱、原胤房連合千葉城攻撃
1455-千葉介孝胤本佐倉へ移る 1517-足利義明軍小弓城入り
1555-里見属将・正木時茂千葉乱入 1564-第二次国府台合戦(里見対後北条)
1566-上杉謙信臼井城包囲する 1571-里見・正木小弓城を取り千葉に乱入
1590-家康江戸城入り、千葉・酒井氏滅亡
千葉氏の最後、千葉氏内部においても、第26代当主を継いだ千葉親胤の時代には、原親幹によって暗殺されてしまい、続いて第29代当主を継いだ千葉邦胤が1585年に家臣の手で暗殺されるなどの混乱が続き、1590年、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡したことにより、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉氏は滅亡した。
重胤は徳川家康に仕えたが、後にそれも失い浪人となった。他には仙台藩や一関藩に仕えた者もいる。
千葉氏一族は奥州でも活躍した。改姓した相馬氏や、千葉氏からの養子を迎えたとされる葛西氏は特に有名であるが、他の大族としては薄衣、長坂、大原氏らが葛西氏重臣として活躍、他大崎氏、伊達氏に仕えた一族もあり敵味方に分かれて戦った。
千葉氏の名乗りのまま、戦国時代に突入した分枝もある。 しかし本家に遅れること5年、1590年のいわゆる奥州仕置と葛西大崎一揆、九戸一揆の過程で主だった者は相次いで戦死、或いは一揆首謀者として処刑、改易され、奥州の千葉一族は相馬氏などを除いて歴史の表舞台から姿を消した。相馬氏は近世大名として明治維新を迎えている。
坂本龍馬の関係する、「千葉 周作」1793ー1856年 は、日本の武士。江戸時代の剣術の流派北辰の 先祖を辿れば、桓武平氏良文流、板東 八平氏の一つの名門、千葉氏で、「千葉常胤」にたどりつく。
次回は、千葉商大から里見公園へ。
利根川を交通路として栄えてきた。千葉市は、東京湾寄りで、平安時代の794年~1185年の中期に桓武天皇の子孫「平良文」が千葉の地に住みその二男「平忠頼」が、千葉介を名のり、その子「平忠常」は、最大の豪族として、上総国に本拠地を構えた。
1126年、忠常の子孫が「千葉常重」で、池田郷猪鼻の城(千葉城)の移り、城を中心に城下町を形成した。
1126年、千葉(介)常重は大椎城から、猪鼻城、この地に本拠を移し、以後13代330年ものあいだ存続した城である。
常重の子千葉常胤の代には石橋山の合戦に敗れた源頼朝をよく助け、千葉氏は全盛期を迎える。
やがて附近に城下町を形成、これが現在の千葉市の起こりと伝えられている。
城は現在の千葉市街の南から東に延びる台地を利用し、北は都川を天然の水堀、西は急崖、南は入り組んだ谷津を空堀とした要害であった。
しかし室町中期に入ると鎌倉公方・足利氏と関東管領・上杉氏との抗争が激化、これに巻き込まれた千葉氏もしだいに分裂していった。
そして1455年、一族の「馬加康胤や原胤房」の襲撃にあい千葉城はついに炎上、千葉氏嫡流の滅亡とともにこの城の歴史も幕を閉じている。
忠胤は、下総国の守護に任ぜられ、千葉は、鎌倉に比べられる程、有力な城下町であったと云う。
県市など出資による第三セクター鉄道・都市モノレール 坂月川は都川の支川
「千葉神社」は、古くは、「北斗山金剛授寺尊光院」江戸時代には家康の命によって「妙見寺」と改称し、明治時代の神仏分離令によって「千葉神社」と改められた。
千葉宗家がもっとも厚く信仰した寺で、「北辰妙見尊星王を主祭神」として祀っている。
2000年をもって開創千年を迎えている。
北辰妙見尊星王はその名のとおり、北天の中心に位置して全宇宙の神々を掌握すると考えられていた北辰、つまり北極星と北斗七星の具現された神で、千葉氏の祖である「平忠常」の子・「覚算大僧正」によって伽藍が整備、一条天皇の眼病平癒の勅願所とされている。
1000年に「北斗山金剛授寺」の寺名を賜ったと伝えられ、本尊の「妙見大菩薩像」は上総国大椎に移されていたものを、1126年、千葉介常重によって千葉庄池田郷堀内へ移されたとされている。
同寺には頼朝も参詣して願文・太刀などを奉納したとも伝えられている。
鎌倉時代、日蓮が宗門の興隆を祈願すべく参詣した際にありがたい吉祥があり、日蓮はこの「妙見神」こそ我が宗門の守護であるとされ、現在でも日蓮宗では「妙見大菩薩」を信仰の対象としており、日蓮は請願成就ののち自筆の法華経を奉納している。
源頼朝も参詣・太刀等奉納、 旧妙見寺の千葉神社、 日蓮の自筆の法華経
1591年、徳川家康が関東の国主として入部した直後、千葉に赴いて金剛授寺に参詣して寺領安堵ならびに太刀一振を納めて深く崇敬の念を捧げ、供祭料田として永代二百石が寄進され、あわせて十万石待遇という非常に高い格式を賜ったている。
代々の将軍家の崇敬も厚く、全国に「千葉大妙見」と親しまれて幕末にいたっている。
千葉大妙見と親しまれている
毎年8月16日から七日間、「妙見大祭」が行われる。
この祭りは、千葉常重が大治元年の千葉移住に伴い、民衆のために年に一度、「妙見神」を神輿に乗せ奉り、七日間にわたって御仮屋に逗留させることによって神力をあまねく行きわたらせようとしたのが始まりとされた。
祭りの期間が七日間というのは、北斗七星に一日一回の願掛けを行うためです。22日の縁日で満願となり、願いは成就されるという。
江戸時代10万石待遇 本殿 格式高い
「和田合戦」は「 北条義時」の罠。1213年 上総国(現在の千葉県)に引退していた「和田義盛」は、面縛された胤長は居並ぶ和田一族の前に引き出され、さらに重い罰を加えるとの意志が伝えられ、和田義盛の面目は丸潰れとなり、 3月、胤長は、陸奥国岩瀬郡に配流、荏柄天神前にあった胤長の屋敷は、一族の和田義盛のものとなるが、4月、北条義時は、一方的に屋敷を取り上げ、代官の久野谷弥次郎を追い出してしまう。 再びの屈辱を受け、決起することとなる。
幕府を2分する戦いへ、1213年、和田義盛は、ついに挙兵します。
戦いには、和田一族の他にも、朋友たちも加わり、1213年に、幕府を二分する戦いとなる。
和田氏の一族でもある三浦義村・三浦胤義他が参加しなかったこともあり、北条義時側の勝利に終わる。
和田義盛は鎌倉武士の一典型といわれ、惣領制による一族の団結を重視した古い型の東国武士であったと云う。
北条氏の時代へ1205年、北条義時は父の北条時政に代わって政所別当になっている。1213年には、和田氏の侍所別当も兼ねており、
執権としての地位を固めています。源実朝暗殺、1219年、源実朝が甥の公暁に暗殺され、公暁をそそのかしたのは、北条義時、もしくは三浦義村ではないかと推測されていますが、証拠は残っていません。和田義盛戦死。
平安桓武天皇の子「平良文」が千葉に 子次男忠頼が千葉介名乗る
城前に千葉常胤の銅像( 騎馬武者姿で弓矢が天守方面に向かって自分の城に攻撃している像)
なお、「吾妻鏡」によればその際に以前に兄である秀胤によって不当に所領を奪われて不仲であった弟の時常も駆けつけて自害しており、「勇士の美談」と称されたという。東胤行が戦功と引き換えに自分の外孫(泰秀の息子)の助命を求めたために、その子を含めた秀胤の子孫の幼児は助命されたという。「吾妻鏡」上総千葉氏は滅亡する。
1126年常重築城 千葉寺千葉大医学部など含む広大
「千葉城と本佐倉城」
1455年、千葉一族の「馬加康胤」は、千葉氏の本拠である千葉城を焼き討ちして千葉氏嫡流を滅亡させ、新たに千葉氏(後期千葉氏)を名乗った。
康胤の子輔胤は、ここ本佐倉に築城して千葉城より本拠を移し、以後は代々千葉氏の居城となった。
当初の城域は「城山」「セッテエ山」「倉趾」のみの簡素なものだったが、その後四散していた旧家臣団も次第にこの地に集まり、生活の場の確保や上杉氏との戦いに備えて新たに「荒上」「根古谷」「向根古谷」などの地域を取り入れてさらに規模が拡大、南の台地下には城下町を形成していった。
しかし天正18年の1590年、に豊臣秀吉の関東攻めで小田原城陥落で後北条氏が滅亡すると、この城も廃城となり焼かれている。
千葉一族内部対立 佐倉に(千葉城廃墟)
玉の浦と呼ばれていた海岸が、九十九里浜になったのは源頼朝に由来する。
頼朝の命により、古代の1里である6町(1町は109m)ごとに矢を立てたところ、99本になった(約60km)との伝承あり。
房総半島は源頼朝の鎌倉幕府成立において大きな役割を果たし、鎌倉幕府のあった三浦半島と房総半島はわずか10kmの距離。
千葉氏や三浦水軍の味方を得た頼朝にとって房総半島は、切っても切れない地域。
白河法皇の院政期、房総の平氏たちが各郡や荘の名を苗字に変えていった時期。この中の一党に千葉氏がある。千葉氏は平氏の分流、
中世、この半島の武将として名高い千葉氏が歴史にあらわれるのは下総の初代守護「千葉常胤」。
1180年、頼朝は伊豆で挙兵しますが石橋山の敗戦で「千葉常胤」を頼って安房国に逃れ、反撃に転じた。
その後も「常胤」は、頼朝の絶大な信頼を得て、下総の守護としてゆるぎない地位を築き、千葉氏は鎌倉幕府の名門へのし上がり、
以後、室町時代まで権勢を誇る。
千葉一族は分家しながらも全国各地で勢力を伸ばし、陸奥相馬氏のように明治時代まで生き残った家系もある。
1455年千葉城焼き討ち 胤直一族自殺(1538年下総国府台の戦いに)
安房で生まれた「日蓮」 1222-82 安房の清澄寺で出家し、浄土教を批判、鎌倉で「立正安国論」を書いて「北条時頼」に出したが無視
佐渡へ流される。大田区の池上で没したが、「日像」が京都で妙願寺を建て勅願寺に。
私見だが、日蓮があれだけ活動が出来たのは、千葉の力があったからと思えた。
千葉城の入口階段下にある「智光院」 真言宗豊山派 の寺
「京成電鉄」は、戦後沿線の下総台地にあった陸軍施設が軍隊解散とともに民間施設に転用。千葉・津田沼には鉄道連隊が設置され、演習線が津田沼を起点に千葉・松戸に延びていた。
この演習線跡地に、京成電鉄は下総電鉄を設立して、連合軍総司令部 (GHQ)運輸省への払い下げ交渉を開始し、西武鉄道との激しい競合の末に1946年に転用許可を、8月には路線免許を獲得し、10月に新京成電鉄を創立して新線開業を押し進め現在に、
その、千葉中央駅から市川の国府台駅へ向かう。
1180-常胤、国府台で頼朝軍に参降する。源頼朝挙兵。 1185-常胤下総の守護になる。
1191-常胤戦功により下総国他所領を賜る。 1274-千葉介頼胤九州出陣(蒙古来襲)
1331-千葉介貞胤、北条高時西軍に(元弘の変) 1335-千葉氏内乱、原胤房連合千葉城攻撃
1455-千葉介孝胤本佐倉へ移る 1517-足利義明軍小弓城入り
1555-里見属将・正木時茂千葉乱入 1564-第二次国府台合戦(里見対後北条)
1566-上杉謙信臼井城包囲する 1571-里見・正木小弓城を取り千葉に乱入
1590-家康江戸城入り、千葉・酒井氏滅亡
千葉氏の最後、千葉氏内部においても、第26代当主を継いだ千葉親胤の時代には、原親幹によって暗殺されてしまい、続いて第29代当主を継いだ千葉邦胤が1585年に家臣の手で暗殺されるなどの混乱が続き、1590年、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡したことにより、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉氏は滅亡した。
重胤は徳川家康に仕えたが、後にそれも失い浪人となった。他には仙台藩や一関藩に仕えた者もいる。
千葉氏一族は奥州でも活躍した。改姓した相馬氏や、千葉氏からの養子を迎えたとされる葛西氏は特に有名であるが、他の大族としては薄衣、長坂、大原氏らが葛西氏重臣として活躍、他大崎氏、伊達氏に仕えた一族もあり敵味方に分かれて戦った。
千葉氏の名乗りのまま、戦国時代に突入した分枝もある。 しかし本家に遅れること5年、1590年のいわゆる奥州仕置と葛西大崎一揆、九戸一揆の過程で主だった者は相次いで戦死、或いは一揆首謀者として処刑、改易され、奥州の千葉一族は相馬氏などを除いて歴史の表舞台から姿を消した。相馬氏は近世大名として明治維新を迎えている。
坂本龍馬の関係する、「千葉 周作」1793ー1856年 は、日本の武士。江戸時代の剣術の流派北辰の 先祖を辿れば、桓武平氏良文流、板東 八平氏の一つの名門、千葉氏で、「千葉常胤」にたどりつく。
次回は、千葉商大から里見公園へ。